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このように問えば、おそらくですが NO、あるいは、どちらとも言えない、 という答えがほとんどだろうと思います。
ただ、実際には、明らかに、そのように扱っているはずです。
つまり、
・おかしいから良くない
・変わっているから良くない
という暗黙の了解の下、この社会は(基本的に)動いているでしょう。
思想(国家)対立
宗教対立
いじめ
パワハラ
家族・友人
ご近所づき合い
etc.
様々な局面が想定できると思います。
そして、「おかしい人 変わった人」という認識自体は、程度の大小を問わず、排斥の対象になりやすいはずです。
あるいは、排斥を目的として、そのような認識が為される。
これって、案外、諸悪の根源の重大な要素のひとつになっていないでしょうか。
煎じ詰めると、質問としては、次のようになります。

【質問】
異質と感じるものに対する自らの排斥感情と、我々はどのように付き合っていくべきか。
また、
他者から異質なものとして排斥感情を向けられた場合、我々はどのようにそれを受け止めるべきか。

こうした2方面からのアプローチをお願いしたいと思います。

質問者からの補足コメント

  • #6さんから「何かわかりやすい事例を」という要請がありましたので、少し補足させていただきます。

    散歩の途中でよく見かけるホームレスのおっちゃんがいるのですが、彼に対してあからさまな侮蔑の言動をとる人も、たまにいまして、これは、その人にとっても、おっちゃん自体にとっても不幸な事態ではないか、と思うわけです。
    しかし、そういう言動を取る人も、言ってみれば、思わず、そうしてしまうのでしょう。
    おそらく、そこには何らかの無知が存在している。
    それに起因するなんらかの誤謬が、そこに発生しているのだろう。なぜなら、ホームレスを侮蔑する(一見、優位に見える)側自体が幸せな気持ちになれるはずはないのだから。
    といったようなことを探ることで、「異質」に対する問題の解決が少しは見えてくるかもしれません。

      補足日時:2016/02/25 20:12
  • >怖いのは信念にもとづいて行動するひとです。社会に貢献しない者だとして攻撃します。信念とまでは言へなくても大なり小なりそんな気持ちがあるのではないでせうか。

    たしかにそうですね。
    ただ、悲しいかな、そういう方は、その信念がどこから出てくるのか、ということに関して無知なのだろうと思うわけです。
    人は、常に乗り越えられそうな壁を探し、それを乗り越えることによって成長しようとするものです。
    小学生などが(社会的に)弱い立場のホームレスを壁として乗り越えたがるのは、そのためです。
    言ってみれば優越感を覚えるわけですが、自我未発達の場合、大人でも同様のことをするのは、きわめて自然な理屈でしょうね。

    >献身的で周囲の人への愛情にあふれた生活をしてゐたのに、運悪く騙されて人生が転落したのかもしれません。

    どんな生活をしていたとしても、彼を貶めるのは真理に反する、というのが私のスタンスです。

    No.19の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/26 17:27
  • >「反省」というのは、他人から排斥的な行為を受けたとき、自分になにか非があるのかなと内省するということです。

    補足質問にお答えいただきありがとうございます。
    わかりましたが、しかし、順序が逆のようにも思いますねえ。
    たしかに、
    ◎怒るタイミングを逸してしまう◎
    可能性はありますが、
    ◎見極めは難しい◎
    でしょうし。

    「おかしい人 変わった人」という質問タイトルではありますが、誰しも、このような評価を受けてしまう局面はあると思います。
    その場合にどう対応するのか・・。
    難しい問題ではあります。

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/27 18:06
  • >職場ではなるべくさうなるやうに仕組んでゐます。人間の歴史を動かしてゐるのも、偉人以外では案外、馬鹿だと蔑まれてゐる者なのかもしれません。

    はっきり申し上げて、あなたは、自分ほど賢い人間はいないと思っておられますね。
    馬鹿だと必要以上に強調なさることから、それが良くわかります。
    つまり、「いいえ、あなたこそが本当の賢者です」と誰かに言ってほしいのだが、そう言われないことが怖いので、あらかじめ、自分自身で水準を下げているわけです。
    反動形成と呼ばれる、自我防衛機制のひとつです。
    他人であれ、自分であれ、偽りに対しては拒絶反応を示すように人間はできていると思います。
    素のままでいいんじゃないですかね・・。
    あれこれ小細工せずに。

