最速怪談選手権

このように問えば、おそらくですが NO、あるいは、どちらとも言えない、 という答えがほとんどだろうと思います。
ただ、実際には、明らかに、そのように扱っているはずです。
つまり、
・おかしいから良くない
・変わっているから良くない
という暗黙の了解の下、この社会は(基本的に)動いているでしょう。
思想(国家)対立
宗教対立
いじめ
パワハラ
家族・友人
ご近所づき合い
etc.
様々な局面が想定できると思います。
そして、「おかしい人 変わった人」という認識自体は、程度の大小を問わず、排斥の対象になりやすいはずです。
あるいは、排斥を目的として、そのような認識が為される。
これって、案外、諸悪の根源の重大な要素のひとつになっていないでしょうか。
煎じ詰めると、質問としては、次のようになります。

【質問】
異質と感じるものに対する自らの排斥感情と、我々はどのように付き合っていくべきか。
また、
他者から異質なものとして排斥感情を向けられた場合、我々はどのようにそれを受け止めるべきか。

こうした2方面からのアプローチをお願いしたいと思います。

質問者からの補足コメント

  • #6さんから「何かわかりやすい事例を」という要請がありましたので、少し補足させていただきます。

    散歩の途中でよく見かけるホームレスのおっちゃんがいるのですが、彼に対してあからさまな侮蔑の言動をとる人も、たまにいまして、これは、その人にとっても、おっちゃん自体にとっても不幸な事態ではないか、と思うわけです。
    しかし、そういう言動を取る人も、言ってみれば、思わず、そうしてしまうのでしょう。
    おそらく、そこには何らかの無知が存在している。
    それに起因するなんらかの誤謬が、そこに発生しているのだろう。なぜなら、ホームレスを侮蔑する(一見、優位に見える)側自体が幸せな気持ちになれるはずはないのだから。
    といったようなことを探ることで、「異質」に対する問題の解決が少しは見えてくるかもしれません。

      補足日時:2016/02/25 20:12
  • >怖いのは信念にもとづいて行動するひとです。社会に貢献しない者だとして攻撃します。信念とまでは言へなくても大なり小なりそんな気持ちがあるのではないでせうか。

    たしかにそうですね。
    ただ、悲しいかな、そういう方は、その信念がどこから出てくるのか、ということに関して無知なのだろうと思うわけです。
    人は、常に乗り越えられそうな壁を探し、それを乗り越えることによって成長しようとするものです。
    小学生などが(社会的に)弱い立場のホームレスを壁として乗り越えたがるのは、そのためです。
    言ってみれば優越感を覚えるわけですが、自我未発達の場合、大人でも同様のことをするのは、きわめて自然な理屈でしょうね。

    >献身的で周囲の人への愛情にあふれた生活をしてゐたのに、運悪く騙されて人生が転落したのかもしれません。

    どんな生活をしていたとしても、彼を貶めるのは真理に反する、というのが私のスタンスです。

    No.19の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/26 17:27
  • >「反省」というのは、他人から排斥的な行為を受けたとき、自分になにか非があるのかなと内省するということです。

    補足質問にお答えいただきありがとうございます。
    わかりましたが、しかし、順序が逆のようにも思いますねえ。
    たしかに、
    ◎怒るタイミングを逸してしまう◎
    可能性はありますが、
    ◎見極めは難しい◎
    でしょうし。

    「おかしい人 変わった人」という質問タイトルではありますが、誰しも、このような評価を受けてしまう局面はあると思います。
    その場合にどう対応するのか・・。
    難しい問題ではあります。

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/27 18:06
  • >職場ではなるべくさうなるやうに仕組んでゐます。人間の歴史を動かしてゐるのも、偉人以外では案外、馬鹿だと蔑まれてゐる者なのかもしれません。

    はっきり申し上げて、あなたは、自分ほど賢い人間はいないと思っておられますね。
    馬鹿だと必要以上に強調なさることから、それが良くわかります。
    つまり、「いいえ、あなたこそが本当の賢者です」と誰かに言ってほしいのだが、そう言われないことが怖いので、あらかじめ、自分自身で水準を下げているわけです。
    反動形成と呼ばれる、自我防衛機制のひとつです。
    他人であれ、自分であれ、偽りに対しては拒絶反応を示すように人間はできていると思います。
    素のままでいいんじゃないですかね・・。
    あれこれ小細工せずに。

    No.37の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/28 21:32
  • >実社会に出て現実の世界を知るようになると屁理屈に興味がなくなり、現実の世界で自分がどう対処すれば良いかを考えるようになる。

    それで良いのだ、とおっしゃるわけですが、ここは、完全に見解の相違のようです。
    こうした、
    ◎人類の種としての系統発生◎
    から脱しきれないからこそ、世界は混迷から抜け出せないのではないでしょうか。
    おそらく、
    ◎人類の進化◎
    についての考え方に食い違いがあるのでしょう。
    もうひとつ、cyototuさんが勘違いされていると思う点ですが、
    論理的整合性と「真理」とが必ずしも合致するわけではない、ということです。
    人間は理性的に論理を駆使する一方で、本能という制御が難しいものも同時に抱えています。
    これらを制御する役割が自我なわけですが、制御が万全というわけではありません。
    つまり、論理的不整合が人間にとっての「真理」となる場合も極めて多いということです。

