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このように問えば、おそらくですが NO、あるいは、どちらとも言えない、 という答えがほとんどだろうと思います。
ただ、実際には、明らかに、そのように扱っているはずです。
つまり、
・おかしいから良くない
・変わっているから良くない
という暗黙の了解の下、この社会は(基本的に)動いているでしょう。
思想(国家)対立
宗教対立
いじめ
パワハラ
家族・友人
ご近所づき合い
etc.
様々な局面が想定できると思います。
そして、「おかしい人 変わった人」という認識自体は、程度の大小を問わず、排斥の対象になりやすいはずです。
あるいは、排斥を目的として、そのような認識が為される。
これって、案外、諸悪の根源の重大な要素のひとつになっていないでしょうか。
煎じ詰めると、質問としては、次のようになります。

【質問】
異質と感じるものに対する自らの排斥感情と、我々はどのように付き合っていくべきか。
また、
他者から異質なものとして排斥感情を向けられた場合、我々はどのようにそれを受け止めるべきか。

こうした2方面からのアプローチをお願いしたいと思います。

質問者からの補足コメント

  • #6さんから「何かわかりやすい事例を」という要請がありましたので、少し補足させていただきます。

    散歩の途中でよく見かけるホームレスのおっちゃんがいるのですが、彼に対してあからさまな侮蔑の言動をとる人も、たまにいまして、これは、その人にとっても、おっちゃん自体にとっても不幸な事態ではないか、と思うわけです。
    しかし、そういう言動を取る人も、言ってみれば、思わず、そうしてしまうのでしょう。
    おそらく、そこには何らかの無知が存在している。
    それに起因するなんらかの誤謬が、そこに発生しているのだろう。なぜなら、ホームレスを侮蔑する(一見、優位に見える)側自体が幸せな気持ちになれるはずはないのだから。
    といったようなことを探ることで、「異質」に対する問題の解決が少しは見えてくるかもしれません。

      補足日時:2016/02/25 20:12
  • >怖いのは信念にもとづいて行動するひとです。社会に貢献しない者だとして攻撃します。信念とまでは言へなくても大なり小なりそんな気持ちがあるのではないでせうか。

    たしかにそうですね。
    ただ、悲しいかな、そういう方は、その信念がどこから出てくるのか、ということに関して無知なのだろうと思うわけです。
    人は、常に乗り越えられそうな壁を探し、それを乗り越えることによって成長しようとするものです。
    小学生などが(社会的に)弱い立場のホームレスを壁として乗り越えたがるのは、そのためです。
    言ってみれば優越感を覚えるわけですが、自我未発達の場合、大人でも同様のことをするのは、きわめて自然な理屈でしょうね。

    >献身的で周囲の人への愛情にあふれた生活をしてゐたのに、運悪く騙されて人生が転落したのかもしれません。

    どんな生活をしていたとしても、彼を貶めるのは真理に反する、というのが私のスタンスです。

    No.19の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/26 17:27
  • >「反省」というのは、他人から排斥的な行為を受けたとき、自分になにか非があるのかなと内省するということです。

    補足質問にお答えいただきありがとうございます。
    わかりましたが、しかし、順序が逆のようにも思いますねえ。
    たしかに、
    ◎怒るタイミングを逸してしまう◎
    可能性はありますが、
    ◎見極めは難しい◎
    でしょうし。

    「おかしい人 変わった人」という質問タイトルではありますが、誰しも、このような評価を受けてしまう局面はあると思います。
    その場合にどう対応するのか・・。
    難しい問題ではあります。

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/27 18:06
  • >職場ではなるべくさうなるやうに仕組んでゐます。人間の歴史を動かしてゐるのも、偉人以外では案外、馬鹿だと蔑まれてゐる者なのかもしれません。

    はっきり申し上げて、あなたは、自分ほど賢い人間はいないと思っておられますね。
    馬鹿だと必要以上に強調なさることから、それが良くわかります。
    つまり、「いいえ、あなたこそが本当の賢者です」と誰かに言ってほしいのだが、そう言われないことが怖いので、あらかじめ、自分自身で水準を下げているわけです。
    反動形成と呼ばれる、自我防衛機制のひとつです。
    他人であれ、自分であれ、偽りに対しては拒絶反応を示すように人間はできていると思います。
    素のままでいいんじゃないですかね・・。
    あれこれ小細工せずに。