    No.37の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/28 21:32
  • >実社会に出て現実の世界を知るようになると屁理屈に興味がなくなり、現実の世界で自分がどう対処すれば良いかを考えるようになる。

    それで良いのだ、とおっしゃるわけですが、ここは、完全に見解の相違のようです。
    こうした、
    ◎人類の種としての系統発生◎
    から脱しきれないからこそ、世界は混迷から抜け出せないのではないでしょうか。
    おそらく、
    ◎人類の進化◎
    についての考え方に食い違いがあるのでしょう。
    もうひとつ、cyototuさんが勘違いされていると思う点ですが、
    論理的整合性と「真理」とが必ずしも合致するわけではない、ということです。
    人間は理性的に論理を駆使する一方で、本能という制御が難しいものも同時に抱えています。
    これらを制御する役割が自我なわけですが、制御が万全というわけではありません。
    つまり、論理的不整合が人間にとっての「真理」となる場合も極めて多いということです。

    No.41の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/29 18:36
  • 少し補足しておきますと、
    >「人間はどうあるのか」の事実の分析が先、その結果、「どうあるべきなのか」の理念が後。

    に同意するのは、あくまで、
    ▼「人間はどうあるのか」の事実の分析が先行、その結果、「どうあるべきなのか」の理念が後。▼
    という順序の問題としてです。

    「人間はどうあるのか」の事実の分析が優先、その結果、「どうあるべきなのか」の理念が後。

    といった、重要性の違いを意味する内容であるなら不同意ですので念のため。

    No.62の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/07 20:06
  • いずれにせよ、ホームレスのおっちゃんが他者から侮蔑の目を向けられて不快に感じているとしたら、あるいは、ホームレスのおっちゃんに侮蔑の目を向けて満足しているような人々の卑小な精神に対して、哲学が、人間の可能性という観点から何らかの答えを出せないものか、というのが質問の趣旨です。
    散逸構造自体は、極めて興味深いもので教えていただいたことには感謝しておりますが、それはあくまで「どうあるべきか」を探るための、ひとつの手段にすぎないし、そうであるべきではないだろうか、という感想を持つ次第です。

    No.81の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/18 14:52
  • つまり、「どうあるべきか」を排除した「どうあるか」はあり得ない。
    とはいえ、
    >その判断を下すための情報が今までも今後も驚くほど少ない状況で判断しているんだということを認識しながら前に進んでいるんだということを顕在的に意識していくこと

    も、安易な「どうあるべきか」が氾濫している現状に着目すれば、極めて重要。
    どちらも重要でしょうが、どちらに力点を置くのか、あるいは折衷案は無いのか、といったことになっていきそうな気もしますね。

    No.95の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/21 20:05

A 回答 (105件中21~30件)

すずめさん見解について お呼びでないコメントを。



それだと 精神科学をすべてなくせと言っていません?

あるいは 精神のハタラキをすべて自然科学の認識成果――これも
精神のハタラキでもあるのですが――に合わせろと。

もしそれが 人間をもふくめたすべての生物にとって心地よい存在
のあり方だとしますと そのあとに次のようなことが分かってくる
という場合はないだろうか。

自然科学の認識が果てにまで達したと思われたとき その成果によ
れば 生物や人間は それぞれその思うがままに生きることが も
っともその存在のあり方にかなっているのだと分かる場合のことで
す。

つまり いま現在 精神科学は そのような見透しのもとにそのい
となみをおこなっている。はずなのです。

《自由――存在ないし意志の自由――》ということですね。

★ おかしい人 変わった人も あるいは 悪人もが
☆ この《自由世界》にそれぞれ生きている。という認識が 自然
科学の発見によっても裏づけられる・・・といった場合です。

ゆえに 一視同仁また和光同塵という視点が われわれのいま現在
の実存にとっては およそひとしく自然におよび必然として行き着
くところとなる。
――という仮説です。

自然科学のあゆみを俟ってらんないという意味もふくみます。
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ちょっとお呼びじゃないかもしれませんが


あいまいなことも含めてもう一言参加します。

散逸構造として説明されるエントロピー減少の流れという
エントロピー増大の集中による‘創発的突沸‘が地球上に存在し
さらにその先に精神という性質が生じた、という解釈から入ります。

