牛、豚、鶏、どれか一つ食べられなくなるとしたら?

なんだかもったいぶったタイトルですねホント。

本日二度目の質問で恐縮ですが、

私の友達にも友達以外にも、生まれたときから複数の言語に囲まれて育ち、どの言語もほぼ同じくらい習得している人たちがいます。彼らはそれらをみな「母語」と呼ぶようです。全員そう呼ぶわけはありませんが、少なくとも一人を知っています。 私たち日本人はほぼ全員、生まれたときから日本語の中だけで育ちますよね。 そういうことから考えると彼らは一見羨ましいようですが、実際どうでしょう。


考えてみてください。日本語だけに浸って育った日本人の中で、その日本語を完璧に操れる人がいったいどれだけいますか。(私は当然操れない組ですよ。こんなこと言ってるんだから。) みんな操れるなら、伝えることがありさえすればみんな作家になれます。

これは日本語が極めて難しい言語であるという事実も絡んでいるのでしょうがしかし、単一言語に浸ってそれをマスターできない人類という生物が、例えば3つの言語に囲まれて3つともマスターできるのでしょうか。
私の答えはノーです。 私自信がその最たる証拠ですから(笑) あ、でもこれはよくありませんね。ひがみのようにも聞こえますし、実際そうかもしれません(笑)

彼らは一面羨ましい境遇ですが、一面かわいそうなところもあります。私の意見が正しいとすれば、彼らのうち、たった一つの言葉も習得することがない者は少なくないはずです。 

答えを求めているのではなく、多くの人の意見を聞きたく、投稿しました。
皆さんはどうお考えですか。

言語というのは三つ持っていてもその内一つか二つをマスターすることは可能だと思いますか?

A 回答 (16件中1~10件)

私は小6の男子の父親です。



現在、中学受験の塾に通い、来年の入試に向けてがんばっています。

息子は小さい頃から読書家で、今も歯磨きをしながら読書をしている始末で、おかげで国語だけは得意で、テストではかなり高い偏差値をとることもあります。
しかしながら、彼もたった一人だけ、国語でかなわない同級生がいます。
その子は、父が台湾、母が日本のハーフで、当然バイリンガルです。

小さいときから、複数言語の環境下で育つと、
言語に対する処理能力が大きくなるのではないでしょうか?

ただの、バカ親のボヤキですが...
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この回答へのお礼

なるほど、ありがとうございます。

大変ごもっともな意見だと思います。
一つ一つの言語を見るのではなく、言語というまとまりを総括して見なければいけないということですね。

大変参考になりました。ありがとうございます。

お子さんの成功、心から祈っております。

お礼日時:2004/07/22 23:21

私の周りでもバイリンガルと呼ばれる人が何人か


います。(私も時にはそう呼ばれることも
ありますが、自分自身はそう思っていません)
ただ、彼らは2つの言語をいつでも同じように
操れるわけではなく、日本語で身につけた知識・経験
は日本語で、そのほかの言語で身につけた知識・経験
はその言葉でしか表せません。
2つの言語を同程度にマスターするには両方の言語で
同じような経験をしないといけないのかもしれません。

この回答への補足

yokochocoさんには申し訳ありませんが、この場を使わせていただきます。

<順番が意味不明ですいません!
#16のお礼、#15のお礼、そしてこれ#16の「補足」という順番で書いています。(因みにそれ以下は順番どおりです。)>

サンクスポイントなんですが、いまどなたの答えにつけようかと迷ったところ、どなたにもつけられないと思いました。 だれの回答が答えってわけでもないですし、誰かにつけてしまえばひいきになります。
つまり、全ての回答が参考になっている一方、完全な回答は無いということです。
しかし、やはり誰にもつけないよりかは誰かにつけた方がいいでしょうから、仕方なく回答の中から選ばしていただきます。
皆さんに理解してもらいたいことは、どの回答も参考になっているし私が選んだもの以外は役に立たなかったというわけではない、ということです。

たくさんの返答、たくさんのご意見、感謝の限りでした。

補足日時:2004/07/24 16:48
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この回答へのお礼

