【先着1,000名様!】1,000円分をプレゼント!

江戸時代の将軍や天皇が具体的に何を食べていたのか教えてください。天皇と将軍は似た物を食べてたんですか?ありがとうございます。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (4件)

宮中の原則は二食だったそうです。

米の収穫量が上昇して米が常食になったとされています。
豪商と皇女の旅路の食事という資料があります:
http://www.kusatsujuku.jp/gakumon/pdf/g201406291 …
皇女和宮の昼食は、「 なます 、わん(煎酒酢)-蓮根、紅葉ふ、白髪大こん、山吹湯葉、 洗生姜」・「汁-合せミそ、つまミ、浅草海苔」・「平-人参、相良ふ、しいたけ、長いも、ぎんなん」・「皿盛-三井寺豆腐、焼栗、かんぴょう(み淋煎)」・「香の物-なすび、なら漬、たくわん大こん」・「飯-白飯」などとあります。天皇ともなればもっと豪華だったでしょう。肉食が禁じられていた時代なので食材には偏りがあるようですね。

将軍家は3食。食事例は下記にあります。
http://matome.naver.jp/odai/2134329123090279301
http://www.viva-edo.com/syougun.html
朝食は、二の膳まで付き、一の膳には、飯、汁、刺し身と酢の物などの向こう付け、平(煮物)。二の膳は、吸い物と焼き物。二の膳の焼き物は、キスの塩焼きに付け焼きの二種。
    • good
    • 0

当代幕府史料には、「禁裏御料3万石」との記述が見えますので、生活に不自由することも



なかったと思われます。

かなり小さめの大名クラスですが、負担の大きい参勤交代もなく賦役もありません。

300人ぐらいの従業員は大丈夫という暮らしです。

何を食べたか具体的に? そこは分かりませんが、庶民以上将軍程度、ではないでしょうか。
    • good
    • 0

将軍の食事については以下の通り。



http://matome.naver.jp/odai/2138982339234165601

天皇の食事については、以下のような説があります。

江戸時代の天皇の食事ってのは全部メニューが決まっていて、それはもう豪華なものだった。 ただし天皇家には金がないので商人から腐りかけや腐った食材を仕入れてメニューをそろえた。 並べられた沢山の皿の上には間違って食べないように紙が貼られ実際に食べることが出来たのは、ほんの少しだったらしい。 江戸時代は天皇や公家たちにはまさに屈辱の時代だった。
    • good
    • 0
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? ...続きを読む

Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Q鎌倉・室町、戦国、江戸時代の天皇 権威はあったの?

鎌倉・室町、江戸時代の天皇は権力がなく、室町時代や戦国時代は食べるものに困るほど貧窮した暮らしをしていたと思うですが、その時代には天皇の権威はあったのでしょうか?
あったとすれば、それは祭司王としての権威でしょうか?過去に作られた神話をもとにした権威でしょうか?古代の神(同時に鬼としても)信仰があったのでしょうか?ピースメーカーとして機能していたの?
権威があったのならあの時代、貧窮しなかっただろうし、江戸時代も皇位継承を幕府に握られるようなことはなかったと思うのですが。。。
そこらへんを詳しく解説していただけると助かります。

Aベストアンサー

<参考>
 日本史において、『中世~近世の天皇が、いかなる存在であったか』は、相当重要なテーマでありながら、過去の歴史家に見過ごされてきました。

 最近になって、この点を独自に掘り下げて、続けて論文・著書を発行し、この問題についての歴史的第一人者とみなされているのが、今谷明氏です。
 以下の著書を参考にお読みになればどうでしょうか。

『天皇家はなぜ続いたか 対談集』(新人物往来社 1991.12)
『日本国王と土民』集英社版日本の歴史、1992年)
『戦国大名と天皇 室町幕府の解体と王権の逆襲』(福武書店、1992年/講談社学術文庫、2001年)
『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』講談社現代新書、1992年/学術文庫、2002年)
『武家と天皇―王権をめぐる相剋』岩波新書、1993年)
『天皇と天下人』(新人物往来社、1993年)
『象徴天皇の発見』文春新書、1999年)
『象徴天皇の源流 権威と権力を分離した日本的王制』(新人物往来社、2011年)

 今谷氏は、女性宮家創設の是非について、日本政府から公式に意見を聞かれたりもしています。

<参考>
 日本史において、『中世~近世の天皇が、いかなる存在であったか』は、相当重要なテーマでありながら、過去の歴史家に見過ごされてきました。

 最近になって、この点を独自に掘り下げて、続けて論文・著書を発行し、この問題についての歴史的第一人者とみなされているのが、今谷明氏です。
 以下の著書を参考にお読みになればどうでしょうか。

『天皇家はなぜ続いたか 対談集』(新人物往来社 1991.12)
『日本国王と土民』集英社版日本の歴史、1992年)
『戦国大名と天皇 室町幕府の解体と王権...続きを読む

Q徳川家はなぜ天皇家をつぶさなかったのか

徳川家はなぜ天皇家をつぶし、最高の権威を手に入れなかった

のでしょうか?

