このように問えば、おそらくですが NO、あるいは、どちらとも言えない、 という答えがほとんどだろうと思います。
ただ、実際には、明らかに、そのように扱っているはずです。
つまり、
・おかしいから良くない
・変わっているから良くない
という暗黙の了解の下、この社会は(基本的に)動いているでしょう。
思想(国家)対立
宗教対立
いじめ
パワハラ
家族・友人
ご近所づき合い
etc.
様々な局面が想定できると思います。
そして、「おかしい人 変わった人」という認識自体は、程度の大小を問わず、排斥の対象になりやすいはずです。
あるいは、排斥を目的として、そのような認識が為される。
これって、案外、諸悪の根源の重大な要素のひとつになっていないでしょうか。
煎じ詰めると、質問としては、次のようになります。
【質問】
異質と感じるものに対する自らの排斥感情と、我々はどのように付き合っていくべきか。
また、
他者から異質なものとして排斥感情を向けられた場合、我々はどのようにそれを受け止めるべきか。
こうした2方面からのアプローチをお願いしたいと思います。
No.71
- 回答日時:
#68関連で。
あほなさんの意見は、バランスがとれていて解り易い意見ですね。おっと、そこが問題なんじゃないかな。私だったら、そんなバランスのとれた考えの人は、絶好の餌食として見る。そのバランスに取り入って、たっぷり理念に基づいた洗脳が出来ると思うからです。悪魔は決して醜い顔でやって来ない。甘く、そして相手の理屈に上手に取り入りながら、相手を自分の思うようにさせる。だから、悪魔に魅せられてしまった人間は、自分の心から納得して、悪魔に洗脳されたとも誘惑されたのとも考えないで、その悪魔的な行為を行い始めるのではないでしょうか。洗脳されないためにも、自分を意識してバランスのある見方から逸らしてみせる。私のいつも言っている幽体離脱です。
一人前の科学者になるためには幽体離脱が出来なくては駄目だと私はいつも学生たちに捲し立てております。
私は、この世に絶対的な善と絶対的な悪があると思っております。絶対的な善とは進化に馴染んだ行為、絶対的な悪とは進化に馴染まない行為です。進化は、収まるところに収まるように自然淘汰によって前進して来たのです。
#70の巫女でさんの
>変人より、変人を真似た人はより変人になる。
これって、私が上で言う、
「洗脳されないためにも、自分を意識してバランスのある見方から逸らしてみせる」
に相通じるところがあるんじゃないかな。変人を真似て、変人より極端なことをすれば、常識人のことが変人は理解しているよりも良く判るようになるんじゃないでしょうか。
ご回答ありがとうございます。
>洗脳されないためにも、自分を意識してバランスのある見方から逸らしてみせる。
:
「どうあるのか」を優先させることと矛盾しませんかね。
◎バランスのある見方から逸らしてみせる◎
というお考えは首肯できます。
であればこそ、「どうあるべきか」を優先させる必要があるでしょう。
むろん、「どうあるのか」を正しく(先行して)認識した上でですが。
>絶対的な善とは進化に馴染んだ行為、絶対的な悪とは進化に馴染まない行為です。進化は、収まるところに収まるように自然淘汰によって前進して来たのです。
:
それはそのとおりと思います。
ただ、そもそも、そうした「進化」が、「どうあるのか」を「どうあるべきか」に優先させることで得られるとは到底思われません。
また、ご自身も「進化」とおっしゃる時点で、すでに「善なるもの」、つまり「理想形」を想定なさっていることになるでしょう。
であるからこそ、それに馴染んだ行為を
◎絶対的な善◎
と断言する自信が生まれてくる。
結局のところ、
「どうあるべきか(善なるもの)」を「どうあるのか(進化)」に優先させておられることになります。
そして、それが自然なのでしょう。
>変人を真似て、変人より極端なことをすれば、常識人のことが変人は理解しているよりも良く判るようになるんじゃないでしょうか。
:
こういう質問をしておきながらこういうことを言うのは気が引ける部分もあるのですが、しかし、みなさんのご回答のおかげで、おそらく、変人かどうか、は実は本質的な問題ではないように思えてきています。
「変人たる根拠」が(たぶん)重要なのでしょう。
これを感覚的に判断してしまっていることから、種々の弊害、事件、いじめ、戦争につながっている。(むろん、これだけではないが、極めて大きな要素となっている)
「異質」の理由を論理的に分析・解釈した上で、自らの言動の選択が行なえるようになると、世の中かなり変わっていけるのかもしれません。
No.72
- 回答日時:
なんだかおもしろそうなテーマが展開しているので
ちょっと参加します。
人間の要素の一つの切り口として以下の切り方があると思います。
①自然 ②社会 ③個人
①人間存在に付随する動物と共通の部分 物質的進化のレベルで獲得 万人に共通のコアの部分 悟性
②群れを成す社会的動物としての部分 共存への有益性という方向 個と集団の矛盾の発生 理性
③他の動物とは違う人間に顕著な個性の部分 精神性による個人差 調整の先に開ける可能性 感性
共産主義と自由主義は②の偏り方の違いで、
理性偏重で悟性と感性がないがしろにされた形が前者、
理性軽視で悟性と感性が偏重されているのが後者、
という感じで
うまく融合できればより進んだ思想になりそうな気がします。
それから、人間の進化に有利ということはどういうことか考えてみると
環境依存の‘物質性の進化‘的な、つまり意思を機能させない惰性のわがまま合戦の状態から
それでは群れを成す動物としての真価を発揮できないということで
理性という意志の力で共存への有益性を目指した方向の模索が大切ということに気づき
さらにその方向が‘個人の圧殺‘になると本末転倒、
という地点くらいには来ているのが現状なのではないかと思います。
人間はまずは‘ただの生物的個体‘、そのうえで‘集団の一員‘さらに
精神性による‘個性を持った一個人‘。
最終的に人間の個性を詰めると精神性ということになり
その意味で個性を持った一個人の個性の発現が一つの目標となる。
そこから先はまたそこから先である、みたいな感覚を個人的に持っています。
