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質問のタイトルは、知的宗教観と感的宗教観と言い換えてもいいように思いますが、一方にばかり注意が集まってしまって作り上げられた宗教観はもう一方の宗教観と対立してしまうようです。

アルケーの宇宙の法則や非思考の庭は、単純な自然信仰から離れていて、どちらも知的な信仰と思いますが、片や理的に見ているばかりで、もう一方は感的に見ているばかり。

この事に配慮すればお互いの溝は埋められると思うのです。
助言出来る人、いませんか。

質問者からの補足コメント

  • 回答してくださった方々にはご返事の遅くなった事をお詫びいたします。

    皆様、回答ありがとうございました。

      補足日時:2015/12/28 11:41

A 回答 (7件)

1. 宗教というものは すべて人間が自己〔の考えを〕表現したもので 思考に非ずと


しての信仰から見れば でっち上げです。

2. (あ) 非思考の庭から ひとはむさぼらないものだというヒラメキを得る。

(い) これを 思考の緑野に下ろして(卸して)来て なんぢ むさぼるなかれという
倫理の指針とする。

(う) この倫理規範を 人びとの社会的な秩序のために 律法(法律・掟)とするなら
すでに宗教です。

3. 心の奥の《わが固有の時》にあっては むさぼらないことをおのれの道と受け取っ
た。けれども いま宗教は 信仰という蝉の抜け殻のごとくなって むさぼってはならぬ
と説いている。

4. 《むさぼり》について どこまでがそうであるかは 人によって違うかも知れない。
中んづく 量ではなく 質としてその中身を規定する定義が違い得る。

5. だから 宗教のオシへは もしそれをそのまま鵜呑みにせよ(信じよ)というのな
ら セイシンサクランとしか考えられない。でっち上げである。

6. 非思考の庭は 宗教とは無縁です。
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この回答へのお礼

「無縁」とは言い過ぎの様に思います。
いわゆる一般に言うところの「宗教」とは違う、と言うことだと受け止めますが、その説明には「宗教」を“反力”として利用しているからです。

また、一般的に捉えられている「宗教」と切り離して見る、という姿勢はアルケーの宇宙の法則に当てて見たくなります。

ありがとうございました。

お礼日時:2015/12/20 13:28

№1です。



7. ★ 「無縁」とは言い過ぎの様に思います。
☆ 蝉本体とその抜け殻との関係だけです。つまりは その縁は 死んでいます。

8. ★ いわゆる一般に言うところの「宗教」とは違う、と言うことだと受け止めます
が、その説明には「宗教」を“反力”として利用しているからです。
☆ 違います。シュウキョウが 信仰を利用しつつ覆い隠しているのです。自分のしもべ
のごとく扱っているというだけのことです。

9. 要するにシュウキョウは 信仰を金儲けの道具に使っています。と同時に 支配欲
に支配されたおのが心根の支配欲を満たすために偽って信仰者の集まりであるとうそぶい
ています。

9. ★ また、一般的に捉えられている「宗教」と切り離して見る、という姿勢はアル
ケーの宇宙の法則に当てて見たくなります。
☆ 宇宙の法則は 宗教が利用するかも分かりませんが 信仰とは何の関係もありません。
法則やものごとの根源は 人間の認識するものであり 思考の緑野に属します。信仰は
思考に非ずです。

10. 宗教に 一般も個別も特殊もありません。みんな でっち上げで成り立っていま
す。多少は――信仰の成れの果てとして―― 道理にかなったことをも言います。けれど
も その道理を信ぜよというオシへとして説いたら アホンダラ教にしかなりません。ロ
ボットはくし(白痴)製造所でしかありません。

11. ヒラメキの内容を 思考の緑野に思想として卸すまではよいとして そのあとこ
れを信ぜよというオシへを説いた時点で 精神は錯乱をおこしました。金が欲しいのとお
のれの支配欲を満たしたいために その気ちがい現象が起きます。

12. これでも言い足りないことは みなさんがご存じでしょう 宗教の弊害について。
多少のよいことはあるんぢゃないのと言っても それらをぜんぶ帳消しにしていましょう。
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この回答へのお礼

