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まずはウィキの記述をごらんください。
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経典によれば、釈迦は縁起について、

私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。
— 『南伝大蔵経』12巻、234頁

と述べた。またこの縁起の法は、

わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。如来(釈迦)の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。如来(釈迦)は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり

と述べ、縁起はこの世の自然の法則であり、自らはそれを識知しただけであるという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%81%E8%B5%B7
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縁起は釈迦が悟ったもののひとつと思いますが、このウィキの記述にあるように、

・縁起はこの世の自然の法則であり、自らはそれを識知しただけである。

としか釈迦は言っていないのでしょうか。
つまり、その [ 縁起が真である根拠 ] などは、どこにも示されていませんか。

質問者からの補足コメント

  • みなさん、ご回答ありがとうございます。

    となると、

    ・語るな感じよ

    と釈迦は言ったわけですかねえ・・。
    哲学は「物自体」と「(人間の認識としての)物」との隙間を埋めようとする営み、ということになりますか?

      補足日時:2016/02/04 19:30

A 回答 (43件中1~10件)

根拠は現象そのもの。



いみじくも、と言うかたまたまと言うか、hakobuluさんが"識知"と表現してますが、それは因あって果が生じ、その果がまた因と成る、と云う事をこの世の現象に見た、と言う事だと思えば、この"現象"こそが根拠になると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「この世の現象」が、どのような根拠によって真理につながるのか、ということまでは言ってないんですね。

「一般の人々の知り難く悟り難いもの」
「自らはそれを識知しただけ」
だけじゃなく、明白は根拠が示されている部分はないのかな、と思った次第。

お礼日時:2016/02/04 19:02

[ 縁起が真である根拠 ] などは、どこにも示されていません


   ↑
こういうところが、西洋哲学との違いです。

西洋哲学では、どうして、どうして、その根拠は、
更にその根拠の根拠は? と疑問を
極限まで追求します。

しかし東洋哲学は違います。
修行し、考え抜いたあげくの直感を大切に
します。

その根底には、言語に対する不信があります。

複雑、抽象的な事象、思索は言語を使わないと
どうにもなりません。

しかしです。
人間の言語など所詮は不完全極まりないもので
あり、それを使って、極限まで考え抜いても、
得られるものは不完全極まりないものに過ぎない
のではないか。

むしろ、神、天から与えられた直感の方が
信頼できるのではないか。

そう考えます。
だから、釈迦にしろ、孔子にしろ、結論を
示すだけです。
その根拠など示しません。
しかし、妙に説得力があります。

こういう態度の違いが、西洋で近代科学が
発展し、東洋で発展しなかった理由だと
思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>人間の言語など所詮は不完全極まりないもので
あり、それを使って、極限まで考え抜いても、
得られるものは不完全極まりないものに過ぎない
のではないか。

それは言えそうです。
「物自体」は知ることができないとカントも言ってますしね。
しかし、改めて、このようにおっしゃっていただくことで再確認できたと思います。
人智の及ばぬものがあることは理解できても、それがなんであるかまで知ることはできない、ということでもあるのでしょう。

>こういう態度の違いが、西洋で近代科学が
発展し、東洋で発展しなかった理由だと
思います。

ははあ、なるほど。参考になります。
一長一短ということにもなりそうですね。

お礼日時:2016/02/04 19:15

wiki 見ました。


tanzou2さんが云うように"根拠"としては示されてはいないのかも知れません。
でも妙に説得力がある、とも云っています。
これは"感覚"ですね。

また、西洋の哲学人にも、自身に生じる直観から逃れられず、それゆえ自身の思考に影響を受けてしまい、答をそこに求めざるを得ないような人もいる様です。

西洋人の直感や、我々のなんとなくの説得力とは違って、"修行"を通して得た結論は"直観"ではなく実験(実体験)だと思うので、この体験こそがその人の"根拠"と云えるのではないでしょうか。
我々はそれを理と感を以て"信用"するしかないのです。

真理は"理"のみでは示せない、と云うことだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>、この体験こそがその人の"根拠"と云えるのではないでしょうか。
我々はそれを理と感を以て"信用"するしかないのです。