ちょっと追加。
個人を圧殺した社会至上も人に強制しなければ一つの個性である。
また、変人というのも多様でいい範囲内ならば一つの個性である。
多様でいいというのは他者への凶暴性にならない範囲という感覚。
ご回答ありがとうございます。
>うまく融合できればより進んだ思想になりそうな気がします。
:
同感です。
あまり詳しくは知りませんが、サンダース候補の主張なんか、結構近いような印象も受けます。
>人間はまずは‘ただの生物的個体‘、そのうえで‘集団の一員‘さらに
精神性による‘個性を持った一個人‘。
:
どのような切り口でこれらを解釈していくのか、ということになりますかね。
>多様でいいというのは他者への凶暴性にならない範囲という感覚。
:
「凶暴性」も、先回、ご回答いただいた
◎生物性による限界◎
に含まれそうですね。
◎短絡的‘な判断を避けようとする必要◎
があるわけでしょうが、怖れや過剰防衛といったシンプルな感覚と、どのように折り合いをつけていくのか、といった辺りが課題になるのかもしれません。
No.73
- 回答日時:
ハコブルさん!問いの中に既に答えがあるのに気がつきましたよ。
質問文中の
「排斥を目的」として、
そのような認識が・・・諸悪の根源の重大な要素のひとつになっていないでしょうか。
そうです!目的というものは願望の対象、理想のゴールで、
自分らしさはゴールをどこに設定しているか?
で理想とした、無理もなく、なりたい自分のが見れるようになるもの。
排斥は方法、手段に過ぎないのに、
排斥が目的だったり、排斥される前提で語ることが諸悪の根源ですね。
「どうしてそんななのだ?」と変人に理由を聞いてみて、
明るい未来の指針が盛り込まれていたなら悪人じゃないでしょうね。
猪突師匠の
>「洗脳されないためにも、自分を意識してバランスのある見方から逸らしてみせる」
と
あほなさんの
>「人間の理想を捨てること無く距離を正し、しかし現実にただおもねるのでは無く実相を解明して、安全な航路を見出そうとつとめるべきでは無いかと問いたい」
場当たり的に手段を変えてバランスを保つ(フォーキャスティング)は
自分らしさからではなくて、問題に対処してるだけの義務処理的。
自分にどうしても必要、これが好きで止められない留まらない、
掛け替えのない価値を持つものを明確に知れるのが自分らしさで、
そのために長期的な目標目的(バックキャスティング)がないといけない。
夢や目的には無理なものはなく、既に自分らしさを知りつつある段階なのだと思います。
変人の夢にも色々あるのでしょうが、途中で泣いたり笑ったりしても、
「勝ったり負けたり」で嫌になることはないと思います。
変人は恋人に似て、自由意志です義務じゃないから勝負などつきません。
中途半端がいいような。
手段を目的化、義務化、ある意味権利化させることが悪魔の所有に思えます。
>【質問】
異質と感じるものに対する自らの排斥感情と、我々はどのように付き合っていくべきか。
また、
他者から異質なものとして排斥感情を向けられた場合、我々はどのようにそれを受け止めるべきか。
【回答】自分に嘘をつかないこと。頑張りながらも無理しないこと。
ご回答ありがとうございます。
>排斥は方法、手段に過ぎないのに、
排斥が目的だったり、排斥される前提で語ることが諸悪の根源ですね。
:
仮に排斥するにせよ、ちゃんとした目的(理由)が必要だということですね。
>「どうしてそんななのだ?」と変人に理由を聞いてみて、
明るい未来の指針が盛り込まれていたなら悪人じゃないでしょうね。
:
なるほど。
ごもっともです。
>そのために長期的な目標目的(バックキャスティング)がないといけない。
:
そうですね。
そのためには、その目標目的が、より真理に適ったものであればあるだけ、長期性は高まるのかもしれません。
>手段を目的化、義務化、ある意味権利化させることが悪魔の所有に思えます。
:
おそらく、目的より手段を考えるほうが容易だからなのでしょうね。
人は安易に流れ易い。
>【回答】自分に嘘をつかないこと。頑張りながらも無理しないこと。
:
わかりました。
No.74
- 回答日時:
力不足かもしれませんが、私のこの度の意見は猪突さんの意見に対義できたらいいなと思って述べているものです。
それがバランス良いとなると、猪突さんの方は、ちょっとアルコールが過ぎてフラフラしているのでは無いですか?^_^ともあれ猪突さんの成り行きに任せるという意見は取り入れて、これは案外良いなと思って自分の範囲で実践しているところです。肩の力が抜けて楽になります^_^
さて、問題となるのは、猪突さんの奉じている自然淘汰ですが、これに対する見方が大きく違いまして、これにさらに教わった幽体離脱なる見方の偏重を加えると、私は猪突さんから見て悪魔のような存在になるかもしれません。
私は自然を心の拠り所にするという道については、私もそういうところがあるので別段おかしいとは思いません。それが可能なのは自然が厳しさの反面、折に触れて優しく明るい表情を見せてくれるからであり、また、自然が人間の様にとやかく言葉を弄しないからでもあります。混沌の坩堝でありしかもバランスしている自然界を見ては、人の生死、私の生死などを様々な意味で超えているその運行に自分も身を寄せてみようかと言う気になります。私の人生の時間は有限と言うこともできるが、自然から見れば、その様な時間の解釈は拙いものだと思えるのです。
ここで、自然淘汰の話に触れますが、生き残ればOK、進化すればOK、より複雑な構造を生み出したならそれが進化の成果であって最先端であり、素晴らしい事であり、生きる意味でもある、と、このような考えがあるとするならば、私はその考えを、未熟な考えであると見ます。
例えば伝説と言うものは、時代時代に其々生み出されるものでありますが、それは繰り返し繰り返し人類の意識に上ってくるものでもあります。ですから、生ける伝説が現代にあったとしても、それが過去の伝説を超えているという様な評価は下されません。
今生きている人があって、彼の人生が素晴らしいものであったと仮定します。未来、我々より進歩、進化した人々は、自分たちの方が、その彼よりも素晴らしい人生を歩いていると、確信持って言えるでしょうか?