    No.37の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/28 21:32
  • >実社会に出て現実の世界を知るようになると屁理屈に興味がなくなり、現実の世界で自分がどう対処すれば良いかを考えるようになる。

    それで良いのだ、とおっしゃるわけですが、ここは、完全に見解の相違のようです。
    こうした、
    ◎人類の種としての系統発生◎
    から脱しきれないからこそ、世界は混迷から抜け出せないのではないでしょうか。
    おそらく、
    ◎人類の進化◎
    についての考え方に食い違いがあるのでしょう。
    もうひとつ、cyototuさんが勘違いされていると思う点ですが、
    論理的整合性と「真理」とが必ずしも合致するわけではない、ということです。
    人間は理性的に論理を駆使する一方で、本能という制御が難しいものも同時に抱えています。
    これらを制御する役割が自我なわけですが、制御が万全というわけではありません。
    つまり、論理的不整合が人間にとっての「真理」となる場合も極めて多いということです。

    No.41の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/29 18:36
  • 少し補足しておきますと、
    >「人間はどうあるのか」の事実の分析が先、その結果、「どうあるべきなのか」の理念が後。

    に同意するのは、あくまで、
    ▼「人間はどうあるのか」の事実の分析が先行、その結果、「どうあるべきなのか」の理念が後。▼
    という順序の問題としてです。

    「人間はどうあるのか」の事実の分析が優先、その結果、「どうあるべきなのか」の理念が後。

    といった、重要性の違いを意味する内容であるなら不同意ですので念のため。

    No.62の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/07 20:06
  • いずれにせよ、ホームレスのおっちゃんが他者から侮蔑の目を向けられて不快に感じているとしたら、あるいは、ホームレスのおっちゃんに侮蔑の目を向けて満足しているような人々の卑小な精神に対して、哲学が、人間の可能性という観点から何らかの答えを出せないものか、というのが質問の趣旨です。
    散逸構造自体は、極めて興味深いもので教えていただいたことには感謝しておりますが、それはあくまで「どうあるべきか」を探るための、ひとつの手段にすぎないし、そうであるべきではないだろうか、という感想を持つ次第です。

    No.81の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/18 14:52
  • つまり、「どうあるべきか」を排除した「どうあるか」はあり得ない。
    とはいえ、
    >その判断を下すための情報が今までも今後も驚くほど少ない状況で判断しているんだということを認識しながら前に進んでいるんだということを顕在的に意識していくこと

    も、安易な「どうあるべきか」が氾濫している現状に着目すれば、極めて重要。
    どちらも重要でしょうが、どちらに力点を置くのか、あるいは折衷案は無いのか、といったことになっていきそうな気もしますね。

    No.95の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/21 20:05

A 回答 (105件中1~10件)

いろいろ意見、楽しみながら拝読しています。

hakobuluさんの始めの趣旨からズレていなくないわけではないと思わないわけではなくないと思っていますが、、、


一寸違った側面から、「どうあるか」と「どうあるべきか」の生物的起源を考えてみました。生物の至上命令は生き残りだということは、自然界の観察から経験的に解っています。まっ、生物の生きざまの根底は本質的に偶然が支配していますから、個体の生きざまは必ず平均値のところにピークがあるベル型分布(ガウス分布)をしている。すなわち、その分布を特徴付ける「揺らぎ」と呼ばれる幅があり、その揺らぎゆえ個々の生きざまは多様であるのは当たり前で、例外的にその至上命令に組しない個体がいるのも当たり前なんですが。

んで、その前提で各個体の振舞いを見ていると、身の危険を感知したり、生存に必要な物を手に入れたりするために、外界が「どうあるのか」を探る機能を備えている。例えば、雌雄以外ほとんど構造を持たない原始的な生物でも、たまたまの偶然で雌雄が打つかると合体をして種の再生産をし、その他の異物に衝突しても合体を試みないようにできている。だから、周りが「どうあるのか」を感知する機能がある。さらに、その機能で感知した情報を使って、合体するか無視するかの判断を下しているので、次の行動は「どうあるべきか」を判断していることも明らかです。

このことは、「どうあるのか」と「どうあるべきか」の観察と判断はあらゆる生物がやっていることであり、人間固有の特徴ではないということです。それどころか、人間がそのことに興味を持つのは、人間が最も原始的な生物と何ら変わらないことの証左です。要するに、「どうあるか」と「どうあるべきか」の生物的起源は生物発生の原初にある。