創発的突沸というひずみのなさ① (=物質科学 決定論的)
精神が生み出した作為②     (=精神科学 自由意志)
①②がある中で、②をいかに①に矛盾しない範囲で展開させるか、
というのが世の中の課題ではないかという立場から
‘自然科学・人文科学・社会科学‘について#81を参考に咀嚼してみました。

自然科学は‘発見‘③
(※仮説は創造性 フィクションは少なくともその練習としての意味を持つ)
流れとしては、
時代の価値観 ⇒ 可能な仮説 ⇒ データの積み重ね ⇒ 発見 ⇒ 時代の価値観 ・・・

‘時代の価値観‘は
①の発見である自然科学の成果と
②の展開としての‘人文・社会‘科学の成果の
相乗効果として歴史を構築し‘進歩・前進‘してきている
と考えていいと思います。

つまり‘人文・社会‘科学は
まず、精神を持った生命の一つとしての人間存在における現実からの‘(人文科学的)考察④‘から入り
さらに‘リアリティを伴った④‘⑤という人間にとっての現実の‘現実に存在する矛盾‘の改善のために
‘日々進歩する③の成果に立脚した⑤の発展‘(社会科学的考察)という方向性を欠くことはできない。
それによって進歩する時代の価値観は新たな進歩のベースとなる。
暮らしやすさへ・・・。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

自然科学の成果に立脚して人文科学的考察を行ない、さらにリアリティの検証を経つつ発展させていく社会科学的考察が必要だ、ということですね。
「どうあるのか」は「どうあるべきか」の手段であるというスタンスは一致しているとみました。
おそらくですが、
◎時代の価値観◎
を、我々は、あまりに安易に決めたがるのだと思います。
そのため、自然科学から検閲を受ける形になる。
しかし、それを含めての質問という形であったと言えるかとも思いますが、「どうあるべきか」についての変わらぬ本質といったものは存在しているように思う。

私も、たった今、#81へのお礼を書いたところですが、紹介されていたブログを見ると、結局、彼も同じことを言っているような気がするんですけどね。
まあ、ちょっと素人どもの頭の中を攪拌して風通しを良くしてやろうといった、(よく言えば)親切心が発揮されただけなのかもしれません。
穿って見るなら単なる我田引水ですが、せっかく面白い理論を紹介してくれた方に、そんな口を利いてはいけませんね。

お礼日時:2016/03/18 15:19

もう一つの誤植。



#81ので出し、

自然科学も人文科学も芸術も

と読んで下さい。
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#81誤植の訂正。



そこでの出だしは、

  #79関連で

と読んで下さい。
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#74関連で。



私にとって、自然科学の人文科学も芸術も、成り行きに従って進化して来たと言う意味で全て散逸構造の具現化として同列であると理解しています。

古代ギリシャ時代、ペイディアスだったかの彫刻家が

「自分は作品を創造している訳ではない、既にそこにあるものを彫り出しているだけだ」

と言ったとか。現在の芸術家で、そんなことを言う人はいないでしょう。皆、

「芸術は創造的営みであり、私が世界を創造していいるのだ」

と言うでしょう。芸術はそこまで進化して来ました。

もう15年ほど前になりますが、私が所属するテキサス大学で創造性に関する学際的な講演会が開かれ、芸術家、美術史家、社会学者、物理学者等の講演がありました。そこのパネル・ディスカッションで、ノーベル賞をもらったテキサス大学の二人の物理学科の教授、ワインバーグと私の先生だったプリゴジンの論争が印象的でした。ワインバーグ教授はいかにも素粒子論を研究して来た伝統的な物理学者らしく、

「自然科学には創造はない。たとへ今までそこにあることが知られていなかったとしても、既にそこにあった大海の中の島を発見するように、自然科学者は未見の物を発見するだけだ」

との主張でした。一方、散逸構造を提唱してノーベル賞をもらったプリゴジン教授は、

「自然界の中でも単純な事象に関しては、ワインバーグ教授のような捉え方はそれなりの説得力があることに同意する。しかし、この世界の典型的存在である複雑系のあり方の認識は、既にそこにあったものの発見として捉える訳には行かない。自然界の進化による偶然な成り行きや、人類の各民族に固有な偶然に基づいた歴史的経験が各々その文化固有な世界観を創出し、その世界観に影響されながら世界を分類整理して、世界を理解しているのだ。だから、自然科学と言えども、既にそこにあったものを発見しているのではなく、今までの歴史の経緯によって創出され進化して来た世界の認識法に多大に影響されながら、今までになかった新しい物の見方を創造しつつ、世界を理解しようとしているのだ」