そんな事を言う人がいれば、彼は人生について何も分かっていないと言われてしまうでしょう。人生の本質には、時代を超えた評価基準があるのです。
進化していることが、自然淘汰で残ることが素晴らしいのではないのです。それが善なのではないのです。それでは単に、サヴァイブしたと言うことに過ぎないのです。
猪突さんの言う善とは、言わせていただくと、ただ生きているだけに過ぎません。それが善く生きることであると、どこをどう解釈すれば、言えるでしょう。確かに生き残ることは容易ではありませんが、自然淘汰の末に存在する事が何故善なのか、猪突さんは説明することが出来るでしょうか。
進化に馴染むことが善である、この微妙な表現を咀嚼しきれてはいませんが、これは、ともすれば生き残った者の傲慢ではないか、と私は思います。
私が理念を説いていると見るのではなく、人間として感じる実感を述べていると見てください。
手加減してくださっている猪突さんにこう問いを投げかけて、お返事待ちたいと思います。
スズメさんも来られて楽しくなって来ましたね^_^
No.75
- 回答日時:
「どうあるべきか」と「どうあるのか」の関係の話が噛み合ないのは、どうも、問題に対する接近の仕方の違いにあるのではないか、という気がして来ました。
情報理論などの教科書を読んでいると、
「明日サハラ砂漠は晴れる」
と
「明日サハラ砂漠で雨が降る」
は、情報量が全然違うなどの例として出てきます。結果的に共に正しかった予測でも、前者は誰でもそう思うことで、ある意味何も言っていないに等しい。その主張が正しかったとしても、自明なことや、放っておけばそのうち誰でも自然にそのように考えるようになるようなことには情報量はほとんど入っていない。それに対して、一見自明でないことに、多くの情報量が入っているのですね。教育は智育、体育、徳育の3点で成り立っていますが、智育の本質は、放っておけば自分の経験を通して誰でも自然に解るようなことを教えるのではなく、他人から教わらないと一生解らないで終わってしまうことを教えところにあります。
人類の進化を振り返っても、先ず「どうあるべきか」の見方が最初に主張された。その事実から見ても、この見方は放っておけば誰でも言い出しそうなことと言う、ある意味自然な物の見方なのでしょう。ところが、繰り返し起こってきた悲劇による人類の長く痛い経験は、
「一寸待った、こんな誰でも言いそうなことで、問題が解決するんだろうか」
という反省を生み出して来た。その結果、理系ではガリレオが、そして文系ではマキュアベリが、奇瑞にも時期を同じくして、もっと大事な問いは「どうあるのか」という一見自明でない、したがって「どうあるべきか」より遥かに情報量の多い見方があることに気付いた。
これが私の理解です。
一寸考えれば誰でも納得する筋の通った説明で納得して良いのか。そんなに簡単に納得できてしまうというものに、驚きも発見もない。要するに情報量はほとんどないわけです。私の言う悪魔の誘惑と言うのは、この一見して解り易い、したがって情報量の少ない論理を使いながらの洗脳のことです。
だからと言って、話をわざわざ難しくせよ、と私は主張しているのではありません。例えば、自然科学が人文科学と比べて桁違いに頼りになる理由は、自然科学の発見は皆「コロンブスの玉子」だからです。玉子を立ててみよと言われて誰も立てられなかった玉子を、コロンブスが玉子を食卓に打ち付けて立ててみせた。そう、解ってみれば余りに当たり前なことばかりなのが自然科学の強みなのです。
「世界はどうあるのかをまだほとんど解ってもいいないにもかかわらず、どうあるべきかを論じていたから、避けられるはずの不幸でもいつまでたっても避けられないで皆さん苦しんでいるんだね」
とのコロンブスの玉子に、ガリレオもマキュアベリも気がついたのです。
そして、その認識を下にどうあるのかと見始めて驚いた。我々って、まだほとんど何も解っていないじゃん、ってね。
「どうあるのか」を「どうあるべきか」に優先させてみる科学に特有な見方の進歩は、それが進歩すればするほど、物質世界や生態世界の複雑性や多様性の認識を深め、その結果、未知な領域が以前よりももっと増えて来て、実際の世界は考えられて来た世界よりももっと大きいのだということを教えて来ました。思ったより世界は大きい。これって素晴しいことじゃありませんか?
