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諸法無我の説によれば トラウマは

 ( a ) 永続しない。
  すべて空観のもとに縁起として起こる仮りの現象であり 
  それ自体の本性(自性)は無い。

と見ることになると思われます。つまり:

 ( b ) 心的外傷は 現象として起きても 屁の河童である。

と見ることになる。
これで よろしいでしょうか?
もし たたき台としてなら:

 ( c ) トラウマは 存在しない。現象として起きても 直る。

この命題を掲げますが これらの事態について納得のゆく説明をおしえてください。いろん
な観点からのお考えをお寄せください。


             *

 ( d ) ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 仏教的にいえば
 「心的外傷は現象として起きても、心的外傷は本質的に無我、空である」
 とは言えますが、「屁の河童である」とは言えません。
 なぜなら、仏教の「無我」、「空」は存在の否定を意味しておらず、
 物質的、精神的現象の存在性を認めているからであり、
 因縁で生じたさまざまな現象が我々の肉体、精神へ及ぼす影響力を認めているからです。

 ( e ) ◇ ~~~~~~~~~~~~
 (おそらく、仏教では、瞑想や思索により心的外傷の原因を徹底的に分析し、
 その実有性を否定して、心的外傷を克服するという手法をとるのでしょう、たぶん)

 ( f ) ☆ ~~~~~~~~~~~
 トラウマという現象が われわれの身と心に及ぼす影響を具体的にきちんと分析し検証する
 という作業が望まれる。――と考えられます。ここは ブディズムの真骨頂であるのではな
 いでしょうか。

 ( g ) ☆ ~~~~~~~~~~~
 これは 基本的な伝統の哲学だと思われますので さらにそこへ精神医学を積極的にそして
 おそらく批判的に摂り入れて あたらしい医療哲学を形成して行けばよいと思われます。

 そうでなければ 仏教はもう終わったかと言われても仕方がないのではないでしょうか。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ ご見解を継いでください。あるいは初めにもどってご批判ください。


        *

参考資料:

▲(ヰキぺ:無我) ~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91

§1.1 原始仏教

『スッタニパータ』などの最初期の韻文経典では、無我はさかんに説かれる。それらによれば、
「無我」は我執の否定を意味し、そのように、あらゆるものが我ではない(諸法無我(パーリ
語:sabbe-dhammaa-anattaa सब्बे धम्मा अनत्ता)と観察し、これを智慧(prajNa)によって理
解すると、清浄(しょうじょう)で平安な涅槃の理想に到達できるとする。

  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   この無我は「アートマン(我)」がないという意味で、
   「あらゆる現象にはアートマン(実体)がない」、
   「現象はさまざまな原因や条件で成立しているのであって、現象そのものに恒常不変の
   アートマンが存在するわけではない」
   という意味です。

  ☆ 木に竹を継ぐ言い方になりますが これは《あらゆる現象には実体なるアートマンが
   無い》ゆえに 《〈我執〉という現象も 変わり得ない実体にもとづくものではない》
   と解しておきます。解したいと思います。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

§ 1.3 大乗仏教

・・・無自性を鮮明にし、空であることを徹底した。その論究の根拠は、従来の阿含経に説か
れる縁起説であり、ゴータマ・ブッダ本来の仏教を取り戻すものであった。

このような「縁起―無自性―空」の理論は、存在や対象や機能などのいっさい、またことばそ
のものにも言及して、無我説からより発展した空の思想が完成した。
 
龍樹以降の大乗仏教は、インド・チベット・中国・日本その他のいたるところですべてこの影
響下にあり、空の思想によって完結した無我説をその中心に据えている。

 
● (ヰキぺ:心的外傷) ~~~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E7%9A%84% …

§ 心的外傷(しんてきがいしょう)とは、

外的内的要因による衝撃的な肉体的、精神的ショックを受けた事で、長い間心の傷となってし
まうことを指す。
外傷体験 (traumatic experience) ともいう。
これが精神に異常な状態を引き起こすとPTSDとなる。

§ 概念

典型的な心的外傷の原因は、幼児虐待や児童虐待を含む虐待、強姦、戦争、犯罪や事故、いじ
め、暴力、アカハラ、パワハラ、セクハラを含む悲惨な出来事、実の親によるDV、大規模な
自然災害などである。

重度の心的外傷(トラウマ)によりPTSDなどの精神疾患が生じた場合は、精神療法(心理療
法)や薬物療法などの治療が有効である。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 質問者としては:

 ( h ) 《〈我執〉という現象も 変わり得ない実体にもとづくものではない》

を推し出したいと思っています。つまり わざわざ《無我(アン-アートマン)》と――言っ
てもよいが――言う必要が ことさらには ないと。我執という仮りの現象がある。それだけ
のことと。

質問者からの補足コメント

  • つらい・・・

    BAをうまく決められません。すみません。

      補足日時:2016/02/18 12:35

A 回答 (5件)

仏教心理学


https://ja.wikipedia.org/wiki/仏教心理学


仏教心理学というものがあるそうです。
ブラジュロンヌさんもとうとうこのような分野を研究するのでしょうか。
中観派よりは唯識のほうがいいかもしれません。

といっても、医療にはならないと思いますよ。

医師が世間話として仏教の話をするだけのほうが
よほどマシのような気もします。

まさか前世療法だとかするわけでもないだろうし。
ブラジュロンヌさんはリインカーネーションなんか嫌いでしょう。

心の傷の回復と、個体の寿命にズレが有るかもしれませんよ。

まあ、疑似科学になるだけです。

観察の理論負荷性とか

仏教のバイアスがかかって、客観的に観察できないでしょう。
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現実のこの世界を空論のような理屈を当てはめて、だから何々と言うから可笑しな事になるのです。



