このように問えば、おそらくですが NO、あるいは、どちらとも言えない、 という答えがほとんどだろうと思います。
ただ、実際には、明らかに、そのように扱っているはずです。
つまり、
・おかしいから良くない
・変わっているから良くない
という暗黙の了解の下、この社会は(基本的に)動いているでしょう。
思想(国家)対立
宗教対立
いじめ
パワハラ
家族・友人
ご近所づき合い
etc.
様々な局面が想定できると思います。
そして、「おかしい人 変わった人」という認識自体は、程度の大小を問わず、排斥の対象になりやすいはずです。
あるいは、排斥を目的として、そのような認識が為される。
これって、案外、諸悪の根源の重大な要素のひとつになっていないでしょうか。
煎じ詰めると、質問としては、次のようになります。

【質問】
異質と感じるものに対する自らの排斥感情と、我々はどのように付き合っていくべきか。
また、
他者から異質なものとして排斥感情を向けられた場合、我々はどのようにそれを受け止めるべきか。

こうした2方面からのアプローチをお願いしたいと思います。

質問者からの補足コメント

  • #6さんから「何かわかりやすい事例を」という要請がありましたので、少し補足させていただきます。

    散歩の途中でよく見かけるホームレスのおっちゃんがいるのですが、彼に対してあからさまな侮蔑の言動をとる人も、たまにいまして、これは、その人にとっても、おっちゃん自体にとっても不幸な事態ではないか、と思うわけです。
    しかし、そういう言動を取る人も、言ってみれば、思わず、そうしてしまうのでしょう。
    おそらく、そこには何らかの無知が存在している。
    それに起因するなんらかの誤謬が、そこに発生しているのだろう。なぜなら、ホームレスを侮蔑する(一見、優位に見える)側自体が幸せな気持ちになれるはずはないのだから。
    といったようなことを探ることで、「異質」に対する問題の解決が少しは見えてくるかもしれません。

      補足日時:2016/02/25 20:12
  • >怖いのは信念にもとづいて行動するひとです。社会に貢献しない者だとして攻撃します。信念とまでは言へなくても大なり小なりそんな気持ちがあるのではないでせうか。

    たしかにそうですね。
    ただ、悲しいかな、そういう方は、その信念がどこから出てくるのか、ということに関して無知なのだろうと思うわけです。
    人は、常に乗り越えられそうな壁を探し、それを乗り越えることによって成長しようとするものです。
    小学生などが(社会的に)弱い立場のホームレスを壁として乗り越えたがるのは、そのためです。
    言ってみれば優越感を覚えるわけですが、自我未発達の場合、大人でも同様のことをするのは、きわめて自然な理屈でしょうね。

    >献身的で周囲の人への愛情にあふれた生活をしてゐたのに、運悪く騙されて人生が転落したのかもしれません。

    どんな生活をしていたとしても、彼を貶めるのは真理に反する、というのが私のスタンスです。

    No.19の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/26 17:27
  • >「反省」というのは、他人から排斥的な行為を受けたとき、自分になにか非があるのかなと内省するということです。

    補足質問にお答えいただきありがとうございます。
    わかりましたが、しかし、順序が逆のようにも思いますねえ。
    たしかに、
    ◎怒るタイミングを逸してしまう◎
    可能性はありますが、
    ◎見極めは難しい◎
    でしょうし。

    「おかしい人 変わった人」という質問タイトルではありますが、誰しも、このような評価を受けてしまう局面はあると思います。
    その場合にどう対応するのか・・。
    難しい問題ではあります。

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/27 18:06
  • >職場ではなるべくさうなるやうに仕組んでゐます。人間の歴史を動かしてゐるのも、偉人以外では案外、馬鹿だと蔑まれてゐる者なのかもしれません。

    はっきり申し上げて、あなたは、自分ほど賢い人間はいないと思っておられますね。
    馬鹿だと必要以上に強調なさることから、それが良くわかります。
    つまり、「いいえ、あなたこそが本当の賢者です」と誰かに言ってほしいのだが、そう言われないことが怖いので、あらかじめ、自分自身で水準を下げているわけです。
    反動形成と呼ばれる、自我防衛機制のひとつです。
    他人であれ、自分であれ、偽りに対しては拒絶反応を示すように人間はできていると思います。
    素のままでいいんじゃないですかね・・。
    あれこれ小細工せずに。

    No.37の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/28 21:32
  • >実社会に出て現実の世界を知るようになると屁理屈に興味がなくなり、現実の世界で自分がどう対処すれば良いかを考えるようになる。

    それで良いのだ、とおっしゃるわけですが、ここは、完全に見解の相違のようです。
    こうした、
    ◎人類の種としての系統発生◎
    から脱しきれないからこそ、世界は混迷から抜け出せないのではないでしょうか。
    おそらく、
    ◎人類の進化◎
    についての考え方に食い違いがあるのでしょう。
    もうひとつ、cyototuさんが勘違いされていると思う点ですが、
    論理的整合性と「真理」とが必ずしも合致するわけではない、ということです。
    人間は理性的に論理を駆使する一方で、本能という制御が難しいものも同時に抱えています。
    これらを制御する役割が自我なわけですが、制御が万全というわけではありません。
    つまり、論理的不整合が人間にとっての「真理」となる場合も極めて多いということです。

    No.41の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/29 18:36
  • 少し補足しておきますと、
    >「人間はどうあるのか」の事実の分析が先、その結果、「どうあるべきなのか」の理念が後。

    に同意するのは、あくまで、
    ▼「人間はどうあるのか」の事実の分析が先行、その結果、「どうあるべきなのか」の理念が後。▼
    という順序の問題としてです。

    「人間はどうあるのか」の事実の分析が優先、その結果、「どうあるべきなのか」の理念が後。

    といった、重要性の違いを意味する内容であるなら不同意ですので念のため。

    No.62の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/07 20:06
  • いずれにせよ、ホームレスのおっちゃんが他者から侮蔑の目を向けられて不快に感じているとしたら、あるいは、ホームレスのおっちゃんに侮蔑の目を向けて満足しているような人々の卑小な精神に対して、哲学が、人間の可能性という観点から何らかの答えを出せないものか、というのが質問の趣旨です。
    散逸構造自体は、極めて興味深いもので教えていただいたことには感謝しておりますが、それはあくまで「どうあるべきか」を探るための、ひとつの手段にすぎないし、そうであるべきではないだろうか、という感想を持つ次第です。

    No.81の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/18 14:52
  • つまり、「どうあるべきか」を排除した「どうあるか」はあり得ない。
    とはいえ、
    >その判断を下すための情報が今までも今後も驚くほど少ない状況で判断しているんだということを認識しながら前に進んでいるんだということを顕在的に意識していくこと

    も、安易な「どうあるべきか」が氾濫している現状に着目すれば、極めて重要。
    どちらも重要でしょうが、どちらに力点を置くのか、あるいは折衷案は無いのか、といったことになっていきそうな気もしますね。

    No.95の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/21 20:05

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いろいろ意見、楽しみながら拝読しています。

hakobuluさんの始めの趣旨からズレていなくないわけではないと思わないわけではなくないと思っていますが、、、


一寸違った側面から、「どうあるか」と「どうあるべきか」の生物的起源を考えてみました。生物の至上命令は生き残りだということは、自然界の観察から経験的に解っています。まっ、生物の生きざまの根底は本質的に偶然が支配していますから、個体の生きざまは必ず平均値のところにピークがあるベル型分布(ガウス分布)をしている。すなわち、その分布を特徴付ける「揺らぎ」と呼ばれる幅があり、その揺らぎゆえ個々の生きざまは多様であるのは当たり前で、例外的にその至上命令に組しない個体がいるのも当たり前なんですが。

んで、その前提で各個体の振舞いを見ていると、身の危険を感知したり、生存に必要な物を手に入れたりするために、外界が「どうあるのか」を探る機能を備えている。例えば、雌雄以外ほとんど構造を持たない原始的な生物でも、たまたまの偶然で雌雄が打つかると合体をして種の再生産をし、その他の異物に衝突しても合体を試みないようにできている。だから、周りが「どうあるのか」を感知する機能がある。さらに、その機能で感知した情報を使って、合体するか無視するかの判断を下しているので、次の行動は「どうあるべきか」を判断していることも明らかです。