ブラジュロンヌさんと対話する時は、宗教と信仰という言葉を区別して使う必要がありました。

お礼日時:2015/12/28 11:15

「宗教」という言葉、ないし想定される「概念」(私的には、これらを「モニュメント」と表現)については、共有可能な言語(ないし言語に準ずるコミュニケーション手段)を使用している限り、仰るような「理的・感的」(あるいは「知的・情的」)な差異を本質的な側面から共有することは不可能だと考えます。



共有可能な共感可能な「言葉・記号」へと変化した途端、その「言葉・記号」に対して、いや、その「言葉・記号」を通じた向こう側(彼岸・悲願)へと思い抱かれる共有不可能な共感不可能な思いは排除されてしまいます。
そういった思いが存在しうるとされても、そのことを「言葉・記号」へ変換した途端、本質的に、その思いは表現されえない状況に変化してしまうでしょう。だって、そもそも「共有不可能な共感不可能な思い」だからです。しかしながら「共有不可能・共感不可能」だという概念で共有可能かつ共感可能だと言ってのけることも可能なのです。

仰るところは、おそらく、こういった揺れ動きの中で翻弄されつづける領域であり、「埋められるべき溝」ではなく、「人々が人間(人の間の生命)として個性を有して生きる限り、生まれ・影響し合い・消え行く境界」として認識されるものなのでしょう。その「境界」は、状況・情況によって幅が広がったり、狭まったり、相互に重なり合ったり、影響しあったり、隙間が広がったり、狭まったりと、動的に揺れ動くものでしょう。

上記概念に関連する事項として「否定神学」があり、私も関連して幾度か思索しております。宜しければ参照願います。

デリダの死。。。「存在論的、郵便的」(東 浩紀)を読み返して。。。
http://jinen.exblog.jp/532461/

知情二元論と知一元論と。。。モニュメントの存在的・存在論的と。。。
http://jinen.exblog.jp/7453166/

狭義の情、広義の情、知的切断面、境界について。。。
http://jinen.exblog.jp/7250310/

情の2方向。。。共有可能性・交換可能性・共感可能性の高さ。。。
http://jinen.exblog.jp/3685750/
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この回答へのお礼

どれも難しいです。

四番目の"情の2方向"がとっかかりに成りそうなので、そこから学んで行きたいと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2015/12/28 11:30

№2をさらに継ぎます。



13. ほかの人間にこれこれを信じよ(無条件に心に受け容れよ)と言ったら それは
無効であり 言った人間は セイシン錯乱です。

14. 世の中には 無効の行為が 広い意味の身分関係やそのチカラが醸し出すクウキ
といった社会力学の作用の中で 有力に成り得ます。

15. よって 夢遊病者のごとく 信仰者の集まりと偽ってシュウキョウの組織がつく
られます。アホンダラ教の成立です。

16. 何が何でもかにがかんでも 思想として考えるべきオシへを信ぜよと説いた時点
で 白痴現象が始まります。

17. 自爆テロは シュウキョウの問題ではないのでしょうか? むろん例のポアもそ
うです。

18. つまり このオシへへの依り憑き現象は 《信者》のあいだに何人出たからどう
だ そのテロのもたらす危害がどれだけだからこうだといった問題ではありません。

19. オシヘを説きシュウキョウと成った時点で・その成り立ちじたいにおいて この
白痴人間を生み出す思惟=行動の方程式と人間関係としての構造が 中核を成していたな
ら アウトです。

20. これこれの条件においてならひとをころしてもよいと説いている時点で アウト
です。そのシュウキョウと組織もろとも アウトです。相手の心をころす・あるいは意志
を踏みにじる これも 人殺しであり アウトです。

21. 信仰は 思考に非ずっていってるぢゃないですか。だから 思考の緑野で起きる
シュウキョウについては 自由に批判を成します。

22. 表現の自由は 良心の自由・信教の自由から出ますが わが心の固有の時として
の良心・信仰にかんしては 別の人間がそこに手を突っ込んでかき混ぜることなどは出来
っこないこと(つまり 無効)であるのに対して 〔表現の自由は〕大いに自由に誰もが
互いにその思想内容を批判すること これが 自由市民のつとめです。

