どうも、前にベルクソンの持続についてここで質問したんですけど、今ジャンルと時間と空間について論文を書いています。そこで更にカントの時間と空間哲学と、ベルクソンのいう持続と同質と異質について考察しています。そこでよく解らない事があります。カントの『純粋理性批判』のなかで『Form』と『Matter』についてふれていますが、これはアリストテレスいう形相と資質と同義なんでしょうか。
カント---"The undetermined object of an emprical intuition, is called phenomenon. That which in the phenomenon corresponds to the sensation, I term its matter; but that which effects that the content of the phenomenon can be arrenged under sertain relations, i call its form" (Kant, 1969, pp.41)
カントの言う『現象/phenomenon』についても不鮮明なんですが(訳:経験的直感の中の未知の物体を現象と呼ぶ)、これがどう時間と空間に関係してくるかがよく解りません。この後カントは空間について現象とアプリオリの関係について述べています。
"Space then is a necessary representation a priori, which serves for the foundation of all external intuitions... a representation a priori, which necessarily supplies the basis for external phenomena" (Kant, 1969, pp.43-44)
カントの言う外的直感と外的現象につて解ることがあれば教えてください。長い英語混じりの文章で申し訳ありません。
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
さて、"The proposition"以下を読んでいきましょう。
ただ、「命題」とありますが、ここでは論証をやっているわけではない。論証はこの前の形而上学的究明と超越論的的究明の箇所でやっていて、それをまとめる、という流れです。
あらっぽく論旨を追うとこうなります。
命題「あらゆるものは空間中に並存する」
これは無条件で妥当するとは言えない。
その条件(ここでのlimitation は「限界」「制限」ではなく、「制約」、つまり命題の条件ということです)は、「これらのものがわれわれの感性的直観の対象と考えられる」である。
↓
したがってこの命題は「外的現象としてのあらゆるものは空間中に並存する」(all things, as outer appearances, are side by side in space)と言い換えることができる。
↓
そう言い換えれば" the rule is valid universally and without limitation."(この規則は普遍的に、かつ無制限に妥当する)。
↓
ここからふたつのことが言える。
1.空間は経験的実在性(empirical reality)を有する。
2.空間は超越論的観念性(transcendental ideality)を有する。
つまり、空間は「経験的実在」であり「超越論的観念」である、と言っているわけ。
これがこの部分の結論です。
さてさて厄介なものが出てきました。「経験的実在」「超越論的観念性」ってなに???
まず荒っぽく言うと、「観念」の反対が「実在」です。
素朴実在論(Realism)というのは、もの、たとえば山にしても机にしてもコップにしても、そうした事物は人間の知覚から独立して存在する、と考える。
これに対し、観念論(Idearism)は、「在る」ということを、人間の意識を通じてとらえます。
「存在する」とは知覚されることである、と言ったのがバークレー。バークレーは物体が知覚されないとき、わたしの心に存在しないときは、それらの物体は存在しない、とまで言います。
カントの哲学は超越論的観念論ともいわれるように、バークレー流の観念論とはちがって、経験における実在を認めるわけです。かなりおおざっぱな説明ですが、とりあえずそんなふうなものだと頭に入れて。
カントがここで言っている「経験的実在性」とは、外的直観の対象は空間において直観される通りに現実にも存在する、ということ。
「超越論的観念性」とは「そのような性質や関係は現象であるから、それ自体存在するものではなくて、われわれのうちにしか存在しえないものである」ということ。
ここはそういうことをいっているわけです。
主観・客観とのからみでいうと、カントがやろうとしたことを黒崎さんはこんなふうにまとめています。
-----(『純粋理性批判入門』p.30)
一.主観が世界を成立させる。
一.その世界は物自体の世界ではなくて、現象の世界である。
一.現象の認識は客観的だが、物自体についての認識は主観的なものである。
------
どうですかね。うまく整理がつきましたか。
カントも読むのが久しぶりで、ひさびさに読むと頭が筋肉痛だ……。
ありがとうございました。一旦、閉め切りたいと思います。カント、ベルクソンにつては随時質問していきますので、またよろしくお願いいたします。
No.4
- 回答日時:
ちょっとここのところ忙しかったので遅くなりました。
さて、ぼちぼちと始めましょ。
話の脈絡としては、
・形而上学的究明で「空間という表象が先天的に与えられたもの」であることを示す。
↓
・先験的究明で、空間がほかのア・プリオリな総合判断の可能性が理解されうる原理として説明
それを受けての部分です。
ここから何が言いたいかというと、
・空間がわれわれの感性の先天的形式である以上、現象としての対象はこの形式によって秩序づけられている。
・その限りにおいて、現実的に存在するものとして認めることができる。
・つまり、空間は経験的実在である(empirical reality)と同時に超越論的観念(transcendental ideality)でもある。
そういう箇所です。
見取り図は書けたかな。
じゃ、読んでいきましょう。
> "Space is nothing but the form of all appearances of outer sense.