との趣旨の主張でした。

この認識の変化は、正に上の古代ギリシャの彫刻家の認識から現代の芸術家の認識への変化と同じなのですが、プリゴジン教授のこの認識は、まだまだ物理学者の共通認識とはなっていないようで、自然科学者の後進性を彷佛とさせられます。

このことに触れた私のブログ記事『自然科学の後進性』

http://ameblo.jp/texas-no-kumagusu/entry-1161518 …

も参考にして下さい。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>だからこの宇宙では未来はまだ与えられておらず、系が不安定点に達したとき、その構成員の織りなす偶然が次に何が起こるかを決めているのであり、従って、その構成員は未来を構築するという創造的な営みに参加できるのだ。

という『自然科学の後進性』の記述を拝見して、やはり、「どうあるべきか」という視点は重要なのだと感じました。
個々の「どうあるべきか」があればこそ、
◎織りなす偶然◎
もまた生まれるはずだからです。
尤も、無生物のみの世界であっても散逸構造は適用されるはずですから、「どうあるのか」だけでも、それは生まれるのでしょう。
しかし、人間という存在自体が、「どうあるべきか」を考えるようにできているはずと考えているので、「どうあるべきか」という視点は必須だろうと思います。
本能・自我のみならず超自我性をアプリオリに備えているのが人間だからというのが、その根拠。
むしろ、「どうあるべきか」を求めるベクトルで人間は進んでいる、と捉えるのが自然ではないかと思います。
ただ、その際には、「どうあるのか」についての正しい事実認識が前提されなければ誤謬につながる、ということなのでしょう。
cyototuさんのニュアンスだと、
「どうあるべきか」などと悪い頭でいくら考えたって、どうせ、エントロピー増大の法則で、一旦は系が不安定点に達してぐちゃぐちゃになってしまうのだ。しかし、そこで発生するところの [ ゆらぎ] によって落ち着くところに落ち着く、という散逸構造の理論もあることであり、そこに着目して「どうあるのか」を探ることこそが有意なのであり、「どうあるべきか」など考えることに何の意味もない。
と言っているように聞こえてしまうんですよね。
まあ、プロの科学者相手に散逸構造を対等に語ることができるはずもありませんので表面的解釈で失礼しますが、取り違えている部分もあることでしょうから、ご寛恕のほどを。

字数オーバーで、以下は補足欄に。

お礼日時:2016/03/18 14:51

人間の本質で、特に日本ではより顕著に、違うカラーの人間や「出る杭」は打たれると思います。


好例がありますので、ぜひ参考にしてください。

国内で多くの会員を抱える新興宗教団体「創価学会」は、他の宗教を一切認めない(最近は若干緩和されました)排他的な教団で、他宗は「邪教」であり、場合によっては非会員を「悪」と決め付けて、他宗、脱会者、創価批判的者の襲撃や組織的な電話盗聴を繰り返していました。
創価と考え方の合わない、仏教団体、共産党、立正佼成会、脱会者などは、得体の知れない変質者にストーキングされ、携帯通話記録、その他個人情報が大量に抜き取られたといいます。
以下は有名な事件の一例ですが、

・創価を批判する本の出版を妨害するために、著者を脅し、出版社への営業妨害、都議や公明党幹部を交えて著者へ出版停止を命じたりしていたため、マスコミや世間から大きく非難され創価は解散に直面した有名な事件です。(言論出版妨害事件)
・共産党、日蓮宗、立正佼成会など複数の団体をターゲットに組織ぐるみの大規模な電話盗聴を行い、東京高裁・地裁や日大名誉教授から厳しい批判を受けました。 
同時に脱会者や創価を批判する政治家・評論家などの携帯電話の通話記録を盗み出し、ストーキングを繰り返していました。(NTTドコモ通話抜き取り事件、脱会者ストーカー事件)
・YahhoBBから500万件の個人情報が漏えいし、100億円以上の損害を与えた事件は、創価幹部数名によって起こされ、容疑者は上記の盗聴事件に関わった前科者であることが判明。(YahooBB個人情報漏えい事件)
近年でも、創価批判者を襲撃して緊急搬送とか嫌な事件は多いですね。