なるほど、言えてますねえ。

>真理は"理"のみでは示せない、と云うことだと思います。

これも全くおっしゃるとおりと思います。
所詮、人間の作り出した概念を視覚化したものが言葉なので、「真理」と言った時点で「真理と(私が)思うもの」といった意味にしかなり得ない、ということなのでしょうね。

お礼日時:2016/02/04 19:29

wikiの記述は、知恵は神の分野、とする、知恵のない西洋思想からの評価であり。

釈迦の知恵、理法、を
因果律という、幼児の思想と同一視、しているようです。揚げられた経典は、大乗仏教=佛教とヒンズ-教の融合を象徴する。と言えそうな経典で、梵天、という神が現れ。かってマガダ国に悪い思想が広まりました。、、中には、智的素養に優れた者もいます。聞かなければそのままですが、聞けば理解する者もいるでしょう、どうぞ説教を始めて下さいる、と勧請します。釈迦は蓮の池を眺め、思いをめぐらした後。こう述べられた。
耳ある者どもに、甘露の門は開かれた。己が信仰を捨てよ。
大乗仏教に於ける、釈迦の第一声です。そして、かってマガダ国に広まった悪い思想、が本当の釈迦の思想、神のいない、哲学、なのです。
私はこのように聞いた。と釈迦から直接聞いた話を纏めた。初期の経典には、理法、を述べ説明した。ような文章はないようです。釈迦の理法、とは、釈迦の話に流れる、ブッダ(目覚めた人)と言われるほどの。考え方、哲学、を称したもののようです。縁起が真であるとは言わないはずです、真と偽は縁起で結ばれる同じもの、真を縁として、偽が起こる、偽を縁として真が起こる。となるでしょう。
大乗仏教の般若心経の一節
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 諸法空想 不生不滅 不垢不浄 不増不減 
が縁起の理法の解説と見ることが出来。注目すべきは、時間、と空間、という概念がない。空(実体のないもの、変化を起こす能力、方向生、つまり縁、が、時間、であり、起きた、姿形あるもの、が、空間、である。と考えているのです。全く同じ考え方をしているのが、道(トウ)は道にして、常の道にあらず。の老子です。
両者の考え方は 空間=時間 空間×時間=世界=一定 となります。私はこれを、40年前、物が空間であり
変化が時間である。と悟り、数年後、釈迦と老子が同じ考え方をしている事を知り、般若思考、
と呼んできました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

興味深く読ませていただきました。
縁起の理法には、
>時間、と空間、という概念がない。

わけですか。
たぶん、我に関して完全に無の状態にならないと、こうした感覚には至らないのでしょうね。

>全く同じ考え方をしているのが、道(トウ)は道にして、常の道にあらず。の老子です。

◎常の道にあらず◎
は、庶民用の道ではなく君子用の道について説いている、という意味とはまた違うのですか。

お礼日時:2016/02/05 17:49

ウィキペディア、特に日本語版は信頼性に乏しく、利用にあたつては細心の注意が必要です。



私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。
『南伝大蔵経』12巻、234頁

などといふ引用の方法は無茶です。(私はこんな大部の本は持つてゐません。)ハッコブールさんは日本語についての知識を豊富にお持ちですが、たとへば
『源氏物語』第2分冊 13ページ
などと書かれてゐたら困るのではありませんか。岩波文庫の第2分冊の「須磨」の巻の冒頭、と記載してあれば、岩波文庫を持つてゐても、また別の書籍を持つてゐたとしても、参照することは容易です。

南伝大蔵経 相応部経典 有偈篇 第六 梵天相応 第一品 234ページ

と書いてくれなければ、どこの箇所なのかさつぱりわかりません。さらには、サンユッタニカーヤのサガータバッガと書いてくれたら、もつとわかりやすくなります。

岩波文庫では以下のとほりです。

*** *** *** *** ***

わたしのさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。ところがこの世の人々は執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている。さて執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている人々には、<これを条件としてかれがあるということ>すなわち縁起という道理は見がたい。またすべての形成作用のしずまること、すべての執著を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、やすらぎ(ニルヴァーナ)というこの道理もまた見がたい。だからわたしが理法(教え)を説いたとしても、もしも他の人々が私のいうことを理解してくれなければ、わたしには疲労が残るだけだ。わたしには憂慮があるだけだ」
(『悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』第6篇「梵天に関する集成」第1章 第1節 中村元訳 岩波文庫 83,84ページ)