自分は徳川家が早い段階で天皇家を滅びさせていれば

明治維新は起きなかったのではないかと思っています。

徳川家は惜しいことをしたと思うのですが、やはり天皇家は

日本人にとって切っても切れない存在だったのでしょうか?

Aベストアンサー

ヨーロッパの王権神授説は有名ですが、中国でも漢民族の王朝の交代
に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
すね。ですから、天皇家をつぶす為には、天皇に代わる権威(支配の
正統性)が必要なのです。徳川に限らず、結局のところ、力では圧倒
しても、天皇に代わる権威を見出せず、実行できなかったのだと思い
ます。

平家は都落ちに際し安徳天皇を拉致?しますが、京都には天皇家の家
長である後白河院が健在であったため、焼け石に水。
承久の乱では、北条義時が天皇家の家長である後鳥羽院の島流しを敢
行しますが、北条得宗専制ですらまだ始まってはおらず、あまりにも
時期尚早。天皇を頂点とする公家勢力・寺社勢力の息の根を止める以
前に、まだそれ以下の鎌倉「将軍」の権威で武士の統合が必要な時代。
元弘の乱の後醍醐天皇の配流と、建武新政崩壊後の南朝への攻略は、
持明院・北朝の存在を前提としたもので、天皇家抹殺の意図なし。
足利義満による皇位簒奪計画という学説もありますが、事実だとして
も未遂。
織田信長が将軍や関白などの官職を受ける意志がなかったとすれば、
どのように権威(支配の正統性)を樹立するつもりだったか、興味深い
ところ。信長自身の神格化?がそれという説も。
豊臣秀吉は天皇を中国に移し、自分はインド方面まで手を伸ばすつも
りだったとか。天皇を一国王としての地位に留め、その地位を保証す
る世界皇帝になることで、天皇を超えようとしたという説も。
で、本題の徳川家ですが‥
徳川家康の場合は、京都や大坂を掌中に置くのに時間がかかり過ぎ、
短期決戦できなかったのがネックでしょう。家光の代までに幕府も安
定し、禁中並公家諸法度などで従来の権門(公家・寺社)を幕府の法制
下に置き、武家官位と公家官位を分離するなど、色々と手は打ってい
るようですが‥
でも綱吉になると、生母桂昌院に従一位を貰って喜んでみたり‥
そうこうしているうちに将軍の継承問題、そして改革と挫折の連鎖の
時代となり、天皇家に構っている余力はない‥ 要は支配の正統性の
問題は、権力を握ったらすぐに手を打たないと、手遅れになるという
ことですね。

あと、蛇足ではありますが、源・平・藤原・豊臣などの「氏」が、
日本の場合天皇から与えられるという性格を持つという点も、天皇制
存続に関して何らかの意味を持つのかもしれません。平清盛・源頼朝
・平(北条)義時・源(足利)義満が姓を自分で決めて自称せず、織田信
長・徳川家康が源・平姓を名乗り、羽柴秀吉が豊臣姓を貰って喜んで
いるうちは、天皇の風下に甘んじるという一面を持ちます。もっとも、
姓を自分で決めて自称するとか、姓を捨てて天皇家と同じ無姓となる
という発想自体が、思考力の枠を超えるものでしょうけど。でも、信
長あたりは長生きしていたらやっていたかもしれないし‥

ヨーロッパの王権神授説は有名ですが、中国でも漢民族の王朝の交代
に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
すね。ですから、天皇家をつぶす...続きを読む

Q江戸時代、天皇は何をしていたのか?