ちょっと不思議ですね。
どっちの言葉の語彙も十分豊富なのですよね?それともやはり私の脳みそでは理解し得ないもっと深い問題なのでしょうか。
語彙があれば、一つの言語で表しうる限りどんなことでも表現できるように私は思うのですが、きっともっと深い問題なのだと思います。(例外はあります。特定の分野における単語が豊富な言語の場合、そこのところは難しいかもしれません。)

しかし、大変興味深い情報有難うございました。

お礼日時:2004/07/24 16:12

No.12です。



礼の欄のご投稿拝見しました。

一つ思い出したことがあります。

マレーシアの得意先とは英語で通信していましたが、経営者夫婦(中国系マレーシア人)が来日した時聞いたのですが夫婦間では英語を話していました。 何故かと尋ねると、それぞれの両親、祖父母の出身省(中国xx省、yy省等)が違っていてそこの言葉(広東語、福建語、八家語等の方言、どれとどれか忘れました)で育って来た故、他所の言葉は分からないから英語で話していると言っていました。

うまく言えませんが、このことが何かを示唆していて、あなたの質問に対する一つの答えになっていないでしょうか。

見当外れな回答になっていればごめんなさい。
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この回答へのお礼

なるほど、たしかにそういう例も聞きますね。

しかし....う~ん、どうでしょう。ピンとはきませんね。すいません。 そのうちピンと来ることがあるかもしれません。

ところで、この場を借りて書かせていただきます。
みなさん大変ありがとうございました。
さまざまな人の考えに触れられて嬉しく思います。
ほとんどの人の意見が、「普通の意味」でのマスターすることならば3つでも可能、ということですね。
自分の考え方がかわっていることも分かりましたし、皆さんの考え方もわかりました。
きっとマルチリンガルの方は、ちょうど私が日本語だけを話すように(例えば)フランス語とドイツ語とイタリア語’だけ’を話すのでしょう。つまり、複数言語習得に際して一つも完璧になることが無い、といった事態は起こらないのでしょう。

以上が、この投稿により得た私の見解です。
これにて締め切らせていただきます。

大変ありがとうございました。

お礼日時:2004/07/24 16:27

再び cherry77です。


私、疑問に思ったんですが、アイルランドの人たちにとっては アイルランドが母語で英語が外国語のはずなんですが、現状ではアイルランド語と英語の立場が まるっきり逆転しています。すなわち、英語が母語でアイルランド語が外国語という感覚です。

また、国や地方によっては、日常会話は母語でも 抽象的だったり専門的なことを言及するには英語とかフランス語を使わざるを得ない人々も沢山おります。そういう人たちから見れば 日本人は幸せかもしれないですね。日本語で、殆ど用が足せるのですから。

それともうひとつ。日本語は確かに客観的に見ても、英語よりは難しいと思います。でも、日本語には英語からの夥しい外来語がありますので、英語にもかなり
親しみやすく、単語を覚えるのにも有利な点があると
私は思います。それと、日本語は漢字を使いますので、中国語を学習するのにも、欧米人よりは漢字を覚える負担が比べ物にならないくらい軽いです。ただ、
漢字が意外な落とし穴だったりもしますが、、、。

それと、日本における外国語教育の特徴というか、問題点ですが、日本では外国語の学習は中国語から始まり、音は軽視して 文字を非常に重視しました。英語もそれを踏襲していますね。つまり、日本では外国の文献を通して外国の文化を吸収することに重点が置かれ、コミュニケーションの手段ということは2の次にされてきたのです。
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この回答へのお礼

そうなんですか。そういう国もあるのですね。たしかにちょっとかわいそうです。
ところでオランダの事をご存知ですか。オランダではいたるところで英語が用いられ、住んでいる人の80%は日常会話に全く支障が無いくらい英語をしゃべれると言われます(90%だったかな?)。しかしそんな中オランダ語という自分の言葉を失うことなく、しっかりと守っているようです。英語が公用語になることもありません。
わたしがオランダに行ったことあるわけでもなく特に詳しいわけでもありませんが、アイルランドのことを聞いて思い出しました。