ご回答ありがとうございます。
>もっと大事な問いは「どうあるのか」という一見自明でない、したがって「どうあるべきか」より遥かに情報量の多い見方があることに気付いた。
:
素人が言うのも口幅ったいですが、科学の進歩が果たす役割は極めて重要だと思います。
宇宙の摂理の解明は即ち真理の解明に果てしなく近づくことになるでしょう。
その意味で真理に最も近い学問は物理学だろうと以前より考えています。
そして、真理そのものの実体は未知数ですが、
「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)に起因して我々は生まれた。( A )」
ということだけは定理として良いだろう、とも思うわけです。
我々人類は、あくまで【揺らぎ(使い方が間違っていたらすみません)】の結果として存在しているにすぎない、と言うこともできるのかもしれません。
しかし、真理は、我々の存在態様を解明はするものの、同時に、我々の意志が、その存在態様を変化させることもあり得るように思うわけです。
当初(結果論的に)予測されていたものとは異なる【揺らぎ】が発生することだってあるのではないか、ということ。
つまり、「どうあるべきか」が「どうあるのか」に影響を与え得るはず。
>一寸考えれば誰でも納得する筋の通った説明で納得して良いのか。
:
ここが、おそらく食い違いの要因のひとつでしょう。
cyototuさんは、「真理」を「真理もどき」として話を展開しておられるように思うわけです。
たとえば、人類みな兄弟! みたいなことはバクチの胴元でも普通に口にするわけです。
しかし、そういったことを「真理」と規定してしまった上で、だから「どうあるべきか」を「どうあるのか」に優先させるとロクなことにはならない、という論理展開をすれば、当然、食い違いますよね。そういう意味で、
>問題に対する接近の仕方の違い
:
とおっしゃっておられるなら、同感です。
>「世界はどうあるのかをまだほとんど解ってもいいないにもかかわらず、どうあるべきかを論じていたから、避けられるはずの不幸でもいつまでたっても避けられないで皆さん苦しんでいるんだね」
:
宗教なんか、その最たるものではないでしょうか。
ただ、これを以って、
「どうあるのか」を正しく認識した上で「どうあるべきか」を論じる必要はない、ということにはならないでしょう。
No.76
- 回答日時:
「どうあるのか」と「どうあるべきか」に関して
以下のように考えることができると思います。
①現状⇒ ②どうあるべきか⇒ ③かみ合わない⇒ ④どうあるのか⇒
⑤(①)現状との比較⇒ ⑥(②)どうあるべきか⇒ ・・・
という①~④の繰り返しが歴史の時間軸の直線状に
縦波が伝播するように進んでいくような感覚。
つまり、現状から可能な「どうあるべきか」が先へ伸びて
そこで「かみ合わない」ということで
「どうあるのか」によって引き戻されて可能な改善が為され
それを改めて「現状と比較」して
新たに可能な「どうあるべきか」の検討へ循環しながら前進していく傾向が
大まかにみられるのではないか、と思っています。
「どうあるのか」ということに関しては
その時点での最先端の科学的成果による判断が求められることになります。
そしてそれは、基本的に時代の進歩とともに理解が深まっていきます。
それから「進化に馴染む」ということに関して
狭義の「どうあるべきか」優先だと収束に向かうのに対して
「どうあるのか」を優先させると多様性の方向に向かうことになる
のだろうと思います。
(※多様性を踏まえた「どうあるべきか」というのは
広義の普遍的な「どうあるべきか」だと考えます。)
つまり後者の方が、多様な個性の共存ということで
文化の懐が広く深くなり
それが進化に馴染むのだという意見です。
そして種としての進化に馴染むものの一つとして
文化の成熟というものを挙げられるとすれば
必ずしも個体の遺伝子の継承にこだわる必要がないのが
人間における善というものなんだと思います。
それがあほなさんのこだわるところであり
猪突さんが言外ににおわせたニュアンスなのかな
という風に思いました。
ご回答ありがとうございます。
>①現状⇒ ②どうあるべきか⇒
:
現状=「どうあるのか」ということになると思いますが、この
◎①現状◎
を正しく認識しないまま、
◎②どうあるべきか◎
に進んでしまうから間違いが生じる、ということなのでしょうね。
それは、そのとおりだと思います。
これが、cyototuさんの考え方でしょう。
それに対し、①で正しく認識しさえすれば。
◎①現状⇒ ②どうあるべきか◎
という流れが妥当なのではないか、という食い違い。
しかし、おそらく視点の問題であって、本質的な流れは変わらないのだという気がしてきています。
>現状から可能な「どうあるべきか」が先へ伸びて
そこで「かみ合わない」ということで
:
そうなんですよね。
つまり、安易に「どうあるべきか」を決定してしまってはいけない、ということにもなるのだと思います。
何か旗印が無いと進みづらい生き物なんですかね。
むろん、安易でない「どうあるべきか」を模索することが肝心なわけで、安易さを否定するあまり、そのことまで避けようとするのは本末転倒なわけですが。
>つまり後者 [ 「どうあるのか」を優先させること ] の方が、多様な個性の共存ということで
文化の懐が広く深くなり
それが進化に馴染むのだという意見です。
:
