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1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカ
ラである。《非経験の場》とよび そのように想定する。

2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。

   経験事象
     可知
       既知
       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)
     不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)

   非経験の場
     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。未知や不可知と一線を画す)

3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け
容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る
自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。

   【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心
   -------------------------
   【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト 
   【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス

4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)
との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ




 ☆ 以上が 標題についての仮説であり 問い求めのためのたたき台です。吟味・検証しつ
つさらに推し進めて行ってください。自由なご批判をどうぞ。

質問者からの補足コメント

  • №2のつづき。

    (3):非知についてのおぎない:《無限》というのは 二で割っても三で割っても その
    商は やはり無限である。 ∞ ÷ 2 = ∞ 。

    つまり そのように概念として じつは説明され得てそのかぎりで認識し得るのですが し
    かも いかんせん 人間は そのような無限というものを 見たことも感じたことも想像し
    得たこともありません。

    非知として説明していますが その説明はあくまで補助線です。非知そのものについては別
    になります。

    つまり 非知についての《分かるか分からないかが分からないナゾ》という説明は 考える
    ものであり しかも非知そのものについては 思考を超えていてそのまま――非知なる神を
    ――受け容れる(かまたは こばむ)ものです。

    この非知とわれとの関係が 信仰です。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/25 11:01
  • HAPPY

    №18

    ★ 現実社会を見て、良心がきちんと働いていると
    お思いなのでしょうか?
    ☆ あなたが 思っていないだけであり もっと言
    えば あなたが 基礎理論と現実とを自分の心の中
    で 別のものとして分けてしまっているだけのこと
    です。

    もっと言えば そのときには あなたの心の中で
    良心が捨てられてしまっているということを意味す
    るでしょう。

    それだけのことです。

    基礎理論は そういうふうに応用します。

    No.18の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/09 08:48
  • もし続きがありましたら あたらしい質問へお願いします。

    No.21の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/15 15:34

A 回答 (21件中11~20件)

お礼ありがとうございます。



引き続き「ヒラメキ」についてお尋ねします。
「お告げ」といわれるものが世の中にあり、私
の知り合いにも、それを主張する人がいます。

インチキはもちろんあるにせよ、私はそういう
ものが存在することは、あながち否定はできな
いと思っています。
これに関しては、「虫の知らせ」「正夢」と同
様の扱いになりますか?
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この回答へのお礼

ええ そうですね。まったく同じです。

ただし シャーマニズムのように心神喪失の状態にまで自分〔の意識〕を追い込ん
でそこから 何か答えのようなものを得て来るという場合が 《お告げ》にはあり
ます。

そういった場合には むしろ人間の願いや理念を引き出すこともあるかと思いま
す。

ですから ヒラメキは 非思考の庭にて得られるものだとは捉えるのがよいと思
います。その上で 言いかえがあったときには 同じたぐいであると判断してよ
いと思います。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/02/04 20:45

お礼ありがとうございます。



いくら精緻な理論でも、現実から離れていれば空論となり
「観念の遊戯」となります。

「ヒラメキ」について、教えていただきたいのですが、い
わゆる「虫の知らせ」は、これにあたるのかということで
すが、私の知り合いのある女性は、世間でいう「霊感」が
あると言われていて、ある夜息子さんが、蓮の花に入って
いて、その花がだんだんとしぼんでゆくという夢を見たそ
うです。そして、その息子さんは後日、命に関わる大事故
を起こしました。

その夢を見たことが、嘘でないとしたら、これは「ヒラメ
キ」にあたるのでしょうか?

また、「ヒラメキ」とは、こういうものだという具体例を
示していただけないでしょうか?
以前教えていただいた、ご自身の体験(よくわからなかった
のですが)も、そうなのでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

まづ ヒラメキは 考えごとをしていて ふといいアイディアが思い浮かぶといっ
た場合のヒラメキ一般論と どう違うか?

