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例えばここにウサギがいて生きていますが もし人間に撃たれて死んだら その死体はウサギでしょうか 一瞬前まではウサギでも 死んでしまってはウサギの死体としか呼べない ウサギと言うのは生きているものだと思います そしてウサギの体を血液や体液が循環したり移動したり 環境もぴょんぴょん跳ねて一瞬一瞬違います時間を止めない限り ある一定のウサギの状態はありません しかし時間は止まりません そこでウサギが存在するというのなら、存在とはどう定義できるでしょうか?

存在の定義を教えて下さい。存在者でも存在物でも構いません。どう定義しますか?

A 回答 (31件中21~30件)

実に興味ある質問ですね。


アメリカの有名な学者である、テンプル・グランディンは、その場の設計(これは、牛が恐怖感を感じずにされる為の設計です)の発想を得たのは、死によって、生物が別の物に変わっていくことを感じた事によります。(尊い物が失われるなら、それは安らかに、尊厳を持って行われなければいけないと考えました)
これは、生物が、その死によって、別の性質を持つものに変わると言う発想です。
逆に言えば、生きているウサギと死んでいるウサギを連続した同一の物と認識できるのは、高度な抽象化によるものです。
連続した時間による変化の映像を一連の運動として捉えられるのは、ある意味、高度な抽象化がなせる技なのかもしれません。(実を言えば、無関係な映像の連鎖でも、人間は抽象化によって、それに物語を与える事も可能です)
これは、哲学と言うよりも、認識論の問題ですが、認識における存在は、まさにその人間がそれを連続した実態として認識する事です。
実際の存在は、当然物理的実体と、それを認識する者との間の関係性と言えるわけですが、存在をどの視点で考えるかが重要でしょう。
哲学的な存在に関しては、さらに熟考する必要があります。
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この回答へのお礼

ありがとう

私が居るのは確からしい。地球があるのは確からし。オリンピックがあったのは確からしい。

卓球愛ちゃんが居るのは確からしい。東京があるのは確からしい。東京でオリンピックがあるのは 予定 分からない。

地震が来て出来ないかもしれません。

私の言いたいのは 哲学が理屈の性格に拘り過ぎて 何の役にも立ってない、救える人さえ救えない。

人間に資するものがない事を申し訳なく思っているのです。

哲学には哲学の使命が在るのではないでしょうか? 

宗教にも思想にも哲学が役立たなければならないのではないでしょうか?

現に人が殺されています。それを助けずして何をするというのでしょうか?

お礼日時:2016/10/08 18:30

唯一無比、存在するのは、haru27だけですよ。


絶対にして完璧です。定義する必要も、それを疑う必要もありません。

ウサギは違う。ウサギなんてどこにもいないでしょ。
生きているなら生きているウサギ、死んでるなら死んでるウサギがいるだろうことをharu27が認識し、存在を確信しているにすぎません。

haru27さんが自身の存在を強烈に認識すれば、その強烈さに応じてそのゆらぎは瞬時にして世界に伝搬するでしょう。
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この回答へのお礼

Thank you

伝搬しますかね? 私が居るかどうか貴方には分からないのでしょう?

どうして私が絶対に存在すると言えるのでしょうか?

コギト・エルゴ・スムも批判されることがあります

自分が存在するというのも夢かも知れない。自分じゃなくて世界だけが存在していて

自分は世界の中で明滅する因果交流電灯の一つの青い照明かもしれません。

兎に角私だか何だか分からないのです。「何かが存在している と考えられる」までしかわかりません。

しかし確からしさに於いては シリアで人々が殺されたらしい と言う事も非常に確からしい 幾つも報道があります。

それを見ないで自分だけが存在するのだという哲学はおかしいと思います。

私の目指すのはもっと客観的な存在論です。でないと人間は救われないでしょう。

お礼日時:2016/10/08 18:19

存在とは、認識ですかね。

何かが認識しないと存在していると言えなくないですかね
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この回答へのお礼

ありがとう

認識を強調したかった訳じゃないんです。

認識したって間違っていればどうしようもないし、認識した時に(次の瞬間)実際にそれが存在するかどうか

わかりません。

要は今までの認識の経験から来る「確からしさ」の問題もあるでしょうけど

私は私なりに存在を定義してみました。しかしそれは私が勝手に定義しただけなんで如何なものかと思っています。

少なくとも認識できなければ存在しているかどうかは分かりませんよね。

お礼日時:2016/10/08 17:18

定義ではありませんが、時間をつらぬいていますね。

存在は。
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この回答へのお礼

Thank you

存在は一瞬一瞬新たに実現するのでしょうか?

時間をつらぬいていますか、存続でしょうか?

