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▲ (宮元啓一:自己と自我の相違) ~~~~~~~~~~~~~~~

(あ) 仏教を含むインド哲学では 自己(アートマン;プルシャ;self )と身心(カーヤ・
チッタ)とは峻別されています。

(い) そして 身心を自己だと錯覚することがあらゆる迷妄のもとであることが強調され
ています。

(う) その意味で 身心をまとめていわゆる自我( ego )だと考えることが私たちには
必要であると考えられます。つまり 自己と自我を混同してはならないということです。


(え) 自己はおのづから 無媒介に 自律的に いわば自己反省的・自己回帰的にその存
在が確立しているもので 認識主体あるいは (学派により異なりますが)それに加えて因
果応報・自業自得の担い手以外にその内包を持たないものです。

(お) それに対して 自我は認識対象であり かつ自己がそれを介して世界を認識する媒
体です。媒体であるというところから 私たちは自我を自己と錯覚することになるのです。


(か) 自己はおのづから 無媒介に 自律的に いわば自己反省的・自己回帰的にその存
在が確立しているものですから それを生ぜしめる原因を持ちませんし それを滅ぼす原因
も持ちません。ですから 自己は不生不滅 常住不変であるということになります。

(き) それに対して 自我である身心は生じては滅するものであり 無常です。無常な自
我を常住な自己と錯覚するからこそ あらゆる煩悩の中核を成す我執が生じ その我執があ
らゆる迷妄のもととなり 人を苦しみの輪廻的な生存に縛りつけるのです。

 (『インド人の考えたこと――インド哲学思想史講義』 2008  pp.149-150 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ (く) 《自己》と訳された《アートマン》は やはり《霊我》であって 経験世界を
超えたところ――《非経験の場》ないし《非思考の庭》――のことを言うと捉えられますま
いか。

(け) けっきょく 《ブッダター(仏性)》とまったく同じだということなのですが。

みなさんの読みは いかがあい成りましょうか?

A 回答 (5件)

(え)の意味がちょっとわかりづらいですね。



(か)には矛盾があると思います。
『自我は認識対象であり かつ自己がそれを介して世界を認識する媒体です。(お)』
と言ってるわけですから、《自己》も自我の消滅と共に消滅しなければ辻褄が合わない。
よって、
『自己は不生不滅 常住不変であるということに』はならないでしょう。

>☆ (く) 《自己》と訳された《アートマン》は やはり《霊我》であって 経験世界を超えたところ――《非経験の場》ないし《非思考の庭》――のことを言うと捉えられますまいか。

彼の説に則るなら、そのように捉えて良いのではないでしょうか。
彼の言うところの《自己》とは、私流に表現するなら [ 人類としての我 ] ということになるかもしれません。
つまり、
▼「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)に起因して我々は生まれた。( A )」▼
という視点がそこにある。
◎経験世界を超えたところ(~のことを言う)◎
と言えるでしょう。

ただ、そうではあっても、《自己》あるいは [ 人類としての我 ] のように認識対象として取り上げてしまった以上、その正体はわからないとしても《非知》とは言えなくなるので、想定したり、推測したりすることはできます。
補足するなら、
◎《非経験の場》ないし《非思考の庭》◎
に分類される事象であるためその正体は不明としても、想定したり、推測したりすることはできる。
要するに、
▼経験世界を超えているのは、その正体(のみ)である。▼
ということ。
この解釈が、
◎(け) けっきょく 《ブッダター(仏性)》とまったく同じだということなのですが。◎
とどのように関連していくかについては、この(け)でおっしゃりたい意味がよくわからないため、今のところ言及できません。

いずれにせよ、(か)で指摘した矛盾点の他に、(き)の記述における
『無常な自我を常住な自己と錯覚するからこそ 』
を、
▼無常な自我を本来的な自己と錯覚するからこそ ▼
のように言い換えると、自我・自己に対する細かい解釈の食い違いは残りそうですが、一応、個人的には同意できる形となりそうです。
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この回答へのお礼

ご回答謝謝。

★(え)
☆ 《自己は不生不滅 常住不変である》(か)のに あたかもアートマン(自己)=ぶら
だとか アートマン=はこ だとかと個別に分かれていると言っているようです。それゆえ
個別の《認識主体》であり 《輪廻転生および因果応報》の主体であるということだと受け
取られ得ます。
――おかしいと思います。想定にしても そこまで具体的なことは ちょっと行き過ぎでは
ないかと。

★(か)
☆ たとえば こう言っているのでしょう。:

 アートマン(自己):霊としてのわれ
  《霊として》:不生不滅
  《われ / かれ》:個別の経験存在;認識や行為の主体
 エゴー(自我):身心〔なる自然本性。認識の対象となる経験存在〕
 ↓
▲ (き) 自我である身心は生じては滅するものであり 無常です。

★ (く)――彼の説に則るなら、そのように捉えて良いのではないでしょうか。
☆ おお!