*** *** *** *** ***

「わが作るところにも非ず......」といふ文章は出典の記載がなく、単なるでまかせとみなされても仕方がありません。下記のサイトの(T0099_.02.0085b24 - T0099_.02.0085b27)ですね。
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mo …


出典の問題のついでに。回答番号4の方は経典を読んでいらつしやるやうです。でも私にはさつぱり御意見が理解できません。「佛教とヒンズ-教の融合を象徴する」といふのは当然のことで、釈尊はヒンズー教の社会の枠のなかで生きてきたのです。「かってマガダ国に広まった悪い思想、が本当の釈迦の思想」とおつしやるのは、岩波文庫の訳を読むかぎりでは、まつたく的はづれの解釈に思へます。いつたいどんな書物なのですか。


さて本題ですが、私は「真である根拠」は釈尊の経験なのだと思つてゐます。この記述は悟りを開いたばかりの時のことです。釈尊は6年間ヒンズー教の伝統にしたがつて苦行をおこなひました。しかしそれでは悟りに達することができなかつたのです。悟りを得るために煩悩への執着を断ち切ること、その行為と熱意こそがまさしく執着にほかならないと、気づいたのではないでせうか。苦行をやめて、乳粥の施しを受けてからは、一気に悟りの道へと進みました。苦行といふ自分の殻に閉ぢこもる行為ではなく、人とのつながりを経験することの大切さがわかつたのではないでせうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>ウィキペディア、特に日本語版は信頼性に乏しく、利用にあたつては細心の注意が必要です。

わかりました。
私のような素人は、つい頼ってしまいます。

>日本語についての知識を豊富にお持ち

全くの誤解です。

>さて執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている人々には、<これを条件としてかれがあるということ>すなわち縁起という道理は見がたい

のですか。
ということは、[ 自我としての我 ] の状態で論理的に認識するということを望むのが、そもそも間違い、ということになりますかね。

>私は「真である根拠」は釈尊の経験なのだと思つてゐます。

なるほど。
やはり、
・語るな感じよ
としか言ってない、ということなのですね。

お礼日時:2016/02/05 18:01

いま、ハコブルさんがパソコンから眼を上げて周りをご覧になると、いろいろの様態が見えていると思いますが、それらの関係性が真である根拠とは、何だと思われますか。


麻薬や深酒の影響の無い、脳機能や認知や記憶の障害の無い、ただ自然な自分がとらえている関係性と、そうでない状態にある自分がとらえる関係性は、だいぶ違うものになるでしょう。

関係性が疑わしいのか真であるのかをフラットに扱うことができれば、そのような大枠の論理によって、どちらかが正しい、とする根拠はきっと得られるでしょう。
でも、釈尊は正覚の一週間後、縁起を悟ったとき、そんなスーパーフラットを遊泳したようにはどうも思えません。苦しみは関係性に絡められているのだなと、生きて起こる苦しみってこうして滅するのかと、まさに、私自身という枠組みから関係性を全体視したように思われます。

十二支縁起の説法は、順観と逆観のセットで示されていますね。
依って(パティッチャ)-生じる(サムッパーダ)、
これは無明による行の起こりからはじまって(行とはなんでしょうか。難しいです)、12件がつぎつぎと連鎖して起こるさまを見ます。生による苦蘊の起こりまでを説きます。
続いて、今度は何々が滅すれば何々が滅する、となります。
無明が滅することによって行が滅するところから、同じ12件の連鎖があって、生が滅して苦蘊が滅するまでを説きます。

このパティッチャサムッパーダは、ただ、表の相と裏の相、出るものと引っ込むものがある、という物語に終始するものではないでしょう。
経験の世界に現れている12の事柄が、生きる苦しみをめぐって繋がるひとつの関係性であるさまを説くのですが、このとき、万象を観照して理を召喚するのは釈尊の唯一の自我のように思えます。わたしは、ここに深い意味があるのだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>苦しみは関係性に絡められているのだなと、生きて起こる苦しみってこうして滅するのかと、まさに、私自身という枠組みから関係性を全体視したように思われます。