お礼日時:2016/10/08 12:07

死んだウサギは生きています。


全ての存在は、認識される事で有限な実体を派生
させており、ウサギを含む全宇宙は、あなたの脳内
に存在する=あなたの「生きている」証しなのです。

存在=認識です。
全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、
無限に詰め込むと存在確率の山が平らになって、
無と等しくなります。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の
闇に認識体の仮定断面(潜在的認識可能性)の運動
(時系列化=プランク定数hの収束=物体収縮=宇宙
膨張)を想定すれば、相対的に無の風は光になり、
認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、
自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識
するのです。
超弦(量子定常波)において光速に還元される本質を、
仮説的に階層現象を表面的に(いい加減に)捉える事
によって、潜在的認識可能性(現在)から、自我仮説
(記憶=時間の流れ=過去=超光速)と空間仮説(予測
=空間の広がり=未来=光速下)に相補分化する。
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この回答へのお礼

どう思う?

存在を無限に詰め込むと 個性が無くなって無に等しくなるのかも?

>この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の
闇に認識体の仮定断面(潜在的認識可能性)の運動
(時系列化=プランク定数hの収束=物体収縮=宇宙
膨張)を想定すれば、相対的に無の風は光になり、
認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、
自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識
するのです。<

この部分は分かりませんねえ。

>超弦(量子定常波)において光速に還元される本質を、
仮説的に階層現象を表面的に(いい加減に)捉える事
によって、潜在的認識可能性(現在)から、自我仮説
(記憶=時間の流れ=過去=超光速)と空間仮説(予測
=空間の広がり=未来=光速下)に相補分化する<

これも分からん。どうして記憶が超光速になるんですか??

お礼日時:2016/10/08 14:07

死んだウサギはウサギと言えるか?


言えるでしょう。
例えばハルさんの親御さんが亡くなった時、その遺体を見て、それは親父ではないとか、お袋ではないとか、言うでしょうか?
それは考え難いでしょう。

ハルさんは一時、哲学界隈が哲学を、そして存在という言葉の意味を意味不明にしていると言っておりましたが、今はハルさんが、存在という言葉を訳のわからないものにしようとしています。
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この回答へのお礼

ウサギとは何でしょうか?生き物ですか?物質ですか?

私は生きてるウサギをウサギというのだと思います。

死んだウサギはウサギの死骸です

死んだ人間は遺体です。死んだ母は空蝉であり 母は心の中にいます。

その遺体を見て心が思い起こすだけです。

お礼日時:2016/10/08 11:44

難しい事は苦手ですが、ウサギの表現で考えると、


「生きているウサギ」や、「死んでいるウサギ」と言う表現は、
特に奇異な表現とも、思えません。

このように考えると、
「ここにウサギがいて生きていますが もし人間に撃たれて死んだら その死体はウサギでしょうか」は、
「ここに生きているウサギがいますが、もし人間に打たれて死んだら、死んでいるウサギになります。」で
矛盾を感じません。

詰まり、生きていようが、死んでいようが、ウサギはウサギなのではないか、と思います。

若干違うのは、「ウサギが生きている状態」を「ウサギが存在している。」と
ハルさんが、認識している、ということのように思います。

そのものが「存在」しているというのは、結局のところ、その方の「認識」の
問題ではないか?と言う気がします。

「存在」とは、それを問題とするかたが、「存在する」と認定してようやく「存在する」ものではないか?

このように考えると、「存在」とは、非常に相対的で、絶対的なものではない、ように思えます。

毎日、沢山の女性とすれ違いますが、素敵だと思う女性は、大体、数人で、後は、
記憶にも残りません。

この場合、「私が「存在」を認識するのは、ほんの数人で、それ以外の女性は
存在しません。」みたいな。
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この回答へのお礼

それはあんまりでしょう。女性は素敵でも素敵じゃなくても存在しています。

ウサギというのは生物だからウサギで有り得るのです。

ウサギの死体はウサギの肉です。タンパク質、CHINOPS系の物質です。

命を持つ生物としての存在 ウサギを認識しないとは 自然がなくなった証拠ですねえ。

例が悪かったですねえ。光の存在を認識するか という事で考えてみて下さい。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2016/10/07 20:43

☆ 『物質的存在とは宇宙の現象そのものであり、永遠性としては変化から免れ得ないものである。


☆ 『精神の存在としては物質と同体であるゆえに、その物質と運命を共にする。』
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この回答へのお礼

Thank you

仰る通りですねえ。永遠性の意味合いを知りたいところです。

精神も脳の活動と共に消えますねえ。未来に影響を残すのみです。

変化を免れないのに「酸素分子が存在する」と言えるのは何故でしょう?

お礼日時:2016/10/07 15:26

あなたは生存してますか?」←こんな事も判らないの?



あなたの考えなら パソコンって幽霊でも操作出来るんだ(笑)
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この回答へのお礼

何だかよく分からない話ですねえ。どうも。

お礼日時:2016/10/07 15:27

ウサギで無くても・・(笑)



例えば・・携帯電話やパソコン等を真っ二つに切っても携帯電話 パソコンと認識する・・

生命がある無しでは無い事は 解かるでしょ?
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この回答へのお礼

ありがとう

携帯電話やパソコンを二つに割ったら 携帯電話やパソコンじゃないですよ。

携帯電話の性質や機能がないじゃないですか

生命があるなしは 生命が存在と言えるかどうかにかかっています

あなたは生存してますか?

お礼日時:2016/10/07 12:40

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