    No.41の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/29 18:36
  • 少し補足しておきますと、
    >「人間はどうあるのか」の事実の分析が先、その結果、「どうあるべきなのか」の理念が後。

    に同意するのは、あくまで、
    ▼「人間はどうあるのか」の事実の分析が先行、その結果、「どうあるべきなのか」の理念が後。▼
    という順序の問題としてです。

    「人間はどうあるのか」の事実の分析が優先、その結果、「どうあるべきなのか」の理念が後。

    といった、重要性の違いを意味する内容であるなら不同意ですので念のため。

    No.62の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/07 20:06
  • いずれにせよ、ホームレスのおっちゃんが他者から侮蔑の目を向けられて不快に感じているとしたら、あるいは、ホームレスのおっちゃんに侮蔑の目を向けて満足しているような人々の卑小な精神に対して、哲学が、人間の可能性という観点から何らかの答えを出せないものか、というのが質問の趣旨です。
    散逸構造自体は、極めて興味深いもので教えていただいたことには感謝しておりますが、それはあくまで「どうあるべきか」を探るための、ひとつの手段にすぎないし、そうであるべきではないだろうか、という感想を持つ次第です。

    No.81の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/18 14:52
  • つまり、「どうあるべきか」を排除した「どうあるか」はあり得ない。
    とはいえ、
    >その判断を下すための情報が今までも今後も驚くほど少ない状況で判断しているんだということを認識しながら前に進んでいるんだということを顕在的に意識していくこと

    も、安易な「どうあるべきか」が氾濫している現状に着目すれば、極めて重要。
    どちらも重要でしょうが、どちらに力点を置くのか、あるいは折衷案は無いのか、といったことになっていきそうな気もしますね。

    No.95の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/21 20:05

A 回答 (105件中31~40件)

「どうあるべきか」と「どうあるのか」の関係の話が噛み合ないのは、どうも、問題に対する接近の仕方の違いにあるのではないか、という気がして来ました。



情報理論などの教科書を読んでいると、

「明日サハラ砂漠は晴れる」



「明日サハラ砂漠で雨が降る」

は、情報量が全然違うなどの例として出てきます。結果的に共に正しかった予測でも、前者は誰でもそう思うことで、ある意味何も言っていないに等しい。その主張が正しかったとしても、自明なことや、放っておけばそのうち誰でも自然にそのように考えるようになるようなことには情報量はほとんど入っていない。それに対して、一見自明でないことに、多くの情報量が入っているのですね。教育は智育、体育、徳育の3点で成り立っていますが、智育の本質は、放っておけば自分の経験を通して誰でも自然に解るようなことを教えるのではなく、他人から教わらないと一生解らないで終わってしまうことを教えところにあります。

人類の進化を振り返っても、先ず「どうあるべきか」の見方が最初に主張された。その事実から見ても、この見方は放っておけば誰でも言い出しそうなことと言う、ある意味自然な物の見方なのでしょう。ところが、繰り返し起こってきた悲劇による人類の長く痛い経験は、

「一寸待った、こんな誰でも言いそうなことで、問題が解決するんだろうか」

という反省を生み出して来た。その結果、理系ではガリレオが、そして文系ではマキュアベリが、奇瑞にも時期を同じくして、もっと大事な問いは「どうあるのか」という一見自明でない、したがって「どうあるべきか」より遥かに情報量の多い見方があることに気付いた。

これが私の理解です。

一寸考えれば誰でも納得する筋の通った説明で納得して良いのか。そんなに簡単に納得できてしまうというものに、驚きも発見もない。要するに情報量はほとんどないわけです。私の言う悪魔の誘惑と言うのは、この一見して解り易い、したがって情報量の少ない論理を使いながらの洗脳のことです。

だからと言って、話をわざわざ難しくせよ、と私は主張しているのではありません。例えば、自然科学が人文科学と比べて桁違いに頼りになる理由は、自然科学の発見は皆「コロンブスの玉子」だからです。玉子を立ててみよと言われて誰も立てられなかった玉子を、コロンブスが玉子を食卓に打ち付けて立ててみせた。そう、解ってみれば余りに当たり前なことばかりなのが自然科学の強みなのです。

「世界はどうあるのかをまだほとんど解ってもいいないにもかかわらず、どうあるべきかを論じていたから、避けられるはずの不幸でもいつまでたっても避けられないで皆さん苦しんでいるんだね」

とのコロンブスの玉子に、ガリレオもマキュアベリも気がついたのです。

そして、その認識を下にどうあるのかと見始めて驚いた。我々って、まだほとんど何も解っていないじゃん、ってね。

「どうあるのか」を「どうあるべきか」に優先させてみる科学に特有な見方の進歩は、それが進歩すればするほど、物質世界や生態世界の複雑性や多様性の認識を深め、その結果、未知な領域が以前よりももっと増えて来て、実際の世界は考えられて来た世界よりももっと大きいのだということを教えて来ました。思ったより世界は大きい。これって素晴しいことじゃありませんか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>もっと大事な問いは「どうあるのか」という一見自明でない、したがって「どうあるべきか」より遥かに情報量の多い見方があることに気付いた。