苦行は否定されがちな方向で語られているように思いますが、そうしますと、やはり苦行は必要であったのかもしれませんね。

>万象を観照して理を召喚するのは釈尊の唯一の自我のように思えます。

悟りは教えられるものではない、といったことですね。(違ってたらすみません)
まあ、それも実に良くわかるのですが、しかし、そうしますと悟りの中身自体も千差万別ということになると思うのです。
[ 自我としてのこの我 ] としての悟りは得られるかもしれないが、[ 人類としての我 ] として、その拠ってきたるところの真理を悟ることは無理だということになるんですかね。

お礼日時:2016/02/05 18:13

ゴータマ・ブッダは ブッダと呼ばれますが その《何に目覚めたのか そのさとりの中身は


何だったのか》については いっさい説明していません。

この上なき智慧のさとりを得たと宣言しているにもかかわらず とうとう息を引き取るまでそ
の中身については語らなかった。

さとりは 苦からの解脱なり。
苦(ドゥッカ:思うようにならないこと)とはさとりを得る前の状態なり。
解脱とは さとりを得ることなり。無明から明智に到ることぞ。

という説明に終始しています。



法華経では――つまり法を説き始めてすでに数十年経ったあとのことです――シャーリプトラが 
《さとり》とは何かと訊いています。しかもシャーリプトラは 境位がけっして低くありません。
それでも ゴータマ氏の答えは こうです。

▼ ( 一大事因縁――『法華経』) ~~~~~~~
http://fallibilism.web.fc2.com/130.html

シャーリプトラよ、如来には一つの仕事、一つのなすべきこと、すなわち大きな仕事、大きなな
すべきことがあって、その仕事のために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来があらわれるとい
うその仕事とは、どういうことであるか。

すなわち、それは、如来の知見を衆生たちに得させるという目的で、そのために正しいさとりを
得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。
如来の知見を衆生たちに見せるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあ
らわれるのである。
如来の知見に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間
にあらわれるのである。
如来の知見を衆生たちにさとらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間
にあらわれるのである。
如来の知見の道に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は
世間にあらわれるのである。

これがすなわち、シャーリプトラよ、如来の一つの仕事、一つのなすべき事柄、大きな仕事、大
きななすべき事柄であり、(如来が)世間にあらわれるための唯一の目的なのである。
 
このようにして、実に、シャーリプトラよ、如来の唯一の仕事、唯一のなすべき事柄、大きな仕
事、大きななすべき事柄というもの、それを如来は行なわれるのである。

(「第二章 方便品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経I』〔中公文庫〕、中央公論新
社、2001年、pp.52-53)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ このような問答では おそらくペテン師の語ることでないとすれば 精神錯乱だと言うべきこ
とでしょう。死ぬまで その我執と言うべき自尊心を失くしませんでした。答えられないとは言わ
なかった。これだけ シャーリプトラが答えを懇願しても ついぞ そのハグラカシに終始したよ
うです。




ちなみに シャーリプトラの懇願するところは こうです。
▼ (法華経・方便品) ~~~~~~~~~~~~~
長老シャーリプトラは 三たび世尊に話しかけた。

  ――どうか 話してください。なにとぞ その訳(* さとりについて説き明かして欲しいと
   ねがうと ゴータマは《教えが説かれても〔人びとは〕理解せず それを捨てよう》と答
   えたので その《理解せず 捨てる》ことのそのワケ)だけでも お話しください。
    世尊よ この会衆の中には わたくしのような人間が幾百人と数多くおります。・・・
   かれらは 前世において世尊によって成熟させられておりますので かれらは世尊の言葉
   を信じ 歓迎し それを受け容れるでありましょう。・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
☆ これに対する答えが すでに掲げたところです。こんなふうであっては じんるいの内 ゴ
ータマだけが人間で そのほかの者は まだ人間以前の状態にあると言ったも同然であるのでは
ないか?
中身を明らかにしないというゴータマ・マジック ここに極まれり。ではないか。