suzumenokox さんが、どこまで納得しておられるかは、この文章からは不明ですが、ここが落とし穴ではないか、という気がするんですよね。
◎多様な個性の共存◎
と言えば聞こえは良いですが、単に、現実不適応な人々の切り捨て正当化に過ぎないと、個人的には考えます。
No.77
- 回答日時:
《どうあるべきか》を《どうあるのか》に優先させてはいけない。
――という命題(判断)は そうあるべきだと言っています。
成り行きとその認識を優先させよという《べき》論でしょう。
一人ひとりがそれぞれ別々の《こうあるべきだ》という考えで行動
しているとする場合 その場合にも おおきくは全体として《その
ようにあるのだ》という成り行き史観があてはまります。
そのような中身の――コミュニズムなる《当為》をゆるしてしまう
ような中身の――成り行き史観ではいけないというのは それとし
ての《べき》論です。
No.78
- 回答日時:
#74関連で。
あほなさんの、
>猪突さんの言う善とは、言わせていただくと、ただ生きているだけに過ぎません。それが善く生きることであると、どこをどう解釈すれば、言えるでしょう。確かに生き残ることは容易ではありませんが、自然淘汰の末に存在する事が何故善なのか、猪突さんは説明することが出来るでしょうか。進化に馴染むことが善である、この微妙な表現を咀嚼しきれてはいませんが、これは、ともすれば生き残った者の傲慢ではないか、と私は思います。
へのコメントです。
人類の進歩は、この世界にある複雑な構造には、その依って来る原理が全く違った二種類の構造があることを認識できるまでに進歩しました。その二種類とは、次の(1)と(2)です。
(1)主に我々が作り出す構造で、複雑な電子回路に代表され、現在では驚くほど成功なオートマタなどを実現させることすら出来る。
(2)我々の周りに散見される複雑な構造で、生物や我々の脳味噌など、散逸構造と呼ばれているものです。
構造(1)の特筆すべき特徴は、その構造の外側にその構造を作る者がいることです。誰かが決意してそれを作ろうとする。だから、その存在に前持った目的がある。要するに、何のためにそれが存在するのかの理由がある。だから、その構造は「どうあるべきであるか」が前もって判っている。またもう一つの特筆すべき特徴は、その目的を主眼として作り出されたので、外部や内部の想定外の変化に弱いことです。精巧であればあるほどピン一本でそれが動かなくすることが出来ます。別な言い方をすると、想定外の異物や、思わぬ雑音や、摩擦や摩滅は、その存在の維持のために妨げになる。逆に、そのような妨げがないような理想的な状況では、永久に存在できる。人間が作り出す構造は、全てこの類いの構造です。だから、何のために存在するかを問うことに意味がある。
一方(2)の、生物に代表される散逸構造は、環境からの圧力と自分内部の力学、さらに、雑音や摩擦、物質の出入りに伴う物質の散逸や情報の散逸の複雑な絡み合いで出来てくる構造です。そして、この複雑な絡み合いの結果出現が避けられない不安定性にゆえに、系の変化が避けられず、摩擦で代表される散逸ゆえに現れる多くの異なった安定点に向って、擦った揉んだしながら成り行き任せで収まるところに収まるように自発的に現れて来る構造です。この特徴は、人間が作り出す構造(1)とは反対に、それを作り出そうと言う意志をもった存在がなく、どうあるべきかとの目的も、前持ったシナリオもなく、自然発生的に出来上がってくるところにある。また、環境や内部の力学に従って収まるべきところに収まるようにして出来てきたので、想定外の異物に対して強固な抵抗力がある。さらに、安定化の起源が制御不能で確率論的な雑音や摩擦や拡散現象や物質や熱や情報の散逸現象に在るために、散逸現象で失われる情報量がある閾値を越えてしまうと、存続不能になり、どんなに理想的な状況に置いても必ず死を迎えてしまう。上の(1)のようにどんなに環境を整えても永遠の存在が不可能なのです。この成り行き任せの出現の原理が自然淘汰です。
散逸構造では、与えられた安定解から自発的にズレようとしても、どうにもならない。また、その安定点が安定しているゆえにそれに基づいた種の個体の増加や富の蓄積を伴い、その結果、それを取り巻く環境に変化を及ぼす。さらにその変化は、その安定解にその物の変化を誘発して、安定解を不安定解に変化させる。そして、その不安定性故に、環境の変化に伴って新たな安定解に指数関数的に(すなわち、劇的に)移行して行きますので、以前の安定解に留まることを許さない。すなわち、散逸構造の出現と生き残りの原理は、
「運命の女神は、それに従う者の手を取って導き、それに逆らう者の前髪を掴んで引きずって行く」
です。進化はこのようにして進んで行きます。この散逸構造で我々が出来ることは、この世界は「どうあるのか」を出来るだけ深く見極め、また進化の道筋を見極め、与えられた成り行きや状況や運命を受け入れ、精一杯生きることです。これは何も自分たちの種の危機に際して何もせずに無抵抗で生きよと言っている訳ではなく、成り行きに任せて、戦うときには戦うという選択肢もその自然淘汰の成り行きの中に含まれております。
繰り返しになりますが、自発的に出現する散逸構造のあり方には、「どうあるのか」と言う事実があるのみで、「どうあるべきか」などと言うシナリオなどありません。したがって、我々が何かを作る時のように、あたかもその構造の外側にいる者のある目的なり目標の実現のために作り上げられた構造ではないのです。