江戸時代の政治の実権は幕府にあり、朝廷はお飾りのような
陰の存在でした。
江戸時代の将軍家は15代ですが、天皇家も15代です。
並べると以下のようになります。

家康  後陽成
秀忠  後水尾
家光  明正
家綱  後光明
綱吉  後西
家宣  霊元
家継  東山
吉宗  中御門
家重  桜町
家治  後桜町
家斉  桃園
家慶  後桃園
家定  光格
家茂  仁孝
慶喜  孝明


さて、これらの天皇たちが何をしたかは一般的にあまり知られていません。
歴史教科書に登場するのは光格天皇の「尊号一件」ぐらいでしょうか。
江戸時代における天皇・朝廷の何か印象的なエピソードがもしあれば
教えていただけますか?

Aベストアンサー

天皇はそもそも家ではないので、天皇家という表現はふさわしくありません。天皇はあくまで天皇です。

近代史において、明治維新が起こった際に国民の団結を目的として天皇は国家元帥になりますが、1400年続く皇紀の中で直接政治に関わった時代は非常に稀です。また明治時代から戦後アメリカに占領されるまでも、「君臨すれど統治せず」が基本原則であり、内閣と天皇の関係も、また天皇の実権も憲法できちんと制約されていました。

徳川家は天皇から実権を奪い、独裁政治を行ったかのように歴史教科書は書きますが、そもそも天皇は独裁者として日本国民の上に君臨した事は今だかつて一度もありません。

それを証拠に、天皇は国民と対立関係に無かったため、京都御所のような簡単に打ち破られるような堀のない邸宅に1400年も住んでいて、一度も国民に襲われたり滅ぼされたりしていないのです。

この辺を左よりの支配する学校ではきちんと説明しないので、「昔の日本は天皇家が支配する、今の北朝鮮さながらの酷い国家だった」と本気で信じるおりこうさんが多いのが実態です。

で、天皇は江戸時代何をしていたかですが、今の今上天皇同様、1400年続く祭事を行っていました。祭事とは何か。これも新嘗祭をはじめ全てが名前を変えて何とか記念日として休日となっているためわかりにくいのですが、平たく言えば、日本国民の平和や幸せの為の祭事を行っているのです。
天皇は、自分の為ではなく日本国民全ての人々の為に、いつもお祈りをしてくださっているのです。ですのでどっかの国は「日帝」と呼びますが、どちらかというと皇帝ではなく法王に近いんですよね。

戦後の共産党員はソビエトから共産主義思想を持ち帰った際、この辺を良く解っていなかったので天皇を「天皇家=特別階級」として目の敵にし、格差社会の打倒すべきものとし、また唯物論の観点から神事を執り行う祭祀王という位置づけも理解できないようです。ですので日教組に支配された学校教育ではとにかく天皇は悪いイメージしか教えてくれませんし、詳しい教育はしてもらえません。

繰り返しますが天皇は江戸時代も今も、ただ日本国民の為に祭事を行い、国民の平和や幸せの為に祈ってくださっている方なのです。

天皇はそもそも家ではないので、天皇家という表現はふさわしくありません。天皇はあくまで天皇です。

近代史において、明治維新が起こった際に国民の団結を目的として天皇は国家元帥になりますが、1400年続く皇紀の中で直接政治に関わった時代は非常に稀です。また明治時代から戦後アメリカに占領されるまでも、「君臨すれど統治せず」が基本原則であり、内閣と天皇の関係も、また天皇の実権も憲法できちんと制約されていました。

徳川家は天皇から実権を奪い、独裁政治を行ったかのように歴史教科書は書き...続きを読む

Q幕末の武士たちの食事はどんな感じでしょうか。

幕末の武士たちの食事はどんな感じでしょうか。
良く魚の焼き物、味噌汁、鍋、白ご飯を食べてますね。
塩はあるでしょうが醤油もあったのでしょうか?
あまり肉をがっついてるシーンは見ませんが肉は食べていたのでしょうか?
鳥や猪は食べるでしょうが、牛は明治に入ってからでしたっけ?豚は食べてたのでしょうか?
時代劇で、移動式屋台のうどん屋がよく出てきますが、醤油出しでしょうか?
うどんのみで具はなかったんでしょうかね?
食事が良く分かるHPなどあれば教えてください。

Aベストアンサー

漫談です。

江戸三白といいまして、米、大根、豆腐がまず江戸人の食べ物代表です。それに鯛と白魚をたして、五白ということもあります。

これらの料理法を江戸の人は究めまして、当時から「豆腐百珍」というレシピ本がベストセラーになります。この「百珍」は、蒟蒻、鯛などの亜流がでるほど売れました。また、「料理物語」というレシピ本もあります。