★ 彼の言うところの《自己》とは、私流に表現するなら [ 人類としての我 ] ということに
なるかもしれません。
☆ つまり そうだとして さきほどの如く 《霊として(非思考の庭)》と《此のわれ》
とに分かれている。そして両者をつなぐのは 《ヒラメキ および 良心》ではないかと。

★ ▼「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)に起因
して我々は生まれた。( A )」▼
という視点がそこにある。
☆ 《通常考えるに 生あるものをバランスさせるチカラとして忖度することがある》。と
いったところまでにセーヴしたほうがよいのでは? バランスさせないのではないかという
場合があり得る。

つまり:
★ 《非知》とは言えなくなる
☆ のをセーヴします。《摂理》という言葉も あやふやな内容として用いると。言いかえ
ると:
★ ▼経験世界を超えているのは、その正体(のみ)である。▼
☆ ということが 初めの想定なのです。そこから推測で属性(真理・慈愛・全知全能)が
派生します。

(け)のブッダターは 霊我としてのアートマンのことです。

★ 《常住な自己》と《本来的な自己》と《無常な自我》
☆ わたしの《バランス感覚》は: 
 霊我:・・・・・・・・・・常住な自己
 天使:ヒラメキ&良心・・・本来的な自己
 身心:自然本性・・・・・・移ろいゆかざるを得ないわれ

お礼日時:2016/02/22 20:10

#4です。



>《輪廻転生および因果応報》の主体であるということだと受け
取られ得ます。

そういうことでしたか。
そもそも、《輪廻転生》は頭から馬鹿にしてかかっているので、余計にわからなかったのだと思います。
ただ、《因果応報》については、若干補足させていただくと、[ 自我ととしてのこの我 ]の「因」が、 [ 人類としての誰かの我 ] に対して「果」 となって影響を及ぼすのは、むしろ自明なことだろうと思います。
めぐみさんの現況は、(基本的に)彼女自身ではない誰かの「因」(の集合)によるものであることは確かでしょう。


★[ 人類としての我 ] ということになるかもしれません。
☆ つまり そうだとして さきほどの如く 《霊として(非思考の庭)》と《此のわれ》とに分かれている。そして両者をつなぐのは 《ヒラメキ および 良心》ではないかと。

個人的には、[ 自我としてのこの我 ]と [ 人類としての我 ]という 両者をつなぐのは 《感覚》だと思っています。
[ 人類としての我 ]は、人智の及ばぬものとして位置づけられているわけですが、[ 自我としてのこの我 ]は、それをおぼろげながらも感覚的に認識(想定)することが可能であるように思う、ということです。
これは、アプリオリな能力と思います。
おそらく、本能の一部を手放して動物から人間へと切り替わったときに付与された。
ただ、「特定」できるわけではないため、葛藤が生じるのでしょう。

>アートマン(自己):霊としてのわれ
が、
>《霊として》:不生不滅

という点には同意しかねます。
あくまで自我あってこその自己(という切り口)でしょう。
よって、
> 霊我:・・・・・・・・・・常住な自己

というものも想定しません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

▲☆ 《自己》:《輪廻転生および因果応報》の主体である
☆ この説には わたしは与し得ません。
《身心なるわたしの生まれ変わりは無い》。
そして だからと言って この《常住の――霊としての――自己》が輪廻転生すると
いうのも おかしい。霊として(=非知として)常住で不変であるはず。だから 個
別に霊我が われ・なれ・かれといったように分かれているというのも納得できませ
ん。

《認識の主体》についてすら この霊我を持ってくる必要はないと考えます。
身心としてのわたし・そのわたしが精神における知解能力を用いて認識します。

★ 《因果応報》については、・・・[ 自我ととしてのこの我 ]の「因」が、 [ 人類
としての誰かの我 ] に対して「果」 となって影響を及ぼすのは、むしろ自明なこと
だろうと思います。
☆ 納得行きません。
確かに《共業(ぐうごう)》という概念もあります。ユングの《集合的無意識》のよ
うな考え方でしょう。
そのように漠然とした人と人とのあいだの互いの――思想的な――影響関係が捉えら
れるかと思われますが それはそこまでだとも考えます。理論には成らないのでは?
《自明》というところが分かりません。

めぐみさん問題。だったとしたら ほかの人びとの善因もがよい影響をあたえてもよ
いはずなのです。結果論であり 後出しじゃんけんに過ぎないと考えます。

★ [ 自我としてのこの我 ]と [ 人類としての我 ]という 両者をつなぐのは 《感覚》
だと思っています。
☆ 感覚では 漠然とし過ぎであり広過ぎでは?
《感覚的に認識する》のは 漠然とした(必ずしもはっきりとは自分で自覚していな
いところの)《良心》がはたらいたり あるいはヒラメキが得られたりして これを
感覚としてもまた概念としても認識する。のだと思います。

☆☆ 《霊として》:不生不滅 
☆☆ 霊我:・・・・常住な自己
☆ これは 《非知》の想定から必然的に派生します。
ただし 《自己》とは言わないほうがよいでしょう。非思考の庭ゆえ 《わたし》と
いう自覚もないはずです。