このことは、「どうあるのか」と「どうあるべきか」の観察と判断はあらゆる生物がやっていることであり、人間固有の特徴ではないということです。それどころか、人間がそのことに興味を持つのは、人間が最も原始的な生物と何ら変わらないことの証左です。要するに、「どうあるか」と「どうあるべきか」の生物的起源は生物発生の原初にある。

さて、そうなるとこの至上命令を満たすための行為の効率が問題になる。「どうあるのか」の感知なり認識を誤ると次の行動の判断が、その至上命令の達成のために障害となってしまう。んで、人間の歴史を振り返ってみると、その至上命令を達成するのに必要だと思われる情報をそれなりに手に入れる前に、「どうあるべきか」の判断を下して来てしまったことが、多大な不幸をもたらして来たことに気付き始めた。

そこで、ガリレオやマキュアベリが、もう一寸この世界を観察して、我々が判断するために必要な情報を探ってみようよと言い出した。そして驚いた。世界って、今まで我々か考えていたよりずっと広いんだ。それどころか、どうあるのかの一端が解れば解るほど、新たに解らないものが増えて来ている。そんなことも知らずに、こんなに情報不足で良くもまあ「どうあるべきか」なんて烏滸がましいことを言っていたもんだ。これじゃ問題が解決するどころか、新たな不幸だって作り出しかねない、ってな反省が生まれて来ている。これが人類の現在の立ち位置だと私は思っているんだが、どんなもんでしょうか。

そんなこと言ったって、今現在を何とかしなくてはならない。だから、今までに手に入れた情報で判断を下して、精一杯できることをしながら、後は成り行きに任せて収まる所に収まるようにしながら前に進む以外にない。その判断を下すための情報が今までも今後も驚くほど少ない状況で判断しているんだということを認識しながら前に進んでいるんだということを顕在的に意識していくことが、我々生物の至上命令の達成のために効率が良さそうだと科学の発達が教えているんだと私は思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>趣旨からズレていなくないわけではないと思わないわけではなくないと思っていますが、、、

六重否定解読による脳の攪拌終了済み。
▼どのように付き合っていくべきか▼
▼どのようにそれを受け止めるべきか▼
といった質問でしたが、そうした「べき論」以前に、「ある論」を忘れちゃいかん、というご見解だったはずですので、全くズレてはいません。

>要するに、「どうあるか」と「どうあるべきか」の生物的起源は生物発生の原初にある。

「べき」の意味するところが何か、という視点によっても分かれるところなんでしょうね。
◎生物発生の原初◎
に関わる「どうあるべきか」の場合は、「どうあるか」に含めてしまって良いような気はします。
善悪の判断や葛藤などが関与していない、という意味では。

>そんなことも知らずに、こんなに情報不足で良くもまあ「どうあるべきか」なんて烏滸がましいことを言っていたもんだ。これじゃ問題が解決するどころか、新たな不幸だって作り出しかねない、ってな反省が生まれて来ている。これが人類の現在の立ち位置だと私は思っているんだが、どんなもんでしょうか。

これは、おっしゃるとおりと私も思います。
ただ、人間は常時なんらかの選択を余儀なくされているわけですが、「どうあるべきか」を全く埒外において、その選択を行なうことは無理な存在ではないかとも思うわけです。
「暫定的などうあるか」に基づいて「どうあるべきか」を模索し続けざるを得ないのではないか、という意味ですが。
しかし、いくら「暫定的」と言っても、安易に「どうあるか」を認識してしまうことがないように十分留意する必要がある。
といったことをおっしゃっていただいているように受け止めている次第です。
たとえばトランプ氏にしても、移民・難民なんかどうでも良いと思っているわけでは、決してないはずでしょう。
「どうあるか」という現実を正確に認識するなら、「結果的に排斥すべきだ」という見解なのだと思います。
以下補足欄に記します。

お礼日時:2016/03/21 20:04

お久しぶりです。



以前話した割り出し方ですが、ここに書ける長さにするのに
削って行ったら薄っぺらいものになり、これでは伝わらないと思えたので
上げることをしませんでした。

しかし、同じような考えで割り出している方が居られたので
書いておきます。

この方は、経済に焦点を当てられているようです。
やり方としては、経済に限らずいかようにも使えると思います。
私は日本を中心にアジア領域を観ています。

フェルナン・ブローデル著「地中海」と言う本です。
この方は、題名どおり地中海領域を分析されてあります。

私は読んではいませんが、発想は同じだと思いましたので
参考になるかと思います。

そういう事を、思考するための材料として割り出して行くことで
様々なとことが理解できるようになると考えています。

最近は、この範囲を世界として広げる必要性を感じていますので
今までよりさらに多くのデータが必要になりそうです。


>異質と感じるものに対する自らの排斥感情と、我々はどのように付き合っていくべきか。
>他者から異質なものとして排斥感情を向けられた場合、我々はどのようにそれを受け止めるべきか。

このような質問は、個々がそれぞれに自助努力によって
出していく物であり、それを単一に決めるものでも無く
人の出した答えを良さげに思って背景無しに飲み込む行為が
一番危ういと考えています。

それが諸悪の根源になりがちな、思想や宗教であったり
結果排斥に向かう個人の思考であったりする訳ですよね。

ですから、個々の違いを認めるという視点で
最初にあげた「みんな違ってみんないい」から始めることが
個々の答えを支えて行く軸になり、最終結果で排斥を覆す元に
なり得るでしょう。

そう言うやり方が、多様性を育めると私は思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>人の出した答えを良さげに思って背景無しに飲み込む

わけではなく、あくまで自らの思考の参考にさせていただきたいと思い質問するのですがねえ・・。

>最初にあげた「みんな違ってみんないい」から始めることが
個々の答えを支えて行く軸になり、最終結果で排斥を覆す元に
なり得るでしょう。

なぜ
>「みんな違ってみんないい」

と言えるのか?という根拠が必要だと私は思っています。

お礼日時:2016/06/09 14:09

こんにちは、はこぶるくん。


続き書いてるんだけど一応。
とりあえず間奏とか観想とか。












世界じゅうの敵に降参さ
戦う意思はない
世界じゅうの人の幸せを
祈ります

世界の誰の邪魔もしません
静かにしてます

世界の中の小さな場所だけ
あればいい


おかしいですか?
人はそれぞれ違うでしょ?
でしょでしょ?

だからお願いかかわらないで
そっとしといてくださいな

だからお願いかかわらないで
私のことはほっといて(*^▽^*)



↑↑こっちは流しちゃっていいけど、


_______



↓↓こっちは最低3回ずつ聴いてほしい。

https://www.youtube.com/watch?v=_hVaRiOPZLE&noht …
https://www.youtube.com/watch?v=WwFEAkbpO7I&noht …

これおまけ。どぶねずみみたいにlinda.
https://ja.glosbe.com/es/ja/linda




ぢゃあまたね(*^_^*)/
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いじめの目的には2つあるような気がする。


「排斥するためのいじめ」と「支配するためのいじめ」だ。

「排斥するためのいじめ」は、「異質と感じるもの」の排除欲だろう。
なぜ異質と感じるものを排除しようとするかといえば、それは異質と感じるものによる自らへの影響を怖れるからだろう。
私たちには多かれ少なかれ、他者を相対的存在として認識することによって自己の存立基盤を築こうとする無意識が働いているはずだ。
多少なりとも、他者の存在に照らし合わせて自分というものを確認しようとする部分がある。
だからもっと正確に言えば、異質と感じるものに照らし合わせた場合、それまでの自分というものが覆ってしまう恐怖を覚えるのではないか。
異質な事柄自体もそうだが、それ以上にその異質な事柄を身に纏って平然としている相手の存在を脅威に感じてしまうのだろう。
それゆえ排除しようとする。
一種の防衛機制と言ってもよい。
誰かを攻撃するように見えて、実は自らの身を守るための行為だというところがいじめ問題の根深さだろう。