牛は農耕のための財産であり、食用ではありません。イノシシは「山鯨」という隠語ができ、クスリと称して売っていたくらいなので、実はみな好きでした。

夜泣きの移動屋台のソバがまずあります。かけ、という言葉はどんぶりに入れたソバにダシを「ぶっかけた」が語源です。本来は店では蕎麦つゆにつけて食べるものでした。タネは、以外ですがテンプラが一番古いタネです。ネギと桜海老ていどの安価なものです。なぜなら、ソバにあげておいた(当然冷たい)かき揚げを乗せてダシをはると、ダシが少なくてすみ、またソバが冷めにくくなるからです。揚げ玉だけのたぬきは、テンプラの「たね(具)」を「ぬき」にして、「たねぬき」が語源です。スパイスとして七味唐がらしがありますが、江戸人は「七色(なないろ)」といいます。いまでも、東京に長く住んでいるひとや下町では七色といいます。
脚気のお話がありましたが、脚気はビタミンB の不足から来るのですが、白米オンリーのゼイタクは珍しかったので(大概は麦をまぜる)、江戸期には大流行していません。精米技術が進んだ明治期に流行しはじめ、陸軍がこの対策に困ります。なぜなら、兵は白米食べていたからです。日露戦争では脚気に25万が罹患し死亡した兵士が2万以上と非常に多く、ロシア側は「日本側に伝染病の兆候あり」とその様子をつかんでいます。
一方の海軍は当初パン食でしたが不評で麦飯にしたのですが、ビタミンBが結果的にとれたので脚気がおきませんでした。

当然、日露戦争前に陸海軍とも脚気について対策を取ったのですが、海軍は「今の食事で起きていていないのだから、麦飯」と英国で医学を収めた高木兼寛が主導し、惨事になりませんでした。英国では例として、海軍兵士にレモン・ジュースのませれば、理由はわからないが壊血病にならない、という、結果オーライな軍事医学の方向性があったからです。高木は日露戦争後、脚気を防いだ功績がみとめられ、男爵を授かっています。

が、陸軍はドイツで当時最先端の細菌学をまなんだ森麟太郎(森鴎外)が軍医トップにおり、「脚気も細菌が原因」と(今日の目で見れば)まちがった方に対策リソースがふられてしまったので、大惨事となったわけです。

脱線しましたが、ネタとしてお納めください(;^_^A
杉浦日向子氏の著作に、江戸の食について楽しく詳しく書かれたものが多いです。下のURLもみてください。楽しいですよ。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E9%A3%9F%E6%96%87%E5%8C%96

漫談です。

江戸三白といいまして、米、大根、豆腐がまず江戸人の食べ物代表です。それに鯛と白魚をたして、五白ということもあります。

これらの料理法を江戸の人は究めまして、当時から「豆腐百珍」というレシピ本がベストセラーになります。この「百珍」は、蒟蒻、鯛などの亜流がでるほど売れました。また、「料理物語」というレシピ本もあります。

牛は農耕のための財産であり、食用ではありません。イノシシは「山鯨」という隠語ができ、クスリと称して売っていたくらいなので、実はみな好きでした。

夜...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q江戸時代に各地の特産物が生まれた背景

はじめまして。
江戸初期には田畑勝手作の禁で農民は穀物以外の栽培を禁じられましたよね。
しかし江戸中期には商品作物が栽培されるようになりました、そして各地の特産品へと変貌していきます。
しかしこの頃はまだ田畑勝手作の禁は廃止されていなかったはずです。

どのような背景から、法令を破ってまで特産品が生まれるようになったのでしょう?

Aベストアンサー

江戸時代に各地の特産物が生まれた背景

平和が続いたために農業生産・商品生産の技術が向上した。また、都市を中心に生活が向上し、ようような商品の需要が高まった。
米の生産力が向上し、商品作物を生産し、販売する余裕が生まれた。
より収益を上げるために農民の零細な農村家内工業の発達。
農業技術の発達により風土に適した特産物の生産。
大名財政の行き詰まりから商業作物・特産品栽培の奨励、保護、専売化。
当然のことですが、もともと畑作地はあり、年貢も現物と金納の両方であったこと。
年貢の金納化が進んだことにより、商品作物を作りやすくなった。
大坂を中心とする商品の全国流通網の整備により全国市場が成立し、商品化が進んだ。
米作より商品作物を作った方が収益が大きい例が多かったこと。綿などは金肥を使っても米の3倍以上の収益があがったといわれています。
農村の有力農民が土地を兼併し、商品作物の生産・流通及び金融の中心となり資本を蓄積し、豪農に成長する。
都市の問屋が豪農と提携し、商品作物の生産・流通を主導。また産地の農民に資金を出して、農村家内工業から問屋制家内工業に組織化し、特産化。