日本における外国語教育について。
わたしの意見ですが、その特徴はそれでいいと思います。
昔から文献は船に乗ってどんどんやってくる一方、入ってくる人間は少なかったのでしょう。そうなれば文献の勉強ばかりするのも当然です。
いちど書かれた言語を学んでおけば、それを土台に後から簡単にコミュニケーションの力を身につけられますが、さきにコミュニケーションの力をつけても書かれた言語を読む書くとなると一からしなおさなければなりません。それはそれで日本の文化、特徴と言うことだと思います。それをうらやましがる国ももしかしたらあるかもしれませんよ。

いろいろなこと、お教えいただいて大変感謝しております。
ありがとうございました。
(そろそろ閉め切らさせていただこうと思います。)

お礼日時:2004/07/24 15:57

再びtennです。



>「マルチリンガルであることを必要としないためにモノリンガルであることが当然の日本では、諸外国人がマルチリンガルであることの必然性を理解することはできないし、あえて必然性を求める必要も無い。彼らは自然の成り行きで数ヶ国語を習得したのであって、自然の成り行きではそれを習得することのない日本人がうらやましがることは何もないし、その成り行きを理解することもできない。」
とでもいったことになるのですが、仰ることはそれでよろしいのでしょうか。・・・。

・オーッ、なんと、ありがたき幸せ、忝(かたじけな)い。まさに私の言いたかったことをズバリと突いています。私の第一回目の元原稿と同じ文章体です。いきなり他人様に、とてもじゃないが見せられる文章ではないので'超'婉曲的に編集し直して投稿した裏事情があり、実は。

>とりあえず、
「言葉が相手に完全に通じて言葉を持っていることが役に立った時をマスターしたと呼ぶなら、複数言語をマスターすることは可能。実際そういう人がたくさんいる。」

・とてもとても多くいます。'モノ'さんのほうが少ないと思います(実体験上)。'バイ'さん'、マル'さんが過半でしょうか(私見)。離れ小島で数千数百年、連綿と孤立して生きてきた人民は'モノ'で'必然'でしょうか。今世紀が終了した時点でも日本は'モノ'から脱することはないと考えます。
'言語'は'文化'とともに覚えるものです。彼の国の人民のように言語だけを学ぼうとするから文法に拘って悶絶するんですね。普通の日本人は外国語は必要が無いんだから'モノ'で結構、と考えればものすごく気が楽になるのにね。

自国の文化・文明を蔑(ないがし)ろにしてまで、'バイマル'さんになる必然性は絶無ですよね。必要に迫られれば、どなたでもなれます、知力が備わっていれば。『和臭漢陋に陥る無かれ』です。

>「(私の考えですが)使う言葉が、誰が見ても的確で美しく、それ以上のものは無いと考えられるときをマスターしたと呼ぶなら、それを判定する術が無いし最上のものというのが確定しないんだからそんなことはわからないっちゅの。」ということですね。

・それゆえに、私は暫定的に'道具'としてお役に立てば、それがマスターしたと言えるでしょうと書きました。如何ですか、この発想は。
言葉とは所詮、伝達のための道具・工具です。'学問'ではありませんね。道具としての言語を学問と捉える民族は日本人の特異現象だとも書きました、前回。

>そして皆さんの意見をふまえると、
「マルチリンガルの人が母語とする言語は、その言語においてモノリンガルである人の母語(その言語)と同等のレベルに達することができる。」というのが妥当かと思います。

・同等までは可能だし、必要性があれば力(りき)んで努力しなくても成り得ます。しかしそれを超えることは絶対的にないと考えます。
'マル'さんといえども、基準・基幹言語である母語から全ての思考・発想が始まります。もし、母語を超えたら、もはやそれは母語とは言えず、超えた言語が母語に代わったと言うことでしょうか。

青年期に母国を離れた、または追われた人が数十年ぶりに帰国したとき、もはや初期母語に取って代わって僑生の地の言語が母語になっている例は日本以外では日常的にあります。(ユダヤ・華僑・華人の僑生が典型例のひとつ)。

再び『言語はその人を超えられず』而言です(笑)。
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この回答へのお礼