ところで恐怖というものは、喜怒哀楽や悲しみなどに比べてもっとも古くから人間に存在する感情らしい。
非常に古典的というか原始的な感情で、言われてみれば感情に乏しい、または殆どないと思われるような魚類・爬虫類・鳥類やねずみ、うさぎなどの哺乳類においても恐怖だけは必須の感情として生来的に獲得されているもののようだ。
生きるためには、まず敵から身を守ることが最重要課題であることは否めない。
恐怖は脳の扁桃体という箇所で生み出されるらしいが、ここに損傷を受けると例えば猿の場合、普段は決して近づかない犬や蛇に平気で近づくようになる。
恐怖は身を守るための必須アイテムとして備わっているものらしい。
人類の最初の祖先が地球上に現れた時も、恐怖という感情が備わっていただろうことは想像するに難くない。
地球ができたのは約46億年前とされる。
人類の誕生はネアンデルタール人などに代表される旧人で4~50万年前、クロマニョン人などの現世人類と呼ばれるもので約20万年ほど前ということになっている。
自分たちとは異質の動物の影に脅えながら生活していたであろうこの頃の人類の脳と同様の恐怖を、いじめる者は無意識的に感じているはずだ。
「いじめられる者」とは「いじめる者にとっての」脅威なのではないだろうか。
つまり、他者の異質さに脅威を覚えるものがいじめをするということかもしれない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

しかし、異質と感じたとしても脅威を覚える人とそうでない人がいる。
そもそも異質という感覚さえ持たない人もいるはずだ。
この違いはどこからくるだろう。
思えば、「異質」という感覚は「理解できない」「理解しづらい」という認識に基づいていないだろうか。
つまり「何か理解できないから怖いので排斥しようとする」といういじめの形態があるのだと思う。
他者を理解できないのは主に想像力の欠如によるものだろう。
人は、幼い頃にどのような刺激を受けたかにより世界の捉え方が全く違ってくることもある。
想像力に関しても、幼児からの教育環境が重要な鍵を秘めているのではないかという気がしてならない。

ところで、排斥不可能と感じさせる相手に対しては排斥しようという気力は起こらない。
『ある相手に対して何か理解できないという怖れを抱くものが、排斥しようと思えばできそうだという見当をつけた時にいじめという形が出現することがある。』ということになりそうだ。
排斥不可能と思わせるのは、『毅然とした姿勢』を以ってその最大のものとするのが妥当ではないかと私は思う。
無論、理解できないという認識を抱かせないようにすることも効果があることになるだろう。
媚びる必要は全く無いし逆効果になるが、いじめられる側としては相手に安心感を与えておくことも有効だということになると思われる。


◇◇◇2≪ 支配としてのいじめ ≫◇◇◇

排斥ではなく、支配し従わせるためのいじめというものもあるだろう。
支配し従わせたくなる対象とは、すなわち自分自身との共通点を抱えている人ではないかと思う。
どのような共通点か。
それは自分と同様の弱さだろう。
何らかの理不尽な力に対抗しきれずに不当な抑圧を甘受してしまっている者。
その色を無言の内に表現してしまっている者。
そういった者を、容易に支配できる弱者として、いじめる者は敏感に察知するのだろう。
では、支配しようとする目的は何か。
それは自分が過去に受けたいじめ、あるいは抑圧の清算だろう。
自分が受けた理不尽な力は貯めておくだけでは苦しくなってくる。
吐き出す必要が生じるわけだが、いじめる者にとっては自分が被害者だった時と同様の状況設定の下で吐き出されることが望ましい。
「同様の状況」とは、抵抗不可能な情けない弱者に対して一方的で圧倒的な力が行使される、ということ。
かくして、弱者と認定されたものが執拗に狙われ続ける。
いじめるほうにしても、自らの惨めな過去を清算し、一旦は受け入れてしまった負の記憶を帳消しにするための絶好の獲物といった認識を持つはずだ。
過去の自分を癒す手段としてのいじめ。
誰しも、ふと誰かをいじめたくなった経験はあるはずだ。
その時、相手の中に過去の惨めな自分を見出すことは、そう難しいことではないだろう。
いじめる者は、過去のふがいない自分に復讐しているという見方も可能かもしれない。
つまり、ここにも『イラショナルビリーフ(不合理な思い込み)』が存在している。
いじめる者の立場に立ってみよう。
今いじめる私はかつていじめられた者である。
しかし、今いじめている相手はかつて自分がいじめられた相手ではない。
いじめられ、抑圧された記憶を自らのものとして処理できない者が、目の前にいる弱者を過去の自分に見立て、いじめる自分を過去に自分をいじめた相手と重ね合わせる。
そして、自分がされたこと(理不尽な抑圧の行使)を自分が相手にする。
このようにして清算を済ませた気になる。
抑圧された記憶を自らのものとして処理する、とはどういうことだろうか。
それは、過去の事実を事実として認め、自分が対峙すべき相手を見極めること、だろうと思う。
不合理な思い込みから合理的な事実の認識へ、という転換が必要になる。
不合理な思い込みをしてしまいがちなのは、そのほうが楽だからで、つまり自己変革を必要としないからではないかという気がする。






by hakobulu

_____________________





とりあへずここから始めるための覚書です。1ヶ月前から何度か読み返し、ここに何か反応しようと思っていたのですが、反応が起きないまま長い時間が経ってしまひ、わたしはわたしを残念に思つてをります。もしわたしが次の回答をするとしたらここから始めさせていただきますのでよろしくどうぞ。
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№101のご議論 分かりました。


それぞれがその目指すところを得ているのだと。

ただ どうでしょう。もう議論には入りませんで ずるく結論だけを
述べますが 次のようではありますまいか。

ラ・ボルド方式は 特殊類型である。あるいは 総論ではなく 各論
であると。自己中心型をセーヴしている。禁欲していると。

自己中心式かつ主観表現型が 総論・一般論であり 行動の中核を成
す。のではないかと。
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No.99は、入れ子的にパラメータのさまざまな社会となるようなラ・ボルドのありかたが、現在の日本の社会のわたしたちにおいては、無理なのではないかというhakobuluさんのお気持ちに返信したものです。

hakobuluさんの質問ではホームレスが対象に取り上げられていますが、多種多様に社会から弾き出される人々と考えての回答です。
無理と仰るわけだけれども、どうあるべきか、とか、どうあるのか、という切り口から、ラ・ボルドが何を可能にしているのかを見ると、主体としての私が対象とどうあるのか、という模索続きの状態を可能にしているわけです。患者やスタッフは院内の仕事をすることによって、なにがしかの有用な存在であり、主体的な存在であり、その存在意義や主体性を奪ったら、1人1人もスタッフも、どうありえるのかを模索できなくなってしまいます。
発明されたレンズでもランプでも、私はそれらとどうあるのか、が動き続けて、さまざまな用をくぐって現代に至るでしょう。私において、対象とどうあるのかは、活かす要素を見出し、意味の構造をかたちづくり、次の意志や願いへ繋がれるのではないでしょうか。

わたしが古今東西の卜占にそれなりに関心があることは、つきあいの長いbragellonneさんはご存じだと思います。この問題は占いとよく似ています。意味とか意義は構造的なものであるために、主体の動態につれて関係性が変わり、あるべき姿はなく、ありうる姿が考えられるのです。だからこそ、ラ・ボルドはヒントになるでしょうし、日本社会には日本社会に合った形で、模索の渦中に身を置くようなシステムを駆動させることができるかもしれません。
hakobuluさんのご質問の直接の解決ではないかもしれないけれども、こういう話であるわけで、自己中心的であることと直接結び付くようには思いません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

どうも、自分の質問だと勘違いなさっているかたがおられるようで困ったものです。
節操の無いストーカーといった趣ですかね。

お礼日時:2016/03/29 16:58

あまがっぱさん。


○ われ。主観。その心・その意志
☆ は どうなりますか? その中身は?

◆(回答№99) 「私は対象とどうあるのか」・・・また、・・・
「私は対象とどうあるべきか」
☆ このとき わたしたちは 傍観者ではなくただの通りすがりの者
でもなく 確かに紛れもない現実としてその相手と向かい合っていま
す。

相手も 向かい合っています。
しかも互いにそれぞれ おのれの――恣意的な欲求や願いをもふくめ
て――のぞみを持ち合わせています。

人間の主観における志向性の中核は:
○ われはわれなり。/ わたしがわたしする。
☆ に行き着くでしょう。《互いに自分が自分であるように振る舞い
共生している》なら 言うこと無しです。

なぜ この《自己中心的な》のぞみを 言わないのでしょう?

◆ 関係の創出と理解の創出と、意志や願いの創出を、自分のお腹か
ら動かしていくのでなければ
☆ 《自分のお腹から動かして行く意志や願い》は 自己到来です。
互いにそれぞれの自己還帰です。

自己中心的であることによって その他者との関係と相互理解とを互
いの自己到来の実現の中につくり得て行く。のでは?

