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武士の頭は、剃ってちょんまげにするのが正装なのでしょうか?
なぜそうゆうヘアスタイルが定着したのでしょうか?

もしかすると、目上(老人)の武士がハゲてるので、日本特有の上下社会がそうさせたのでしょうか

A 回答 (5件)

兜(かぶと)被る時、頭蒸れないため



...って銀魂で出てきた床屋のオヤジさんが言ってました。
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この回答へのお礼

頭が蒸れないため剃るのですね
ありがとうございました。

お礼日時:2016/09/02 21:47

兜を被る時は、ちょんまげをほどいています



兜を被って大きな動きをすると髪の毛の分だけ上下左右に動いてしまいます、場合によっては視界を遮るほど動いてしまうので、髪の一部を切り(剃り)、その部分を兜に密着させて、顔の動きに合わせて兜が必要以上に動かないようにしたのが、始まりです。

坊主みたいに全部剃っちゃえば、それはそれで密着するので、それはいいのですが、
やっぱり男の子 (°O゜)☆\(^^;) バキ 兜を被らない平時の時は、おしゃれをしたいから、という理由であの髪型が流行りました

昔は、みんなだんだら頭だったのですが、強い武将が髪を束ねて、上に上げたのを見て、あれはかっこいいな、という事で、皆がそれに倣った(真似した)わけなんです (^_^;
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この回答へのお礼

兜がずれないように剃るのですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2016/09/02 21:47

戦国時代に、髪の頭頂部を剃って、兜を密着させ戦闘時に兜がずれないようにしたのが始まりです。



最初は総髪といって、月代(頭頂部を剃ること)はないちょん髷が一般的で、鎌倉・室町まではこちらが普通でした。

しかし、戦国時代になると「いつ戦争になるかわからない」ということと「戦争で手柄を立てれば取り立ててもらえる」ということが一般的になり、「いつでもすぐに戦場にいけるように」というアピールで、つねに月代を剃っている武士が出てきました。

これが各地の大名などに気に入られたのか、いつしか「すぐに戦争に行けるための心がけ」として月代を剃るようになったのです。

ちょうどいま大河で真田丸をやっていますが、真田家の3人や、上杉景勝などは総髪のままなのに、豊臣秀吉や徳川家康は月代があります。秀吉や家康は信長の家臣として出仕した経験があることと、京に近いために流行に敏感だったこと、真田家や景勝などは田舎侍で位も上だったので、そこまではしなかったなどの違いがあります。
まだ戦国時代は「月代を常に剃る」というのが一般的ではなかったのです。

しかし、江戸時代になると戦国の風が庶民にまで降りてきます。何事も下々の人々は真似するのが好きだからです。で、その時代までに「武士は心がけとして常に月代を剃る」というのが一般的になっており、まるで今の日本の「5分前行動」のように、みんなが心掛けるもの、というように変化していきました。

そのため江戸時代は商家などで働く人々は月代を剃る、というのが一般化していったのです。

ちなみに老人になると月代を剃る必要はなくなりますが、同時にちょんまげが結えなくなります。髷を立てるには相当量な髪がひつようなのです。
 ですので髷が結えなくなると「隠居」ということが起こり、それに抵抗した人は床屋でかつらや着け髪をしていたようです。
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この回答へのお礼

背景まで詳しくありがとうございます。
就職活動の争いでもあったわけですね。

お礼日時:2016/09/02 21:49

これを読めば、いろいろな疑問が解けると思います



http://search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A7dPhgrpE8 …
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ちょんまげが正装というわけじゃありませんけど・・。

以下は私が聞いた話ですが証拠となるサイトはありません(聞いたのはネットなどない時代ですから)
昔の男子はミズラという髪型でした。弥生時代とかに出てくる両脇を束ねた奴です。
やがて兜が発明されると戦いに際し、邪魔になるのでその都度ミズラは外しました。
時代が下って官位ができると役人などは皆位に合わせた帽子(烏帽子)をかぶります。でもそのまま乗せていても落ちてしまうので中に髪の毛を束ねて差し込み串のようなもので留めるようにしました。これがマゲの始まりです。
たしか古代中国や朝鮮でも似たような細長いお団子を作っていると思うので向こうの時代劇なんか見てください。
帽子は正式な場に出るときだけにかぶります。通常はお団子頭ですので、その形も気を遣うようになりました。
そこで志村のバカ殿さまのような刷毛を逆さにしたような髪型に変化していきます。
この髪型は公家に残り、明治時代の岩倉具視が最後になります。(彼は断髪令発布後も駄々をこねて髷を降ろさなかったそうです。さすがに米国に行って奇異の目で見られたために髷を切ったという話です)
一方下級貴族であった平氏や源氏は宮廷の守護として武士になっていきます。
最初は貴族の髪型をしていましたが、やがて兜が進化していき、さらに遠めでも見えるように派手に大きくなって行くに従って、従来の髪型では兜がずれたり落ちたりするようになりました。
そこで戦時の際には髷を降ろし、さらに兜がずれないように月代(さかやき)を剃るようになっていったのだそうです。しかし宮中に赴く際には平安時代さながらに帽子をかぶりますから、その固定のために髷は残したわけです。という事でやっと月代を剃った髷が生まれたわけですね。
江戸時代でも名目上武士は宮中と幕府を守る兵士ですから、いつでも武装できるようにチョンマゲを結うのが常識でした。一方下級武士は正装と言っても官位がないので公家の格好はしません。それでも名ばかりでも官位があれば、例えば幕府の正式な場では烏帽子をかぶるので髷は必要なわけです。という事で武士と名が付けばとりあえずは髷を結い、月代を剃る必要があったわけです。(実際には荒れた芝生のようにバラバラと髪の毛が生えていたようですけど)
一方で町人もいつのころからか髷を言うようになりました。もっとも戦国時代、織田信長が出るまでは実際に戦争をするのは村人ですから、そのころから髷を結っていたのかもしれません。
江戸時代になると平和な世の中になり、マゲはおしゃれなものになり、様々な形になりました。

いちおう人間であれば髷を結ったそうです。しかし当時はという身分がありました。
言っときますがこのはいまの被差別者とは違います。被差別者は人間でした。というのはそれ以下の存在です。つまり人間ではないという存在だったのです。被差別者は髷を結っても結わなくてもいい人。ほとんど面倒なので結っていないようです。戦いにも参加しませんしね。
彼らは山に住んで木を切ったり、そこから出る副産物で今の民芸品を作ったりして生計を立てていました。実は伊勢神宮の遷宮の木材を切り出したり、神輿を担いていたのは元々この被差別者です。つまり彼らは人間の生活の根底を支えている人々だったのです。一方は髷を結うことが禁止されていました。彼らは人間社会に直接かかわることを許されません。せいぜい乞食として人間の投棄したものを摂取するのが関の山です。
被差別者とが混同されるようになったのは明治でもなく、大正とか昭和になってからです。
つまり髷を結うことは少なくとも人間である証というわけです。
ちなみに按摩や女郎には、やはり被差別者はなれますがはなれません。なぜなら人間ではないからです。そして成功した按摩や女郎は検校とか花魁という普通の人で離れない身分にすら就くことができたわけです。
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この回答へのお礼

詳しいお話ありがとうございました。

お礼日時:2016/09/02 21:54

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