プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

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例えばここにウサギがいて生きていますが もし人間に撃たれて死んだら その死体はウサギでしょうか 一瞬前まではウサギでも 死んでしまってはウサギの死体としか呼べない ウサギと言うのは生きているものだと思います そしてウサギの体を血液や体液が循環したり移動したり 環境もぴょんぴょん跳ねて一瞬一瞬違います時間を止めない限り ある一定のウサギの状態はありません しかし時間は止まりません そこでウサギが存在するというのなら、存在とはどう定義できるでしょうか?

存在の定義を教えて下さい。存在者でも存在物でも構いません。どう定義しますか?

A 回答 (31件中11~20件)

生きてる人間を火葬場で焼く訳ないでしょう。


でも、ハルさんならそう言うかも知れんなあとは思っていました。
また衛生上の問題を提起するかも知れないなとも思っていました。
土葬、水葬、風葬、火葬色々ありますが、それらは全て葬儀なのであって、心の行為なのです。
分からないのかなあ、やっぱり。ハルさんの考えは、地に足がついてない感覚がするんですよ。生きた考えではなく、頭で作った考えなんですよ、ハルさんのは。
そして、既存の哲学を役立たず呼ばわりするあなたですが、そんなこの存在論が何の役に立つと言うのでしょう。

この場合、命が大切なのではなく、人が生きていたという事が大切であり、そこに尊厳があるのです。
踊り食いが問題?何を言い出すのやら。それは鮮度を示してるんでしょうよ。活け締めの技術があるから活け造りもできる。残酷さで言ったら家畜なんてもっと残酷ですよ。ハルさんは有精卵でも遠慮なしに食うでしょう?現場を知らないから、整えられた肉を遠慮なく食えるのでは?
あぁ、どんどん話題が核心から離れて行くなあ。
でも、ハルさんの心情というものが良く分かりました。
ハルさんよ、考えりゃいいというものではないんだよ。何を自分は大切にしたいのか、それを自身の胸に問うてみる必要があるんじゃないですか?
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この回答へのお礼

うーん・・・

弱ったなあ それでは生きている人間も死んでいる人間も同じ様なものだと仰るのでしょうか?

人間という者は 生きて精神がなければ焼かれて消える運命なんですよ。

生命と精神が 在るかないかという事が大切なのです。葬儀は生きていたことのことを思って傷むのです

死んだ後の事を考える宗教もありますが、死んだ後に何があるというのですが?

生きて心がある事以上に死んだあとに何があると思いますか? 天国や輪廻転生は気休めに過ぎません

葬式をしても子供の死んだ親は心や休まりません。生きてる事というのは 精神を持って人間存在するという事は

それほど大切なことなんですよ。

踊り食いは僕も食べたことがあります。今は無理かもしれませんが昔は鶏を絞めるような時代でしたから

踊り食いも猿の脳みそも美味かったのでしょう。人間は食物連鎖の中にいますから肉を食ってもいいでしょう

しかしそれは動物としてです。人間は動物であると同時に精神を持ちますから、精神が可哀想だと思ったら

食べなければいいでしょう。

モンティーパイスンにイーティングマイマザーというコントがあります。

イギリスのコントですが死んだ母親を食べようというのです 観衆はブーイングしステージに詰めかけますが

「食べて罪悪感があったら 墓穴に吐き出せばいい」と言う所で観衆の怒り爆発 女性がコメディアンに詰め寄り

とんでもないイタズラ坊主にお仕置きをしなきゃという感じになります。

それくらい既成概念をとっぱらわないと今の因習は抜け出せません。

地に足がついてないで結構、精神は宇宙を駆け巡るのです。それでなくて新しい哲学が作り出せますか?

今のまま行けば世界はまた戦争と格差と温暖化や人口爆発の問題などで行き詰まるでしょう

宗教も葬式は上がりますが 人を救うことができるでしょうか?

お礼日時:2016/10/10 09:38

> 存在は一瞬一瞬新たに実現するのでしょうか?


>
> 時間をつらぬいていますか、存続でしょうか?

関数の関数の関数の関数の関数.............
(しかし回数は限られていて繰り返すかも。)

存在の刷新または更新で時間をとらえるイメージであれば、
存続という言葉はふさわしくないと思います。
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この回答へのお礼

ありがとう

もともと存続するというのは不自然なことですからねえ

循環や安定やアイデンティティというべきかもしれませんね 存続は。

お礼日時:2016/10/10 09:12

ルパンさん。

九相図、それだと思います^^
ありがとうございます。
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回答ではありませんが、あほなさんの回答の余談は、九相図の事でしょうか?


これは、仏教修行の為に書かれたもので、有名なのは「小野小町九相図」です。
九相観を得るために、この絵を見ると言う事のようです。
肉体の不浄と無常を認識する為のようですね。
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この回答へのお礼

なるほどねえ。

お礼日時:2016/10/10 09:09

いや、、どうなのかな?