まずここの"appearances" は現象、
"outer sense" とはふつう「外部感官」とか「外部感覚器官」と訳されるもの、すなわち外部情報をうけとって反応する器官のことですから、感覚器官一般と言って大丈夫だと思います(まあ深部感覚器官というのもあるらしいから、厳密に言うとダメなんですが)。
つまり、ここでは、空間は外部感官が持つあらゆる現象の単なる形式にほかならない、と言っている。これはどういうことかというと、つまり、あらゆる現象の形式である、といっています。
で、つぎ。
>”the subjective condition of sensibility(客観的な感性の性質)”
これ、「客観的」ではありません。「subjective」は、主観的。
condition は性質ではなく条件、つまり、空間は感性の主観的条件である、と言っているわけ。そうするとつぎとつながりがよくなるでしょ?
> under which alone outer intuition is possible for us
この条件下でのみ、われわれにとって外的直観は可能となる。
ここで、空間は人間が対象の直観を得るための条件である、と言っているわけです。
で、ここまではいいですね。
つぎ。ここから何をまあごちゃごちゃと(笑)と言いたくなる部分に入っていきます。
途中のごちゃごちゃを丁寧に読んでいくと
>The proposition, that all things are side by side in space, is valid under the limitation that these things are viewed as objects of our sensible intuition. If, now, I add the condition to the concept, and say that all things, as outer appearances, are side by side in space, the rule is valid universally and without limitation.
命題「あらゆるものは空間中に並存する」は、これらのものがわれわれの感性的直観の対象と考えられるという制限のもとに妥当する。
もし、いま、わたしがこの概念に条件をつけて、「外的現象としてのあらゆるものは空間中に並存する」というならば、この規則は普遍的に、かつ無制限に妥当する。
"Our exposition therefore establishes the reality, that is, the objective validity, of space in respect of whatever can be presented to us outwardly as object, but also at the same time the ideality of space in respect of things when they are considered in themselves through reason, that is, without regard to the constitution of our sensibility.
したがって、われわれの究明によると、外的に対象として(as object)あらわれうる一切のものに関して空間は実在性(the reality)――客観的妥当性(the objective validity)――が成立する。
しかし、同時に、ものが理性を通じてそれ自体として考察される場合(things when they are considered in themselves through reason)、すなわち、われわれの感性の構造を考えに入れることなく考察される場合のものに関しては、空間の観念というものが成立する。
We assert, then, the empirical reality of space, as regards all possible outer experience; and yet at the same time we assert its transcendental ideality -- in other words, that it is nothing at all, immediately we withdraw the above condition, namely, its limitation to possible experience, and so look upon it as something that underlies things in themselves.
With the sole exception of space there is no subjective representation, referring to something outer, which could be entitled [at once] objective [and] a priori".