人間が複雑な物を作り出すとき、それまでの人間の自然界の認識の未熟さ故に、今まで上記(1)の構造に限って作り出すことしか出来なかったのでした。だから、複雑な構造の存在には常に何か目的があったり、それを作り出す意志があったりするものと今まで決めつけてきたのではないかしら。近代科学の進化によって、我々は散逸構造と言う、数学で言う高度に非線形で、したがって、今までの数学の未発達さ故にその詳細の論理がほとんど分析できなかった複雑系特有な(2)の類いの構造の存在を知りました。さらに、その存在にどう対処したら良いかを近代科学が我々に教え始めました。これが私の自然淘汰の理解です。
ご回答ありがとうございます。
[ 散逸構造 ]
極めて興味深いお話で、みなさんともども、素直にありがたく拝聴しているところです。
また、大いに納得できる面も多いです。
ネットで検索してみた程度の素人が軽々にコメントするのは控えておきますが、少しだけ感想を言わせてください。
>自発的に出現する散逸構造のあり方には、「どうあるのか」と言う事実があるのみで、「どうあるべきか」などと言うシナリオなどありません。
:
大雑把で恐縮ですが、車に例えてみました。
「どうあるのか」というエンジンが掛かりさえすれば、「どうあるべきか」という車輪は自ずと動き出す、ということだろうと思います。
しかし、
「どうあるべきか」という車輪を回転させることによって、「どうあるのか」というエンジンが掛かる場合もあるのではないか、という気がします。
むろん、
▼「どうあるのか」というエンジン▼
を正しく認識していないと、故障させてしまいますが。
No.79
- 回答日時:
とても楽しいし、勉強になります^_^
議論に割って入ったあほなだけ得している様な事になっていましたら、ハコブルさん、すみません。
猪突さんのご意見とは逆に、科学的な知見、技術に頼りすぎる故に、人文的なものの見方が軽視され、物事が惨劇に転じてきた面はないのだろうか?と私などは思いました。単純化された人間のルール、倫理的な事柄さえ、つまり明日サハラ砂漠が晴れであると言う話と同じくらい簡単で当たり前なことさえ実現できてこなかったのは何故なのか?一方で、人間の物を作る能力だけが活かされ発展してきたのは何故なのか?
そんな事にも目を向ける事があってもいいなとは思います。
さて、存在原理の異なる二種の複雑な構造があると述べていただきました。
一つは人造物。一つは自然物であると。
ここで私は、人造物の中にもシナリオの無い、取り立てるほどの目的の無いものがあると思いました。それは芸術です。この表現物は人間が高度な思想と技術で作り出したものではありますが、機械の様に明確な目的を持っているわけではありません。その上、機械を作る様な精緻な手技、技巧を駆使して作られる場合もあります。遊びと言うには真剣すぎる物も中にはありますし、それが人間の内面や生き方を表現したものである場合もあります。ここに、人間の作り出す人文的な意味における生命の象形と言うものがあります。
次に自然物ですが、散逸構造の発見から分かるその姿が、次々と生まれては死ぬ自然界の流転の姿であり、その構造が存在する目的が自明ではなく、また、それは誰かによって作り出されたものでもないと。
猪突さんは運命の女神と称してこの自然淘汰を抗い難きものとされていますが、将来ハゲるかも知れない私にとっては、この抗い難き流れから逃れるチャンスもあるかもしれません。
まぁ冗談は置いておいて、人間にはどうしようも無い流れであるとの見方で、出来ることはこれがどうあるのかを深く知り、どう対処するかを考えることだと。これについては同意です。沸き起こる時代の大きな流れが、自然界に見られる散逸構造と同じなのかどうか私にはわかりませんが、人間自身が人間を知らねば、歴史から学べない人類はまた同じ事をする可能性が高い。梅雨には雨が降ると言うことと同じくらい簡単な情報量で、同じ轍を踏む事が予見できます。散逸構造が安定解から次の安定解へ劇的に移行するのが避けられないなら、尚更嵐を凌ぐ知恵と針路を模索せねばならない。その道を示すのが人文であろうが科学であろうがそれは何方でも良いことです。危険を回避したならそれが正解だったと、結果論的に分かります。防災が後手に回ることが多い中、先手を打ってそれを防いだ集団もあります。歴史を振り返れば永く平和を修めた治世もあったことがわかります。嵐が来るとわかっているなら、わざわざそれに突っ込むアホはいないでしょう。平常ならば。しかし時代の空気に呑まれてそれをするのが人間でもあります。
時には頭を丸めて、運命の女神のご意向をお断りするのも必要なんじゃないですかね。と、洒落を言ってみますが、これは現実解には成り難いでしょう。みな、深く、生きたいと思っているからです。
余談。
昔、闘鶏を見たことがあるのですが、鍛え育てた鶏を闘わせて賭けをする遊びです。鶏の足には小指ほどの鋭利なナイフが取り付けられ、鶏はキックで闘うわけです。
悪魔的な遊びですが、子供の頃、昆虫を闘わせたりした事を思い出します。人の意識が未熟であると、この様な遊戯に興じるようです。善悪観念や共感が発達していないからです。人間の未熟な意識が戦争をもたらすならば、正に人文的なことの普及によって、成熟した人類社会を築くことができるでしょう。未熟な意識は、持つ力が大きければ大きいほど、それを使ってみたくなります。成熟した意識は、大きな力であればあるほど、それの制御の必要性を説きます。何方が正しく、人のしあわせに貢献するかは自明です。