またまたありがとうございます。

>・それゆえに、私は暫定的に'道具'としてお役に立てば、それがマスターしたと言えるでしょうと書きました。如何ですか、この発想は。
ええ、それもひとつの立派な発送だと思います。言葉の意味というのは一つに確定しているようで実はいくつも取りようがありここの所にあえて一つの答えを求める必要もなく、人それぞれが自分の考えでいいんじゃないか、ということが分かりました。皆さんの意見を聞いて。
しかしまあ、一般論としてはそれで”正しい”と思います。言語は本当に道具ですから。

>青年期に母国を離れた、または追われた人が数十年ぶりに帰国したとき、もはや初期母語に取って代わって僑生の地の言語が母語になっている例は日本以外では日常的にあります。(ユダヤ・華僑・華人の僑生が典型例のひとつ)。
へぇ、そんなことがあるのですか。
それは興味深いことですね。生まれたのちに聞いた言葉でも、後から習得されたものに母語の座を取って代わられることがあるということですね。興味深い。

tennさんのご意見、大変参考になりました。
ありがとうございましたー m(_ _)m

お礼日時:2004/07/23 23:44

1)羨ましいか否かは個人個人の感じ方で千差満別ではないでしょうか。



2)「操る」 - 色々な基準、尺度があると思いますが、日本で普通に日常生活を営むことで不便を感じなければ,日本語を[話せる」(あなたの仰る「操る])と言えます。 言語学者、研究者でない一般人なら、その段階で「マスター」の段階に到達しているでしょう。

3)日本語が諸外国語に比べて難しいと感じるのは単なる思い込みに過ぎないと考えられます。 例えば、香港、シンガポール等ではたいていのみやげ物店に日本語を話す現地の人がいます。 香港のホテルでは小学校低学年ぐらいの子供が日本語を話すエレベーター係りでした。 また、私の知合いに中国出身で日本滞在数ヶ月の人が部屋を借りて日本人の中で暮らしています。 私より日本語がうまいと思う時があります。 こう言う例を挙げればきりがありません。

4)必要であれば、又やる気があれば、2ヶ国語、3ヶ国語でも覚えられるでしょう。

まとまりの無い文でごめんなさい。
 
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>2)「操る」
これに関しては、どうも仰るとおり色々な尺度、基準があるようです。 私なんかは、確かに日常では不便は感じないものの、ときどき「もっと的確でいい表現がある…でもこの場で思いつかない…」という状況に遭遇します。その点が、私の『「不便もしない」のだけれど「マスターもしていない」と感じるところ』です。

そのほかにも、文章を書く際にどうも分かり易く的確な文章をかけません。 そこも『「マスターしていない」と感じるところ』です。

>3)日本人が…
確かにそういう面を見れば、日本語が習得可能であるということは証明されますが、諸外国後に比べ相対的に難しいかどうかは分からないと思います。日本語を駆使する外国人が多くいる。そして(例えば)英語を駆使する非英語圏の人間ははるかにもっと多くいる。なのかもしれませんよ。日本語だけを見ても相対的な話はできないと思います。
やっぱり、モノリンガルである私たち(マルチの方がいらっしゃったら失礼)がどうだこうだ言っていても、そこの所はどうしようもありませんね。実際に他の言語と同分量だけ日本語を、しかも外国語として勉強した者でないと分からないのでしょう。

私も勝手に「きわめて難しい日本語」などといってすいませんでした。よく考えるべきでした。

とにかくいずれにせよ、返信ありがとうございました。

お礼日時:2004/07/23 23:29

『言葉は、その'人'を超えられず』。

これに尽きますね。
ウッソォ~、ホントォ~、マジッ? なんて言ってる者に、源氏物語やサルトルやデカルトやカントや三島由紀夫を語れるか、いや語れまい。言葉は「文化・文明・その人」そのものです。基本になる母語を超えることは絶無でせう。

>言語というのは三つ持っていてもその内一つか二つをマスターすることは可能だと思いますか?