ご所論は まだなお学術的であり過ぎるという雰囲気がありますまい
か。

◆ 対象において、用を探り、利益を探ること
☆ がです。現実としての ≫我が≪ のぞみという《用および利益》
を推し出すのが 生きた学問であると信じます。

このスレッドもほかのにおいても みなさんともに お行儀がよすぎ
ます。

だから
★★ おかしい人 変わった人 は悪人ですか?
☆ といった・おとなしい疑問になります。

みなそれぞれ《わたし》に集中していれば すでに初めに世の中自分
の隣りは 《おかしい人 変わった人》ばかりだと分かります。

互いにそれぞれが《自分は おかしい人 変わった人である》として
その《わたし》を どこまでもつらぬいて しかも互いに互いが自由
であるという境地(あるいは 縁起共生の関係)を打ち建てる。

なんで このような初めの姿勢について すでに共有しているという
ふうにならないのでしょう?
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ご無沙汰しました。


このあいだは、保護下で1つの社会が存続できる ような状態はまだまだ無理か、、、(...先の例ではやや特殊な精神病院でしたが...) という感じでお返事いただいていたように記憶しています。

精神病の症候群というのは、「どうあるのか」がよくわからない分野ですね。どちらかというと、ご承知のように、「どうあるべきか」に指針をあわせた治療が一般的です。
しかし、ラ・ボルドは、「患者がどうあるべきか」の治療を覆したといえます。 「患者とどうあるべきか」を重んじているわけです。

それは、ある対象について、「対象はどうあるのか」ではなく、「私は対象とどうあるのか」が問いであり、また、「対象はどうあるべきか」ではなく、「私は対象とどうあるべきか」が問いなのではないか、という現代思想の到達点だろうと思います。完全に他なるもの、外なるもの、というナイーブな分別によってではなく、対象はつねに私の一部であるし、私はつねに対象にとって一部であるということによって、「それ」は対象化の親密な(intimate)構造を潜ってから現れてくるものでしょう。

前回、価値判断の前に、足元を力の場の構造から理解しつくす方法は無い、と書きました。「私は対象とどうあるのか」とは、構造的な把握であり、また構造的であるがために全的には追求できないのです。多くの場合、用が分かり、利益が分かることが、私と対象の関係を分かることと結びついています。それゆえ、対象において、用を探り、利益を探ることが、「私は対象とどうあるのか」を形作っていくものでもあります。

技術の産物もそうですが、社会の人間同士もこの点で変わりがなく、関係の創出と理解の創出と、意志や願いの創出を、自分のお腹から動かしていくのでなければ、構造に成らない。存続つまり狂いと介入の中で焦点を持つような状態にならないと思うんですね。俯瞰の風呂敷を拡げるようなことで始めるのはあまりにも不足すると言ったらいいのでしょうか、構造なきところを照らすのが限られた構造であって、意志の動きでもあって、しかし描いた構造ではどんなに緻密でも単純すぎ、意志を固着させると言ったらいいのでしょうか。うまく伝えられていないかもしれませんが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「対象はどうあるべきか」ではなく、「私は対象とどうあるべきか」が問いなのではないか、という現代思想の到達点

なるほど。
おそらくですが、前者を全否定する必要もないし、後者の視点のみでも解決は難しいのでしょう。
しかし、前者だけでは、いかにも前近代的ですね。後者は自己変革が求められる分、高度な手法と言うことができるのかもしれません。

>多くの場合、用が分かり、利益が分かることが、私と対象の関係を分かることと結びついています。それゆえ、対象において、用を探り、利益を探ることが、「私は対象とどうあるのか」を形作っていくものでもあります。

そういう捉え方があるわけですか。
相手に対する想像力が不可欠ですね。
一般社会にも通底して必要とされる視点でもありそう。

>関係の創出と理解の創出と、意志や願いの創出を、自分のお腹から動かしていくのでなければ、構造に成らない。

そうした認識はあるつもりです。
ただ、ガチガチの方法論を探ろうとしているわけではありません。
◎焦点◎
は、ひょっとすると多様であって良いのかもしれない、とも思い始めているところ。

お礼日時:2016/03/29 16:54

hakobuleさんはあたし並みに負けん気が強い人だちゅうことが、文章の端々に出ている。

そう、負けん気が強くなきゃ、面白いことも発見できないよね。昔、日本で二人目のノーベル賞受賞者だった朝永振一郎は、研究の動機を聞かれて、「なに糞」だと言ったそうだ。

もう一つ。あたしのいる物理学の研究所の所長はやり手のアメリカ人の女科学者だ。その女史が昔ベルギーのプリゴジン教授の所に2年ほどいた当時、日本から来た科学者といつも一緒に晩飯喰ったり、呑んだりしていたそうだ。その日本の先生に聞いたんだが、彼女とその日本の先生とが、例の如くプリゴジン教授を含めて研究所の連中の雨の世の品定め。あいつはここが悪い、こいつにはこんなスキャンダルがある、、、ってなことで、みんなを貶し合っていた。んで、その女史が話の締めくくりに曰く、

「結局この世で完全なのは私たちだけね」

ってなことだった。毛唐どもの冗句って、洗練されているんだよね。

んで、あたしの我田引水のドヤ顔話を紹介しよう。もう何年も前になる。日本の某大学の物理学科でいつも陰気くさそうにしている大学4年生がいた。襟首を立て、猫背で、いつもイヤホーンを付けて廊下を歩いておった。先生とすれ違っても挨拶などせず。気になっていたんで、そいつと廊下をすれ違い様、

「おいお前、何でいつもそんな陰気くさい顔してるんだ」

と声を掛けた。彼は立ち止まって、あたしの話を聞き出したんだが、イヤホーンは外さない。そこで、

「おいこの野郎、人が話しているのに音楽を聴きながらたぁ何事だ」

といたら、

「いや、スイッチは切りました」

なんて抜かすから、

「失礼な奴だ。イヤホーンをはずせ」

って言ったんだ。そして、

「お前の陰気くさい顔見ていると、こちらまで気が滅入って来てくる。笑って、お早うございますぐらい大声で言え」

と言ってやったんだね。ここで、彼の可愛いとこが出た。

「でも先生、自分の気持ちに正直じゃなくて良いんですか」

だと。であたしだ。

「嘘でも良い、笑って挨拶すれば、皆も楽しくなる。お前だって、皆の楽しい顔見れば楽しくなる。理屈から入るんじゃない。先ずは、形から入るんだ。そうすりゃ、お前もそのうち、正直に楽しい顔で挨拶できるようになるだ」

それから、数日後、大学の他の先生から、あいつに何が起こってしまったんだ、あいつが、俺たちに突然、大声で笑顔で

「お早うございます」

って言うようになった、と評判になったそうだ。

ところが、あたしとすれ違う時だけは、午前中は良いんだが、午後でも夜でも大声で

「お早うございます」

だ。あたしゃ、そいつに、夜でもお早うございますっちゅうのは水商売だけだって言ってやったんだが、彼は、卒業するまで、あたしにゃ夜でも昼でもお早うございますって言って通した。こいつは大丈夫だ。運が良かろうが悪かろうが、大物に成れるぞって思ったね。

そうだ。笑顔はみんなお楽しくしてくれるんだ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「おいお前、何でいつもそんな陰気くさい顔してるんだ」
と声を掛けた。

こうした物言いで気持ちが通じたのは、その一言によって、相互の信頼関係が構築されたからなのでしょうね。
「言えば通じる」という信頼に基づいて掛けた声を、「自分を理解しようとして声を掛けてくれたに違いない」という信頼に立って受け止めた。
普段の関係性や語調、あるいはひょっとすると人格なども大いに関係していたのでしょう。

>笑顔はみんなを楽しくしてくれるんだ。

シンプルな真理です。
以前から思っていることなのですが、本当に他人を幸せに出来るのは、自らが幸せであることではないですかね。
幸せな人を見ているとこちらも幸せな気持ちになります。
ただ、「幸せもどき」を幸せと勘違いしてしまうパターン、また、幸せであること自体が難しいパターンも多くて、一筋縄ではいかないようですが。