その他、池田大作レイプ訴訟、リクルート事件、脱税事件、ルノワール裏金事件、、東村山市議および伊丹十三の暗殺疑惑、創価学会本部発砲事件、中傷ビラ事件、大石寺爆破予告、大阪事件、選挙替玉事件、公明党委員長の黒い手帳事件、創価幹部セクハラ訴訟、ベネッセ個人情報漏えい・児童誘拐事件などなど

これらのほとんどは、創価と考え方の合わない、即ち、「(創価会員から見て)頭のおかしい、変わった、邪悪な人たち」を一方的に攻撃(襲撃・電話盗聴・中傷など)した犯罪行為(創価から見れば異分子をやっつけた平和活動という解釈)ですが、これらの事件から人間の負の側面が見えたと思います。

北朝鮮の独裁政治、いじめっこやテロリストの心理、カルト教団の内情は全て同一線上のものであると思います。その上で上記の例はそれをわかりやすい形で示した事件であるといえるでしょう。

よって、人間が持ち合わせている排他的な面を向けられたとしても、それらは対処できる問題ではありません。
器の小さい人間であるとして受け止める以外ありません。

詳しいことは、Wikipediaを参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E4%BE%A1 …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>人間が持ち合わせている排他的な面を向けられたとしても、それらは対処できる問題ではありません。
器の小さい人間であるとして受け止める以外ありません。

たしかに一筋縄ではいかないようです。
排他の目的は常に自己防御ですからね。
排他に至るまでのプロセスも含めて解明することで、本質に近づけるはず、と考えています。
たとえば、事件を起こして排他してまで自らの教義を広めたい心理とは何なのか・・。

お礼日時:2016/03/18 14:04

とても楽しいし、勉強になります^_^


議論に割って入ったあほなだけ得している様な事になっていましたら、ハコブルさん、すみません。

猪突さんのご意見とは逆に、科学的な知見、技術に頼りすぎる故に、人文的なものの見方が軽視され、物事が惨劇に転じてきた面はないのだろうか?と私などは思いました。単純化された人間のルール、倫理的な事柄さえ、つまり明日サハラ砂漠が晴れであると言う話と同じくらい簡単で当たり前なことさえ実現できてこなかったのは何故なのか?一方で、人間の物を作る能力だけが活かされ発展してきたのは何故なのか?
そんな事にも目を向ける事があってもいいなとは思います。

さて、存在原理の異なる二種の複雑な構造があると述べていただきました。
一つは人造物。一つは自然物であると。
ここで私は、人造物の中にもシナリオの無い、取り立てるほどの目的の無いものがあると思いました。それは芸術です。この表現物は人間が高度な思想と技術で作り出したものではありますが、機械の様に明確な目的を持っているわけではありません。その上、機械を作る様な精緻な手技、技巧を駆使して作られる場合もあります。遊びと言うには真剣すぎる物も中にはありますし、それが人間の内面や生き方を表現したものである場合もあります。ここに、人間の作り出す人文的な意味における生命の象形と言うものがあります。

次に自然物ですが、散逸構造の発見から分かるその姿が、次々と生まれては死ぬ自然界の流転の姿であり、その構造が存在する目的が自明ではなく、また、それは誰かによって作り出されたものでもないと。
猪突さんは運命の女神と称してこの自然淘汰を抗い難きものとされていますが、将来ハゲるかも知れない私にとっては、この抗い難き流れから逃れるチャンスもあるかもしれません。
まぁ冗談は置いておいて、人間にはどうしようも無い流れであるとの見方で、出来ることはこれがどうあるのかを深く知り、どう対処するかを考えることだと。これについては同意です。沸き起こる時代の大きな流れが、自然界に見られる散逸構造と同じなのかどうか私にはわかりませんが、人間自身が人間を知らねば、歴史から学べない人類はまた同じ事をする可能性が高い。梅雨には雨が降ると言うことと同じくらい簡単な情報量で、同じ轍を踏む事が予見できます。散逸構造が安定解から次の安定解へ劇的に移行するのが避けられないなら、尚更嵐を凌ぐ知恵と針路を模索せねばならない。その道を示すのが人文であろうが科学であろうがそれは何方でも良いことです。危険を回避したならそれが正解だったと、結果論的に分かります。防災が後手に回ることが多い中、先手を打ってそれを防いだ集団もあります。歴史を振り返れば永く平和を修めた治世もあったことがわかります。嵐が来るとわかっているなら、わざわざそれに突っ込むアホはいないでしょう。平常ならば。しかし時代の空気に呑まれてそれをするのが人間でもあります。
時には頭を丸めて、運命の女神のご意向をお断りするのも必要なんじゃないですかね。と、洒落を言ってみますが、これは現実解には成り難いでしょう。みな、深く、生きたいと思っているからです。

