これ何て呼びますか

1. この問いは 個人にとっての信仰については ほとんど脇に措いておきます。
社会のナラハシとしての宗教を扱います。

2. だとすれば 商人がお稲荷さんを拝もうと その妻が極楽浄土の阿弥陀仏に
帰依すると言おうと あるいは天国を夢見て教会でアーメンと唱えようと それぞ
れみな 一神教でしかない。

3. 狐や仏さんや神さんをいだくというその姿としては それぞれ一つの神を信
じることでしかない。

4. 自身が経営の神様なる松下幸之助がどんな神を受け容れていたか知りません
が 仮りに自分がよいと思った神をみな信じていたとしましょう。だから 多神教
となるか?

5. なりません。神さま仏さまお金さま等々すべての神々を おのれという一人
の人間が人格全体として統覚するかたちで信じていると見る限りで それらはまと
まって一つの神であるはずです。さもなければ 分裂状態か さぞうまく信じ分け
使い分けていることになります。

6. 一つの社会ないし国として多神教を標榜しているという場合にも 実際の情
況は 一神教の状態に同じです。

7. なぜなら その集団としてまとまって《一神教より多神教のほうがすぐれて
いる》と宣言したそのとき その多神教社会は よそから見れば 一神教状態にほ
かならない。

8. 言いかえると 多神教社会は 一神教を自分たちの社会の中に輸入した場合
には 多神教主義という一神教の中に従属するかたちでしか存続させないのだから。

9. もっと言えば 日本は 多神教ではなく 日本教という一神教であり その
基にいろんな宗教・宗派が――マルクス教や反日教などをもふくめて――支部をつ
くっているというに過ぎない。

いかに?

A 回答 (4件)

多神教と言うのは、多くの神様が登場する文学を宗教として捉えているか?と言う側面と。


他者が崇める神を認められるか?ということだと思います。
これは、日本人を始めとする多神教国家において、他者を認め尊重出来る心があるかないか?
だと思います。

一神教であるユダヤ~キリスト~イスラムでは、一神教であるが故に。
ユダヤは、新約聖書・クルアーンを外典と呼び、認めません。
キリストは、クルアーンを外典と呼び、認めません。
しかし、
イスラムは、旧約聖書・新約聖書もクルアーン同様大事にしています。
キリストは、旧約聖書も新約聖書同様に大事にしています。

一神教と世間で言われる宗教は、日本人の感覚では考えられない感覚があるようです。
ISISのような過激思想の信者がいることで、イスラム教に対して日本人は変な感情を持ちやすいですが。
本来のイスラム教徒はどちらかと言うと、他者の思想に寛容で多神教に近いと思います。

知り合いのイスラム教徒曰く、人を殺して良いなんていう神様はどこの国にも居ないよ」と。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

心のままに反応してまいります。

イスラーム評です。
★ 本来のイスラム教徒はどちらかと言うと、他者の思想に寛容で多神教に
近いと思います。
☆ そう言えないことはないでしょうが これは あぶない。

ひとつに どの宗教でも そのように言うことは出来る。

もうひとつに 過激な原理主義が たとえ1%に過ぎないとしても その1
%こそが 大問題である。

クルアーンを読んで感心することはまづないですよ。おっしゃるところの
《文学》としても。

ただし 一般のムスリムの人が みづからとそして人びととの共生をとうと
び平和を愛すると思われるのですが それは どの宗教に遭っても宗教の所
為ではなく もともと人間が生まれつき持っている仲間意識のような共通感
覚によるものと考えます。

★ ~~~~~~~~~~~
他者が崇める神を認められるか?ということだと思います。
これは、日本人を始めとする多神教国家において、他者を認め尊重出来る心
があるかないか? だと思います。
~~~~~~~~~~
☆ 《外道》という言葉は ブディズムから出ています。

一神教の優勢な社会にあっては たしかにその事態のままに《信教の自由》
が 認められていても なかなか実際にはむつかしい。少数派は 圧迫感
を持ってしまう。

ただしですね。同じような次元の自由としての《良心の自由》 これについ
ては 多神教の優勢な・たとえば日本社会では あまり気づかれてはいませ
んが 必ずしもその自由が保障されているとは思えません。

端的に言って KY を排斥するナラハシです。良心を曲げてでもお上やその
場のクウキには従わなければ 社会生命がおびやかされます。

このところは ゆるやかに成って来たようにも見えますが なかなか《信教
の自由》が保障されているようには 自由ではない。

一般に 一神教と多神教とでは 信教の自由と良心の自由とのあいだでどち
らか一方を犠牲にしてそれぞれ片寄ったナラハシ(つまり 宗教の影響を受
けた倫理などの人間関係)を呈している。のではないか。

多神教も 社会のひとまとまりとして見れば ほとんど一神教と同じくらい
の窮屈さを人びとに対して余儀なくしている。これは あまり普段は気づか
ないことなんですがね。――つまり クウキと呼ぶくらいですから。

お礼日時:2016/09/14 07:51

No.2です。


なるほど、議論的なのがしたいということでしょうか?

だとすれば私が言いたいのは一つです。
無宗教だなんだと私は言いましたが、日本の多神教的な考え方が結構好きです。
あなたの言うとおり、多数の神様の中から信仰したい神様を選ぶ。個人としては一神教的な考え方になるかもしれませんが。
結局そういうことが出来るのは日本だからといえるのですよね。これこそ日本教ですね!

>《無宗教なんだよ》という宗教観 これが 日本教の真骨頂なのではないでしょうか。
その通りかもしれませんねー
周りに流されるとか言いましたが、周りのいいものをどんどん取り込んでいき自分のものにしていく。
これが昔から培われた日本人の国民性といえるのかもしれませんね。一つの物に固執するなんて考えは文明開化のころから捨ててきたのですよ
なんてそれっぽいこと言ってみたりw自分も無知なため空っぽな議論になってしまいますがw

七福神なんてものがありますが、あそこに日本の神様は一人しかいません、あとは全部海外から招来した神様たちですw
こういう面白い考えが出来るのも日本人ですよね。

多神教であるのは、人々の願いを一人の神様にだけ負担させられない!もっとたくさんの神様に分担させるべきだ!
なんて、思いやり精神から来てるのかもしれませんよ?w
そういう考えが出来るから。神無月には出雲に神様が集まって一年のことの会議をするーなんて、面白いことも思いつくものです。
こういうの私はすごく好きですwきっとお酒でも飲みながら楽しくやってるのかもしれませねw

なんか話がすごくそれてしまいましたが、こんな感じでいいですかね?w
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ですが 前回のお礼欄と同じことになりますね。

そして しかし 肝心の次のくだりは素通りされてしまっています。
☆☆(№2お礼欄) ~~~~~~~~
つまり クウキとしては《無》ではないのですよ。従うべきものとし
てしっかりとその場に流れているのです。

何かと不利な情況に追い込まれるという事態を覚悟してでないと そ
の・じつは日本教丸出しのクウキには逆らえないのですから。
~~~~~~~~
☆ こんな窮屈な《一神教》はないですよ。