と考えます。すなわち・だから 二千年余のあいだわれわれは シンキロウ(《大化城》)を追
いかけるイカレポンチでありつづけて来たわけです。

つまり 非知なる真理については 人間の言葉で表現しえないと知っているので ハグラカシを
つづけていても そのインチキがバレる気遣いはなかったということです。

でも 真理については その正解に到るための補助線を引いて 人間の能力によっても 説明を
成すことはできるのです。

もし縁起説が その補助線としての説明だとすれば おてんとさまは西から上がることになりま
しょう。
ものごとは 原因と結果とがあり 人と人とは互いにカカハリを持って社会生活をいとなんでい
ると言ったわけです。――ここに深い真理があるのだぞと言い続けるのは ブッダのエピゴーネ
ンそのものです。イカレポンチ製造販売所の相続人たちです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>その《何に目覚めたのか そのさとりの中身は
何だったのか》については いっさい説明していません。

端的にお答えいただきありがとうございます。

>ものごとは 原因と結果とがあり

結果だけ示されても、といったとこですよね。
釈迦にしてみれば、明確に示すことが逆に真理から遠ざかることになる、といった考えがあったということなのか・・。
その場合は、職人気質だったということになりますかね。

お礼日時:2016/02/05 18:57

回答番号5のplapotiでございます。

コメントを拝見しましたが、私の誤解によつてたいへん失礼をいたしました。

>日本語についての知識を豊富にお持ち :  全くの誤解です。

ハッコブールさんの知識は「豊富」といふよりも「膨大・莫大・無尽蔵」でした。ところで、ハッコブールさんのお名前はどんな意味なのですか。

>論理的に認識するということを望むのが、そもそも間違い、ということになりますかね。

理屈ではない思ひます。私は解説書の類はほとんど読みませんので、その場の思ひつきを書くだけなのですが、そんなふうに捉へてをります。釈尊の「悟り」につきましては、いろいろな人がさまざまな見解を出してゐるやうで、ぶらげろさんが、わけがわからん、とおつしやるのも納得です。私としては、釈尊の「道理」または「理法」とは、「執著を捨て去ること」なのだと考へてゐます。引用文で示したとほりです。煩悩が苦であるとするウイキペディアの見解も捨てたものではありません。

繰返しになりますが、「苦行」と「乳粥」との対比、人間なら後者に魅力を感じるのではないでせうか。苦行によつて悟りを得ることへの「こだはり」、これこそが「煩悩」であり「執着」そのものだと私は思ひます。できればbakahageさんのお考へを聞かせていただきたいのですが、最近投稿をお見かけしません。

ちなみに「苦行」の必要性につきましては、以前みなさんから御意見をうかがひました。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8569913.html
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>繰返しになりますが、「苦行」と「乳粥」との対比、人間なら後者に魅力を感じるのではないでせうか。

おそらくですが、「苦行」の後の「乳粥」であればこそ、ということもあったのでしょうね。

お礼日時:2016/02/05 23:47

★(№7お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~


釈迦にしてみれば、〔* 縁起説なりそれが真理であることなりについて〕明確に
示すことが逆に真理から遠ざかることになる、といった考えがあったということ
なのか・・。
その場合は、職人気質だったということになりますかね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そういった気遣いはまったく無縁だと分かるお話を示します。

言いかえると ゴータマ氏の宣伝した《さとり》には中身がないということ・か
れが真理のことを分かっていたという形跡はゼロにひとしいということ。を証明
します。



次のくだりは ゴータマの最期のときのことを伝えた話からです。ゴータマは何
を言おうとしていると考えられましょうか?

つまり先に種明かしをしますが 最後の最後で次のようなことを《ほざいている》
のなら 《さとりだの真理だの》という問題は ちゃんちゃらおかしいと《普遍
的に》言えるはずです。という結論です。

▼ (ゴータマ アーナンダを責める) ~~~~~~~~~~~~
 アーナンダよ。わたし(=ゴータマ)はいま・・・お前に言った、
 『・・・
 アーナンダよ。いかなる人であろうとも 四つの不思議な霊力(四神足)を修
 し 大いに修し (軛を結びつけた)車のように修し 家の礎のようにしっか
 りと堅固にし 実行し 完全に積み重ね みごとになしとげた人は もしも望
 むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長
 いあいだでも留まることができるであろう』と。

 アーナンダよ。修行完成者がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示
 されたけれども お前は洞察することができなくて 