余談。
昔、闘鶏を見たことがあるのですが、鍛え育てた鶏を闘わせて賭けをする遊びです。鶏の足には小指ほどの鋭利なナイフが取り付けられ、鶏はキックで闘うわけです。
悪魔的な遊びですが、子供の頃、昆虫を闘わせたりした事を思い出します。人の意識が未熟であると、この様な遊戯に興じるようです。善悪観念や共感が発達していないからです。人間の未熟な意識が戦争をもたらすならば、正に人文的なことの普及によって、成熟した人類社会を築くことができるでしょう。未熟な意識は、持つ力が大きければ大きいほど、それを使ってみたくなります。成熟した意識は、大きな力であればあるほど、それの制御の必要性を説きます。何方が正しく、人のしあわせに貢献するかは自明です。
中国の民度がどの程度なのかは知りません。アメリカ人もトランプ熱に浮かされています。日本でも防衛意識は高まっていますが、まだ自制は効いている方でしょう。
この東アジアはどうなるんでしょうね。まだ大丈夫だと思ってはいますが、不安がないと言えば嘘になるでしょう。三次大戦も、この様な分岐から起こるのかもしれません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>議論に割って入ったあほなだけ得している様な事になっていましたら、ハコブルさん、すみません。

それは許せません。

>それは芸術です。

なるほど。
これはエントロピー増大の法則に反して、散逸構造的に成立しているものに優れたものが多いのかもしれません。

>人間にはどうしようも無い流れであるとの見方で、出来ることはこれがどうあるのかを深く知り、どう対処するかを考えることだと。

感覚的にですが、こうした「対処そのもの」も散逸構造の一環として機能している(組み込まれている)のではないか、という気はしますね。

>アメリカ人もトランプ熱に浮かされています。

大局的に長い目で見れば、彼も散逸構造のひとつの要素と言えるのかもしれません。
しかし、我々は歴史家ではなく、現に時代を生きているわけで、やはり「どうあるべきか」に思いを致すことで、散逸構造の惰性から脱却する必要があるように思います。
たとえば、「おかしい人 変わった人」であれ、「悪い人」じゃないのなら、散逸構造によってもたらされる(かもしれない)好ましからざる結果から掬い上げる必要があるのではないか、ということでもある。
そのことによって、我々は原子の単なる塊ではなく、人間という意志であることを確認できるのではないかという気がするわけです。

お礼日時:2016/03/14 17:56

#74関連で。



あほなさんの、

>猪突さんの言う善とは、言わせていただくと、ただ生きているだけに過ぎません。それが善く生きることであると、どこをどう解釈すれば、言えるでしょう。確かに生き残ることは容易ではありませんが、自然淘汰の末に存在する事が何故善なのか、猪突さんは説明することが出来るでしょうか。進化に馴染むことが善である、この微妙な表現を咀嚼しきれてはいませんが、これは、ともすれば生き残った者の傲慢ではないか、と私は思います。

へのコメントです。

人類の進歩は、この世界にある複雑な構造には、その依って来る原理が全く違った二種類の構造があることを認識できるまでに進歩しました。その二種類とは、次の(1)と(2)です。

(1)主に我々が作り出す構造で、複雑な電子回路に代表され、現在では驚くほど成功なオートマタなどを実現させることすら出来る。

(2)我々の周りに散見される複雑な構造で、生物や我々の脳味噌など、散逸構造と呼ばれているものです。

構造(1)の特筆すべき特徴は、その構造の外側にその構造を作る者がいることです。誰かが決意してそれを作ろうとする。だから、その存在に前持った目的がある。要するに、何のためにそれが存在するのかの理由がある。だから、その構造は「どうあるべきであるか」が前もって判っている。またもう一つの特筆すべき特徴は、その目的を主眼として作り出されたので、外部や内部の想定外の変化に弱いことです。精巧であればあるほどピン一本でそれが動かなくすることが出来ます。別な言い方をすると、想定外の異物や、思わぬ雑音や、摩擦や摩滅は、その存在の維持のために妨げになる。逆に、そのような妨げがないような理想的な状況では、永久に存在できる。人間が作り出す構造は、全てこの類いの構造です。だから、何のために存在するかを問うことに意味がある。