 《信じる》:非思考の庭:ヒラメキ・・・・・・非知
 ------------------------------------
 《考える》:思考の緑野:コギト・・・・・・・可知(既知・未知)+不可知
 《感じる》:感性の原野:センスス・コムニス

考えごとの延長線じょうに思い浮かぶのは 考えとしてのよいアイディアです。

考えごとをしていようが・いまいが 自分の思考とは別に或る種のイメージが浮か
びこれが概念となって 《考える》にも降りて来る。これは 非思考の庭から得ら
れるヒラメキです。




では どう区別するのか? それは 本人が決めます。自分の思考によって得られ
るアイディアは あくまで《考える》ことの結果ですから。


虫の知らせや正夢といった現象は あたかも予言し予見したようなかたちとなった
場合には確かに よきヒラメキであったと あとで受け取ることになるようです。

ですから・ただし そういった都合によってヒラメキであったりなかったりする現
象は 必ずしも取り扱うものではありません。


ただし ご本人が これはヒラメキであると言い張る場合 それは 本人の主観の
範囲内にとどまるということです。他人がそれを否定することも出来ませんが 同
じく他人が同調したとしても 誰もがみとめるヒラメキであるということにはなり
ません。

言いかえると ヒラメキは 何か分からないイメージとして得られたあと それを
《考える》の領域に卸して来て ふつうの言葉に翻訳します。その翻訳が 人間に
とって・社会にとって 普遍的に妥当なことを語っているとなれば それが ヒラ
メキになると見られます。

そうでない場合には 自分の中でささやかなヒラメキであったと思うといったかた
ちで持たれることになります。

お礼日時:2016/02/01 15:24

さっぱりわからないのは前からで、分かったふりを


していたわけでもないのです。何と言っていいか分
からなかったんです。

やっぱり、分からないので、少し戻りますが、私が
定義した「信ずる」ということは、社会通念であり
信仰ということになっているのに、それが間違いで
ご自分でも分からないことが「信ずる」こと、「信
仰」であるとするということが、不可解な謎になっ
てきました。
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この回答へのお礼

信仰とは 《絶対とわれとのカカハリ》を言います。

《絶対》でないものは みんな《考える(および感じる)》の対象です。

《絶対》とは何か? この経験的な相対世界を超えた場ですが さらに説明する
なら 認識のあり方として 《非知》だと言っています。

《分かるか分からないかが分からないナゾ》です。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/01/31 18:57

お礼ありがとうございます。



非思考の庭では、一般に「考えないのではない」けれども、
「考える」という場所ではないので、「考えるようなことを
しているけれども」それを、「考える」とは呼ばないで「ヒ
ラメキ」と呼ぶ。
そういうことのようですけれども、それが、人間としてどう
いう行為なのかが、判じ物のようでさっぱりわからないとい
うことです。
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この回答へのお礼

わたしも分かりません。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/01/31 11:14

お礼ありがとうございます。



「信じる」=「非思考の庭」において「考える」こととは、
考えることから離れている場での「考える」こととは、一体
その実体はなんなのでしょうか、分かりません。

「思考の緑野」での「考える」とは、一般的な意味での「考
える」でいいわけですね?
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この回答へのお礼

《信じる》という非思考の庭は 《考える》とは別な場です。

《考える》は 思考の緑野でおこいます。

 《信じる》:非思考の庭:ヒラメキ・・・・・・非知
 ------------------------------------
 《考える》:思考の緑野:コギト・・・・・・・可知(既知・未知)+不可知
 《感じる》:感性の原野:センスス・コムニス

ヒラメキは 思考の緑野で考えることをおこなっていても あるいは休んでいても
いづれの場合にも 起こり得ます。作用する場が違うのです。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/01/30 23:55

「信ずる」という言葉の意味は、辞書等で引きますと


私の定義した意味合いに完全になります。つまり、日
本の常識ということになります。

しかし、そうではないとB信仰論ではいうわけです。
これは、理論であって、「非知のものだけ信じて、考え
ない」ということが、現実にありうることとは全く想像
できません。
人間は「考える葦」ではないですか?考えないというこ
とは人間の本性としてできないことです。