素人が言うのも口幅ったいですが、科学の進歩が果たす役割は極めて重要だと思います。
宇宙の摂理の解明は即ち真理の解明に果てしなく近づくことになるでしょう。
その意味で真理に最も近い学問は物理学だろうと以前より考えています。
そして、真理そのものの実体は未知数ですが、
「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)に起因して我々は生まれた。( A )」
ということだけは定理として良いだろう、とも思うわけです。
我々人類は、あくまで【揺らぎ(使い方が間違っていたらすみません)】の結果として存在しているにすぎない、と言うこともできるのかもしれません。
しかし、真理は、我々の存在態様を解明はするものの、同時に、我々の意志が、その存在態様を変化させることもあり得るように思うわけです。
当初(結果論的に)予測されていたものとは異なる【揺らぎ】が発生することだってあるのではないか、ということ。
つまり、「どうあるべきか」が「どうあるのか」に影響を与え得るはず。

>一寸考えれば誰でも納得する筋の通った説明で納得して良いのか。

ここが、おそらく食い違いの要因のひとつでしょう。
cyototuさんは、「真理」を「真理もどき」として話を展開しておられるように思うわけです。
たとえば、人類みな兄弟! みたいなことはバクチの胴元でも普通に口にするわけです。
しかし、そういったことを「真理」と規定してしまった上で、だから「どうあるべきか」を「どうあるのか」に優先させるとロクなことにはならない、という論理展開をすれば、当然、食い違いますよね。そういう意味で、
>問題に対する接近の仕方の違い

とおっしゃっておられるなら、同感です。

>「世界はどうあるのかをまだほとんど解ってもいいないにもかかわらず、どうあるべきかを論じていたから、避けられるはずの不幸でもいつまでたっても避けられないで皆さん苦しんでいるんだね」

宗教なんか、その最たるものではないでしょうか。
ただ、これを以って、
「どうあるのか」を正しく認識した上で「どうあるべきか」を論じる必要はない、ということにはならないでしょう。

お礼日時:2016/03/14 16:50

力不足かもしれませんが、私のこの度の意見は猪突さんの意見に対義できたらいいなと思って述べているものです。

それがバランス良いとなると、猪突さんの方は、ちょっとアルコールが過ぎてフラフラしているのでは無いですか?^_^

ともあれ猪突さんの成り行きに任せるという意見は取り入れて、これは案外良いなと思って自分の範囲で実践しているところです。肩の力が抜けて楽になります^_^

さて、問題となるのは、猪突さんの奉じている自然淘汰ですが、これに対する見方が大きく違いまして、これにさらに教わった幽体離脱なる見方の偏重を加えると、私は猪突さんから見て悪魔のような存在になるかもしれません。

私は自然を心の拠り所にするという道については、私もそういうところがあるので別段おかしいとは思いません。それが可能なのは自然が厳しさの反面、折に触れて優しく明るい表情を見せてくれるからであり、また、自然が人間の様にとやかく言葉を弄しないからでもあります。混沌の坩堝でありしかもバランスしている自然界を見ては、人の生死、私の生死などを様々な意味で超えているその運行に自分も身を寄せてみようかと言う気になります。私の人生の時間は有限と言うこともできるが、自然から見れば、その様な時間の解釈は拙いものだと思えるのです。

ここで、自然淘汰の話に触れますが、生き残ればOK、進化すればOK、より複雑な構造を生み出したならそれが進化の成果であって最先端であり、素晴らしい事であり、生きる意味でもある、と、このような考えがあるとするならば、私はその考えを、未熟な考えであると見ます。

例えば伝説と言うものは、時代時代に其々生み出されるものでありますが、それは繰り返し繰り返し人類の意識に上ってくるものでもあります。ですから、生ける伝説が現代にあったとしても、それが過去の伝説を超えているという様な評価は下されません。

今生きている人があって、彼の人生が素晴らしいものであったと仮定します。未来、我々より進歩、進化した人々は、自分たちの方が、その彼よりも素晴らしい人生を歩いていると、確信持って言えるでしょうか?
そんな事を言う人がいれば、彼は人生について何も分かっていないと言われてしまうでしょう。人生の本質には、時代を超えた評価基準があるのです。

進化していることが、自然淘汰で残ることが素晴らしいのではないのです。それが善なのではないのです。それでは単に、サヴァイブしたと言うことに過ぎないのです。
猪突さんの言う善とは、言わせていただくと、ただ生きているだけに過ぎません。それが善く生きることであると、どこをどう解釈すれば、言えるでしょう。確かに生き残ることは容易ではありませんが、自然淘汰の末に存在する事が何故善なのか、猪突さんは説明することが出来るでしょうか。
進化に馴染むことが善である、この微妙な表現を咀嚼しきれてはいませんが、これは、ともすれば生き残った者の傲慢ではないか、と私は思います。
私が理念を説いていると見るのではなく、人間として感じる実感を述べていると見てください。