さて、そうなるとこの至上命令を満たすための行為の効率が問題になる。「どうあるのか」の感知なり認識を誤ると次の行動の判断が、その至上命令の達成のために障害となってしまう。んで、人間の歴史を振り返ってみると、その至上命令を達成するのに必要だと思われる情報をそれなりに手に入れる前に、「どうあるべきか」の判断を下して来てしまったことが、多大な不幸をもたらして来たことに気付き始めた。

そこで、ガリレオやマキュアベリが、もう一寸この世界を観察して、我々が判断するために必要な情報を探ってみようよと言い出した。そして驚いた。世界って、今まで我々か考えていたよりずっと広いんだ。それどころか、どうあるのかの一端が解れば解るほど、新たに解らないものが増えて来ている。そんなことも知らずに、こんなに情報不足で良くもまあ「どうあるべきか」なんて烏滸がましいことを言っていたもんだ。これじゃ問題が解決するどころか、新たな不幸だって作り出しかねない、ってな反省が生まれて来ている。これが人類の現在の立ち位置だと私は思っているんだが、どんなもんでしょうか。

そんなこと言ったって、今現在を何とかしなくてはならない。だから、今までに手に入れた情報で判断を下して、精一杯できることをしながら、後は成り行きに任せて収まる所に収まるようにしながら前に進む以外にない。その判断を下すための情報が今までも今後も驚くほど少ない状況で判断しているんだということを認識しながら前に進んでいるんだということを顕在的に意識していくことが、我々生物の至上命令の達成のために効率が良さそうだと科学の発達が教えているんだと私は思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>趣旨からズレていなくないわけではないと思わないわけではなくないと思っていますが、、、

六重否定解読による脳の攪拌終了済み。
▼どのように付き合っていくべきか▼
▼どのようにそれを受け止めるべきか▼
といった質問でしたが、そうした「べき論」以前に、「ある論」を忘れちゃいかん、というご見解だったはずですので、全くズレてはいません。

>要するに、「どうあるか」と「どうあるべきか」の生物的起源は生物発生の原初にある。

「べき」の意味するところが何か、という視点によっても分かれるところなんでしょうね。
◎生物発生の原初◎
に関わる「どうあるべきか」の場合は、「どうあるか」に含めてしまって良いような気はします。
善悪の判断や葛藤などが関与していない、という意味では。

>そんなことも知らずに、こんなに情報不足で良くもまあ「どうあるべきか」なんて烏滸がましいことを言っていたもんだ。これじゃ問題が解決するどころか、新たな不幸だって作り出しかねない、ってな反省が生まれて来ている。これが人類の現在の立ち位置だと私は思っているんだが、どんなもんでしょうか。

これは、おっしゃるとおりと私も思います。
ただ、人間は常時なんらかの選択を余儀なくされているわけですが、「どうあるべきか」を全く埒外において、その選択を行なうことは無理な存在ではないかとも思うわけです。
「暫定的などうあるか」に基づいて「どうあるべきか」を模索し続けざるを得ないのではないか、という意味ですが。
しかし、いくら「暫定的」と言っても、安易に「どうあるか」を認識してしまうことがないように十分留意する必要がある。
といったことをおっしゃっていただいているように受け止めている次第です。
たとえばトランプ氏にしても、移民・難民なんかどうでも良いと思っているわけでは、決してないはずでしょう。
「どうあるか」という現実を正確に認識するなら、「結果的に排斥すべきだ」という見解なのだと思います。
以下補足欄に記します。

お礼日時:2016/03/21 20:04

お久しぶりです。



以前話した割り出し方ですが、ここに書ける長さにするのに
削って行ったら薄っぺらいものになり、これでは伝わらないと思えたので
上げることをしませんでした。

しかし、同じような考えで割り出している方が居られたので
書いておきます。

この方は、経済に焦点を当てられているようです。
やり方としては、経済に限らずいかようにも使えると思います。
私は日本を中心にアジア領域を観ています。

フェルナン・ブローデル著「地中海」と言う本です。
この方は、題名どおり地中海領域を分析されてあります。

私は読んではいませんが、発想は同じだと思いましたので
参考になるかと思います。

そういう事を、思考するための材料として割り出して行くことで
様々なとことが理解できるようになると考えています。

最近は、この範囲を世界として広げる必要性を感じていますので
今までよりさらに多くのデータが必要になりそうです。


>異質と感じるものに対する自らの排斥感情と、我々はどのように付き合っていくべきか。
>他者から異質なものとして排斥感情を向けられた場合、我々はどのようにそれを受け止めるべきか。