そこでわれわれは空間の経験的実在性(the empirical reality of space)――可能なかぎりすべての外的経験に関して――を主張する。にもかかわらず同時に、それ(空間)の超越論的観念性(transcendental ideality)も主張する。
換言すれば、われわれが上記の条件、経験を可能とするような制限(条件)を捨て、空間を、物自体の根底にあるなにものかであるかのようにみなすならば、即座に空間は無ということになってしまう。
空間を唯一の例外として、主観的な表象、なにか外部のものに関連するような表象で、ア・プリオリに客観的(objective)と称することができるような表象は、存在しない。
ああ、頭がごちゃごちゃになってきた。
とりあえず英文解釈はこれで終わり(笑)。
細かい話はまた明日見ていきましょう。
ありがとうございました。どうやら私の翻訳にも問題ありのようですね(笑)そうですよね、カントのこの純粋理性批判はかなり難しいと思います。頑張って読みきります。たびたびお礼が遅れて申し訳ありませんでした。また上記の補足で質問したいと思います。。。すみません、毎回毎回。ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
総合判断と分析判断
これは、主語と述語です。
西洋哲学ではギリシャ時代、アリストテレスが「実体とは文の主語となって述語とならないもの」と規定して以来、主語と述語というのは、哲学では大きな意味を持つようになってきました。
で、カントです。
そもそも判断は主語と述語のふたつの概念を含まなければ成り立たない。
「これは××だ」というふうに。
そうして、この判断における主語と述語の関係からみて、判断を「分析判断」と「総合判断」に分類します。
分析判断とは、すでに述語の概念が主語の概念の中に含まれている判断。
わたしが教わったときは「独身者は未婚である」という例文でした。
そうだな、ほかには何があるだろう。「白衣は白い」もそうだし、「琵琶湖は湖である」もそうですね。
カントは「すべての物体は延長している」という例をあげていますが、これはデカルトに拠っています。デカルトは、その存在のためにほかのなにものをも必要としない「実体」には三種類ある、それは神・精神・物体である、そうして物体の属性は「延長」にある、と言ったんです。つまり、物体とは幅・奥行き・高さを持つものである。こうした属性はすでに「物体」という主語に含まれているために(ちょうど「独身者」という言葉が、結婚していない、という意味を含んでいるように)分析判断である。
逆に、総合判断とは述語の概念が主語に含まれていないもの。
その結果、「カントは生涯独身であった」というように、主語「カント」に新しい性質を付け加えている。
カント自身は「すべての物体は重さを有する」という例をあげていますね。
「重さを有する」というのは「物体」という主語にあらかじめ含意されていない。
わたしたちは分析判断をくだすためには、経験の助けを借りる必要はない。というのも、主語概念を分析すれば、そこから述語が導かれるから。
分析判断は経験に拠らない、という意味で、すべてア・プリオリな認識でもあります。
そのため分析判断はア・プリオリな判断として普遍性と必然性を持っているけれど、わたしたちの認識を拡張し増大させるものではない。
確実ではあるけれど、学問的には大きな意義を持つものではない。
一方、総合判断は、主語概念をそのなかに含まれない概念と結びつけていくために、わたしたちの認識を増大させ、拡張していくものである。それゆえに総合判断こそ、学問的に意義がある判断である、とカントはいいます。
あらゆる経験的認識は総合判断です。
「琵琶湖は湖である」というのは、文字面を眺めていれば誰にでできる判断ですが、「琵琶湖は大きい」というのは、行ってみるか、話で聞くか、本で読むか、写真とか絵とかTVとかの像を見るかしなければできない判断です。
わたしたちは新しい経験によって、知識を広げていく。
けれども、経験は、真に確実であるかどうか、そこに依拠できるほど厳密なものであるかは問えない。
そこで、先天的総合判断、両者の欠陥を免れた判断である、この先天的総合判断こそが真に学問的意義を持ちうる。
で、もうちょっと先に行くと、数学では先天的総合判断がすでに成り立っている。
7+5=12
という判断がそれである。
12という述語概念は、7+5に含まれていないから。
経験的な世界を対象とする自然科学においてもそれは成り立っている。
「物体のあらゆる変化において物質の量は一定不変である」という判断は、総合的であり、なおかつ必然性を有するために先天的でもある。
つまり、先天的総合判断は実際に成立していることはあきらかである。
だから「いかにして先天的総合判断は可能であるか」を自分は考えた、それが『純粋理性批判である』、という脈絡に沿って、話は進んでいくのです。
話は見えてきたかな?