手加減してくださっている猪突さんにこう問いを投げかけて、お返事待ちたいと思います。

スズメさんも来られて楽しくなって来ましたね^_^
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

一緒に胸をお借りしましょう。
真摯に応じていただけるのは有りがたいことですね。

お礼日時:2016/03/14 16:09

ハコブルさん!問いの中に既に答えがあるのに気がつきましたよ。



質問文中の
「排斥を目的」として、
そのような認識が・・・諸悪の根源の重大な要素のひとつになっていないでしょうか。

そうです!目的というものは願望の対象、理想のゴールで、
自分らしさはゴールをどこに設定しているか?
で理想とした、無理もなく、なりたい自分のが見れるようになるもの。

排斥は方法、手段に過ぎないのに、
排斥が目的だったり、排斥される前提で語ることが諸悪の根源ですね。

「どうしてそんななのだ?」と変人に理由を聞いてみて、
明るい未来の指針が盛り込まれていたなら悪人じゃないでしょうね。


猪突師匠の
>「洗脳されないためにも、自分を意識してバランスのある見方から逸らしてみせる」

あほなさんの
>「人間の理想を捨てること無く距離を正し、しかし現実にただおもねるのでは無く実相を解明して、安全な航路を見出そうとつとめるべきでは無いかと問いたい」
 

場当たり的に手段を変えてバランスを保つ(フォーキャスティング)は
自分らしさからではなくて、問題に対処してるだけの義務処理的。

自分にどうしても必要、これが好きで止められない留まらない、
掛け替えのない価値を持つものを明確に知れるのが自分らしさで、
そのために長期的な目標目的(バックキャスティング)がないといけない。

夢や目的には無理なものはなく、既に自分らしさを知りつつある段階なのだと思います。
変人の夢にも色々あるのでしょうが、途中で泣いたり笑ったりしても、
「勝ったり負けたり」で嫌になることはないと思います。
変人は恋人に似て、自由意志です義務じゃないから勝負などつきません。
中途半端がいいような。

手段を目的化、義務化、ある意味権利化させることが悪魔の所有に思えます。


>【質問】
異質と感じるものに対する自らの排斥感情と、我々はどのように付き合っていくべきか。
また、
他者から異質なものとして排斥感情を向けられた場合、我々はどのようにそれを受け止めるべきか。

【回答】自分に嘘をつかないこと。頑張りながらも無理しないこと。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>排斥は方法、手段に過ぎないのに、
排斥が目的だったり、排斥される前提で語ることが諸悪の根源ですね。

仮に排斥するにせよ、ちゃんとした目的(理由)が必要だということですね。

>「どうしてそんななのだ?」と変人に理由を聞いてみて、
明るい未来の指針が盛り込まれていたなら悪人じゃないでしょうね。

なるほど。
ごもっともです。

>そのために長期的な目標目的(バックキャスティング)がないといけない。

そうですね。
そのためには、その目標目的が、より真理に適ったものであればあるだけ、長期性は高まるのかもしれません。

>手段を目的化、義務化、ある意味権利化させることが悪魔の所有に思えます。

おそらく、目的より手段を考えるほうが容易だからなのでしょうね。
人は安易に流れ易い。

>【回答】自分に嘘をつかないこと。頑張りながらも無理しないこと。

わかりました。

お礼日時:2016/03/14 15:53

なんだかおもしろそうなテーマが展開しているので


ちょっと参加します。

人間の要素の一つの切り口として以下の切り方があると思います。
①自然 ②社会 ③個人

①人間存在に付随する動物と共通の部分   物質的進化のレベルで獲得 万人に共通のコアの部分 悟性
②群れを成す社会的動物としての部分    共存への有益性という方向 個と集団の矛盾の発生  理性
③他の動物とは違う人間に顕著な個性の部分 精神性による個人差    調整の先に開ける可能性 感性

共産主義と自由主義は②の偏り方の違いで、
理性偏重で悟性と感性がないがしろにされた形が前者、
理性軽視で悟性と感性が偏重されているのが後者、
という感じで
うまく融合できればより進んだ思想になりそうな気がします。

それから、人間の進化に有利ということはどういうことか考えてみると
環境依存の‘物質性の進化‘的な、つまり意思を機能させない惰性のわがまま合戦の状態から
それでは群れを成す動物としての真価を発揮できないということで
理性という意志の力で共存への有益性を目指した方向の模索が大切ということに気づき
さらにその方向が‘個人の圧殺‘になると本末転倒、
という地点くらいには来ているのが現状なのではないかと思います。

人間はまずは‘ただの生物的個体‘、そのうえで‘集団の一員‘さらに
精神性による‘個性を持った一個人‘。
最終的に人間の個性を詰めると精神性ということになり
その意味で個性を持った一個人の個性の発現が一つの目標となる。
そこから先はまたそこから先である、みたいな感覚を個人的に持っています。