このような質問は、個々がそれぞれに自助努力によって
出していく物であり、それを単一に決めるものでも無く
人の出した答えを良さげに思って背景無しに飲み込む行為が
一番危ういと考えています。

それが諸悪の根源になりがちな、思想や宗教であったり
結果排斥に向かう個人の思考であったりする訳ですよね。

ですから、個々の違いを認めるという視点で
最初にあげた「みんな違ってみんないい」から始めることが
個々の答えを支えて行く軸になり、最終結果で排斥を覆す元に
なり得るでしょう。

そう言うやり方が、多様性を育めると私は思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>人の出した答えを良さげに思って背景無しに飲み込む

わけではなく、あくまで自らの思考の参考にさせていただきたいと思い質問するのですがねえ・・。

>最初にあげた「みんな違ってみんないい」から始めることが
個々の答えを支えて行く軸になり、最終結果で排斥を覆す元に
なり得るでしょう。

なぜ
>「みんな違ってみんないい」

と言えるのか?という根拠が必要だと私は思っています。

お礼日時:2016/06/09 14:09

こんにちは、はこぶるくん。


続き書いてるんだけど一応。
とりあえず間奏とか観想とか。












世界じゅうの敵に降参さ
戦う意思はない
世界じゅうの人の幸せを
祈ります

世界の誰の邪魔もしません
静かにしてます

世界の中の小さな場所だけ
あればいい


おかしいですか?
人はそれぞれ違うでしょ?
でしょでしょ?

だからお願いかかわらないで
そっとしといてくださいな

だからお願いかかわらないで
私のことはほっといて(*^▽^*)



↑↑こっちは流しちゃっていいけど、


_______



↓↓こっちは最低3回ずつ聴いてほしい。

https://www.youtube.com/watch?v=_hVaRiOPZLE&noht …
https://www.youtube.com/watch?v=WwFEAkbpO7I&noht …

これおまけ。どぶねずみみたいにlinda.
https://ja.glosbe.com/es/ja/linda




ぢゃあまたね(*^_^*)/
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いじめの目的には2つあるような気がする。


「排斥するためのいじめ」と「支配するためのいじめ」だ。

「排斥するためのいじめ」は、「異質と感じるもの」の排除欲だろう。
なぜ異質と感じるものを排除しようとするかといえば、それは異質と感じるものによる自らへの影響を怖れるからだろう。
私たちには多かれ少なかれ、他者を相対的存在として認識することによって自己の存立基盤を築こうとする無意識が働いているはずだ。
多少なりとも、他者の存在に照らし合わせて自分というものを確認しようとする部分がある。
だからもっと正確に言えば、異質と感じるものに照らし合わせた場合、それまでの自分というものが覆ってしまう恐怖を覚えるのではないか。
異質な事柄自体もそうだが、それ以上にその異質な事柄を身に纏って平然としている相手の存在を脅威に感じてしまうのだろう。
それゆえ排除しようとする。
一種の防衛機制と言ってもよい。
誰かを攻撃するように見えて、実は自らの身を守るための行為だというところがいじめ問題の根深さだろう。

ところで恐怖というものは、喜怒哀楽や悲しみなどに比べてもっとも古くから人間に存在する感情らしい。
非常に古典的というか原始的な感情で、言われてみれば感情に乏しい、または殆どないと思われるような魚類・爬虫類・鳥類やねずみ、うさぎなどの哺乳類においても恐怖だけは必須の感情として生来的に獲得されているもののようだ。
生きるためには、まず敵から身を守ることが最重要課題であることは否めない。
恐怖は脳の扁桃体という箇所で生み出されるらしいが、ここに損傷を受けると例えば猿の場合、普段は決して近づかない犬や蛇に平気で近づくようになる。
恐怖は身を守るための必須アイテムとして備わっているものらしい。
人類の最初の祖先が地球上に現れた時も、恐怖という感情が備わっていただろうことは想像するに難くない。
地球ができたのは約46億年前とされる。
人類の誕生はネアンデルタール人などに代表される旧人で4~50万年前、クロマニョン人などの現世人類と呼ばれるもので約20万年ほど前ということになっている。
自分たちとは異質の動物の影に脅えながら生活していたであろうこの頃の人類の脳と同様の恐怖を、いじめる者は無意識的に感じているはずだ。
「いじめられる者」とは「いじめる者にとっての」脅威なのではないだろうか。
つまり、他者の異質さに脅威を覚えるものがいじめをするということかもしれない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