お礼日時:2016/02/22 23:01

{47}


大潙山大圓禪師、あるとき衆にしめしていはく、一切衆生無佛性。
The Chan Master Dayuan of Mt. Dagui once addressed the assembly, saying, “All living
beings have no buddha nature.”62
{48}
これをきく人天のなかに、よろこぶ大機あり、驚疑のたぐひなきにあらず。釋尊の説道は、一
切衆生悉有佛性なり。大潙の説道は、一切衆生無佛性なり、有無の言理、はるかにことなるべ
し、道得の當不うたがひぬべし。しかあれども、一切衆生無佛性のみ佛道に長なり。鹽官有佛
性の道、たとひ古佛とともに一隻の手をいだすににたりとも、なほこれ一條拄杖兩人舁なるべ
し。
Among the humans and devas hearing this, there are those of great capacities who rejoice and
no lack of those who are alarmed and dubious. What Śākyamuni, the Honored One, says is “all
living beings in their entirety have the buddha nature”; what Dagui says is “all livings beings
have no buddha nature.” There is a big difference between the meanings of “have” and “have
no,” and which saying is correct should have been doubted. Nevertheless, “all living beings have
no buddha nature” is superior on the way of the buddha. Yanguan’s saying, “have the buddha
nature,” while it seems to extend a hand with the old buddha, is still “one staff borne by two
people.”63


Treasury of the Eye of the True Dharma
Book 3

Buddha Nature

Shōbōgenzō busshō
正法眼藏佛性
http://web.stanford.edu/group/scbs/sztp3/transla …




一切衆生無佛性

無佛性とはなんだろう?
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Chapters of the Shōbōgenzō


http://web.stanford.edu/group/scbs/sztp3/transla …

SHASTA ABBEY BUDDHIST MONASTERY
http://shastaabbey.org/teachings-publications_sh …


正法眼蔵ですが英語の翻訳があるようです。
気が向いたらZenを学ぶことにします。
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~~~~~~~~~~~~~~~~~~



道元さまは中国に渡っても、すぐにはこの仏性について納得できる答を得ることが出来ませんでした。それで道元さまは諸々の経典、諸説を学び、多くの祖師に参じたのであります。ここにあります「釈迦牟尼仏言、一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易」というくだりは「大般涅槃経」の中にある一句であります。この意味は普通に読みますと「お釈迦様が言われるには一切衆生にはことごとく仏性がある。それは常住で、変わることが無い。」ということになるのでありますが、実は道元さまはそのようには捉えていなかったのであります。
 仏性とは「仏であることの本質」であります。ここでいう仏というのは「ものごと」が真理に従って、あるべきようにあることでありまして、執着を離れることであります。先の現成公案の巻や弁道話の巻においてお話しいたしました「あるがままにする」「空」の道理に従って「因縁所生」にあるということをいうのであります。
 それを覚られたのがお釈迦さまであり、諸仏諸祖であります。曹洞宗では道元さまの師匠天童山の如浄禅師までにお釈迦さまから数えて五十人の祖師方がいます。その方々は仏性の道理を正しく捉えて悟られたのであります。そして道元さまは一切衆生、悉有仏性を「一切衆生はことごとく仏性がある」とは捉えず、涅槃経にありますように「一切は衆生なり、悉有は仏性なり」と読み、ことごとくあるその全存在が衆であり、その内も外も全て仏性であるというのであります。お釈迦さまの全存在、全行動が仏性であります。諸仏、諸祖の皮肉骨髄、頂寧眼晴全存在、全行動が仏性であるということになります。


正法眼蔵仏性の巻より
http://soto-tokai.net/cgi-bin/kotoba.cgi?page=48 …

~~~~~~~~~~~~~~~

正法眼蔵を買うお金がないので
道元を調べようがありませんが、


>そして道元さまは一切衆生、悉有仏性を「一切衆生はことごとく仏性がある」とは捉えず、涅槃経にありますように「一切は衆生なり、悉有は仏性なり」と読み、ことごとくあるその全存在が衆であり、その内も外も全て仏性であるというのであります。



それを読むと、同じということになるのだろうか。

というか結局、道元を調べることになっているのが

ぐちぐち。
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この回答へのお礼

△ 仏性とは「仏であることの本質」であります。

☆ 《本質》を持ち出されるときには 用心しないといけません。たいてい
は 文学的な表現のあやです。

△ ここでいう仏というのは「ものごと」が真理に従って、あるべきように
あることでありまして、執着を離れることであります。
☆ だとしたら 経験的な事象であり状態であり行為のことです。

△ 真理に従って
☆ という表現は さきの《本質》と同じように曲者。
そんなかんたんに《真理》とつながってもらっては困ります。

真理を想定し その想定にもとづき 人間たるわれとの へだたり あるい
は つながり についてやはり想定してからでなくては哲学にならない。ア
ニメにしかならない。

ブッダあるいはブラフマン(=アートマン)とは何ぞや? についての思い
が なおまだ煮詰まっていないように思われました。

だから 自己についての考察も あいまいなように感じます。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/02/22 14:56

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