ちょっと追加。
 個人を圧殺した社会至上も人に強制しなければ一つの個性である。
 また、変人というのも多様でいい範囲内ならば一つの個性である。
 多様でいいというのは他者への凶暴性にならない範囲という感覚。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>うまく融合できればより進んだ思想になりそうな気がします。

同感です。
あまり詳しくは知りませんが、サンダース候補の主張なんか、結構近いような印象も受けます。

>人間はまずは‘ただの生物的個体‘、そのうえで‘集団の一員‘さらに
精神性による‘個性を持った一個人‘。

どのような切り口でこれらを解釈していくのか、ということになりますかね。

>多様でいいというのは他者への凶暴性にならない範囲という感覚。

「凶暴性」も、先回、ご回答いただいた
◎生物性による限界◎
に含まれそうですね。
◎短絡的‘な判断を避けようとする必要◎
があるわけでしょうが、怖れや過剰防衛といったシンプルな感覚と、どのように折り合いをつけていくのか、といった辺りが課題になるのかもしれません。

お礼日時:2016/03/14 15:38

#68関連で。



あほなさんの意見は、バランスがとれていて解り易い意見ですね。おっと、そこが問題なんじゃないかな。私だったら、そんなバランスのとれた考えの人は、絶好の餌食として見る。そのバランスに取り入って、たっぷり理念に基づいた洗脳が出来ると思うからです。悪魔は決して醜い顔でやって来ない。甘く、そして相手の理屈に上手に取り入りながら、相手を自分の思うようにさせる。だから、悪魔に魅せられてしまった人間は、自分の心から納得して、悪魔に洗脳されたとも誘惑されたのとも考えないで、その悪魔的な行為を行い始めるのではないでしょうか。洗脳されないためにも、自分を意識してバランスのある見方から逸らしてみせる。私のいつも言っている幽体離脱です。

一人前の科学者になるためには幽体離脱が出来なくては駄目だと私はいつも学生たちに捲し立てております。

私は、この世に絶対的な善と絶対的な悪があると思っております。絶対的な善とは進化に馴染んだ行為、絶対的な悪とは進化に馴染まない行為です。進化は、収まるところに収まるように自然淘汰によって前進して来たのです。

#70の巫女でさんの

>変人より、変人を真似た人はより変人になる。

これって、私が上で言う、

「洗脳されないためにも、自分を意識してバランスのある見方から逸らしてみせる」

に相通じるところがあるんじゃないかな。変人を真似て、変人より極端なことをすれば、常識人のことが変人は理解しているよりも良く判るようになるんじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>洗脳されないためにも、自分を意識してバランスのある見方から逸らしてみせる。

「どうあるのか」を優先させることと矛盾しませんかね。
◎バランスのある見方から逸らしてみせる◎
というお考えは首肯できます。
であればこそ、「どうあるべきか」を優先させる必要があるでしょう。
むろん、「どうあるのか」を正しく(先行して)認識した上でですが。

>絶対的な善とは進化に馴染んだ行為、絶対的な悪とは進化に馴染まない行為です。進化は、収まるところに収まるように自然淘汰によって前進して来たのです。

それはそのとおりと思います。
ただ、そもそも、そうした「進化」が、「どうあるのか」を「どうあるべきか」に優先させることで得られるとは到底思われません。
また、ご自身も「進化」とおっしゃる時点で、すでに「善なるもの」、つまり「理想形」を想定なさっていることになるでしょう。
であるからこそ、それに馴染んだ行為を
◎絶対的な善◎
と断言する自信が生まれてくる。
結局のところ、
「どうあるべきか(善なるもの)」を「どうあるのか(進化)」に優先させておられることになります。
そして、それが自然なのでしょう。

>変人を真似て、変人より極端なことをすれば、常識人のことが変人は理解しているよりも良く判るようになるんじゃないでしょうか。

こういう質問をしておきながらこういうことを言うのは気が引ける部分もあるのですが、しかし、みなさんのご回答のおかげで、おそらく、変人かどうか、は実は本質的な問題ではないように思えてきています。
「変人たる根拠」が(たぶん)重要なのでしょう。
これを感覚的に判断してしまっていることから、種々の弊害、事件、いじめ、戦争につながっている。(むろん、これだけではないが、極めて大きな要素となっている)
「異質」の理由を論理的に分析・解釈した上で、自らの言動の選択が行なえるようになると、世の中かなり変わっていけるのかもしれません。

お礼日時:2016/03/13 00:08

下記の回答の訂正です。


「人類は宇宙でも目立って人気者で?
なので支援者も抵抗者も多い。
その人気にあやかるために人類の真似しているのかもしれない。」

の「人類」を「変人」に置換してお読みください。

最近ふと疑問になっていて、まだ調べてないのですが
和風の赤って「朱」ですよね。
「朱に交われば赤くなる」といい、交叉した別物はよりエスカレートするもののような。
変人より、変人を真似た人はより変人になる。
自分をより本格的にさせるためパクらせる、
しかし、社会や人類全体に帰属させないのであれば代金に換えてきっちり回収。
というのが現代社会のシステムですね。