一方(2)の、生物に代表される散逸構造は、環境からの圧力と自分内部の力学、さらに、雑音や摩擦、物質の出入りに伴う物質の散逸や情報の散逸の複雑な絡み合いで出来てくる構造です。そして、この複雑な絡み合いの結果出現が避けられない不安定性にゆえに、系の変化が避けられず、摩擦で代表される散逸ゆえに現れる多くの異なった安定点に向って、擦った揉んだしながら成り行き任せで収まるところに収まるように自発的に現れて来る構造です。この特徴は、人間が作り出す構造(1)とは反対に、それを作り出そうと言う意志をもった存在がなく、どうあるべきかとの目的も、前持ったシナリオもなく、自然発生的に出来上がってくるところにある。また、環境や内部の力学に従って収まるべきところに収まるようにして出来てきたので、想定外の異物に対して強固な抵抗力がある。さらに、安定化の起源が制御不能で確率論的な雑音や摩擦や拡散現象や物質や熱や情報の散逸現象に在るために、散逸現象で失われる情報量がある閾値を越えてしまうと、存続不能になり、どんなに理想的な状況に置いても必ず死を迎えてしまう。上の(1)のようにどんなに環境を整えても永遠の存在が不可能なのです。この成り行き任せの出現の原理が自然淘汰です。

散逸構造では、与えられた安定解から自発的にズレようとしても、どうにもならない。また、その安定点が安定しているゆえにそれに基づいた種の個体の増加や富の蓄積を伴い、その結果、それを取り巻く環境に変化を及ぼす。さらにその変化は、その安定解にその物の変化を誘発して、安定解を不安定解に変化させる。そして、その不安定性故に、環境の変化に伴って新たな安定解に指数関数的に(すなわち、劇的に)移行して行きますので、以前の安定解に留まることを許さない。すなわち、散逸構造の出現と生き残りの原理は、

「運命の女神は、それに従う者の手を取って導き、それに逆らう者の前髪を掴んで引きずって行く」

です。進化はこのようにして進んで行きます。この散逸構造で我々が出来ることは、この世界は「どうあるのか」を出来るだけ深く見極め、また進化の道筋を見極め、与えられた成り行きや状況や運命を受け入れ、精一杯生きることです。これは何も自分たちの種の危機に際して何もせずに無抵抗で生きよと言っている訳ではなく、成り行きに任せて、戦うときには戦うという選択肢もその自然淘汰の成り行きの中に含まれております。

繰り返しになりますが、自発的に出現する散逸構造のあり方には、「どうあるのか」と言う事実があるのみで、「どうあるべきか」などと言うシナリオなどありません。したがって、我々が何かを作る時のように、あたかもその構造の外側にいる者のある目的なり目標の実現のために作り上げられた構造ではないのです。

人間が複雑な物を作り出すとき、それまでの人間の自然界の認識の未熟さ故に、今まで上記(1)の構造に限って作り出すことしか出来なかったのでした。だから、複雑な構造の存在には常に何か目的があったり、それを作り出す意志があったりするものと今まで決めつけてきたのではないかしら。近代科学の進化によって、我々は散逸構造と言う、数学で言う高度に非線形で、したがって、今までの数学の未発達さ故にその詳細の論理がほとんど分析できなかった複雑系特有な(2)の類いの構造の存在を知りました。さらに、その存在にどう対処したら良いかを近代科学が我々に教え始めました。これが私の自然淘汰の理解です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

[ 散逸構造 ]
極めて興味深いお話で、みなさんともども、素直にありがたく拝聴しているところです。
また、大いに納得できる面も多いです。
ネットで検索してみた程度の素人が軽々にコメントするのは控えておきますが、少しだけ感想を言わせてください。