で、ですね。
「物自体」。
わたしはハイデッガーは断片的にしか読んでないんでわかりませんが、いろんな人がいろんなふうに批判しています。
カント自身も二種類の使い方をしていて、わたしは昔はごくせまい方の使われ方(自由、霊魂、神の存在)をしているのがほんとうの「物自体」を指しているんだろうと思ってたんですが(大昔、その内容の回答をしちゃってるんだよね。あーコマッタ)、じゃ、広い方の意味はどうなのか、ってことになる。
ここらへんの包摂関係はわたしはよくわかんないです。
何かうまくまとめたのはないかなと思って探してみたら、メチエの『純粋理性批判入門』(黒崎政男)にはこうやってまとめてありました。この本、わたしは今回見たのが初めてなんだけど、入門書としては相当わかりやすいかも。わたしのころはなかったよ(涙)。
「つまり、物自体とは、認識主観から独立した、それ固有の存在のあり方をさすのに対して、その反対は、我々にとっての物、つまり認識可能な現象であること」(p.96)
で、時間と空間は、人間の認識が成立するための条件である、とカントは考えた、っていうことを下の方の回答でしました。
黒崎さんはこんなふうに書いています。
「つまり、カントによれば、世界についての人間の認識が成立するためには空間・時間は不可欠であるが、世界そのものが成立するためにそれらが不可欠であるとは言えない、ということになる。客観的存在としての時間・空間ではなく、世界を時間・空間という人間認識の枠を通して見る、ということなのである。
では、時間・空間という枠を通さない世界そのものはどんなようすなのであろうか? それこそが物自体であって、そんなもの自体がどんな様子をしているか、などということは、我々人間には知りえないのである。我々人間が正当に知り得るものは、時間と空間という枠内にある存在、つまり「現象」だけなのである。」(p.104)
まあ質問が変わってっても、大丈夫でしょう(笑)。こんなこむずかしい質問を見に来てくださるような人は、「ナカーマ」(笑)ですから、たぶん、管理部にはチクったりはしないかと。
わからないところがあれば、ドゾ。
この回答への補足
今回、空間と物質について質問があります。まずカントはこのように述べています。
"Space is nothing but the form of all appearances of outer sense. It is the subjective condition of sensibility, under which alone outer intuition is possible for us."
この中でカントは”the subjective condition of sensibility(客観的な感性の性質)”といっていますが、この客観というのはどういうことなのでようか?外的にという意味で捉えればいいのでしょうか?それと空間と時間は任実に備わった先天的に備わった(a priori)だと解釈していましたが、"Space is nothing but the form of all appearances of outer sense" この一文を読む限り外的に認識と解釈できますが....
更にカントの空間と物質の関係、時間と物質の関係についてですが、彼はまず命題を提示して説明しています。
"The proposition, that all things are side by side in space, is valid under the limitation that these things are viewed as objects of our sensible intuition. If, now, I add the condition to the concept, and say that all things, as outer appearances, are side by side in space, the rule is valid universally and without limitation".
まず、”all things are side by side in space(全ての物体は互いに空間の中で存在する)”という命題と”all things, as outer appearances, are side by side in space(全ての物体は互いに外的現象として空間の中で存在する)”という命題について、前者は制限下に置かれるが後者は制限はないと説明しています。これがよくわからないんです。どうして現象として物体を捉えることが命題として優れているのか ... 更にカントは続けます、
"Our exposition therefore establishes the reality, that is, the objective validity, of space in respect of whatever can be presented to us outwardly as object, but also at the same time the ideality of space in respect of things when they are considered in themselves through reason, that is, without regard to the constitution of our sensibility. We assert, then, the empirical reality of space, as regards all possible outer experience; and yet at the same time we assert its transcendental ideality -- in other words, that it is nothing at all, immediately we withdraw the above condition, namely, its limitation to possible experience, and so look upon it as something that underlies things in themselves. With the sole exception of space there is no subjective representation, referring to something outer, which could be entitled [at once] objective [and] a priori".
まず、カントのいうobjective subjectiveというの日本語で主観、客観的という意味だと思いますがこれが結構不鮮明なんです。主観→内在的、客観→外在的という認識でよろしいんでしょうか?それとここでおそらく物自体と現象的実在についてカントは述べていると思われるのですが、”the reality, that is, the objective validity, of space in respect of whatever can be presented to us outwardly as object, but also at the same time the ideality of space in respect of things when they are considered in themselves through reason, that is, without regard to the constitution of our sensibility.”この部分の理性とそれらの関係をうまく把握できません。まず、人間は物体を感性と悟性(カテゴライズ)によって認識し、理性がこれを統括するとghostbusterさんは何処かで説明されていたかと記憶していますが、今回この物自体(おそらく)との関係はいかなるものなのでしょうか?最後の”there is no subjective representation, referring to something outer, which could be entitled [at once] objective [and] a priori”も結構意味不明です。主観的a priori と呼称できるような、また外的な何かを言及する客観的表象は存在しないと言っていますが、これはどういうことなのでようか?