損失を出しつつも、社会や人類に貢献し
笑いをとりつつパクったのであれば、
人から「悪人」呼ばわりはされないと思う。

損得勘定は損得感情。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「朱に交われば赤くなる」といい、交叉した別物はよりエスカレートするもののような。
変人より、変人を真似た人はより変人になる。

藍から出てくる青よりは愛嬌があって好かれるかもしれないですね。

>損得勘定は損得感情。

たしかに芸能人が普通だったら売れませんものね。
なかなか含蓄に富んだご見解かも。

お礼日時:2016/03/12 23:29

>・おかしいから良くない


・変わっているから良くない
という暗黙の了解の下、この社会は(基本的に)動いているでしょう。

良くない=「損してる」or「損をさせている」
人が変人ですね。良くないから。

> 宇宙人襲来のお話の意図が
>見バレ

の意味と合わせて、ちょっとわかりづらかったです。

宇宙人は人類と見た目が似ているようで思考が異なっているという比喩です。
【人類よりもっと損するために来ている】かもしれない。
変人になりたければ誰でもなれますが、誰もなろうとしないだけ。

人類は宇宙でも目立って人気者で?
なので支援者も抵抗者も多い。
その人気にあやかるために人類の真似しているのかもしれない。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

むかしは、宇宙人と言えば火星人のことで、タコでしたね。
あれはあれで可愛かった。

>【人類よりもっと損するために来ている】かもしれない。

\(-_-;)/
もしかして、あなたは・・・!!!!?!

お礼日時:2016/03/12 23:19

共産主義が、優れた人の手に社会を委ねるという手法であって、そして、ただ優れていると「思われる」人々を作ろうとし、そしてまた彼らをリーダーにし、結局破滅をもたらしたのなら、そのリーダーとなった人々も、事実、優れた人々でもなんでもなかったのでしょう。


私は、世の中に優れた人などいないと言う訳ではありませんが、優れた人が政治をとりたいと思うかどうかは別の話です。優れた人を政治家に抜擢するのでは無く、適した人を抜擢すべきだったと思います。その為には、人材適用の試行錯誤も必要でしょう。

自由主義が、成り行きに任せるという方針をとるものであって、成り行きに任せた結果、二度の大戦と数々の代理戦争と民族の分断を引き起こしつつ、文明を進歩させて来たと言うとすれば、これは別に成功でもなんでも無い話です。むしろいくつもの国と民族を破滅に追いやり、現代なお癒えぬ傷を残しておるのだから失敗の面も大きいと言えます。

共産主義だけが失敗したと言い、資本主義は失敗しなかったとは言えないでしょう。私は、どちらも失敗していると思います。そして、共産主義の失敗も、自由主義の失敗も、人間は試行錯誤の内に失敗するものであるという事実の中での、同じレベルのことであると思うのです。

ことさらに共産主義の失敗だけを取り上げ、その理由を、傲慢にも理想的な、優れているとした人間に政治を任せたことによるとし、自由主義の失敗を取り上げないのは、公平では無いと思います。批判するのであれば、自由主義の、何もしない、成り行き任せの無意志な、自由では無く自制の無い人間像を良しとし、転んでは起き転んでは起き、自然淘汰で進歩するのが人間なのだと決めつけ、受け入れたことによる失敗についても、語るべきではないでしょうか。

先回答で述べた短絡的と言う言葉を取り下げるにしても、このQAで展開された共産主義批判と、平行に存在するはずの自由主義批判に触れないと言うのは、事実を分け隔てなく見ているとは言えないのではないでしょうか。
私は、共産主義と自由主義には違いはあれど、学ぶべき失敗の素材としては同じ棚に並ぶものだと思うのです。

猪突さんは、違いを炙り出す事を手柄にされますが、一方で、これらが同じ人の業である事を見て、複合的にこれら人の行いから学び、次代の流れを汲む事について、どの様に考えておられるのでしょう。

人社会の成り行きは制御仕切れるものではない、だからと言って制御しない訳にも行かない。成り行きに任せるだけでは同じ失敗が形を変えて繰り返されるだけなのではないでしょうか。善悪観念に偏重するわけでは無いですが、自然淘汰は善ではありません。人間の理想を捨てること無く距離を正し、しかし現実にただおもねるのでは無く実相を解明して、安全な航路を見出そうとつとめるべきでは無いかと問いたいと思います。

また、目的地が無ければ航路も存在しません。海流に任せていればいつかはどこかの陸地にたどり着くでしょうが、其れは危険多き漂流をしているのと同じです。人類としての目的地、せめて次なる中継地点となり得る様な状態認識を共有し、ロードマップを計るべきでは無いでしょうか。
収まるところに収まる、これは本当のところでしょう。しかし、ぶつかりながらである、これも本当のところです。収まるならスマートに収まるのが人間的というものでは無いですか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>結局破滅をもたらしたのなら、そのリーダーとなった人々も、事実、優れた人々でもなんでもなかったのでしょう。

そのように解釈するのが論理的です。
共産主義の仕組み的に、それがどうしても無理といった根拠を持った反論が出てくれば、話はまた別でしょうけどね。

>しかし、ぶつかりながらである、これも本当のところです。収まるならスマートに収まるのが人間的というものでは無いですか?