お礼日時:2016/03/23 15:26

人は如何様にあるべきか、と言うのは簡単な問いではないと私も思います。


「人」と一括りにしても、人々には各々違った状況と個性があるわけですから、一概には言えない。しかし、一概には言えないが、素朴な問題として、如何様にあるのが望ましいかと言う問いは、都度に唱えられても良いと思います。自由であって、しかも道を誤らない、べき論に縛られずに居て、しかも根本のところではそのべき論の言わんとする元のところを了知している、そんなのが望ましいと、私は思います。

どうあるかと、どうあるべき、は、対立項ではないと言うご意見ですが、それはその通りだと思います。どうあるかと言う事実を識知した上で、どうありたいのかと自問自答し、どうあるべきかと言うその意味するところを汲みつつ、具体的な生きる道を形成するのではないかと。

人間の習性を知ること、その上でさらに人としてどうありたいかによって事実を克服し、人間はかくあるべしの答えを得る、この様な流れがあるのではないかと思いました。
これをそのまま自分に援用すると、自分の習性を知り、その上で自分はどうしたいかを自身に問い、自分を克服して、かくあるべしの答えに到達する、こんなところでしょうか。

事実を変えて行けると言う視点も大切な気がしました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>事実を変えて行けると言う視点

に、それぞれの個性が活かされるのかもしれませんね。
あとは普遍性(または、その確率)の問題になるのでしょう。

お礼日時:2016/03/23 14:54

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Q生理が遅れた時は、排卵も遅れているの?

生理が遅れた場合の排卵時期について質問です。

「排卵は基本的に生理の2週間前に起きる」と
いろいろな本やサイトに書いてありますが
生理が遅れた時は排卵も遅れているのでしょうか?
それとも、排卵は規則正しくされていたけれど
生理のみが遅れた…という事になるのでしょうか?

私自身の例をあげると、生理周期は31日で
4月の生理予定日が14日だったのですが
5日遅れて19日に来ました。

でも、毎朝はかっている基礎体温をみる限り
排卵日だったと思われる日は生理予定日の
ちょうど2週間前の3月31日なのです。

この場合、3月31日に排卵があったけど
生理のみが遅れて4月19日にきた事になるのか
実は排卵も遅れていて実際は4月5日あたりに
排卵が起きていた、と考えるべきなのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。
必ずしもきっちりと「14日」というわけではないようで、ある程度の誤差はあると思います。
高温期に入ってから20日近くかかったときもありました。
ただ、高温期になったからといって、すでに排卵が起きているとは限らないそうです。
基礎体温をつけ始めて3ヶ月ほどということですので、これからの流れを見ていくうちに、ご自分のだいたいの範囲がわかってくると思いますよ。
毎日測るのは面倒な時もあったり、口を開けて寝ちゃったときなんかは「今日は測れね~┐(´ー`)┌」と思ったりもしますが、わたしもなんとか頑張っています。
一緒に続けましょうね♪

Q悪人、罪人を裁く筈の、その地獄が、また、「邪悪」なんてのは、やはりおかしいですよね?

悪人、罪人を裁く筈の、その地獄が、また、「邪悪」なんてのは、やはりおかしいですよね?

Aベストアンサー

おかしくないです。

裁判官が裁いて、刑務所に収監します。

その刑務所が一般的な生活よりも恵まれている
なんて方がおかしいわけです。

一般的な生活よりも劣っていなければ、刑務所の
意味がありません。

そんな邪悪な処へは、二度といきたくない、として
始めて刑務所の意義があります。

生まれ変わったら真人間になろう、こんな地獄は
二度とゴメンだ、ということになって
始めて地獄の意義があるわけです。

Q排卵症状があった後の生理の遅れ・・・?

いつもお世話になっています。

私は元々生理不順で、ストレスなどですぐに遅れてしまいます。1ヶ月飛ぶということもしばしばです。
でも排卵痛(下腹部のグジグジ感が2~3日続く)のようなものはあり、その症状があった月は必ず生理になります。
でも排卵痛があった後でも生理が遅れることがよくあります。

排卵した場合10日~14日で生理が来るとネットなどでは書いてありますが、私の場合排卵痛があったあとでもストレスで遅れた場合20日~30日で生理が来る時があります。
またその間生理前症状はずっと続いたままです。

普通ストレス等で生理が遅れるというのは、排卵自体が遅れると思っていたのですが違うのでしょうか?排卵後でも生理が遅れることはあるのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。

>普通ストレス等で生理が遅れるというのは、排卵自体が遅れると思っていたのですが違うのでしょうか?

いえ、仰る通りですよ。間違いありません。

>排卵後でも生理が遅れることはあるのでしょうか?

例外的に黄体期が延長することはありますが、とても稀なことで、婦人科治療等で薬を使っているような場合を除いてはそう始終あることではありません。
なので、症状はあっても実際には排卵していなかったというのが真相です。基礎体温をお付けになればはっきりしますよ。

Q時と時間の違いあるいは定義、空と空間との違いあるいは定義を教えて下さい

時と時間の違いあるいは定義、空と空間との違いあるいは定義を教えて下さい。引用ではなく、独自の見解でお願いできれば本望です。

Aベストアンサー

追伸
時空を考えると慢性的難病になりますね。慢性的難病を直す薬が「亀と漁師の無限と有限の話」なんですね。
以下の提案は「亀と漁師の無限と有限の話」に似て慢性的難病を直す薬になりますね。
「無双原理・・哲学的には、空からっぽのことである。無いものをないとは、非論理的でいえません!つまり、無限とは、限りというものが、本来あるのだけれど、たまたま見えない、触れないなどの事情があって、無のように観察される状態。つまり無限とは、循環の繰り返しのような現象の回数に限りのないこと」
特に、無と空がいいですね。自然現象として無も空も存在しないのだけれど人間の単純な観察では表現の言葉として便利に使える言葉ということですね。言葉が独り歩きしてあたかもそのようなことが実際にあるかのごとく考えて慢性的難病になってしまうところが怖いとこなんですね。「無とは単純にないことの、たわいないことば。哲学的には、空からっぽのことである。無いものをないとは、非論理的でいえません!」そういうことですね。
(仏教)哲学的では無も空も変転の一つの姿を現している状態でしかないですからね。水は熱で水蒸気になり冷やされて又水になる、更に冷やされると氷になる。こんなことはみな知っているのに水蒸気になると見えないので「無し」というのですね。それを空とよんでも同じですね。なくなっているわけではなく変転の姿ですよね。でも見えないから「無や空」ですね。観察眼的表現で論理を立てても意味がないことですね。
その変転をアインシュタインはE=mC^2と表現し、釈尊は「色即是空・空即是色」といってますね。これは存在の永遠性の表現ですね。無限も「無や空」と非常に似てますね。あまりに多い・大きい・小さいと観察不可能ですから無限・無限大・無限小と言っているだけなのですね。単なる言葉遊びなのですが遊びが学問になると慢性的難病になりますね。
まあ私も重い慢性的難病ですから、更に付け加えると、三次元宇宙・時空というのはたくさんあるのですね。朝。木々の葉についている水滴ですね。いくつもの水滴が木の葉についてますね。あの水滴の一つが三次元宇宙・時空なんですね。次の朝になると水滴の数が違っている。そんなようなものなんですね。
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追伸
時空を考えると慢性的難病になりますね。慢性的難病を直す薬が「亀と漁師の無限と有限の話」なんですね。
以下の提案は「亀と漁師の無限と有限の話」に似て慢性的難病を直す薬になりますね。
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Q生理が遅れています

生理が遅れています。
周期は30~32日で前回の生理は7月17日でした。心当たりのある最後のセックス8月11日です。膣外射精でした。
これが正しい避妊方法でないことは十分承知しています。

社会人1年目で最近仕事も大変でストレスのせいで遅れているのかもしれません。
しかしここ4年くらいで生理が遅れたのは最高で40日です。これ以上遅れたことがないため妊娠かと心配しております。8月21日に妊娠検査薬(生理予定日から検査できるもの)で検査をしたところ陰性でした。
もう少しまって生理が来なければ性交渉からちょうど3週間になる土曜日頃に再検査をしてみようと思います。

生理が来る予定日頃には胸の張りがあったり生理になる予兆があったのに生理がきませんでした。今は胸の張りも全くなく生理がくる気配がありません。またさらさらのおりものが出ます。まるで排卵日付近のようです。

そこでご質問なのですが、生理が大幅に遅れているのは今ごろになって排卵日がきたからという可能性はあるのでしょうか?
ストレスによる生理の遅れは排卵の遅れなのでしょうか?
もしこのまま生理が来なければいつごろ産婦人科に行ったほうがよいでしょうか?