これほど、作為的、恣意的な理論はないと思います。
これが、現実に存在しうるということの説明をしていた
だきたいと思います。
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この回答へのお礼

一般に《考えない》のではありません。

《信じる》という非思考の庭は 《考える》から自由な(離れている)場だという
意味です。

信じていると同時に 思考の緑野では考えることをおこなっています。むろん休ん
でいても構いません。

 《信じる》:非思考の庭:ヒラメキ・・・・・・非知
 ------------------------------------
 《考える》:思考の緑野:コギト・・・・・・・可知(既知・未知)+不可知
 《感じる》:感性の原野:センスス・コムニス

ヒラメキは 思考の緑野で考えることをおこなっていても あるいは休んでいても
いづれの場合にも 起こり得ます。作用する場が違うのです。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/01/30 22:50

時間の都合で、今回は感想のみ申し上げます。


(締め切られないように)

B信仰論について、以前、感覚的に分かったと
言ったのは、これは、理論を組み上げたものだ
な、と思ったということです。
つまり、プログラミングのようなものだと。(
実は私は少し経験があるのです)

あなたが、「信ずる」ということを定義して、
根拠となる、なにがしかの理論をつけた場合、
人は手も足も出ないのではないかと思いました。

これまでも、議論は平行線ばかりではなかったか
と。全部見たわけではありませんが。
まして、私は素人ですから。
ま、素人らしくゆきましょうか。
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この回答へのお礼

まぁ どんな物語やら日常のお話やらがお好みなのか 分かりませんし そのような
話の用意がわたしにいまあるというワケでもありません。

まぁ ぼちぼち行きましょうか。

この《信仰としての〈梵我一如〉類型::一般および個別絶対性理論》は 基本ない
し基礎は すでにうん十年も前から芽生えていましたが 《有る神と無い神とが と
もに普遍神のふたつの互いに同等の顔である》という見方を得たのが 数年前で さ
らに《梵我一如》をすべての信仰の類型としてよいと見出したのは まだ最近です。

やっとこのほどおかげさまで この理論は ひとまづ固まったようです。

あとは この普遍神とそしてわれとの関係としての信仰のほかに・その上にその周り
に オシへをつけ加える宗教屋さんの営業根性の問題があるということになります。

素人と言っていますが 素人ならなおさら このきわめて単純な《普遍神》説 これ
は特に日本人なら 誰もがうなづく神論であると思います。

そこから 信仰も 神の名が違っても すべて同じひとつの類型になる。これも 単
純な帰結です。

これは 理論とするに足ると思っています。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/01/29 16:57

お礼ありがとうございます。



人が、何故何ものかを信ずるのかの理由を考えたときに、「信ずる」
ということがどういうことかが結論付けられると思います。

人は、生まれてきたはいいが、いつどうなるかが分からない、また、
根本が分からない。だから、健やかに、自分を発揮して生きてゆくた
めに、何かを信じて拠り所とせざるを得ないという本質を持った存在
ということが言えると思います。

人により、年齢などにより、信じる対象は様々でしょうが、何を信じ
るかによって、その人の「行動」が変わってくるでしょう。
例えば、親を頼りにしているうちは、自分のことで頭がいっぱいとい
う状態なのが、「民主主義」という概念を知り、理解し、それを信ず
るに至った時には、その人の行動は劇的に変化をするでしょう。

高低浅深がある。
「帰命」という言葉が私の「信ずる」ということをよく表していると
思いました。

「南無一万円札」の人は、守銭奴として行動してゆくようになり、「
南無若い女の子」の人は、エロ爺になってゆくでしょうし、「南無妙
法蓮華経」の人は、「妙法蓮華経」という方向へゆくだろうというこ
とです。

「考える」「信頼する」などのことは、経験事象に対してすることで
「信じる」ことは非知のものに対してすることである、との立てわけ
は、論理的にはそう言えると思いますが、人間の心において分けるこ
とはできないのではないでしょうか?