おそらくですが、完璧な○○主義というものは無いと思うのです。
つまり、バランスが極めて重要になってくるはずと考えています。
資本主義の成功(もどき)の怖いところは、金で何でもどうにでもなると「思ってしまうようになる」ところ。アベノミクスがうまくいっているという喧伝に国民が踊らされているのを見越して憲法改正を強引に推し進めても差し支えない、とアベちゃんは考えているわけです。
低年金者に3万円をばら蒔いて、さらに地を固め選挙に突入すれば怖いもの無しという腹づもりで、ニンジンをぶら下げられた馬車馬同然に国民は見なされている。
国民(特に低年金者自身)がまともなら、こんなことやれば支持率ガタオチするはずなんですがね。
とはいえ自由が根幹と思っていますので、(資本主義的共産主義ではなく)共産主義的資本主義に近づけるよう考えていくのが理想ではないか、という気がしています。
>収まるところに収まる

という話もありますが、人間は、本能・自我・超自我という、相矛盾した要素の混合体です。
子供を完全に放っておけば、本能のみに従って育ちオオカミ少年となります。
これだって、
◎収まるところに収まる◎
と言えるのですから、あまり意味はないでしょう。

お礼日時:2016/03/12 23:12

「おかしい人」とか「変わった人」というのが、「多くの人と異なる考えや言動や態度を示す人」・・・と言うだけの意味なら、ちっとも悪い人ではない。


私も、これまでよく「ユニークな人」と言われてきたが、むしろ「人と違っていること」に大いに喜びを感じる。
要は、人間として、恥ずべき行為がなければ、どんなに人と違っていてもよい。

「おかしい」とか「変わった」というのが、公序良俗に違反しているような、人間としての道から外れるようなことでなければいいんだ! 
近頃は、そういう「何でそんなバカなことをするの?」と首をかしげる事件が多い。
例えば、先生が教室で生徒にとんでもないことを教えたり・・・いわゆる「短絡的」な発想・・・と言うやつだ。
そんなのは、いくらユニークでも、個性的でも何でもない!
文字通り「おかしい」んだ!
「変わっていること」と「変なこと」は違う!
「変わったこと」はやってもよいが、「変なこと」はやってはいけない!

異質と感じるものに対する自らの排斥感情と、我々はどのように付き合っていくべきか?
・・・その「異質と感じるもの」というのが、単に上記の「多くの人と異なる考えや言動や態度」であるのなら、それを嫌い、排斥するのは理不尽だ。自分はじめ周りの人にとって違和感があっても、それを受け入れるよう努力すべきだ。
いや、仮に違和感や嫌悪感を抑えきれなくても、距離を置くことで、直接刃を向け合う醜態を避けることは出来る。
どうしても、その人や物と日常角を突き合わせねばならない状況にあるのなら(例えば夫婦や家族や職場の同僚などの場合)、そう・・・その気になる部分には触れずに、共通点やもっと大きな共通の生きがい・目標などに目を向けるしかないかも。
そして、その人と話す時は、その人やその人の行為を主語にした批判(「あなたが・・・したことはけしからん」など、You Message)ではなく、自分を主語にしたコメント(「私は、・・・と思う」など、I Message)で話すこと。そうすれば、相手は、自分を批判されたという気持ちにならなくて済む。

他者から異質なものとして排斥感情を向けられた場合、我々はどのようにそれを受け止めるべきか。
・・・それが、あなたの「変な/公序良俗に反した言動」に対するものであったら、素直に耳を傾け、受け止め、改めよう。
しかし、そうではなく、単に、あなたの「ユニークさ」に向けられたものであり、あなたが直す必要がないと判断したのなら、気にすることなく、堂々としていればよい。なぜなら、それは「あなたの課題」ではなく、「相手の課題」であるから・・・。
結果的にそのために友達を失くしても、それは仕方がない。
自分の主義・主張や行動様式を曲げてまで、友達でいる必要はないし、そんな友達は要らない!
勿論、そうした自分の「異質性」を改めた方が良いと判断するのであれば、改めた方が良い。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

1.
>自分はじめ周りの人にとって違和感があっても、それを受け入れるよう努力すべきだ。

正論だと思います。
ただ、この違和感は、言ってみれば防衛センサーみたいなものだと思うのですよ。
つまり、「危険かもしれない」ものごとを感知する。
それだけに厄介です。
ですので、
◎受け入れるよう努力すべき◎
だけでは不足で、なぜそうすべきなのか、というところまで詰めていく必要があるかな、と感じている次第。

>その気になる部分には触れずに、共通点やもっと大きな共通の生きがい・目標などに目を向けるしかないかも。

気持ちの対処として、これは大いに有効そうですね。

>その人やその人の行為を主語にした批判(「あなたが・・・したことはけしからん」など、You Message)ではなく、自分を主語にしたコメント(「私は、・・・と思う」など、I Message)で話すこと。そうすれば、相手は、自分を批判されたという気持ちにならなくて済む。