教えてください!!

生理が遅れています。
周期は30~32日で前回の生理は7月17日でした。心当たりのある最後のセックス8月11日です。膣外射精でした。
これが正しい避妊方法でないことは十分承知しています。

社会人1年目で最近仕事も大変でストレスのせいで遅れているのかもしれません。
しかしここ4年くらいで生理が遅れたのは最高で40日です。これ以上遅れたことがないため妊娠かと心配しております。8月21日に妊娠検査薬(生理予定日から検査できるもの)で検査をしたところ陰性でした。
もう少しまって生理が来なければ性交...続きを読む

Aベストアンサー

>生理が大幅に遅れているのは今ごろになって排卵日がきたからという可能性はあるのでしょうか?

十分にあり得ます。
排卵の無いまま生理が起きる場合もありますが、排卵が無ければ生理が起きない事もありますので、今現在生理が無いと言うことは排卵していないか排卵が遅れたか妊娠しているか、いずれかになると思います。

>ストレスによる生理の遅れは排卵の遅れなのでしょうか?
そう考えて間違いないと思います。
上でも少し書きましたが、排卵があって妊娠していなければ生理になります。

>もしこのまま生理が来なければいつごろ産婦人科に行ったほうがよいでしょうか?
性交から3週間後の検査で陰性であれば(陽性であっても)速やかに受診してください。

Qルサンチマンと悪人正機

気になっていることがあります。
 ニーチェのルサンチマンは、キリスト教が弱者・被支配者が強者・支配者・権力者を「悪い」ものとし、自分たちをそれに対して「善い」ものという価値の転倒をした、というものですよね。
 他方、親鸞の悪人正機も、悪人こそが救われる、といわばニーチェのいうキリスト教同様価値を転倒した、と解釈できるような気がしています。
 この二つ、大変よく似ていると思うのですが、実際に意味しているところは同じなのでしょうか。また、どうズレているのでしょうか。私は哲学・宗教とも門外漢ですので、お詳しい方の見解が聞けたらと思います。

Aベストアンサー

かなり哲学や宗教に造詣が深いとお見受けする質問者様に、「お詳しい方の見解」とのご注文があるにもかかわらず、私のような素人が口出しするのは失礼かと思いますが、私はルサンチマンと悪人正機について、質問者様や#2様と、正反対の見解をもっていたので、参考までにお聞きください。

仏教には(というか多くの宗教には)自力本願と、他力本願の考えがあります。
「救いを得る」という、大きな目標にむけて、修行などで努力し、精進すべきというのが前者で、絶対存在である神(この場合は阿弥陀仏)の力にすがるべし。むしろ努力や修行・つまり人間の力で救いを得ることができるというのは絶対者たる神に対する冒涜だと考えるのが後者。

そして、親鸞の浄土真宗は「他力本願」です。

「悪人正機」は、自力で功徳をつむことのできる善人より、「自己の罪業と無力さに深い自覚を持つ」悪人の方が、阿弥陀仏の救いに近い位置にいる。ということで「他力本願」のひとつの発展形だと思います。

これはむしろ、ルターの言うところの「人は信仰によってのみ義とされる」と同じで、個人的には「キリスト教と仏教の類似点(というか、ルターと親鸞の類似点)」として興味をもっていました。

だから、私の理解では「悪人正機」はニーチェに言わせればキリスト教同様「弱者道徳」として一蹴されると思います。そもそもニーチェの哲学では、人間が救いを求めて絶対者に縋ろうとするのは、人間の弱さであり悪だとされているので「絶対他力」の浄土真宗とは相容れないと思います。

更に「原始仏教」と「日本仏教」はかなり異なっていると私は考えています。そして「日本仏教」はかなりキリスト教的である(これは私個人の勝手な分析ですのでご注意を)そして、ニーチェが影響を受けたとされる「東洋思想」は原始仏教や、道教のような考えではなかったのでしょうか。

あくまで「こういった考えもあるよ」ということです。質問者様や#2様に、不愉快な思いをさせたようでしたら、申し訳ありません。

かなり哲学や宗教に造詣が深いとお見受けする質問者様に、「お詳しい方の見解」とのご注文があるにもかかわらず、私のような素人が口出しするのは失礼かと思いますが、私はルサンチマンと悪人正機について、質問者様や#2様と、正反対の見解をもっていたので、参考までにお聞きください。

仏教には(というか多くの宗教には)自力本願と、他力本願の考えがあります。
「救いを得る」という、大きな目標にむけて、修行などで努力し、精進すべきというのが前者で、絶対存在である神(この場合は阿弥陀仏)の力に...続きを読む

Q生理の遅れとホルモンバランスの関係とは?

生理が遅れた理由にホルモンバランスの乱れというのを良くみますが
バランスが乱れた結果どうなって生理が遅れるのですか?

排卵が遅れるのですか?
排卵はいつもどおりされたけど他の理由で生理が始まるまでが長くなるのですか?

Aベストアンサー

こんにちは。

>生理が遅れた理由にホルモンバランスの乱れというのを良くみますが
バランスが乱れた結果どうなって生理が遅れるのですか?

あまりにもベースの知識がなさそうなので、ごく簡単に説明しますね。
生理とは、排卵が起こり妊娠しなかった結果として「排卵から2週間後に必ず」来るものです。
排卵とは、何の因果関係もなく起こるものではなく、卵巣と脳の視床下部や下垂体とのホルモンによる連携(やりとり)がスムーズに行われた時にはじめて正常に起こるものです。
卵巣と脳の間にやりとりされているホルモンは沢山あって、その沢山のホルモンのバランスが乱れていると排卵が遅れたり起こらなかったり(無排卵)するのです。
そうすると、妊娠していなければ排卵から2週間後に必ず生理が起こりますから、排卵が遅れれば遅れたぶんだけ生理も遅れますし、排卵が起こらなければ待っても待っても生理は来ません。代わりに不正出血したりします。
ご興味があれば↓の図を参考に詳しく調べてみてください。
http://www.natural-life.jp/k_kiso/is_04.html

>排卵はいつもどおりされたけど他の理由で生理が始まるまでが長くなるのですか?

かなり稀なケースにおいてそういう現象がないとは言いませんが、基本的には排卵から次の生理が始まるまでの期間は約2週間と決まっていますので、この期間が延長されることはありません。

こんにちは。

>生理が遅れた理由にホルモンバランスの乱れというのを良くみますが
バランスが乱れた結果どうなって生理が遅れるのですか?

あまりにもベースの知識がなさそうなので、ごく簡単に説明しますね。
生理とは、排卵が起こり妊娠しなかった結果として「排卵から2週間後に必ず」来るものです。
排卵とは、何の因果関係もなく起こるものではなく、卵巣と脳の視床下部や下垂体とのホルモンによる連携(やりとり)がスムーズに行われた時にはじめて正常に起こるものです。
卵巣と脳の間にやりとりされている...続きを読む

Q悪人正機

悪人正気説というのは簡単に表すなら
「悪人こそが救われるべきだ」という考え方のことです。
ではこの思想についての「現代的意義」とは
どういうことをいうのでしょうか?
わたしには全く検討もつきません。

お願いします教えてください。

Aベストアンサー

>>悪人正気説というのは簡単に表すなら
>>「悪人こそが救われるべきだ」という考え方のことです。
 まず、「悪人」ということの意味についてお話させていただきます。親鸞聖人(以下尊称を略す)の人間観を語る上で『歎異抄』三条においての、

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや

という言葉は避けられないものでしょう。この言葉は、一般には親鸞の説とされていますが、この言葉は法然上人(以下尊称を略す)の説かれたもので、親鸞の説であると同時に法然の説であるとも言えます。また、親鸞のひ孫に当たる覚如の『口伝鈔』十九章「如来の本願は、もと凡夫のためにして、聖人のためにあらざる事」には親鸞が法然の言葉として、孫の如信に伝えたこととして、

御釈にも、「一切善悪(凡夫)得生者」と等、のたまえり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたわらにかねたり。かるがゆえに、傍機たる善凡夫、なお往生せば、もっぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しからば善人のもって往生す、いかにいわんや悪人をやというべし。