以上、分かる範囲で。

江戸時代に各地の特産物が生まれた背景

平和が続いたために農業生産・商品生産の技術が向上した。また、都市を中心に生活が向上し、ようような商品の需要が高まった。
米の生産力が向上し、商品作物を生産し、販売する余裕が生まれた。
より収益を上げるために農民の零細な農村家内工業の発達。
農業技術の発達により風土に適した特産物の生産。
大名財政の行き詰まりから商業作物・特産品栽培の奨励、保護、専売化。
当然のことですが、もともと畑作地はあり、年貢も現物と金納の両方であったこと。
年貢の金納...続きを読む

Q日本の金、銀は枯れたの?

黄金の国ジパングとか言われた時代もあったくらいに昔は採掘されたてのですか?

それらは今はほぼ枯れたのですか?

今からはイメージ出来ません

Aベストアンサー

金鉱脈がどう生成されるかに付いては色々な意見が有ります。
最近有力な説は次の様なものです。
マントルの高熱で地下深くに閉じ込められた水が高温高圧になり、
それにイオン化した金が溶け出す。
この金イオンを含む高温高圧熱水が地層中の割れ目を通り地上に出る
過程で減圧冷却され、金として岩石中に析出し、金鉱脈が生成される。

火山国で地震国である日本には、当然金鉱脈が多く、それも比較的
地表に近い所にあります。見つけ易い所にあるわけです。
これを探して採掘していたのが、戦国時代から江戸時代末までの状況です。
当時の技術で見つけることができ、掘り起こせる範囲の金はほぼ取りつくされて
しまいました。あらゆる大名が自領地を掘ったわけですから。

現在は金鉱脈生成の過程も解明され、地質学的知見も深まり、探索
技術も進歩し、世界的な金鉱脈が日本で続々と発見されています。
一番有名なのは、鹿児島の菱刈鉱山(住友金属鉱山)ですが、
大分県九重、山形県大峠、北海道東部(釧路周辺)にも金鉱脈が
発見されています。
下記URLの【黄金の国ジパングは復活するか】を見てください。
http://www.iforum.jp/okuchika/t5713.html

菱刈鉱山の金品位は世界屈指ですが、他の鉱脈もそれに劣らない
と言われています。

さて、これ程の金鉱脈を持ちながら日本での生産は何故菱刈だけなのか
は次の理由からです。
掘って生産量を挙げても金相場が下がるだけで住友金属鉱山には
投資に合うメリットは無いのだそうです。それで現在の菱刈が枯れたら
次の鉱区を開発する予定だそうです(直接聞いた話)。
金鉱脈発見ラッシュから20年以上も経つのに、菱刈はまだ枯れそうも
ありません。

例外的に、日本政府が金本位制への復帰を宣言し住友金属鉱山から
増産分の金を定額で買う、住友金属鉱山が経営不振に陥り金の増産を
行わざるを得なくなる、等が起れば日本は再び「黄金の国ジパング」
に成るかもしれません。
現在は「赤金(借金)の国ジパング」です。

金鉱脈がどう生成されるかに付いては色々な意見が有ります。
最近有力な説は次の様なものです。
マントルの高熱で地下深くに閉じ込められた水が高温高圧になり、
それにイオン化した金が溶け出す。
この金イオンを含む高温高圧熱水が地層中の割れ目を通り地上に出る
過程で減圧冷却され、金として岩石中に析出し、金鉱脈が生成される。

火山国で地震国である日本には、当然金鉱脈が多く、それも比較的
地表に近い所にあります。見つけ易い所にあるわけです。
これを探して採掘していたのが、戦国時代から江戸時代...続きを読む

Q年貢米って沢山取っても、武士は食べきれないんじゃないですか?

よく江戸時代の年貢は「4公6民」「5公5民」とか言われていますが、武士なんて人口の1割くらいしかいないのに、そんなにお米を貰ってきても食べきれないんじゃないですか?武士階級はものすごい米余りになると思うんですが、それをどうしていたのでしょうか?