・可能か不可能かは、ひたすらその'人'の知力と努力に拠りけり。ただし母語を超えることはありえないでしょう。(実生活の場の)環境は、それを補佐する重要な要素です。
たとえ理解している、話せたからといって羨ましきに値するでしょうか。一見・二見でも羨ましく思うのは自国語しか使えない彼らだけではないでしょうか(除く、質問投稿者さん)。

私が公用・私用を問わず日本国以外で知り合った多くの知人・友人たちで母語ひとつしか話せない、理解しない、使えない者は稀少。そして彼らは、その必要性が有ったからこそ自然に覚えたり、いくらかでも努力して体得したもの。
島国で世界から遮断?された日本国で生まれ育った人には理解不能です、この'必要性'の部分が、残念ですが・・・。
欧米他にも自国語しか話せない人は少なくはない筈。しかしマルチリンガルに接して些かでも羨ましく感じることはまずありません、彼らの多くは(経験談)。無理して、時間とお金を掛け教材を買って学習して他言語を習得していく日本人の特殊現象だと思います、これは。

そもそも自分を他人と比較する(一般的)習慣自体が希少です、欧米・アジアの普通の人は。人の赤ちゃんは必要が有ればこそ言葉を覚えることを想像してみてください。同時に文明も覚えていきます。特に本国以外の華人の子たちは幼児期にすでに複数言語を見事?に操ります。必要が有るからです。
成人してからこの世に複数言語・文明の存在を知った人は、知力と努力次第で'道具'としての言語は習得可能です。言語とは道具としてお役に立ったときをマスターしたと捉えれば良いのではないでしょうか。むつかしく考えると頭が痛くなるだけです(笑)。
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閑話休題:
ハイカラ野郎のペテン師のイカサマ師のやしのモモンガーの岡っぴきのワンワンなけば犬も同然の奴。← ← 漱石の坊ちゃんが赤シャツを罵った言葉の例。悪口の言葉の多いのは文化です。ほめ言葉の多いのも文化です。今日の'バカヤロー'よりはるかに豊富で文化的ですね、明治期は。

言語とは文化そのものです。『人を見て物言う』といいます。『言った言葉で人が解る』とも言います。文化です。日本では日本語以外は不要な国だから、必要を感じた人だけが学べばよしとすれば気が楽になりますね。
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地球の王様-米国の'普通の人'は複数言語を操る人は稀です。'必要性'がないんでしょうね、きっと(汗)。以上、単なる参考までに。
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この回答へのお礼

また新しいご意見、大変ありがとうございます。
私の頭の中の理解は
「マルチリンガルであることを必要としないためにモノリンガルであることが当然の日本では、諸外国人がマルチリンガルであることの必然性を理解することはできないし、あえて必然性を求める必要も無い。彼らは自然の成り行きで数ヶ国語を習得したのであって、自然の成り行きではそれを習得することのない日本人がうらやましがることは何もないし、その成り行きを理解することもできない。」
とでもいったことになるのですが、仰ることはそれでよろしいのでしょうか。

そして本題です。
思うのですが、人により言葉に対する意味の取り方が違うので、「マスターする」については質問する意味があまりないようです。

とりあえず、
「言葉が相手に完全に通じて言葉を持っていることが役に立った時をマスターしたと呼ぶなら、複数言語をマスターすることは可能。実際そういう人がたくさんいる。」
「(私の考えですが)使う言葉が、誰が見ても的確で美しく、それ以上のものは無いと考えられるときをマスターしたと呼ぶなら、それを判定する術が無いし最上のものというのが確定しないんだからそんなことはわからないっちゅの。」
ということですね。

そして皆さんの意見をふまえると、
「マルチリンガルの人が母語とする言語は、その言語においてモノリンガルである人の母語(その言語)と同等のレベルに達することができる。」
というのが妥当かと思います。


意見をまとめてしまう必要はありませんが、
以上のようなことで私は納得できました。

皆さん本当にありがとうございます。
大変参考になります。

お礼日時:2004/07/23 13:56

#7です。



>例えば母語に加え二ヶ国語の中で育った人は、母語さえも完全な習得を得ることがないのかなぁ
全く無関係でもないでしょう。ただ、母語とは何かということにもなります。


>それはつまりどういうことですか?何が言いたいのでしょう?
それは、個人差が大きすぎて一般論は出せないということです。勿論、環境に負う部分も大きいですが、同じ環境でも人によって著しい差が出てくるのは何に起因するのか、私はむしろそっちの方が疑問に感じます。つまり、この問題は普遍性を見出すよりも、多様性を追求した方が意義が深いと思います。それによって普遍性も見えてきます。
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この回答へのお礼