この二つの文を一言表したのが「悪人正機」悪人こそ正しく阿弥陀仏の本願に救われる対象であるということを言ったものとされています。ここで問題なのは、何が善人で何が悪人なのかということです。善人に関して、親鸞は『教行信証』化身土巻において、

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたわざるがゆゑに、報土に入ることなきなり。

と説いて、善人とは正法・像法・末法においての聖道門の人という広い意味をもって善人という言葉を用いています。この聖道門の人たちは、自らの修行によって作られた善根によって悟りを開くことを目的としています。その力によって念仏したのでは、それは自力の念仏であって、阿弥陀仏の本願に相応するものではありません。そういった善人では、極楽真実報土に往生するのは不可としています。特に末法においては「修行できない時代」ですから、自力の修行による念仏ではなおのこと往生はできないといえます。
 また親鸞は『歎異抄』後序の中において、「正機」ということについて、このようにも述べています。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。

「阿弥陀仏が五劫考え通した本願は親鸞一人のためであった」と、自身こそが阿弥陀仏の目的であることを宣言しています。阿弥陀仏が親鸞を救わんがために本願を立てたのだとするならば、親鸞はまさに「正機」に当たります。ということは、正機である悪人とは親鸞のことであり、親鸞=悪人ということ成り立ちます。親鸞にとっても阿弥陀仏の救いの目的(正機)である悪人というは自分の事にほかならないことがいえます。この「悪人」とはどのような意味を持つかというと、親鸞自身が悪人であるという自覚を述べていることからも、ただ単に現代において使用される悪人と言う意味ではなく、自分自身が悪人である事を自覚するからこそ、阿弥陀仏の正機たりえる悪人となるのです。ですから、悪人とは他者を判断する材料ではなく、深い自己反省に基づく自覚ものといえるでしょう。

>>ではこの思想についての「現代的意義」とは
>>どういうことをいうのでしょうか?
 善導大師(以下尊称を略す)「経は教なり。教は鏡なり。」とお説きくださっています。お「経」というものは、お釈迦様の説いた「教」えである。そして、その「教」えとは、自己を見つめなおす「鏡」である。浄土教においては、自己を見つめなおすことをやめてはいけません。それは浄土往生するために必須とされる信心のうちでも、「深心」という深く信ずる心においても、「自らの愚かさを見つめなおす(信機)」と「そんな私を阿弥陀仏は救ってくださる(信法)」という二つの信心が、作用しあって深まっていくとされます。信機→信法→信機→信法という具合です。つまり、浄土教思想において、自己を見つめなおすということを辞めてはならないということです。
 そして、その教えにしたがって自己を見つめなおし続けた一人が親鸞であり、その親鸞は『顕浄土真実教行証文類』俗にもうします『教行信証』の信の巻きにおいて人の真実の心をこのようの説いています。

外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり。貪瞋邪偽奸詐百端にして悪性やめがたし、事、蛇蠍に同じ。三業を起すといえども名づけて雑毒の善とし、また虚仮の行と名づく。

と説き、人間とは外側を取り繕い、自分を大きく見せよう、かっこよく見せよう、強く見せようとする存在です。しかし、そんなことはやめてしまいなさい。自分を大きく見せたいのであれば、大きく見せようとした小さな自分。かっこよく見せようとしたならば、かっこよく見せようとしたかっこ悪い自分。強く見せようとしたならば、強く見せようとした弱い自分に、目を向けてご覧なさい。嘘で外見を取り繕うことによって自分は弱さ愚かさ醜さを克服した気になって、取り繕うことの出来ない内側から目を背けることをやめなさい。と説いておられます。これをお釈迦様の言葉を借りれば、『法句経』というお経の中に「自分自身の愚かさを省みることができる愚か者を本当の賢者と呼ぶ。自分は賢いと自分の愚かさを省みることをやめてしまった者を、本当の愚者と呼ぶべきものなのです。」と説いておられます。お釈迦様も、愚かさを消し去った人間ではなく、「愚かさを抱えながらも、その愚かさから目をそむけることのない愚か者」でいる事を説かれています。それは、愚かさを消すのではなく、愚かさを背負うこと。弱い人間であるのなら、弱さを背負う強さを身に付けることであると思います。
 ではその愚かさを見据えることとはどういうことかというと、有名な良寛禅師(以下尊称を略す)はこのようなうたを読まれています。
 
愚かなる 身こそなかなか嬉けれ 弥陀の誓いにあうと思えば

良寛は愚かであることがなかなか嬉しいと説かれる。どうですか、littlechiさんは自分が愚かだったら嬉しいですか??私個人としてはあまり嬉しいとはいえません。けれども、良寛は嬉しいという、なぜか?それは、自分が愚かであるというところに気が付けたからこそ、それを支えてくれようとする人に気が付けたから。もし、自分が完璧な人間で生まれてこのかた人に迷惑をかけていないと思っていたならば、自分はひとりで自分勝手な生き方をしていたんじゃないか?けれども、じぶんの至らぬ部分に気がつけたからこそ、ここでは象徴的なものとして阿弥陀仏が選ばれていますが、その至らぬ支えてくれるのは阿弥陀仏だけではありません。父も母も友人もいろんな方々が自分を支えてくれている。もしかしたら今までガミガミうるさくて嫌いだと思っていた人であっても、ガミガミ言ってくれるということは自分に失敗させまいといてくれてるんじゃないか気になってくる。自分の愚かさ醜さ弱さなどを見つめなさいってのはマイナス思考ではなく、そういった至らぬ部分を見つめなおすことで、それを支えてくださる方々に気がつきなさいということであると思います。
 では、その支えてくださる方々に私たちはまず何をすべきかって言ったら、「ありがとうございます」これを言葉にしてお伝えすることです。だからこそ浄土真宗のお念仏は「報恩感謝のお念仏」というありがとうのお念仏であり、ありがとうも声に出さなければなかなか伝わらない。だからこそ、浄土真宗のお念仏は「称名念仏」声に出して称えなさいというのです。
 また、そのお念仏を「南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛、ありがとうありがとう」毎日お称えしていると、その声はめぐりめぐって自分の耳へと届きます。そのお念仏の声を親鸞は「非行非善なり」とといて、自分が行った善であると思い上がってはいけません、お念仏は「弥陀の勅命」仏様の声として受け取りなさいとお説きになられます。そのありがとうのお念仏の声は仏様の声として、だんだんと自分の中にたまっていって、普段の生活の中においても「ありがとう」って言いたくなっちゃうし、自然に「ありがとう」っていえるようになってくる。この姿を「他力本願」といいます。自分で言おうとして言うのであれば自力ですけど、別に自分で言おうとしてるわけではないんですから、思わなくてもでちゃうんですからね。そういった人が、阿弥陀仏の本願に相応した人であるといえるでしょうね。
 ですから、「他力本願」という言葉も他人任せという意味では使ってはいけません。「他力本願」とは、自分自身を見つめなおし、その至らぬ部分支えてくれる仏様や周りの方々に気づき、その支えへの感謝の「南無阿弥陀佛」をお称えすることで、思わず自然にいつでもありがとうを振りまけるような人になりなさい。てことじゃにんですかね??私は一つには「悪人正機」という自己反省の教えをこのように解釈しています。

 まぁこれは余談ですが、つい先日電車に乗ってましたら若い(といっても私とあまり変わらないと思いますが)男の人がおっきいヘッドホンを付けて、おっきい音で音楽を聴きながら電車に乗り込んできました。しばらくすると、初老の男性が「もうちょっと音を下げたもらえませんか」とおっしゃいました。しかしその若者は「あんたに迷惑かけてないだろ」といって、また耳にふたをしていまいました。
 この若者はその日は機嫌が悪かったのかもしれませんが、迷惑だから音を小さくして欲しいといってるのに、「お前に迷惑かけてない」という理由で音を下げない。話がかみ合いませんね。なぜか、それは学校でも家庭でも道徳教育において「人に迷惑をかけるな」と習ってきたからではないでしょうか?つまり、「人に迷惑をかけるな」という教え方は「人に迷惑をかけていなければ何をしてもいい」もっといえば「人に迷惑をかけていないと自分が思っていればなにをしてもいい」ということになりかねないということです。
 しかしインドでは「人に迷惑をかけるな」とは教えないそうです。まず何を教えるかといえば、「自分は人に迷惑をかけなければ生きていけない」「自分は気がつかなくても人に迷惑をかけてしまう存在である」という自己反省だそうです。だからこそ「人に迷惑をかけないような努力をしていきましょう」「気づかず迷惑をかけたときは素直に謝りま、それからは迷惑をかけないように努力しましょう」ということになるそうです。
 日本人の「人に迷惑をかけるな」は「人に迷惑をかけない完璧な存在になれる」という肯定から始まっていますが、その結果はどうでしょう
?「自分は人に迷惑をかけてないから、何をしたっていい」という回答を得る人は多くいるのではないでしょうか?
 「悪人正機」の教えは、先にも申しましたが「自己反省」であって、この「悪人」という言葉は親鸞がそうであったように自分以外の他者に向けられるものではありません。自分自身が完璧になりきることのできない人に迷惑をかけずには生きていけないものであることの自己反省です。そういった自己反省を持つからこそ、人に迷惑をかけられたときも出来る限りその人を支えてあげようと素直に思えるのではないでしょうかね。悪人正機は「自己反省は厳しく」「他者には肝要に」という二つの側面を持っていると思います。
 また、「悪人正機」は悪いことし放題でいいという教えでは有りません。法然は『念仏往生義』に