長々と英語まじり文章で毎回毎回申し訳ありません、それと総合判断と分析判断について分りやすく説明していただいてありがとうございました。自分なりに理解できたとおもいます....本当か!(笑)ありがとうございました。
ありがとうございました、それとまたまたお返事が遅れてすみません。なにぶん最近、大学が始まるのでその手続きなどが込みってまして(言い訳、言い訳。。汗)たしかに『ナカーマ』はチクったりしませんよね(笑)また今回新しい質問をしちゃいます。ありがとうございました。
No.2
- 回答日時:
ア・プリオリとア・ポステオリについて。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1129081.html
の#4で、『純粋理性批判』が書かれた背景について、簡単に説明してあります。
(なんかこういう回答をしたおぼろげな記憶があったので、検索してみました。頑張って書いてるなぁ。あっさり、そんなことは知ってる、とイナされてますが(笑))
つまり人間の認識というのは、経験なのか、それとも先天的な要素、形式があるのか、ということに答えることは、『純粋理性…』時代のカントにとっては大問題だったわけです。『純粋理性…』の目的というのは、対象そのものを認識するにはどうしたらいいか、ということではなく、対象についての先天的な認識がどこまで可能であるかを認識しようとするところにありました。
だからこそ、ア・プリオリかア・ポステオリか、ということが延々と出てくるわけなんです。
> a priori とは自ら経験をしなくても、何かを知り得るというのは外的に得た知識-- 観察したり、聴いたりして身につけたりした外的経験ということになるんでしょうか?
ではなくて、ア・プリオリな形式というのは、あらゆる人間の脳というコンピュータにあらかじめインストールされているOSと思った方がいい(こんな説明のしかたはだれもしてないから、もしかしたらとんでもなくちがってるかもしれませんが)。
カントが『純粋…』でやろうとしたことは、さっきも言ったみたいに、人間の認識のメカニズムを解き明かすことです。
人間はものごとを認識しようとするとき、もちろん感覚が情報を拾ってくる(経験)わけですが、拾ってきた情報を選別し認識し分別するのは内蔵されたアプリケーションの仕事です。そうして、このアプリケーションはもちろん経験させることで賢くしてやることはできますが、あらかじめインストールされているわけです。だから、「先天的」。
そうして、そのアプリケーションの性能の限界を、ことば、つまり仮定と三段論法によって証明していったのが、カントのやったことなんです。限界をあきらかにすることで、逆に、可動領域を保証しようとした。考えてみるとものすごい論証の仕方です。
与えられた質問に答えるのとちがって、自分で問題をたて、それに答えていくのっていうのは、ほんとうに大変ですよね。おまけに、こんなことはもう百万人が考えてきたことだ、という気持ちと、こんなことに意味があると思っているのは世界中で自分一人しかいないんだ、という気持ちが交互に襲ってくる。自分の問題意識をしっかり握って離さずにいるのは、簡単なことじゃない。だけど、とりあえず最後まで書くことです。25メートルプールの向こう側の壁に、とりあえずふれてみる。そこから何往復しなきゃならないにせよ、一番大変なのは、最初の25メートルです。ああ、もうダメだ、とか、こんなことに意味なんかないんだ、とか、きっと死ぬほど思うだろうけれど、とにかく向こうの壁に手が届くまで、がんばってみて。みんなそう思いながらがんばってるんだから。
わからないことがあったら、つきあいます。
だけど、ほんと、わたしは素人ですからね(笑)。藁だと思ってください。
この回答への補足
ありがとうございました。紹介してくださった過去のログをしっかり読ませていただきました。このcriticue of pure reasonの書かれた時代背景からショウペンハウアーの意思まで(笑)。 感性、悟性そして理性の関係、そしてa prioriも何となくつかめてきました。
ここの補足内容で新しい質問を許可されているんでしょうか?今回は知らないんでしちゃいます。今、読んでいる場所は、Analytical and Synthetical judgments です。この特にSyntheticalの部分が意味不明なんです。この単語も結構至る所で見かけられます。辞書で意味を調べたところ、総合、総合的なと言う意味でした(これはこのカントの専門用語と言った所なんでしょうか)。これは命題にたしての判断の方法ということでいいのでしょうか?まだカントのカテゴリを読んでいないのでなんともいえませんが。
それと、空間と時間についても、metaphsysical exposition of space and time そしてtranscendental exposition of space and timeの二つの視点で書かれています。このtranscendentalについて前にheideggerを読んだ時に見かけたんですけど、これは意識の外にある存在ということだったように記憶しています。これはghostbusterさんが前に述べられた物自体と同じようなものなんでしょうか?それだとしたらこのmetaphsysicalとtranscendentalの時間と空間の違いとはどういうことになるんでしょうか?なかなか文章からニュアンスが掴みきれません。