>全く無関係でもないでしょう。
そうですか… そうなると日本に生まれたこと、そういった面ではアンラッキーだったと思わざるを得ないですね。

>環境に負う部分も大きいですが、同じ環境でも人によって著しい差が出てくるのは何に起因するのか
それはやはり生物としての個体差ではないでしょうか?言語に関することだけではないと思います。
みんななんでもやればできると言う人もいますが、やはり私は、それぞれ得手不得手がありできるものとできないものがあると思います。


お返事、ありがとうございました。
いろいろな人の意見を聞けて嬉しく思います。
自分の意見がかなり特異であることもよくわかりました。

お礼日時:2004/07/23 12:01

No.4 補足します。



>移民や出稼ぎのように特殊な環境下・・

舌足らずで誤解を与えたようですが、バイリンガルはこのような環境下だけでなく、スイス、フィリピン、USAなど世界にたくさんある複数言語国での事例がまず存在し、出稼ぎや駐在員の例は新しい例であり、且つ対象人口が前者に比べれば圧倒的に少ないからです。日本は複数言語国ではないので、出稼ぎや駐在員のケースが
あたかも中心の如く語られます。その一例が帰国子女の例です。マスコミが華やかに取り上げるので目立つだけであり、世界中に昔からある当たり前の事例に過ぎないと思います。

アメリカのバイリンガル人口のNo.1はヒスパニックですが、米国生まれのヒスパニックは二ヶ国語を完全に理解します。敢てその差を求めれば書く能力でしょう。教育は英語、家庭ではスペイン語のため、文章を書く場合は英語力がはるかに勝ります。彼らの二ヶ国語の切り替えは全く自動的であり、時には今自分が何語を話しているか意識していないほどです。
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この回答へのお礼

>彼らの二ヶ国語の切り替えは全く自動的であり、時には今自分が何語を話しているか意識していないほどです。

大変興味深い情報、有難うございます。

と、いうことは、バイリンガル達は私どもからしたらとってもうらやましい存在となってしまいますね。

大変有難うございました。

お礼日時:2004/07/23 11:53

>多くの人の意見を聞きたく、投稿しました。



とのご趣旨とふまえ、勝手な事を書きます。

まさに良い例として
スイス国籍の友人がいます。彼は5か国語を難なく伝達の手段として使っています。
彼はポルトガルの古城を買い、改築してホテルとして生計を立てています。どの言語にも日常には困る場面に遭遇していません。英語、ドイツ語、仏語、スペイン語、ポルトガル語。など。

というか、スイスには普通に英語、ドイツ語、仏語、3か国語話す人いますし、ほかの国でもそんなところは多々あるかと思いますが、いまや母国語というものすら多様性をおびていますよね。

「マスターする」という定義がご質問者さんにとっては文章力が「小説家」レベルと言う事で、
いざ他国語に翻訳するときも自身がやるというような事であれば大変難しいかとは思います。

>言語というのは三つ持っていてもその内一つか二つをマスターすることは可能だ

周りを見るかぎり可能ですし、たくさんいらっしゃいます。
但し「習得」のレベルによると思います。

専門分野の論文を出版物とするなら、それなりの出版社サイドの翻訳は当然入ります。ですので言語学者以外は言語学者レベルは必要ないのでは。

そういう経済的なしくみもお含み頂くとご理解の助けになるかなと。。
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この回答へのお礼

有難うございます。

>「習得」のレベルによる
どうもそのようです。 一般論と私の考えに差があるようです。

>言語学者以外は言語学者レベルは必要ない
についてですが、言語学者というのが言語における表現能力、理解能力が高いわけではないと思うのですが。
彼らは諸言語のつながりや構造、成り立ちからそれらを体系的に分類するのではないでしょうか?あるいは特定の言語を掘り下げて歴史から何から解き明かそうとするのではないでしょうか?

そこらへん詳しい方おれば、どうぞお教えください。


お返事、有難うございました。

お礼日時:2004/07/23 11:43

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