お二階さん――いわゆる《お上》です――に逆らえないというのは
ずいぶんこのところゆるゆるの感じになって来ているように見えます
が 官僚や役所の人たちは ガードが堅いというべきか 融通を効か
さないと言うべきか その壁は容易には突き崩せないものと思われま
す。

日本教というシュウキョウは そういう場面にも現われています。よ。

信教の自由は守られているとしても 良心の自由は じつは 疑問符
が付きますね。難なく誘導されてしまっています。

お礼日時:2016/09/13 14:23

うーん、文章がまとまってなさすぎて読みづらいのですが。


どんな回答を求めてるのでしょうか?

まず言いたいのは、単純に多神教は、一つの宗教に神様が複数存在することですよね?
でもそういう一般的な当たり前な回答を欲しいわけじゃなさそうなので、とりあえず私も思ったことを書きます。

個人の信仰についてはほとんど脇に置いているといいながら
>だとすれば 商人がお稲荷さんを拝もうと その妻が極楽浄土の阿弥陀仏に
帰依すると言おうと あるいは天国を夢見て教会でアーメンと唱えようと それぞ
れみな 一神教でしかない。
といきなり個々人が引き合いに出されていますが。
結局その人が一つの神様を信仰したとしても、その神様が信仰されている宗教が多神教だから多神教信者ということになるのでは?

>もっと言えば 日本は 多神教ではなく 日本教という一神教であり
ここの言いたいことは何となくわかります。ただ日本教という一神教ではなく単純に多宗教なんですよね。
結局国としての明確な宗教がないため、明確に日本は無宗教なんです。まあ仏教なのかもしれませんが。
仏教だとしてもクリスマスはやるわイースターはやるはで、結局日本人特有の周りに流されて個性がないのです。
だから無宗教といわれてしまうのだと思っています。

まあ、いってしまうと
日本には信教の自由が憲法で保障されているので、宗教についてとやかく言われる筋合いはないのですよ
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ どんな回答を求めてるのでしょうか?
☆ これこれこういう内容の回答が欲しいということはありません。

できれば批判するかたちの回答を求めています。

★ といきなり個々人が引き合いに出されていますが。
☆ ええ。ですが これは止むを得ないと考えました。

というのは ナラハシなる多神教と言っても そういう個別の《信仰
と重なる宗教としての事情》があると見たからです。

★ 結局その人が一つの神様を信仰したとしても、その神様が信仰さ
れている宗教が多神教だから多神教信者ということになるのでは?
☆ そうですよ。そうであるときに 個別の事情としては個人ひとり
にとっては 一神教としての事態が起きている。とまでは みとめた
ほうがよいと。

それが 社会の中に置いて見たときには 確かに多神教の情況となっ
ていて そのようにマクロとミクロとが 微妙にからまり合いながら
社会全体として《多神教主義としての一神教》が成り立っている。
――という証明の仕方です。

★ ~~~~~~~~~~~
仏教だとしてもクリスマスはやるわイースターはやるはで、結局日本
人特有の周りに流されて個性がないのです。
だから無宗教といわれてしまうのだと思っています。

まあ、いってしまうと
日本には信教の自由が憲法で保障されているので、宗教についてとや
かく言われる筋合いはないのですよ
~~~~~~~~~~~~
☆ あいにくと言いますか ちょっと申し訳ないですがと言いますか 
まさにこの《無宗教なんだよ》という宗教観 これが 日本教の真骨
頂なのではないでしょうか。

つまり クウキとしては《無》ではないのですよ。従うべきものとし
てしかとその場に流れているのです。

何かと不利な情況に追い込まれるという事態を覚悟してでないと そ
の・じつは日本教丸出しのクウキには逆らえないのですから。

お礼日時:2016/09/13 12:43

神には多神教だろーと一神教だろーと関係無いだけです・・



ご自由に どうぞ・・
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 神には多神教だろーと一神教だろーと関係無いだけです・・
☆ どのように関係ないのでしょう?

★ ご自由に どうぞ・・
☆ はい。そうします。

お礼日時:2016/09/13 12:27

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