Aベストアンサー

年貢米は武士の食糧だけでなくいわゆる行政経費になりました。城や陣屋の建築費・維持費、江戸と領地の連絡費、災害復旧費などです。領内で大規模な用水路を作るような場合は費用の一部を出すこともありました。
年貢米は江戸や大坂で売却されその代価はこのような経費に使われたのです。そして米そのものは江戸や大坂の町人の食糧になりました。
また大名や旗本は幕府から色々な役目を命ぜられますね。たとえば幕末では京都に守護職が設置されます。会津松平容保その役に任ぜられますがその経費は河内と播磨国内に臨時の領地5万石が与えられこれで賄われました。賄われたと言っても足りなかったようですが。

年貢は一般に「4公6民」などと言われ、生産量の4割が年貢だったと思っている方が多いでしょう。これは「高」という数値の4割であって決して生産量の4割でないことに注意してください。高は年貢の対象になる田・畑・屋敷に設定されていました。高は本来は実際の米の生産量を示す数値だったと思われますがこれらを評価する数値になってしまっていることに注意してください。
年貢は異様に高い村がありました。小生の知る範囲では16割という所がありました。高の1.6倍もの年貢を納めていた村があったのです。なぜこんな状態になったのか愚考を記します。
高の設定は豊臣秀吉が全国の大名にやらせたのが最初のようです。まず検地をして高を決めるのですがこの作業は村方で行うことが多く領主はその報告書を追認するいわゆる「差出検地」が多かったようです。高が決まれば年貢が決まります。村としては年貢はなるべく少なくしたいですね。ならば米が取れない貧乏村という報告書を作れば良いわけです。つまり村の実情を過小評価した報告書が作られたわけです。でもすぐにバレますね。領主は原則的には毛見をして実際の生産量を把握して年貢を決めますから高に対する割合はものすごく高くなる場合があるのです。

またこの時代の検地報告が正しく行われていたとしても時代と共に米の生産量は増えます。農業技術はもちろん進歩するし用水路などインフラ整備も進みます。しかし高の値は変わりません(地域によっては総検地を繰返して最新の生産量を高の数値に反映した所もあったでしょうが多くはそうようなことはしていません)。それに高は米を作ったとした場合の数値です。農民はもっと有利な農産物を作りました。地域によって違いますが綿やサトウキビなど。田畑で何を作っても年貢は変わりません。こういったことが高が正しく生産量を示さなくなった理由と考えられるのです。
もうひとつ、一般に冬にも麦などを作りますがこのことを考慮する歴史学者はあまりいないようですね。大雑把に考えて夏の生産の1/4程度はあったでしょう。

こんなことを考え合わせると農民の年貢の負担は年間総生産量の15%~20%程度だったように思われます。もっと低かったかもしれません。もちろん地域によっても時代によっても違うでしょうが、4割とか5割というのは間違いだと考えています。

年貢米は武士の食糧だけでなくいわゆる行政経費になりました。城や陣屋の建築費・維持費、江戸と領地の連絡費、災害復旧費などです。領内で大規模な用水路を作るような場合は費用の一部を出すこともありました。
年貢米は江戸や大坂で売却されその代価はこのような経費に使われたのです。そして米そのものは江戸や大坂の町人の食糧になりました。
また大名や旗本は幕府から色々な役目を命ぜられますね。たとえば幕末では京都に守護職が設置されます。会津松平容保その役に任ぜられますがその経費は河内と播磨国内...続きを読む

Q米の値段が、江戸時代には、なぜ下がったのですか?

山本博文著の江戸学講座を興味深く読んでおりますが、次の説明に出会いました。
<江戸時代の初めは、家禄だけで食べていける旗本・御家人も多かったのですが、中期以降は、米の値段が下がりますから難しかったでしょう。>
一般的には、物価は長期的にみると、漸進的に上昇します。(もちろん、技術革新などによって、低下する場合がありますが)。
米の値段が、江戸時代には、なぜ下がったのですか?

Aベストアンサー

中期以後というと、暴れん坊将軍の吉宗さんの時ですね。お堅い日本史では、米将軍と呼ばれ、米を中心とした物価の安定で有名です。米が日本酒の原料として使われる量を調整するなどで、品不足による物価上昇を抑えたといいます。

長期でみると、実際は上がったり下がったりだったでしょう。

江戸時代、米がお金代わりでしたから、どの藩も米の生産に力を入れます。運送業も発展し、西日本で生産された米が流通。他の物の価格と比べ、比較的安くなったのでしょう。
 米=扶持だった武士にとっては、物価上昇+収入ダウンでしょうけど。。


人気Q&Aランキング