中国の民度がどの程度なのかは知りません。アメリカ人もトランプ熱に浮かされています。日本でも防衛意識は高まっていますが、まだ自制は効いている方でしょう。
この東アジアはどうなるんでしょうね。まだ大丈夫だと思ってはいますが、不安がないと言えば嘘になるでしょう。三次大戦も、この様な分岐から起こるのかもしれません。
ご回答ありがとうございます。
>議論に割って入ったあほなだけ得している様な事になっていましたら、ハコブルさん、すみません。
:
それは許せません。
>それは芸術です。
:
なるほど。
これはエントロピー増大の法則に反して、散逸構造的に成立しているものに優れたものが多いのかもしれません。
>人間にはどうしようも無い流れであるとの見方で、出来ることはこれがどうあるのかを深く知り、どう対処するかを考えることだと。
:
感覚的にですが、こうした「対処そのもの」も散逸構造の一環として機能している(組み込まれている)のではないか、という気はしますね。
>アメリカ人もトランプ熱に浮かされています。
:
大局的に長い目で見れば、彼も散逸構造のひとつの要素と言えるのかもしれません。
しかし、我々は歴史家ではなく、現に時代を生きているわけで、やはり「どうあるべきか」に思いを致すことで、散逸構造の惰性から脱却する必要があるように思います。
たとえば、「おかしい人 変わった人」であれ、「悪い人」じゃないのなら、散逸構造によってもたらされる(かもしれない)好ましからざる結果から掬い上げる必要があるのではないか、ということでもある。
そのことによって、我々は原子の単なる塊ではなく、人間という意志であることを確認できるのではないかという気がするわけです。
No.80
- 回答日時:
人間の本質で、特に日本ではより顕著に、違うカラーの人間や「出る杭」は打たれると思います。
好例がありますので、ぜひ参考にしてください。
国内で多くの会員を抱える新興宗教団体「創価学会」は、他の宗教を一切認めない(最近は若干緩和されました)排他的な教団で、他宗は「邪教」であり、場合によっては非会員を「悪」と決め付けて、他宗、脱会者、創価批判的者の襲撃や組織的な電話盗聴を繰り返していました。
創価と考え方の合わない、仏教団体、共産党、立正佼成会、脱会者などは、得体の知れない変質者にストーキングされ、携帯通話記録、その他個人情報が大量に抜き取られたといいます。
以下は有名な事件の一例ですが、
・創価を批判する本の出版を妨害するために、著者を脅し、出版社への営業妨害、都議や公明党幹部を交えて著者へ出版停止を命じたりしていたため、マスコミや世間から大きく非難され創価は解散に直面した有名な事件です。(言論出版妨害事件)
・共産党、日蓮宗、立正佼成会など複数の団体をターゲットに組織ぐるみの大規模な電話盗聴を行い、東京高裁・地裁や日大名誉教授から厳しい批判を受けました。
同時に脱会者や創価を批判する政治家・評論家などの携帯電話の通話記録を盗み出し、ストーキングを繰り返していました。(NTTドコモ通話抜き取り事件、脱会者ストーカー事件)
・YahhoBBから500万件の個人情報が漏えいし、100億円以上の損害を与えた事件は、創価幹部数名によって起こされ、容疑者は上記の盗聴事件に関わった前科者であることが判明。(YahooBB個人情報漏えい事件)
近年でも、創価批判者を襲撃して緊急搬送とか嫌な事件は多いですね。
その他、池田大作レイプ訴訟、リクルート事件、脱税事件、ルノワール裏金事件、、東村山市議および伊丹十三の暗殺疑惑、創価学会本部発砲事件、中傷ビラ事件、大石寺爆破予告、大阪事件、選挙替玉事件、公明党委員長の黒い手帳事件、創価幹部セクハラ訴訟、ベネッセ個人情報漏えい・児童誘拐事件などなど
これらのほとんどは、創価と考え方の合わない、即ち、「(創価会員から見て)頭のおかしい、変わった、邪悪な人たち」を一方的に攻撃(襲撃・電話盗聴・中傷など)した犯罪行為(創価から見れば異分子をやっつけた平和活動という解釈)ですが、これらの事件から人間の負の側面が見えたと思います。
北朝鮮の独裁政治、いじめっこやテロリストの心理、カルト教団の内情は全て同一線上のものであると思います。その上で上記の例はそれをわかりやすい形で示した事件であるといえるでしょう。
よって、人間が持ち合わせている排他的な面を向けられたとしても、それらは対処できる問題ではありません。
器の小さい人間であるとして受け止める以外ありません。
詳しいことは、Wikipediaを参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E4%BE%A1 …
ご回答ありがとうございます。
>人間が持ち合わせている排他的な面を向けられたとしても、それらは対処できる問題ではありません。
器の小さい人間であるとして受け止める以外ありません。
:
たしかに一筋縄ではいかないようです。
排他の目的は常に自己防御ですからね。
排他に至るまでのプロセスも含めて解明することで、本質に近づけるはず、と考えています。
たとえば、事件を起こして排他してまで自らの教義を広めたい心理とは何なのか・・。
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#6さんから「何かわかりやすい事例を」という要請がありましたので、少し補足させていただきます。