私はハルさんを侮っておるのでしょうか?
後で他の回答者さんへのお返事を読んでそう思いましたが、果たしてどうか。
ちゃんと回答できたのか。
ハルさんの言うように、死んだのなら体はあってもその人はそこに居ない、存在しないと言う主張も理解できます。しかしながら、雲の上から見るようにしては、世の事象を理解することは出来ないでしょう。
世に考えと言うものは沢山ありますが、その中でも「人らしい考え」を持たなければ世の色々の事について理解することはできないだろうと思います。しあわせになる事も同じく。

余談
名は忘れましたが、昔、日本に、人の変化を記録すると称して人の生きている姿から死んで腐敗し土になるまでを絵で描写した者がおりました。彼の意図は何だったのでしょうね。
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この回答へのお礼

ありがとう

余談は 死とは何か知りたかったのではないでしょうか? どの時点でその人は死んだのか?

事切れた時点で死んでるんでしょうけどねえ。


人間の存在にしても、あほなさんの家族が死んで無言の帰宅をして まだ存在してるから良いとは思わないでしょう。

死んだら明らかに違う物になってしまいます。生命や人間は。植物人間になっても嫌でしょう?

植物人間と意識ある人間とも違います。

命と精神が別物だからです。命がないと精神はない。だから両方ないと困るのです。

世に色んな考えがありますが、参考にするにはいいですが、悪影響を受けたり同時に色んな考えを持つことも

考えものです。矛盾しますからねえ大概。

幸せになりたければ哲学なんかしないで初恋の彼女と付き合ってます。哲学したことが幸せなのでしょう。

haru27はこの冬で引退するかもしれませんが 我が存在性理論は永遠に仏滅です!?いや その。

お礼日時:2016/10/09 21:52

認識が間違うと存在がかわるのは何が問題なんでしょうか?


ある認識でAと認識されればAだし、同時にBと認識しているのであればBで何が問題なの?

次の瞬間に存在しなくなるなら、存在しなくなっただけのような。

次の瞬間も必ず存在しなくてはならないの?

生きているものと死んでいるものの境界線は、明確になっているんですか?
どの状態から死んでいると?
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この回答へのお礼

ありがとう

「これはキリンだ」と言ってる人がいて、「それはオカピだ」と言ってる人がいて

勝手に言ってればいい様なものだけど それを客観的に見たら どちらかが間違ってるか 言葉の方言のようなもの

だという事になります。しかし普通の人はそれでいいが(宗教が違っても構わないが)真実は一つ

それがキリンに似たオカピなのか、オカピに似たキリンなのか、DNA上は違うということです。

生きてるものと死んでるものとの境界線については私より医学が専門なので、生物学とともにお調べ下さい。

生きてる状態と死んでる状態は植物に於いてはかなり曖昧な気が。

お礼日時:2016/10/09 20:37

>それを見ないで自分だけが存在するのだという哲学はおかしいと思います。


>私の目指すのはもっと客観的な存在論です。でないと人間は救われないでしょう。

頑張ってください。応援しています。haru27さんに救われています。
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この回答へのお礼

Thank you

正確には「我思う故に我在り」はもう飽きた。次のステップに進もうじゃないか。

科学は「測る」という行為で発達しました。哲学も理性を持ってもっと客観性を持った

順列の証明のような 違う証明法があるはずです。自分が死んだら世界は消えるなんて危険思想です。

そんな考えだったらどうせ自分が死ぬのなら世界をどうしようとどうにでもなれ 

という人も出てくるのではないでしょうか?

科学は何千回やっても同じ結果が出る法則を仮説と実験で証明します。

哲学も何度やっても、世界の何処でやっても同じ結果が出る法則を仮説とデータから証明していいのではないでしょうか?

実存主義はおかしい。共産主義もおかしい。資本主義はもっとおかしい。民主主義ぐらいなら良いかもしれませんが

宗教や思想と言われるものに碌なものがありません。この21世紀に何を言ってるんだろうと思えるものが多いです。

由々しき問題です。私のささやかな人生を捧げて警鐘を鳴らしたいです。

お礼日時:2016/10/09 19:53

遺体を見れば心が思い出すんでしょ?


例えばその遺体に落書きなんかされれば黙ってられないでしょう?もし、ハルさんの言う通りそれがただの遺体であり肉であり物質ならば、魚の餌にしてもいい訳です。
しかし人はそうはしません。丁重に埋葬するでしょう?その遺体を粗末に、ただのものの様に扱わないでしょう?それが答えですよ。難しく言葉をこねくり回す事じゃない。尊厳というものに関わっているんですよ。

そこに生命があるかないかと、存在しているかいないかは別の事です。
あなたはその遺体を見て父、或いは母と認識するでしょう。
でなければただの冷たい人間ですよ。
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この回答へのお礼