しかし、異質と感じたとしても脅威を覚える人とそうでない人がいる。
そもそも異質という感覚さえ持たない人もいるはずだ。
この違いはどこからくるだろう。
思えば、「異質」という感覚は「理解できない」「理解しづらい」という認識に基づいていないだろうか。
つまり「何か理解できないから怖いので排斥しようとする」といういじめの形態があるのだと思う。
他者を理解できないのは主に想像力の欠如によるものだろう。
人は、幼い頃にどのような刺激を受けたかにより世界の捉え方が全く違ってくることもある。
想像力に関しても、幼児からの教育環境が重要な鍵を秘めているのではないかという気がしてならない。

ところで、排斥不可能と感じさせる相手に対しては排斥しようという気力は起こらない。
『ある相手に対して何か理解できないという怖れを抱くものが、排斥しようと思えばできそうだという見当をつけた時にいじめという形が出現することがある。』ということになりそうだ。
排斥不可能と思わせるのは、『毅然とした姿勢』を以ってその最大のものとするのが妥当ではないかと私は思う。
無論、理解できないという認識を抱かせないようにすることも効果があることになるだろう。
媚びる必要は全く無いし逆効果になるが、いじめられる側としては相手に安心感を与えておくことも有効だということになると思われる。


◇◇◇2≪ 支配としてのいじめ ≫◇◇◇

排斥ではなく、支配し従わせるためのいじめというものもあるだろう。
支配し従わせたくなる対象とは、すなわち自分自身との共通点を抱えている人ではないかと思う。
どのような共通点か。
それは自分と同様の弱さだろう。
何らかの理不尽な力に対抗しきれずに不当な抑圧を甘受してしまっている者。
その色を無言の内に表現してしまっている者。
そういった者を、容易に支配できる弱者として、いじめる者は敏感に察知するのだろう。
では、支配しようとする目的は何か。
それは自分が過去に受けたいじめ、あるいは抑圧の清算だろう。
自分が受けた理不尽な力は貯めておくだけでは苦しくなってくる。
吐き出す必要が生じるわけだが、いじめる者にとっては自分が被害者だった時と同様の状況設定の下で吐き出されることが望ましい。
「同様の状況」とは、抵抗不可能な情けない弱者に対して一方的で圧倒的な力が行使される、ということ。
かくして、弱者と認定されたものが執拗に狙われ続ける。
いじめるほうにしても、自らの惨めな過去を清算し、一旦は受け入れてしまった負の記憶を帳消しにするための絶好の獲物といった認識を持つはずだ。
過去の自分を癒す手段としてのいじめ。
誰しも、ふと誰かをいじめたくなった経験はあるはずだ。
その時、相手の中に過去の惨めな自分を見出すことは、そう難しいことではないだろう。
いじめる者は、過去のふがいない自分に復讐しているという見方も可能かもしれない。
つまり、ここにも『イラショナルビリーフ(不合理な思い込み)』が存在している。
いじめる者の立場に立ってみよう。
今いじめる私はかつていじめられた者である。
しかし、今いじめている相手はかつて自分がいじめられた相手ではない。
いじめられ、抑圧された記憶を自らのものとして処理できない者が、目の前にいる弱者を過去の自分に見立て、いじめる自分を過去に自分をいじめた相手と重ね合わせる。
そして、自分がされたこと(理不尽な抑圧の行使)を自分が相手にする。
このようにして清算を済ませた気になる。
抑圧された記憶を自らのものとして処理する、とはどういうことだろうか。
それは、過去の事実を事実として認め、自分が対峙すべき相手を見極めること、だろうと思う。
不合理な思い込みから合理的な事実の認識へ、という転換が必要になる。
不合理な思い込みをしてしまいがちなのは、そのほうが楽だからで、つまり自己変革を必要としないからではないかという気がする。






by hakobulu

_____________________





とりあへずここから始めるための覚書です。1ヶ月前から何度か読み返し、ここに何か反応しようと思っていたのですが、反応が起きないまま長い時間が経ってしまひ、わたしはわたしを残念に思つてをります。もしわたしが次の回答をするとしたらここから始めさせていただきますのでよろしくどうぞ。
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№101のご議論 分かりました。