23. 《理性的》というのは 思考の緑野のこと。《感性的》はもちろん感性の原野の
ことです。これらの身と心とで 非思考の庭にとっての言わば《からだ》を成しています。
非思考の庭は 《霊――非知なるナゾ――》です。

24. 非思考の庭は アートマン(霊我) / ブッダター(仏性) / プシュケー・コスム
ー(宇宙霊魂)と呼ばれ それは《知的・理的・感的》等を超えています。思考にも感覚
にも非ずです。

25. インスピレーションとも呼ぶヒラメキをつうじて 《良心やそれにかかわる思い》
を感覚としてまた理性認識として卸してくれる問屋の役割りをも持っています。非思考の
庭はです。

26. この信仰は シュウキョウとはまるまる無縁です。
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この回答へのお礼

非思考の庭は、インスピレーションと云うヒラメキの有ることで実証されるんですね。
これは、"意識の庭"とも云えるかも知れません。

質問文で使った感的と云うのは、情的としてしまった方が適当であったかも知れません。

ありがとうございました。

お礼日時:2015/12/28 11:27

屁理屈やお互いの宗教感は無視して論理的に話し合えば良い。


大体、適当に都合よく解釈を加えて、分かってるふりをしてるから、すぐ分かる。
仏教なら日蓮よりお釈迦様がエライに決まってるし、聖書にはイエスは輸血をしてはならない、と言ってないし輸血そのものがない時代に輸血なんて言葉は使わないはず。
血、という説明を誤解したまま他人に話すから、おかしい、と指摘される。
血とは信仰であり感謝する事だ、とわざわざ最後の晩餐において語ったイエスのたとえ話を全く理解出来てないのがエホバの証人。
仏教なら、南無妙法蓮華経ではなく、般若心経のほうが心理を語ってる、とわかるはずで、他宗派を執拗に侮辱したり攻撃したりするのは間違い。
間違いを間違いだと認識できないものは目も開かず耳も塞ぎ、ろくに理解も出来てないのに人に話して仲間を増やしたがる。

正しい教えなら、勝手に信者は集まるはず。
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この回答へのお礼

「人の道」さんVS「ブラジュロンヌ」さんと云う事での質問だったので、ちょっと不満です。

ありがとうございました。

お礼日時:2015/12/28 11:36

自説に固執するあまり、外に開かれた窓を互いに持たないために、他者とまともに向き合うことが出来ない。

我ありと言う思いの強さ故に自説以外の説や考えと共存することが難しく、其れらに対する批判を行う事によって自分の頼る説の足場を固めているようであるが、その実は窓のない壁を更に分厚いものにして、自分を閉ざしている。

人々を信じる事によってひらかれる、広大な世の中というものを知らないまま、自分は何がしかの高みや深淵、或いは奥義に到達したと思い込んでいて、他の多くの人よりも自分の方が優れていると錯覚している。彼を支える全ては彼によって、彼の為に自己完結しなければならず、そこで、ずっと同じ場所にとどまっている。彼らにとってはそこが、安住の地で、誰にも干渉されたくない場所なのである。しかしその実は、進む時代とは反対に、時の止まった場所で一人ぼっちでいる。

別に他の人と無理に仲良くする必要はないが、他の人も、自分と同じ様に痛みを抱えている事に気がつかなければ、ただただ孤独になるばかりである。
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この回答へのお礼

第一印象は、手厳しいですねと云った思いでしたが、そのうちに此れぐらいでなければと思うようになりました。

ありがとうございました。

お礼日時:2015/12/28 11:37

べつに「理性」と「感情」は反発しないぞ


おんなじ自分なんだから~というか信者は

信者の取り合いとか商売ガタキになるから
てな理由で上部がコワイからヤラサレてる

だけで~たとえば

国のため死にたがる輩が少ないのと同じで
神のため争うほどに熱心じゃないと思うぞ
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この回答へのお礼

「人の道」さんVS「ブラジュロンヌ」さんと云う事での質問だったので少し不満です。

ありがとうございました。

お礼日時:2015/12/28 11:39

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