日本では遺体をどうしますか? 腐らないように灰と骨になるまで焼くのですよ。

人間を焼きますか? そんな事したら傷害罪か殺人罪ですよ。

命を大切だとか言いながらその肉をスーパーで売って焼いて食うのですよ。

日本人は生きながらにして踊り食いとか活き造りとかやりますが、外国の多くの人はそれはショックです。

死んだ肉なら焼肉でもすき焼きでも出来ますが、生きた動物を食うのは抵抗があります。

死骸と生き物は違うのです。死骸は生命(生物)ではないのです。

言葉は曖昧なのでどちらもウサギと言うかもしれませんが 生きてるものと死んでるものは全然違う存在です。

お礼日時:2016/10/09 19:41

なるほど、ハルさんはいろいろと勉強した上でご質問していらしたわけですか。

私はうっかり、何も知らないのかと思って、当たり前のことを説明してしまったかもしれません。これは失礼しました。

>存在というものはその時点だけです、時間的に一貫性やアイデンティティがあるものを「存続」しているといいます。本当は存続する方が特殊なのです。

そう、その通りだと思いますよ。私もそう説明したと思っています。「存在「論」は」としましたので、この点注意してくだされば、了解してもらえるものと思っています。

>存在はもっと客観的であってほしい。でないとエゴイスティックな考えになる 私はそう思っています。

これは私の回答に対する批判ですか? それとも意見の提案ですか。後者で受け取ります。
どうでしょうね。現状、皆、そうやって生きている気がします。完璧にエゴイズムを取り払える人などいません。私はそれは仕方がないことだと思っていますけれどもね。

仮に皆が皆、客観的で、エゴイズムがない世界というのも、少し怖い気がします。例えば教祖にマインドコントロールされて、自我を教祖に定義してもらえば、そういうことになるかもしれませんが……他にはあまり思いつきません。

>自分が幸せでなければ人を幸せにする事は出来ない。本当でしょうか?

私はそういう話題を出していないので、これは新たな問いとして受け止めています。

いや、できると思いますよ。自分と他人はバラバラの存在ですから、自分の不幸が相手に伝播することはありません。相手が自分の不幸を受け止め、何かもっと別の次元に転換して理解することはあるでしょう。それが幸福ということもあるでしょう。例えば、「とても不幸な人みたいだけれど、私を頼ってくれて嬉しいな」と思う人もいるかもしれません。

分裂症は私の不明を改めておきます。ありがとうございます。
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この回答へのお礼

Thank you

どうもありがとうございます。やや不明な書き方が多くてすみません。

僕は年 以上に頭がボケてて 認知症じゃないかと思ってるんですが。病気や薬のせいかもしれません。

エゴというものは心理学においては当然あるもので、それは私も勿論認めるわけですが

少しのエゴイズムは生きるために必要だと思いますが、過ぎたエゴイズムは際限がありませんから

争いの元になると思います。

必要なエゴイズムでそれと同時に利他や愛、博愛を持っていてもいいと思います。

私はどうにも不幸なのですが人のために役に立ちたいと願っています。

仏教では不幸は宿業因縁のものと説くようですが、それでは救いがありません。

キリスト教では原罪があると説きますが それもちょっと悲しいものがあります。

実際には遺伝や教育や本人の傾向や偶然と思えるような事故もあります。

不幸や病気を連鎖させないようにどうすればいいか哲学的な答えを出したいものです。

普通は科学的な答えを と言うのですが 科学に負けては居れません。

骰子さんがレベルの高い哲学の持ち主だということが分かりました。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2016/10/09 19:33

PS



3.存在と時計
時間の考え方の多様性を理解するにあたっては、エルンスト・ユンガーのエッセイ『砂時計の書』なんかを参考に、身の回りの時計を考えてみても、面白いかもしれません。案外、時計それ自体に、存在論が隠れています。

・砂時計:自分の目的のためだけに時を計る装置(自分の主観的な時間の流れ)
・機械式時計:共通の取り決めに従って時を計る装置(他人に管理される時間の流れ)

他に、日時計、クオーツ、電波時計など、いろいろな時計があります。あるいは時計じゃなくて、食事の時間の知らせとか、腹時計とか、眠くなるとか、そういうもので自分の生のリズムを計っているものかもしれません。

ハルさんの「時計」は、どんなものでしょう。それを掘り下げていくと面白いことがわかったりするかもしれません。

それにしても、こういう話が始まった時に、グラスルーツさんがいないとさみしいですね……。
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この回答へのお礼

Thank you

僕はグラスルーツさんをよくは知らないのですが、印象は いじめられて困っていると言う事と

僕が回答しても「ありがとうございます」しか帰って来ない事。

また新たなグラスルーツさんに会いたいものです。

僕は人間的に問題があるのか 相手が誰か認識してないことが多いです。

名前を読まないのです。その方がエコ贔屓しないですねえ。

まあニャンポコリンさんとかあほなさん位は分かっています

だだじゃさんも認識しています。

時間はエネルギーの変化のことだと考えています。誤解されますが 物質もエネルギーの一種だと考えています。

砂時計のポテンシャルの変化 ゼンマイや電池時計の針(物質)の運動エネルギーと位置エネルギー(ポテンシャルエネルギー)の変化、

日時計なら太陽と地球の位置と運動の変化。デジタルなら液晶の変化。 この世界のエネルギーに変化がなかったら

時間が止まると考えます。骰子さん どうもありがとうございます。

お礼日時:2016/10/08 19:38

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