それぞれがその目指すところを得ているのだと。

ただ どうでしょう。もう議論には入りませんで ずるく結論だけを
述べますが 次のようではありますまいか。

ラ・ボルド方式は 特殊類型である。あるいは 総論ではなく 各論
であると。自己中心型をセーヴしている。禁欲していると。

自己中心式かつ主観表現型が 総論・一般論であり 行動の中核を成
す。のではないかと。
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No.99は、入れ子的にパラメータのさまざまな社会となるようなラ・ボルドのありかたが、現在の日本の社会のわたしたちにおいては、無理なのではないかというhakobuluさんのお気持ちに返信したものです。

hakobuluさんの質問ではホームレスが対象に取り上げられていますが、多種多様に社会から弾き出される人々と考えての回答です。
無理と仰るわけだけれども、どうあるべきか、とか、どうあるのか、という切り口から、ラ・ボルドが何を可能にしているのかを見ると、主体としての私が対象とどうあるのか、という模索続きの状態を可能にしているわけです。患者やスタッフは院内の仕事をすることによって、なにがしかの有用な存在であり、主体的な存在であり、その存在意義や主体性を奪ったら、1人1人もスタッフも、どうありえるのかを模索できなくなってしまいます。
発明されたレンズでもランプでも、私はそれらとどうあるのか、が動き続けて、さまざまな用をくぐって現代に至るでしょう。私において、対象とどうあるのかは、活かす要素を見出し、意味の構造をかたちづくり、次の意志や願いへ繋がれるのではないでしょうか。

わたしが古今東西の卜占にそれなりに関心があることは、つきあいの長いbragellonneさんはご存じだと思います。この問題は占いとよく似ています。意味とか意義は構造的なものであるために、主体の動態につれて関係性が変わり、あるべき姿はなく、ありうる姿が考えられるのです。だからこそ、ラ・ボルドはヒントになるでしょうし、日本社会には日本社会に合った形で、模索の渦中に身を置くようなシステムを駆動させることができるかもしれません。
hakobuluさんのご質問の直接の解決ではないかもしれないけれども、こういう話であるわけで、自己中心的であることと直接結び付くようには思いません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

どうも、自分の質問だと勘違いなさっているかたがおられるようで困ったものです。
節操の無いストーカーといった趣ですかね。

お礼日時:2016/03/29 16:58

あまがっぱさん。


○ われ。主観。その心・その意志
☆ は どうなりますか? その中身は?

◆(回答№99) 「私は対象とどうあるのか」・・・また、・・・
「私は対象とどうあるべきか」
☆ このとき わたしたちは 傍観者ではなくただの通りすがりの者
でもなく 確かに紛れもない現実としてその相手と向かい合っていま
す。

相手も 向かい合っています。
しかも互いにそれぞれ おのれの――恣意的な欲求や願いをもふくめ
て――のぞみを持ち合わせています。

人間の主観における志向性の中核は:
○ われはわれなり。/ わたしがわたしする。
☆ に行き着くでしょう。《互いに自分が自分であるように振る舞い
共生している》なら 言うこと無しです。

なぜ この《自己中心的な》のぞみを 言わないのでしょう?

◆ 関係の創出と理解の創出と、意志や願いの創出を、自分のお腹か
ら動かしていくのでなければ
☆ 《自分のお腹から動かして行く意志や願い》は 自己到来です。
互いにそれぞれの自己還帰です。

自己中心的であることによって その他者との関係と相互理解とを互
いの自己到来の実現の中につくり得て行く。のでは?

ご所論は まだなお学術的であり過ぎるという雰囲気がありますまい
か。

◆ 対象において、用を探り、利益を探ること
☆ がです。現実としての ≫我が≪ のぞみという《用および利益》
を推し出すのが 生きた学問であると信じます。

このスレッドもほかのにおいても みなさんともに お行儀がよすぎ
ます。

だから
★★ おかしい人 変わった人 は悪人ですか?
☆ といった・おとなしい疑問になります。

みなそれぞれ《わたし》に集中していれば すでに初めに世の中自分
の隣りは 《おかしい人 変わった人》ばかりだと分かります。

互いにそれぞれが《自分は おかしい人 変わった人である》として
その《わたし》を どこまでもつらぬいて しかも互いに互いが自由
であるという境地(あるいは 縁起共生の関係)を打ち建てる。