物事は変化して永続するものはないからこの世は夢まぼろしだ、実体とは言えない、なんて解釈こそ幻影と言うべきでしょう。

この世が事実であり、限り在る実体と受け止めてこそ哲学的信仰幻想から抜け出せて目も覚めるのです。

だから現実の生活には実際上の学問が役立つのです。
宗教者の言うことは上から目線の下手投げなので、世間には一目置かれるような存在と評価をされてる様で、それが“境地が上”と言った事につながるのでしょう。

“境地”成るものも視点次第なので、人それぞれの立ち位置で変わるもの。

“境地”に付いては短絡しましたね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 限り在る実体
☆ って何ですか? 《実体》は 無限・絶対のことです。表現が矛盾しています。

★ 宗教者の言うことは上から目線の下手投げなので、世間には一目置かれるよう
な存在と評価をされてる様で、それが“境地が上”と言った事につながるのでしょう。
☆ ぢゃあ 実質的には 《豚》ぢゃないですか。《プロの修行者ら》は。

というふうに分かるだけでよかった論点なのだから:
★ “境地”に付いては短絡しましたね。
☆ で構わないのです。

まぁ しかし ムイシキ説は あくどいですよ。

精神科医:あなたは マザコンですね。
わたし:いえ そうではないと思います。
精:いえいえ。そのように否定するところが 無意識のなせるわざなのです。無意
 識では マザコンでいらっしゃいますよ。
わ:はぁ。〔そうおっしゃる根拠や証明は どうなっているんですか?〕
精:〔それは ムイシキなのですから 具体的にこれこれこうなっているんですと
 いうふうには 指摘することも示すことも出来ないのです。・・・〕
わ:!”#$%&’()。

お礼日時:2016/02/14 16:27

プロとか素人とか表現しましたが、これは俗世間から離れて神仏の世界に近づこうと言う修行僧達と、それに対する一般人と言う意味で使いました。


俗人のかかる心的外傷にプロの価値観を以て捌こうと言う事に可笑しさを感じます。

だいぶ前の事ですが、かの寂聴さんが目の前の子どもを亡くして泣きわめく女性に、人生の無常な事を説いてなだめようとしていましたが、全く効果なく途方にくれていました。

トラウマはフロイトの持ち分ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ トラウマはフロイトの持ち分ではないでしょうか。
☆ ではありません。勝手にそう言っているだけです。

フロイト流の精神科医にかかった場合には ほとんど治癒はかないません。

医者に診てもらわなかった人たちの中には 完治した人もいたでしょうし
何のかんのと言いながら その後遺症と共存して生きたという人もいたで
しょう。

医者に診てもらうと 一生なやみつづけます。
《医者 ‐ 患者》という関係が成って固定化してしまいがちです。
待ったなしの事態には くすりも必要かと考えますが。


★ プロの修行僧たち
☆ そんな者たちがどうして 人びと一般の生きる姿よりも境地が上だと
分かるのですか? 

そんなことないでしょう。高い境地の人が中にはいたとしても ふつうの
世間の人びととどっこいどっこいでしょう。

何が何でも お釈迦さんをお守りするんだというコンタンでしょうか。

でもこの質問では わたしがフロイトに対して ゴータマくんを顕揚しよ
うとしているんですけれど。

お礼日時:2016/02/14 13:40

例えで言って見るしかありませんが、その道のプロの技を素人がいきなり学ぼうとしても無理といった感じがしました。



実体とか空とかを現実の生活に当てはめて人生を考えることの無理を思いました。

(家のパソコンが不調なので仕事の合間にタブレットで投稿です)
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この回答へのお礼

やっほーです。ご回答をありがとうございます。

★ 実体とか空とかを現実の生活に当てはめて人生を考えることの無理を
思いました。
☆ ええ。ですから 分かりやすく話をお示ししています。

トラウマつまり《しつこくつきまとう過去に体験したことの後遺症》は治
りますか治りませんかと。

★ その道のプロ
☆ によるのでないと治らないというご見解ですか?

《プロのわざによれば》 治るということですね?

でも もし諸法無我(アン‐アートマン)ならば その病いは ただ仮り
に起きている現象に過ぎないとなります。たとえ治らないにしてもその
まま――つまり その厄介なうっとうしく付きまとうわづらわしさをそ
のまま――にして そこに実体が無いとなれば・そう自覚すれば ただ
ちにその病いは屁の河童になります。
そうではありませんか? と問うています。

このアン‐アートマン説は ゴータマが哲学に寄与し得るただひとつの思
想です。どうでしょう?

フロイトなどは 屁で吹き飛ばしましょう。

(いや 梵我一如なる信仰論が そのブラフマ二ズムなる宗教に閉じ籠
ることなく みづからを開きけっきょく普遍神へと身づからを揚棄する
ならば この経験世界における現象は すべて・つねに仮りのものであ
るという帰結には成ります。
ですから ゴータマ説が寄与し得ますが 独自性を主張することは出来
ません)。

お礼日時:2016/02/13 17:36

貴君の発想は「体系の構築」への希求が欠如しているのではないか。

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この回答へのお礼

どこからそうお考えになりましたか?

あなたの発想には あるのですか?


ご回答をありがとう。

お礼日時:2016/02/12 14:22

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