散歩の途中でよく見かけるホームレスのおっちゃんがいるのですが、彼に対してあからさまな侮蔑の言動をとる人も、たまにいまして、これは、その人にとっても、おっちゃん自体にとっても不幸な事態ではないか、と思うわけです。
しかし、そういう言動を取る人も、言ってみれば、思わず、そうしてしまうのでしょう。
おそらく、そこには何らかの無知が存在している。
それに起因するなんらかの誤謬が、そこに発生しているのだろう。なぜなら、ホームレスを侮蔑する(一見、優位に見える)側自体が幸せな気持ちになれるはずはないのだから。
といったようなことを探ることで、「異質」に対する問題の解決が少しは見えてくるかもしれません。
>怖いのは信念にもとづいて行動するひとです。社会に貢献しない者だとして攻撃します。信念とまでは言へなくても大なり小なりそんな気持ちがあるのではないでせうか。
:
たしかにそうですね。
ただ、悲しいかな、そういう方は、その信念がどこから出てくるのか、ということに関して無知なのだろうと思うわけです。
人は、常に乗り越えられそうな壁を探し、それを乗り越えることによって成長しようとするものです。
小学生などが(社会的に)弱い立場のホームレスを壁として乗り越えたがるのは、そのためです。
言ってみれば優越感を覚えるわけですが、自我未発達の場合、大人でも同様のことをするのは、きわめて自然な理屈でしょうね。
>献身的で周囲の人への愛情にあふれた生活をしてゐたのに、運悪く騙されて人生が転落したのかもしれません。
:
どんな生活をしていたとしても、彼を貶めるのは真理に反する、というのが私のスタンスです。
>「反省」というのは、他人から排斥的な行為を受けたとき、自分になにか非があるのかなと内省するということです。
:
補足質問にお答えいただきありがとうございます。
わかりましたが、しかし、順序が逆のようにも思いますねえ。
たしかに、
◎怒るタイミングを逸してしまう◎
可能性はありますが、
◎見極めは難しい◎
でしょうし。
「おかしい人 変わった人」という質問タイトルではありますが、誰しも、このような評価を受けてしまう局面はあると思います。
その場合にどう対応するのか・・。
難しい問題ではあります。
>職場ではなるべくさうなるやうに仕組んでゐます。人間の歴史を動かしてゐるのも、偉人以外では案外、馬鹿だと蔑まれてゐる者なのかもしれません。
:
はっきり申し上げて、あなたは、自分ほど賢い人間はいないと思っておられますね。
馬鹿だと必要以上に強調なさることから、それが良くわかります。
つまり、「いいえ、あなたこそが本当の賢者です」と誰かに言ってほしいのだが、そう言われないことが怖いので、あらかじめ、自分自身で水準を下げているわけです。
反動形成と呼ばれる、自我防衛機制のひとつです。
他人であれ、自分であれ、偽りに対しては拒絶反応を示すように人間はできていると思います。
素のままでいいんじゃないですかね・・。
あれこれ小細工せずに。
>実社会に出て現実の世界を知るようになると屁理屈に興味がなくなり、現実の世界で自分がどう対処すれば良いかを考えるようになる。
:
それで良いのだ、とおっしゃるわけですが、ここは、完全に見解の相違のようです。
こうした、
◎人類の種としての系統発生◎
から脱しきれないからこそ、世界は混迷から抜け出せないのではないでしょうか。
おそらく、
◎人類の進化◎
についての考え方に食い違いがあるのでしょう。
もうひとつ、cyototuさんが勘違いされていると思う点ですが、
論理的整合性と「真理」とが必ずしも合致するわけではない、ということです。
人間は理性的に論理を駆使する一方で、本能という制御が難しいものも同時に抱えています。
これらを制御する役割が自我なわけですが、制御が万全というわけではありません。
つまり、論理的不整合が人間にとっての「真理」となる場合も極めて多いということです。
少し補足しておきますと、
>「人間はどうあるのか」の事実の分析が先、その結果、「どうあるべきなのか」の理念が後。
:
に同意するのは、あくまで、
▼「人間はどうあるのか」の事実の分析が先行、その結果、「どうあるべきなのか」の理念が後。▼
という順序の問題としてです。
「人間はどうあるのか」の事実の分析が優先、その結果、「どうあるべきなのか」の理念が後。
といった、重要性の違いを意味する内容であるなら不同意ですので念のため。
いずれにせよ、ホームレスのおっちゃんが他者から侮蔑の目を向けられて不快に感じているとしたら、あるいは、ホームレスのおっちゃんに侮蔑の目を向けて満足しているような人々の卑小な精神に対して、哲学が、人間の可能性という観点から何らかの答えを出せないものか、というのが質問の趣旨です。
散逸構造自体は、極めて興味深いもので教えていただいたことには感謝しておりますが、それはあくまで「どうあるべきか」を探るための、ひとつの手段にすぎないし、そうであるべきではないだろうか、という感想を持つ次第です。
つまり、「どうあるべきか」を排除した「どうあるか」はあり得ない。
とはいえ、
>その判断を下すための情報が今までも今後も驚くほど少ない状況で判断しているんだということを認識しながら前に進んでいるんだということを顕在的に意識していくこと
:
も、安易な「どうあるべきか」が氾濫している現状に着目すれば、極めて重要。
どちらも重要でしょうが、どちらに力点を置くのか、あるいは折衷案は無いのか、といったことになっていきそうな気もしますね。