なぜなら、人間は多くの人が間違ったものを信じて、不幸になってい
るからです。
なぜか?何故人は自分が信じるものを、深く吟味しないのか?これは
不思議です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

古今東西これまでに 神について・それを信じるということについて
思いをめぐらして来た人にとっては こたえは出ていると思います。

生まれついた自然本性(=わが身とわが心)にもとづき生きる。
自然ということ。
この自然本性に対してわざわざ特別に何かをつけ加えることもない。
したがって 神についてもいちいちああぢゃこうぢゃとつけ加えるこ
ともしない。
神は神である。その意味で 誰にとっても神である普遍神しかない。
なら われは自然本性にあってこの普遍神と たぶんカカハリを持っ
ているんだろうなと思ったりする。その程度である。
これが 《信じる》である。

したがって:
★ 人は・・・健やかに、自分を発揮して生きてゆくために、何かを
信じて拠り所とせざるを得ないという本質を持った存在ということが
言えると思います。
☆ なる見方については さきほどの《信じる》をおのれの心の内で
知って自覚したあと その神や信仰のことを後づけとして説明してい
るものだと理解します。

なぜなら 《かみ》という言葉は どの国の言語でも持たれていて使
われているからです。

★ 何故何ものかを信ずるのかの理由
☆ について考え得られたそのあとづけ〔としての説明〕を先に持っ
て来る必要はないと考えます。

★ 民主主義を信ずる
☆ というのは 神を信じるという言葉の転用です。その理念が現実
性を有すると深く確かなものと思うという意味です。強調のために神
を信じるという表現を持って来て使っています。《絶対だ》という表
現に同じです。

★ 南無(帰依)
☆ では 説明を聞いてみるとどうも 人為性を感じますね。おのれ
の意志が色濃くからんでいる。

自然本性として普遍神をいだく場合にも 確かに意志行為なのですが 
言ってみればもうすでに何がしかの神の香りを嗅いで知っている ゆ
えにその神をわが心に受け容れますという領収証を切るだけの意志行
為なのです。

そのように《非知》の場合をはっきりと分けます。

あるいは 帰依と言いますが 帰依した状態は すでに自然本性とし
て成っているということです。絶対なる神なら そうでしかないはず
です。だから 特別の帰依としての意志行為はしません。

★ 間違ったものを信じて
☆ これは神をではなく 考えるべきオシへをだからです。

お礼日時:2016/01/26 08:59

お礼ありがとうございます。



「信ずるとはなんぞや?」を読んで、ブラジュさんの思索の経験値の
高さを目の当たりにしたというところです。
私にとって、哲学的にゆくということは、スケート靴をはいたことが
ないのに、スケートの達人に挑んでゆくようなもので、少々不本意で
はありますが、できうる限り従っていきたいと思います。

さて、私の「信ずる」ということの定義は次のようになります。

⦅ある対象を、認識し、考え、受け入れ、さらに「頼りとする」という
状態にまでなること。⦆

人間は、何故「信ずる」のか?「信じたい」のか?
人はこの宇宙の中に、自分の本質を知らずに生まれてきます。自分の
位置が分からないから、何かを信じて、それを拠り所にして、生きて
ゆこうとするからでしょう。

そして、人は、疑い深いものです。愛情がきちんとしていなければ自
分の親でさえ信ずることができないわけです。
ですから、その対象を認識し、考え、受け入れ、頼りとする、という
段階を踏まなければ、「信ずる」という心にはなれないと思います。

一言でいえば、帰命(南無)ということになると思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ⦅ある対象を、認識し、考え、受け入れ、さらに「頼りとする」という
状態にまでなること。⦆
☆ 不満です。

これは 《信頼する》ことです。あるいは アイドルだとすれば その相手
に思い入れをすることです。大好きだという感情を超えてあたかも絶対だと
見なすことをとおして その思い入れ・思い込みが成ることです。

けれども 人間やこの経験世界のものごとは 《絶対》ではない。それをあ
たかも絶対と見なすときに 信頼関係が生じます。あるいは 信じ込み・思
い込みが生まれそれが あたかも信仰であるかのように思いちがいすること
になります。

★ 一言でいえば、帰命(南無)ということになると思います。
☆ これは 相手が 絶対ですか?