なるほど。
非常に実践的だと思います。

2.
>あなたの「変な/公序良俗に反した言動」に対するものであったら、素直に耳を傾け、受け止め、改めよう。
>単に、あなたの「ユニークさ」に向けられたものであり、あなたが直す必要がないと判断したのなら、気にすることなく、堂々としていればよい。なぜなら、

たしかに、「変」と「ユニーク」では [ 意味 ] が180度違うでしょうね。
この「変」と「ユニーク」の基準が、一般的に異なるのだと思います。
ですのえ、この場合も、やはり根拠が重要になりそうです。つまり、ベキ論ではなく哲学が必要になる。
◎あなたが直す必要がないと判断◎
するため、あるいは、
◎気にすることなく、堂々と◎
しているためには、どのような哲学が必要になると思われますか。

お礼日時:2016/03/12 22:49

#65関連で。



>共産主義を槍玉に挙げた発言も散見されますが、資本主義の国々だって、災厄を撒き散らかして来たという事実があります。

あほなさんは、この両者の間で、「災厄を撒き散らかして来た」という共通点に焦点を当てています。共産主義は「人間はどうあるべきであるのか」と言う理念に信頼を置いて、社会の現実のあり方の方向付けを行って来た。一方資本主義は、成り行きと言う現実、すなわち「人間は現実にはどうあるのか」という事実に信頼を置き、社会の現実のあり方の方向付けを成り行きに任せて行って来た。私は上の共通点ではなく、この違いに共産主義の失敗があるのだと、理解しております。

共産主義のやり方を見ていると、社会の発展の方向は市井の人々の成り行きに任せるのではなく、人間社会はどうあるべきかを解っていると呼ばれる「優れた人」に任せ、人間のあるべき姿に基づいて社会を計画的に押し進める計画経済で進んで行けば人々は豊かになれるとの確信のもとで、社会を導きました。過去のソ連然り、現行の中国も一部資本主義に習って成り行き任せにしていますが、その根本では「優れた」共産党員制作した計画に則って、その計画を達成させることが主眼になっております。

そして、この計画経済は明らかに失敗している。その失敗の根本の理由は、人間は十分に思索が出来る人ならば、何が正しく何が間違っているかを言い当てることができので、その「優れた人」に任せれば良いとの、私に言わせれば大変不遜な信念にあると私は考えます。

一方、資本主義では、どんなに優れた人でも、この桁違いに複雑な人間の営みを制御することなんて無理だろうと考える。そこで、「優れた人」を過信して、下手に計画を立ててそれを押しつけるよりも、我々普通の巷の人々の成り行きに任せて、収まるところに自然に収まるようにさせておけば、それなりの安定解が得られるので、結局多くの人が安心できるようになって行くと考えている。もちろん、成り行きに任せてしまうのだから、失敗もあり災厄の起こることは避けられないが、その災厄の経験を通して自然淘汰がなされて、その結果それが安定解を導き出されるびで、災厄があったからと言って、この成り行き任せを放棄するのは危険だと言うのが、資本主義、もっと適切な呼び方では自由主義の立場です。

要するに、「優れた人」の理念に任せるのが共産主義であり、「市井の人」の成り行きに任せるのが資本主義です。共産主義では、「優れた人」がいるんだからその人にずっと指導者の地位に留まらせているのは当然だと考える。しかし、歴史的経験は、「優れた人」が選挙もされずに十数年に渡って何とか委員長や書記長などと呼ばれる地位にいられる制度が如何に恐ろしい制度であるかを、教えてくれています。そもそも、選挙自体が、その判断を市井の人々に任せて、成り行きで次のあり方を決めていこうよ、と言うことです。だから、人間はどうあるべきかを”知っている”「優れた人」や「指導者」の存在が前提となっている共産主義は、選挙その物が、その「優れた理念」を”知っている”指導者に異を挟む他党の存在を認めない共産党の理念と相反しているのです。その意味で、一党独裁を標榜するかつてのソ連も現在の中国も北朝鮮も、また同じ人間が16年以上にも渡って委員長の座に居続けている現在の日本共産党も、共産主義の忠実な実行者なのです。そう言えば、日本の国会議員を輩出している政党で、毎回十何年以上に渡って同じ人が委員長などの最高位を保持し続けているのは、日本共産党だけですよね。

あほなさん、これでも短絡的と言う表現を使いますか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

鄧小平なんかは、当時、なかなか良い線を行っているような気もしていました。
cyototuさんが、おっしゃることもよくわかるのですが、共産主義・資本主義というより、独裁主義・民主主義の違いなのかもしれません。(一党独裁と言っても、北朝鮮とはまた違う形態の共産国は多いでしょう)
そして、民主主義とは名ばかりの、結果独裁主義的な面による病弊が資本主義にあることは認めざるを得ないでしょう。
ただ、あくまで「自由」が最大公約数ではないかと思いますので、資本主義的共産主義ではなく共産主義的資本主義みたいなものが実現できれば良いかな、という気はしています。
まあ、他人の家の良いことよりは悪いことのほうが目につくものですよね。

お礼日時:2016/03/12 22:34
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