>自発的に出現する散逸構造のあり方には、「どうあるのか」と言う事実があるのみで、「どうあるべきか」などと言うシナリオなどありません。

大雑把で恐縮ですが、車に例えてみました。
「どうあるのか」というエンジンが掛かりさえすれば、「どうあるべきか」という車輪は自ずと動き出す、ということだろうと思います。
しかし、
「どうあるべきか」という車輪を回転させることによって、「どうあるのか」というエンジンが掛かる場合もあるのではないか、という気がします。
むろん、
▼「どうあるのか」というエンジン▼
を正しく認識していないと、故障させてしまいますが。

お礼日時:2016/03/14 17:36

《どうあるべきか》を《どうあるのか》に優先させてはいけない。


――という命題(判断)は そうあるべきだと言っています。

成り行きとその認識を優先させよという《べき》論でしょう。

一人ひとりがそれぞれ別々の《こうあるべきだ》という考えで行動
しているとする場合 その場合にも おおきくは全体として《その
ようにあるのだ》という成り行き史観があてはまります。

そのような中身の――コミュニズムなる《当為》をゆるしてしまう
ような中身の――成り行き史観ではいけないというのは それとし
ての《べき》論です。
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「どうあるのか」と「どうあるべきか」に関して


以下のように考えることができると思います。

①現状⇒ ②どうあるべきか⇒ ③かみ合わない⇒ ④どうあるのか⇒
⑤(①)現状との比較⇒ ⑥(②)どうあるべきか⇒ ・・・
という①~④の繰り返しが歴史の時間軸の直線状に
縦波が伝播するように進んでいくような感覚。

つまり、現状から可能な「どうあるべきか」が先へ伸びて
そこで「かみ合わない」ということで
「どうあるのか」によって引き戻されて可能な改善が為され
それを改めて「現状と比較」して
新たに可能な「どうあるべきか」の検討へ循環しながら前進していく傾向が
大まかにみられるのではないか、と思っています。

「どうあるのか」ということに関しては
その時点での最先端の科学的成果による判断が求められることになります。
そしてそれは、基本的に時代の進歩とともに理解が深まっていきます。

それから「進化に馴染む」ということに関して
狭義の「どうあるべきか」優先だと収束に向かうのに対して
「どうあるのか」を優先させると多様性の方向に向かうことになる
のだろうと思います。
(※多様性を踏まえた「どうあるべきか」というのは
  広義の普遍的な「どうあるべきか」だと考えます。)

つまり後者の方が、多様な個性の共存ということで
文化の懐が広く深くなり
それが進化に馴染むのだという意見です。

そして種としての進化に馴染むものの一つとして
文化の成熟というものを挙げられるとすれば
必ずしも個体の遺伝子の継承にこだわる必要がないのが
人間における善というものなんだと思います。
それがあほなさんのこだわるところであり
猪突さんが言外ににおわせたニュアンスなのかな
という風に思いました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>①現状⇒ ②どうあるべきか⇒ 

現状=「どうあるのか」ということになると思いますが、この
◎①現状◎
を正しく認識しないまま、
◎②どうあるべきか◎
に進んでしまうから間違いが生じる、ということなのでしょうね。
それは、そのとおりだと思います。
これが、cyototuさんの考え方でしょう。
それに対し、①で正しく認識しさえすれば。
◎①現状⇒ ②どうあるべきか◎
という流れが妥当なのではないか、という食い違い。
しかし、おそらく視点の問題であって、本質的な流れは変わらないのだという気がしてきています。

>現状から可能な「どうあるべきか」が先へ伸びて
そこで「かみ合わない」ということで

そうなんですよね。
つまり、安易に「どうあるべきか」を決定してしまってはいけない、ということにもなるのだと思います。
何か旗印が無いと進みづらい生き物なんですかね。
むろん、安易でない「どうあるべきか」を模索することが肝心なわけで、安易さを否定するあまり、そのことまで避けようとするのは本末転倒なわけですが。

>つまり後者 [ 「どうあるのか」を優先させること ] の方が、多様な個性の共存ということで
文化の懐が広く深くなり
それが進化に馴染むのだという意見です。

suzumenokox さんが、どこまで納得しておられるかは、この文章からは不明ですが、ここが落とし穴ではないか、という気がするんですよね。
◎多様な個性の共存◎
と言えば聞こえは良いですが、単に、現実不適応な人々の切り捨て正当化に過ぎないと、個人的には考えます。

お礼日時:2016/03/14 17:17
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