なんで このような初めの姿勢について すでに共有しているという
ふうにならないのでしょう?
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ご無沙汰しました。


このあいだは、保護下で1つの社会が存続できる ような状態はまだまだ無理か、、、(...先の例ではやや特殊な精神病院でしたが...) という感じでお返事いただいていたように記憶しています。

精神病の症候群というのは、「どうあるのか」がよくわからない分野ですね。どちらかというと、ご承知のように、「どうあるべきか」に指針をあわせた治療が一般的です。
しかし、ラ・ボルドは、「患者がどうあるべきか」の治療を覆したといえます。 「患者とどうあるべきか」を重んじているわけです。

それは、ある対象について、「対象はどうあるのか」ではなく、「私は対象とどうあるのか」が問いであり、また、「対象はどうあるべきか」ではなく、「私は対象とどうあるべきか」が問いなのではないか、という現代思想の到達点だろうと思います。完全に他なるもの、外なるもの、というナイーブな分別によってではなく、対象はつねに私の一部であるし、私はつねに対象にとって一部であるということによって、「それ」は対象化の親密な(intimate)構造を潜ってから現れてくるものでしょう。

前回、価値判断の前に、足元を力の場の構造から理解しつくす方法は無い、と書きました。「私は対象とどうあるのか」とは、構造的な把握であり、また構造的であるがために全的には追求できないのです。多くの場合、用が分かり、利益が分かることが、私と対象の関係を分かることと結びついています。それゆえ、対象において、用を探り、利益を探ることが、「私は対象とどうあるのか」を形作っていくものでもあります。

技術の産物もそうですが、社会の人間同士もこの点で変わりがなく、関係の創出と理解の創出と、意志や願いの創出を、自分のお腹から動かしていくのでなければ、構造に成らない。存続つまり狂いと介入の中で焦点を持つような状態にならないと思うんですね。俯瞰の風呂敷を拡げるようなことで始めるのはあまりにも不足すると言ったらいいのでしょうか、構造なきところを照らすのが限られた構造であって、意志の動きでもあって、しかし描いた構造ではどんなに緻密でも単純すぎ、意志を固着させると言ったらいいのでしょうか。うまく伝えられていないかもしれませんが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「対象はどうあるべきか」ではなく、「私は対象とどうあるべきか」が問いなのではないか、という現代思想の到達点

なるほど。
おそらくですが、前者を全否定する必要もないし、後者の視点のみでも解決は難しいのでしょう。
しかし、前者だけでは、いかにも前近代的ですね。後者は自己変革が求められる分、高度な手法と言うことができるのかもしれません。

>多くの場合、用が分かり、利益が分かることが、私と対象の関係を分かることと結びついています。それゆえ、対象において、用を探り、利益を探ることが、「私は対象とどうあるのか」を形作っていくものでもあります。

そういう捉え方があるわけですか。
相手に対する想像力が不可欠ですね。
一般社会にも通底して必要とされる視点でもありそう。

>関係の創出と理解の創出と、意志や願いの創出を、自分のお腹から動かしていくのでなければ、構造に成らない。

そうした認識はあるつもりです。
ただ、ガチガチの方法論を探ろうとしているわけではありません。
◎焦点◎
は、ひょっとすると多様であって良いのかもしれない、とも思い始めているところ。

お礼日時:2016/03/29 16:54

hakobuleさんはあたし並みに負けん気が強い人だちゅうことが、文章の端々に出ている。

そう、負けん気が強くなきゃ、面白いことも発見できないよね。昔、日本で二人目のノーベル賞受賞者だった朝永振一郎は、研究の動機を聞かれて、「なに糞」だと言ったそうだ。

もう一つ。あたしのいる物理学の研究所の所長はやり手のアメリカ人の女科学者だ。その女史が昔ベルギーのプリゴジン教授の所に2年ほどいた当時、日本から来た科学者といつも一緒に晩飯喰ったり、呑んだりしていたそうだ。その日本の先生に聞いたんだが、彼女とその日本の先生とが、例の如くプリゴジン教授を含めて研究所の連中の雨の世の品定め。あいつはここが悪い、こいつにはこんなスキャンダルがある、、、ってなことで、みんなを貶し合っていた。んで、その女史が話の締めくくりに曰く、