  『尊師はどうか寿命のある限りこの世に留まってください。幸いな方(=ブ
  ッダ)は寿命のある限りこの世に留まってください。
  ――多くの人々の利益のために 多くの人々の幸福のために 世間の人々を
  憐れむために 神々と人々との利益のために 幸福のために』

 といって修行完成者(=ブッダ)に懇請しなかった。
 〔* 弟子のアーナンダが ゴータマ氏に《もっと長生きしてください》と懇
 願しなかったと ゴータマさんはなじっている〕

 アーナンダよ。もしもお前が修行完成者に懇請したならば 修行完成者はお前
 の二度にわたる(懇請の)ことばを退けたかもしれないが しかし三度まで言
 ったならばそれを承認したであろう。

 それだから アーナンダよ これはお前の罪である。これはお前の過失である。

 (中村元訳:『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』1980  第三
  章 [四七] pp.92-93 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


☆ すなわち アーナンダがゴータマに対して 長寿を懇請しなかったことは 
《過失であり罪である》と言うのである。この判断は 成り立つか? あたまは
確かか?

アーナンダは このように咎められてそのあとただちに長寿を懇請しているので
すが 《いまはお止めなさい。修行完成者には懇請してはいけない。いまは修行
完成者に懇請すべき時ではない》と答え返されています。

そうしてこのような押し問答が何度にもわたって繰り返されつつ そのおしまい
のところでは 《これは お前の罪である。お前の過失である》と告げられてい
ます。

いったい何のことなのでしょう? ゴータマよ おまえは阿呆か? と言わなく
てよいのでしょうか?



割り合い好意的な解釈をしているひとつの見解をリンクさせておきましょう。
○ アーナンダ http://hannyashingyo.web.fc2.com/arekore/ananda. …
○ 釈尊は三度までもアーナンダに同じことを言うが、アーナンダは「悪魔にと
りつかれたため」 この世に留まってほしいと懇請することをしなかったのです。
☆ とか何とか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

あ~、な~んだ。そういうことでしたか・・。

というのは冗談で、まあ、今回は珍しく最初から全面的に同意しています。
若干の
★気遣い★
ぐらい大目に見ておきましょうよ。
いずれにせよ、良くも悪くも、とことん 宗教者一本槍 の人物ということだったのでしょうね。

お礼日時:2016/02/05 23:42

プラポチさんがせっせと律儀に揃えた縁起数12のgoodボタンが。

。。。ご愁傷様です。

> [ 自我としてのこの我 ] としての悟りは得られるかもしれないが、

如来が告げたことや、如来が皆に知らせるように望んだこと、というのがちらほら出てくる印象からすると、釈尊は預言者の立ち位置ではないですか。
釈尊=見る人であり分かる人
その他の皆さん=やる人
という「段差」があるようで、賢人が分かる人になりたがって釈尊に懇願しても、やる人の立場から抜け出せないんですよね。1人でも多くの衆生にやらせるというノルマでもあったのかもしれません。

> [ 人類としての我 ] として、その拠ってきたるところの真理を悟る
> ことは無理だということになるんですかね。

そんな気弱なことをおっしゃらずに。ハコブルさんの思想の根幹ではないですか。
要するに宗教なんか参考にならないんじゃありませんか。
地球の子、宇宙の子たる人類が、皆で一段あがろう、という時代が幕を開けてもいいじゃないですか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>律儀に揃えた縁起数

あれは功徳、あるいは一種の苦行でしょう。
合羽さんもすでに喝破してると思ってましたが・・。

>釈尊は預言者の立ち位置ではないですか。

そうなんでしょうね。
しかし、宗教は代理を立てるのが好きですよね。
単に本質に値打ちを持たせたいだけなのか、あるいは、具体的像を持ってないと信仰の対象とはしづらいという人間側の事情(を忖度したもの)なのか。

>1人でも多くの衆生にやらせるというノルマでもあったのかもしれません。

やさしいですね。

>そんな気弱なことを

いえいえ、お釈迦様が「悟りの中身自体も千差万別で良いのだ」と言っているのだとすれば・・・結果的に、
▼[ 人類としての我 ] として、その拠ってきたるところの真理を悟ることは無理だということになるんですかね。▼
という意味です。
お釈迦様には一目おいていますが、一辺倒ではありませんので、気弱になったわけではありませんよ。^^

お礼日時:2016/02/06 00:10
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