たとえば母の愛というものは、よい子でも悪い子でも分け隔てなく愛し育てます。けれども、子供たちがよいことをすれば嬉しく思い、悪いことをすれば悲しむでしょう。阿弥陀仏は全ての衆生を分け隔てなく哀れみ、その慈悲においては悪人も善人も救ってくださいます。けれども、善人を見れば喜び、悪人を見れば悲しむことでしょう

と、お説きになられます。悪人であっても阿弥陀仏の私のような愚か者でも救おうという思いを知ったからには、愚かであることには変わりはないし、煩悩が無くなって仏教的な善を完全に行えるわけではないけれども、阿弥陀様が悲しむようなことはできるだけしないようになろうとおもう。また、悪人であるからこそ「私は完璧なよいことはできませんが、一生懸命させていただきます」と頭を下げながら善い事ができるのだと思います。そうやって、仏様という基準を持って自分を見つめなおし、傲慢を起こすことなく善いことが出来るのもまた「悪人正機」の教えです。

 長々書き連ねましたが、これが私の「悪人正機」いただき方です。支離滅裂な駄文で読みにくいかと思いますが、文意を読み取っていただきたく思います。
 合掌 南無阿弥陀佛

>>悪人正気説というのは簡単に表すなら
>>「悪人こそが救われるべきだ」という考え方のことです。
 まず、「悪人」ということの意味についてお話させていただきます。親鸞聖人(以下尊称を略す)の人間観を語る上で『歎異抄』三条においての、

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや

という言葉は避けられないものでしょう。この言葉は、一般には親鸞の説とされていますが、この言葉は法然上人(以下尊称を略す)の説かれたもので、親鸞の説であると同時に法然の説であるとも言えます。また、親...続きを読む

Q生理が遅れる

市販の風邪薬を飲んで生理が遅れることってありますか?
3週間ほど前に4日間ぐらい、市販の風邪薬を飲んでました。
今月の生理予定日は22日なのですが、まだ来ません。最近生理予定日よりも前に生理が来ることが多いので不安です。
市販の風邪薬を飲んで生理が遅れるとしたら、何日ぐらい遅れるのでしょうか。妊娠はまだ望んでないので、不安です。

Aベストアンサー

生理が来ない原因は2つだけで、妊娠しているか、
排卵していないかのどちらかです。
妊娠については検査薬を使うことで判断できますが、
排卵したかどうかについては、基礎体温を測っていないと分かりません。
基礎体温を測っているのなら、高温相が現れれば排卵したと判断できます。
排卵が遅れた原因については、受診しても分からないことがほとんどです。
大抵の場合は、ホルモンバランスの乱れとか、ストレスとか、
気候が不安定でリズムを崩したのでしょうとか、あいまいな感じで言われます。
子宮と卵巣をエコーすれば排卵後かどうか分かるので、
排卵後であればだいたい2週間以内に生理が来ます(妊娠しない限り)
まだ排卵していなければ、生理を起こす薬を処方されます。

排卵が遅れれば生理も遅れるため、生理の遅れ=妊娠、とは限りません。
先に書きましたが、妊娠は検査以外に知る方法がないので、
性交から3週間たっても生理が来ない場合は、検査薬を使ってください。
3週間待てば陰性の判断ができるため、
きちんと3週間という期間を守って陰性なら、妊娠していないと信じて大丈夫です。
ただしその場合は生理を起こす薬を処方してもらった方がよいと思います。
いつまでも放置しておくと、リズムが戻りづらくなるからです。
余談ですが、早期タイプの検査薬なら、
性交の2週間後から陰性の判断ができます。
早く結果を知ることができる分、価格が高めです。

生理が来ない原因は2つだけで、妊娠しているか、
排卵していないかのどちらかです。
妊娠については検査薬を使うことで判断できますが、
排卵したかどうかについては、基礎体温を測っていないと分かりません。
基礎体温を測っているのなら、高温相が現れれば排卵したと判断できます。
排卵が遅れた原因については、受診しても分からないことがほとんどです。
大抵の場合は、ホルモンバランスの乱れとか、ストレスとか、
気候が不安定でリズムを崩したのでしょうとか、あいまいな感じで言われます。
子宮と卵巣を...続きを読む

Q新約と悪人正機

律法を守ることの能力的限界感の解決が新約であり悪人正機だったのではないか?

さらにいえば、律法もイデアに過ぎず(http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7440020.html)
求めるべきはその姿勢であるにもかかわらず、精神が失われ形式化していった結果、「どうせ守れないんだし」ということで否定されたのではないか?

Aベストアンサー

 こんにちは。

 ★ 律法もイデアに過ぎず 求めるべきはその姿勢であるにもかかわらず
 ☆ いえ――あるいは この《姿勢》という言葉を誤解しているかも分かりませんが―― 律法は はじめから人間の能力と努力とでは守りきることは出来ないと決まっていました。

 言いかえると 神の信仰においてそのチカラをあたえられるならば 人間でも律法の一つひとつを守ることが出来るのだという意味です。


 繰り返し述べますと
 ★ 「どうせ守れないんだし」
 ☆ ということは 人間のチカラによっては(あるいは 感情を抑える理性のチカラによっては)かなわないという意味でなら 初めからそうであったわけです。新約においてやっとそう分かったのではなく またそうなったのでもありません。



 ただし たとえば《むさぼるなかれ》といった律法が持たれたせいで おのれの心に逆らうことがわが意志にはあるということが人びとにおいてはっきりと自覚された。
 妄語戒を言われただけでは ピンと来なかったとしたら
 ★ 悪人正機
 ☆ と言われることで人びとは ちょうど律法の場合と同じように《わが意志のへそ曲がりないしは 邪悪なはかりごと》がやはり自覚されたということがあるのでしょうね。



 ★ 律法を守ることの能力的限界感
 ★ 精神が失われ形式化していった
 ☆ というのは 律法のあとさきに――という言い方もおかしいですが――関係なくはじめからの人間の状態です。あたらしい契約が必要とされるあとさきにも関係なくそうです。



 新約は 律法のモーセの前の信仰のアブラハムにもどったと かんたんには言えるかも知れません。規範化から規範化以前へともどした。《神は アブラハムの神 イサクの神 ヤコブの神である》というように一人ひとりの主観でありその内面の問題なのだということではないでしょうか。

 悪人正機や律法は そのあとさきにおいて一般には人びとの精神状態に直接にはかかわっていないと考えられます。また それは人びとにおのれの心の存在(ないし良心)についての自覚をもたらしたということが考えられます。(自覚のあとでも わるい精神状態はそのままわるい精神状態をつづけています)。こういう事情だと思われます。

 こんにちは。

 ★ 律法もイデアに過ぎず 求めるべきはその姿勢であるにもかかわらず
 ☆ いえ――あるいは この《姿勢》という言葉を誤解しているかも分かりませんが―― 律法は はじめから人間の能力と努力とでは守りきることは出来ないと決まっていました。

 言いかえると 神の信仰においてそのチカラをあたえられるならば 人間でも律法の一つひとつを守ることが出来るのだという意味です。


 繰り返し述べますと
 ★ 「どうせ守れないんだし」
 ☆ ということは 人間のチカラによっては(あるい...続きを読む


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