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宗教関係者に質問です。人はなぜ死ななくてはならないのですか。
また、死ぬことにどんな意味がありますか?

A 回答 (16件中1~10件)

次世代残したら役目終了、他の動物の餌になる。

死なないと総数が過多になり一族全滅の危機。
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形あるものは必ず崩れる・・



形のある有限なものと 形の無い無限なものが人間だとすれば?

有限な この世界に産まれるのは 無限世界の身体を形成する為・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「有形実態世界と無形実態世界」


詳しく知りたいのなら 世間の批評に感化されず純真な気持ちで 検索してみれば?
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この世に未練がなくなる、人口過密になるし、口うるさい年寄りは足手まといになる。



この世を離れる事によって世界平和になる?

「あの世でまた初めからになる。(楽になる)」
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修行者の到達し得る最高位とされる阿羅漢という者は菩薩の叡智に遠く及びませんが、


叡智を備えている阿羅漢でさえ叡智によって理由は知っているけれども理解できない。
死とはそういうものです。
菩薩か如来になって見なければ分からないのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

自分が自殺未遂をしたとき、おそらく3日間くらい意識がなかったのですが、気づいたときには、ベッドの上でした。
合計で3回ほど意識を失ってます。
そのとき、死が「まったく何もない世界」だとわかって、そこから生還したので、「復活を自然と信じられた」のです。
意識を失ってるときに、いったい何が起こったのか、何をされたのか、「まったく覚えてなくて」、それを思い出そうとすると、「非常に怖かった」のを覚えてます。
「死がなんであるかを知れたら」、「そこから生還する意味もある」んじゃないでしょうか。

お礼日時:2016/09/12 12:27

遠い昔、20歳の頃、だったか。

新聞で、インド人の心と知恵の源、日本の「桃太郎」や中国の「孫悟空」の
元になっている。古代インドの叙事詩「ラーマーヤナ」が映画化さ
れる。という記事を見て。これは見てみなければならない。と思った記憶かあります。ヒンズー経を「仏教」として取り入れてきた、日本人の心と知恵の原点、とも言えるであろうからです。先日「実写ラーマーヤナ」という映画を、コマシャル主義は、インターネットをかくも、嘘、知恵のない妄想ばかり、にしてしまうか。の Y T  に見出しました。133話に分かれており。全部見るのに、30時間ぐらい、かかったとおもいます。見始めると、現在なおインドでは、ハリウッド映画が上映されないと言われ、人口の割には、オリンピックでの、メダル獲得数が圧倒的に少ない事などにに納得させられました。ある、話、の視聴回数が1000回以下でしたから。最近出たのかもしれません。
仏教の原典、であり、釈迦の思想が反ラーマーヤナ、となる、意味も解るでしょうし。仏教より、キリスト教の原典ではないかとも思わせられます。
名書は売れない、売れないから出版されない、という社会にあって。ラーマーヤナ、の映画が只で見れる、コマーシャルも少ないとは。インターネットも捨てたものではないのかも知れません。
一度、見られてはどうでしょう。知恵にも心にも響く、稀な映画です。
見られたら、宗教関係者への質問(自分で考える事を放棄し、他者の知識を求める)
ような事はしなくなるのでは??それ以前に虫や魚、家畜や野山の動物を常に観察していた、田舎の子供は、そんな質問はしないと思います。常に出てくる苦行者たちの冒頭の祈り。オーム、という言葉、破壊と創造は同じ事の表裏であり。世界の在り方は破壊と創造を繰り返しながら変化してゆく。生き物は、人間も、生と死を繰り返しながら。種を存続させようとするのが基本なのです。自分の死を恐れのは、自分の生だけが特別なもの、価値あるもの、と思いたがる、無知ゆえの執着でもあります。
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人類という類をリセットする意味があります。



死がないと、老人が延々と行き続け、支配し続け
たりして、社会が沈滞化します。

類という生物も老廃化します。

つまり、人類という全体を活かすために
個々の死があるのです。
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宗教関係者ではありませんが。

いいですか。死ななくてはならないのではありません。死んでしまうのです。人間は細胞が老化するし、事故に合う場合もある。避けられないのです。宗教的には、諦めなさいってことかな。
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「意味がある」とはどういう意味でしょうか。

とにかく人は生きて死ぬ、不思議と言えば不思議ですが考えてわかることではありません。それはその通りに受け止めるしかないと思います。
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この回答へのお礼

何らかの意味をもって、神は生きることと、死ぬことをお創りになられた、と思います。
自分は意識を3回ほど失ってますが、そのときのことを思い出そうとすると、非常に恐ろしいのです。
生きてるってすばらしいな、と同時に、不思議だな、と思います。
考えてわかることでないことはわかってますが、それでも死ぬ意味には人が本来生きるために、すばらしい意味を持たせるために与えられたのだ、と思うのです。

お礼日時:2016/09/14 13:34

禅は生死の問題を解決します。


座禅をして悟りを開くことで本来の自己に覚醒します。
目覚めた者のことを仏陀といいます。
仏陀は生死を超越した者です。
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人間というものは、知らないものに対しては恐怖か、敵意を抱きます。

あるいはその両方を。
だから、死というものに恐怖を抱いてもおかしくはありません。生きているものは知らないのだから。
ほぼ、転生輪廻ある人間は、死を知りません。慈悲によって死は強烈だから、死の瞬間は気絶状態になるからです。
死を知る必要があるに達した人間は気絶状態になりません。達してもいないのにそれを望まないように。
死を怖がっても不思議でも異常でもありません。
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この回答へのお礼

死ぬことはまったく望んでません。最初は未遂でしたが、あとは水中毒による意識喪失と、三度目はODでした。
いま、一人暮らしの不安から毎日のように死を考えます。
聖書で死を検索すると、千回くらい出てきます。
そのうち、詩編と箴言、イザヤ書には死から救う神さまがはっきり書かれてます。
まだ、途中なのですが、たとえば「主は乏しい人の右に立ち、死に定める裁きから救ってくださる」(詩編109の31)とか、
「この神はわたしたちの神、救いのみ業の神、主、死から解き放つ神」(詩編68の21)とか。
死は非常に恐ろしいというか、死んでいるときを思い出すと恐ろしいというか、何か知ってはならないことを知ってしまった感があります。
ところが、心臓が苦しくなったり、呼吸が苦しくなると、やはり死には意味がないと死ぬ準備ができない、と思います。
ところが、聖書には死に意味がないことばかり書かれてます。

お礼日時:2016/09/14 18:44

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