そうだとして 次に問題とせねばならないことは その行為が受け容れると
いう経験的な意志の行為であることに間違いないと思われますが そのとき
《思考や認識をも伴なっている》のではありませんか?
 
だとしたら それは 上に触れた《信頼や 思い入れ・思い込み》のことで
す。相手を《思っている・考えている・それとして認識している》なら そ
れは 思考の問題です。わざわざ《信じる》という別の言葉を用いる必要が
ない。

このように考えます。

この世のものごとで 確実なもの・すなわち移ろいゆかないものは無いです
よ。なのに どうして信じることができるのですか?

お礼日時:2016/01/25 17:00

ハコブルさんとの因縁の対決は終わったのですか?



論理的思考がきちんとできる人とのやり取りも意義
あることでしょうけれど、私のような素人、庶民が
納得してこそ本物と言えるのではないかと思ってい
ます。
学問の世界はかくあるべきだというのが、私の持論
です。

それはともかく、改めて一から考えてみたいと思い
ます。
B信仰論を理解するために、質問を多発するように
なるかと思いますし、今回は遠慮せずに申し上げる
こととなるでしょう。
馬鹿々々しくなったらおやめいただいてももちろん
結構です。

雑用に追われることがしばしばあります(特に月末)
ご了承ください。

まずは、続きです。
人は、認識できないものを信ずるということはでき
ないものだと思うのです。つまり、信仰として成り
立たないという点ですが、これについてはどのよう
にお考えですか?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

人助けなので 終わったか終わっていないかは 問題ではありません。

そもそも 《議論》は成り立っていません。

あちらの《命題(判断内容)》は 基本のところですべてが 自分の感じ方や
決意のようなもの――としての主観――によって成り立っています。

その表明じたいは 自由におこなってよいのですが その命題から次の命題を
みちびくことは 無理です。推論には成っていません。

あるいは さいころさんが――こんなことは ほんとは それを指摘すること
自体が いつも論文に向き合っている者には 恥づかしくなってしまうことな
のですが――何度も何度も指摘しているように そもそも《事実》と《仮説》
との見分け・書き分けが成っていないわけです。したがって それとおつきあ
いするのは 人助けとしか言いようがありません。他人からは お節介だと見
られても仕方のないおこないです。


批判は歓迎です。フルボッコでどうぞ。

★ 人は、認識できないものを信ずるということはできないものだと思うので
す。
☆ この際 学問としての哲学に従いましょう。(ちなみに学問からは脇道と
なる場合というのは いわゆる政治的判断などがあります。
科学的に最善の政策だとみとめられていたとしても 政治的判断によってそれ
はしりぞけられ 次善の策あるいはむしろ不利な結果を招くとすら分かってい
る悪手がえらばれる場合のことです)。

さて
★ 信ずる / 信仰
☆ とは何ぞや? ここから始めなければならないでしょう。

次の趣旨説明を批判的に参照して ご自分の定義をしめしてください。
【Q:《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7627807.html

★ 認識できない ≒ 人智の及ばない
☆ この表現内容は 次の三つに分かれます。:
(1) いづれ認識し得るであろうと推察されるもの:未知

(2) 永遠に認識し得ない(数学などで定理の解が人間には知り得ない)と
証明できたもの:不可知

(3) 人間の認識つまり科学が どこまで進んでも《認識し得るかし得ない
かが 認識し得ない》と想定されるもの:非知

☆ 前のふたつについては 《思考の緑野》において《考える》のです。
(3)の非知については 考えるの対象ではありません。 

補足あり。

お礼日時:2016/01/25 10:54

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