「結局この世で完全なのは私たちだけね」

ってなことだった。毛唐どもの冗句って、洗練されているんだよね。

んで、あたしの我田引水のドヤ顔話を紹介しよう。もう何年も前になる。日本の某大学の物理学科でいつも陰気くさそうにしている大学4年生がいた。襟首を立て、猫背で、いつもイヤホーンを付けて廊下を歩いておった。先生とすれ違っても挨拶などせず。気になっていたんで、そいつと廊下をすれ違い様、

「おいお前、何でいつもそんな陰気くさい顔してるんだ」

と声を掛けた。彼は立ち止まって、あたしの話を聞き出したんだが、イヤホーンは外さない。そこで、

「おいこの野郎、人が話しているのに音楽を聴きながらたぁ何事だ」

といたら、

「いや、スイッチは切りました」

なんて抜かすから、

「失礼な奴だ。イヤホーンをはずせ」

って言ったんだ。そして、

「お前の陰気くさい顔見ていると、こちらまで気が滅入って来てくる。笑って、お早うございますぐらい大声で言え」

と言ってやったんだね。ここで、彼の可愛いとこが出た。

「でも先生、自分の気持ちに正直じゃなくて良いんですか」

だと。であたしだ。

「嘘でも良い、笑って挨拶すれば、皆も楽しくなる。お前だって、皆の楽しい顔見れば楽しくなる。理屈から入るんじゃない。先ずは、形から入るんだ。そうすりゃ、お前もそのうち、正直に楽しい顔で挨拶できるようになるだ」

それから、数日後、大学の他の先生から、あいつに何が起こってしまったんだ、あいつが、俺たちに突然、大声で笑顔で

「お早うございます」

って言うようになった、と評判になったそうだ。

ところが、あたしとすれ違う時だけは、午前中は良いんだが、午後でも夜でも大声で

「お早うございます」

だ。あたしゃ、そいつに、夜でもお早うございますっちゅうのは水商売だけだって言ってやったんだが、彼は、卒業するまで、あたしにゃ夜でも昼でもお早うございますって言って通した。こいつは大丈夫だ。運が良かろうが悪かろうが、大物に成れるぞって思ったね。

そうだ。笑顔はみんなお楽しくしてくれるんだ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「おいお前、何でいつもそんな陰気くさい顔してるんだ」
と声を掛けた。

こうした物言いで気持ちが通じたのは、その一言によって、相互の信頼関係が構築されたからなのでしょうね。
「言えば通じる」という信頼に基づいて掛けた声を、「自分を理解しようとして声を掛けてくれたに違いない」という信頼に立って受け止めた。
普段の関係性や語調、あるいはひょっとすると人格なども大いに関係していたのでしょう。

>笑顔はみんなを楽しくしてくれるんだ。

シンプルな真理です。
以前から思っていることなのですが、本当に他人を幸せに出来るのは、自らが幸せであることではないですかね。
幸せな人を見ているとこちらも幸せな気持ちになります。
ただ、「幸せもどき」を幸せと勘違いしてしまうパターン、また、幸せであること自体が難しいパターンも多くて、一筋縄ではいかないようですが。

お礼日時:2016/03/23 15:26

人は如何様にあるべきか、と言うのは簡単な問いではないと私も思います。


「人」と一括りにしても、人々には各々違った状況と個性があるわけですから、一概には言えない。しかし、一概には言えないが、素朴な問題として、如何様にあるのが望ましいかと言う問いは、都度に唱えられても良いと思います。自由であって、しかも道を誤らない、べき論に縛られずに居て、しかも根本のところではそのべき論の言わんとする元のところを了知している、そんなのが望ましいと、私は思います。

どうあるかと、どうあるべき、は、対立項ではないと言うご意見ですが、それはその通りだと思います。どうあるかと言う事実を識知した上で、どうありたいのかと自問自答し、どうあるべきかと言うその意味するところを汲みつつ、具体的な生きる道を形成するのではないかと。

人間の習性を知ること、その上でさらに人としてどうありたいかによって事実を克服し、人間はかくあるべしの答えを得る、この様な流れがあるのではないかと思いました。
これをそのまま自分に援用すると、自分の習性を知り、その上で自分はどうしたいかを自身に問い、自分を克服して、かくあるべしの答えに到達する、こんなところでしょうか。

事実を変えて行けると言う視点も大切な気がしました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>事実を変えて行けると言う視点

に、それぞれの個性が活かされるのかもしれませんね。
あとは普遍性(または、その確率)の問題になるのでしょう。

お礼日時:2016/03/23 14:54
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