お返事遅れてすみません。いろいろと飲み込むのに時間がかかってしまいました。今はやや幾分楽にこの『cririque of pure reason』を読めるようになってきましたが、まだまだ解らないことが多いですね。それと論文の方は頑張って書き上げるつもりです。25メートルのプールを何とかして泳ぎきれるようにします。一定期間この論文はblogに載せるつもりなので(来月ぐらいには書き上がると思います)、よかったら是非立ち寄って批判してください(笑)ありがとうございました。
No.1
- 回答日時:
まずここではカントにしぼって回答します。
ベルクソンとの関係とか、もっとここが知りたいとかは補足欄でお願いします。
ただ、しばらく相当忙しいんで、あんまりこういう鬱陶しいことは考えたくないかもしれません(笑)。もしかしたら返事は遅れるかもしれないので、緊急の場合はその旨、明記しておいてください。
まず、現象(phenomenon)ということについて。
「現象と物自体」は「形質と質料」という対概念とはちがいます。形質は確かにカントの言う「物自体」とも重なるのですが、現象は質料ではありません。
わたしたちはなんとなく、この目の前に現れているものの向こうに「ほんとうのもの」があるように思っています。たとえば誰かが好きになる。これは〈愛〉だろうか、と考える。
このとき、自分の内面に起こっている感情と、どこかにあると思っている〈ほんとうの愛〉を比較対照して、自分の感情がほんものか、そうでないか、考えるわけです。
人間に対しても同じです。さまざまな場面、あるいはさまざまな人と相対するとき、さまざまにふるまいを変えるこの自分に対し、どこかに「ほんとうの自分」がいると思っている。
現れの向こうに「ほんとうのもの」がある、という考え方を、わたしたちはギリシャ時代から引きずっています。ギリシャ人たちは、その「ほんとうのもの」をイデアと呼んだのですが(アリストテレスのいう形相(form) は、たとえばその対象が「自分」なら、「自分を自分たらしめるためにその人が内部に持っているその人の本質」ぐらいに考えてください)、「現象」というのは、このイデアの対概念としてあります。「イデア」のこの世の現れが、「現象」です。
人間が見たりふれたり感じたりする「現象」の向こうにある「ものの本質」「ほんとうのもの」のことをカントは「物自体」(Thing-in-itself) と呼びます。
カントは、人間はこの「物自体」を認識することはできない、人間に認識できるのは現象だけだ、と考えます。
わたしたちは、わたしたちから独立して存在している対象を、そのあるがままに把握しているのではない。
わたしたちが見たもの、受けとった「現象」が、単なる個人の主観でない、と言えるのは、どうしてなのか。
それは、わたしたちの主観の中に、経験によるものではない、先天的(a priori)な形式(思考の枠組み:英語では"form" が当てられています)があって、わたしたちはこの形式によって「対象」を認識しているからだ、と考える。
では、この認識の枠組みというのは何なのか。わたしたちはどうしてその「対象」を「それ」であると認識できるのか。
それが「時間と空間」である、とカントは言うのです。
これをもう少し見てみましょう。
たとえば、ニュートンは、絶対的な空間と時間が存在すると考えます。それに対してカントはそういった絶対的な空間と時間といったものは存在しないのではないか、とするのです。
カントによると、空間と時間というのは、わたしたちの感性のなかにある先天的な形式です。つまり言葉を換えれば、人間が外部の事象を現象として認識するための、わたしたちの思考の枠組みであるというのです。わたしたちの感性のなかには「空間と時間」という形式がある。それを用いて、さまざまなものごとを見たり聞いたり感じたりしている。そうして、それを「現象」としてとらえているのだ、というのです。
質問者氏が引用されたのは、カントが、空間が感性の先験的形式であるゆえんを論証した部分です。その論証は四点からなるものです(時間についてもほぼ同様の論証がなされているため、多くの場合、空間のほうだけしかふれられません)。
http://cns-alumni.bu.edu/~slehar/quotes/kant.html
> 1. Space is not an empirical concept which has been derived from outward experiences. For in order that certain sensations may relate to something outside me (that is, to something which occupies a different part of space from that in which I am); in like manner, in order that I may represent them not merely as outside of and next to each other, but also in separate places, the representation of space must already exist as a foundation. Consequently, the representation of space cannot be borrowed from the relations of external phenomena through experience; but, on the contrary, this external experience is itself only possible through the said antecedent representation.
