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こんばんは、日本の馬の歴史について度々質問をさせていただいています。いつか聞いた話なのですが、福岡県の遠賀川流域はかつて馬産が盛んな地域だったと聞いたことがあります。関東や東北が馬産地でそこで武士が成長したと紹介する書籍は多々あるものの、西日本で馬産が盛んとは今まで聞いたことがない話でした。信憑性はあるのでしょうか? 半島や大陸の脅威と関係があるのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • どう思う?

    筑前高田牧には興味をそそられます。国防の最前線である北部九州に軍事の要である馬牧が配備されてないわけが無いというのは、以前から思っていました。それを考えると、東国武士から「鎮西八郎」こと源為朝が、馬の扱いが下手だと馬鹿にされたというエピソードには疑問が生まれます。実際は鎮西武者も騎射が上手かったのではないでしょうか?

      補足日時:2016/01/06 03:41

A 回答 (2件)

No.1です。


「為朝は西国出身だから、馬は苦手だった」と、『吾妻鏡』には書いてありますね。ただ『肥前国風土記』では、五島列島の海人たちは「容貌が隼人族に似ていて、騎射を好んだ」とされています。これを見る限り、北部九州は奈良時代には、騎射の先進地域だったようにみえます。為朝の時代(平安時代末)までに東国に追い抜かれたとみるべきか、それとも『吾妻鏡』の客観性を疑うべきかは、正直見当がつきません。

ちなみに網野善彦氏は、東国武士団が騎射に優れていたことを一応認めつつ、
「もちろんそれはおおよそのことであって、西国にも馬牧はあり、騎射もさかんであった」
と指摘しています。
http://ameblo.jp/lully-moliele-1660/entry-112103 …
一方高橋昌明氏は、東国武者が騎射を得意としたという常識そのものに対して否定的です。
https://kaken.nii.ac.jp/d/p/07610330/1995/3/ja.j …

くわしくは、網野善彦『東と西の語る日本の歴史』(講談社)や高橋昌明『武士の成立 武士像の創出』(東京大学出版会)に書いてあるようですので(未読です)、ご参照ください。
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遠賀郡(遠賀川河口部)が馬の産地だったことは間違いないようです。

『筑前国続風土記』(1709年)という本によれば、遠賀郡には昔馬牧が多かったので、「御牧郡」と改称されました。これが多分室町時代のことで、遠賀郡という地名に戻ったのは、1664年です。
http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/tibu2/frame/f …
http://kitaqare.d.dooo.jp/kinn11.htm
遠賀川の下流には大きな中洲があり(↓)、全体を柵で囲わなくても馬が逃げないので、牧場に適していたのでしょう。
http://nittan1971.web.fc2.com/onga-gawa.JPG

また、宗像郡にも平安時代から、「高田牧」という大規模な牧場があったとされています。大陸から馬を輸入して飼っていたようです。服部英雄氏によれば、高田牧には1300頭以上の牛馬がいて、甲斐1国の牧より巨大でした。
http://lunabura.exblog.jp/16445440/
http://www.okinoshima-heritage.jp/files/ReportDe …

ちなみに『日本書紀』では、「馬ならば日向の駒」と詠われています(推古20年=西暦612年)。飛鳥時代には特に南九州が、馬の産地として知られていたようです。
http://www.chie-project.jp/011/no14.html
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