ここでは空間が外的経験、すなわちわたしたちの外的な事象について、経験から抽出されて取り出されたものではない、と言っています。
ここに出てくるrepresentationは「描写」とか「説明」とか「代理」ではなく、日本語で「表象」と訳される特殊な概念であることを理解しておいてください。
表象というのは、荒っぽくいうと、直観によって人間の心が受けとる外的対象の像です。
人間は物自体を認識できない。認識できるのは、人間が表象する現象だけである。
物自体―現象―表象というのは、こういう関係にあります。
とくにここ。
> this external experience is itself only possible through the said antecedent representation.
すべての外的経験は、あらかじめ空間の表象があってはじめて成立しうるものである、と言っているわけです。
つぎ、2点目。
> Space then is a necessary representation a priori, which serves for the foundation of all external intuitions. We never can imagine or make a representation to ourselves of the non-existence of space, though we may easily enough think that no objects are found in it.
空間は、あらゆる外的直観の根底にある必然的先天的表象である。というのもわたしたちは空虚な空間のことは考えることはできるけれども、空間そのものが存在しないという状態を想像することも表象することもできないからである。
あとは三点目と四点目はともに、空間が概念でなく純粋直観であることが述べられています。
この四点は、カントが空間を定義したものではないことに留意しておいてください。
この回答への補足
-->わたしたちから独立して存在している対象を、そのあるがままに把握しているのではない。
わたしたちが見たもの、受けとった「現象」が、単なる個人の主観でない、と言えるのは、どうしてなのか。
それは、わたしたちの主観の中に、経験によるものではない、先天的(a priori)---
まずこの a priori について。カントの『純粋理性批判』の中で、この a priori が至る所で使われています。その相対語としてa posteriori (経験を通して得られる知識)が使われています。a priori は経験を通さず、先天的な直感で認識するということになりますよね。これは上記の空間の定義やghostbuster氏が述べられているように、空間と時間は先天的直感として存在し、現象はこれにより認識される。ここで少し疑問があります、カントは純正理性批判の中でこのようにも述べています。
as Kant say, "if a man undermined his house, we say, 'he might know a priori that it would have fallen;' that is, he needed not to have waited for the experience that it did actually fall. But still, a priori he could not know even this much. For, that bodies are heavy, and, concequently, that they fall when their supports are taken away, must have been known to him previously, by means of experience" (Kant, 1969, pp. 25-26).
家の下のグランドを掘ったら、その家はおそらく倒れるだろう、ということは先天的に知っている。これについて実際に経験を通す必要は無い。家は重い物だから、その家の柱を失えば結果的に倒れるのは当たり前、ただしこれはすでに経験により人に与えられた知識である。とカントは述べています--- 意訳しすぎですか(笑)。さらに彼は続けてこう述べています。
"By the term 'knowledge a priori,' therefore, we shall in the sequel understand, not such as is independent of this or that kind of experience, but such as is absolutely so of all experience" (Kant, 1969, pp. 26)
先天的知識とは、結果的に”それと”か”あれ”というような経験的なものに依存することではなく、もっとも予想されうる結果(経験)を解釈することだろう。つまり a priori とは自ら経験をしなくても、何かを知り得るというのは外的に得た知識-- 観察したり、聴いたりして身につけたりした外的経験ということになるんでしょうか?
->あらかじめ空間の表象があってはじめて成立しうるものである
この先天的表象とはやはり経験から来る物になるのではないでしょうか--- なんか矛盾してるな??
まだいろいろと整理がついていません、物自体についてもです。また質問させていただきます。
ベルクソンに引き続きありがとうございました、それと返答が遅れて申し訳ありませんでした。このベルクソンとカントは理解するのに一苦労です。論文もうまく纏まるかちょと心配です。いまちょっと気になっているのがinduction と deduction についてです。これもまだ始めたばかりなのでなんともいえませんが、今書いている論文が空中分解するようなきがしてきました。ありがとうございました。
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