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芸術家と云われる人たちの活動は"創造"ですよね。

その"創造"された"作品"に接した事によって受けた刺激が"感動"となれば、それを体験した人はその感動を次のステップとする事によって、ささやかではあってもその人の新たな"創造"につなげる事が出来るのではないかと、考えてみました。

そう思うと、ここ哲学カテに投稿される質問に刺激を受ける私としては、質問自体をアートと云ってみたくもなります。

この価値観を持って見渡せば・・・

ブラジュロンヌさん、アートしてますね。
分かりにくさが、欠点ですけど。

haruさん、アートしてますね。
体調はどうですか。心配してます。

psytexさん、アートにしてください。

Grassさん、有望なんですけど、まだ・・・かな?
Grassさんの印象を例えて云えば、
夜空に忽然と現れる『彗星』。
見逃してしまう。
でも、見逃したくない。
そんな存在。

皆さん、

このような"見立て"は、いかが、ですか?

質問者からの補足コメント

  • psytexさんに付いては、アートしつつあると思っています。

    neutralさんは、どう思いますか。

      補足日時:2016/11/04 20:17
  • 今、世界は女性の活躍が目立つようになりました。

    この事は、ブラジュロンヌさんにとっては好ましいことですか。

    赤い"朝日"は女性ですか。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/11/05 12:50
  • 大宇宙に対する小宇宙。

    この小宇宙は、より深く認識することによって、小宇宙の"創造"が成される、と訳してみました。

    ただ認識しただけでは、創造とは言えないでしょうから。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/11/05 15:39
  • せっかく用意した座布団は私が使う事になりました。正座するために。

    素敵な詩ですね。表出もこうなるとアートでしょう。

    線引きは個々の価値観によって引かれると思うので、生活する事がそのままアートになっている、というneutralさんの意見はまさに実存主義的だといえます。
    とてもエネルギッシュだと思います。
    詩も繊細でありながら、でも感傷で終わってしまわないところが、neutralさんの特徴ですね。

    有り難うございました。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/11/06 16:34
  • 色は空、とは。

    色とは、この世の現象の事。
    空とは、無、と云った様なことではなく精神、と捉えたほうが良いと思います。

    精神の意の力が色となる、と云うわけです。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/11/11 09:25
  • だだじゃさんの意見を踏まえたpsytexさんの回答も欲しかったのですが、結論は一緒でも解釈の違いがあって、意見を寄せられなかったのでしょうか。今はもう新たに立てられた質問の方に行ってしまっていますね。残念!

    どうやら私の思う"認識"とだだじゃさんの使う"認識"とは捉え方に違いが在るのかも知れません。
    想像、も認識と捉えるのかな?と感じました。

    また、だだじゃさんもpsytexさんも"意識"と云う言葉は使いませんね。
    興味を持つところです。

    今回はフェイスブックで、グラスさんにアートから認識論に変わってしまったと、指摘されてしまいましたが、流れが変ってしまったのは「認識存在論?」の磁力が強いから。

    いづれにしても、だだじゃさんのご意見には考えさせられました。
    質問の狙いからは外れてしまいましたが、どの回答もよかったです。
    有り難うございました。

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/11/11 10:34
  • 意味深長な回答ですね。

    だから、これを選びました。

    有り難うございました。

    No.17の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/11/11 10:43

A 回答 (17件中1~10件)

>自身がこの世にあらわれる前の両親は、実は存在していないのだと云っているような、



そうじゃありやせん。
自分が誕生する前の両親は、誕生した後の今の自分が、若かった両親が存在していたという風にしているという存在だってこと。
そこでやんす。

誕生する前の両親は、確実に存在していた。と絶対に信頼しているのは今の自分でやんしょ。

哲学が人間の範疇に留まるなら、「両親は、存在していた」で間違いなく、一切の問題もありやせん。
餓鬼道を突っ走るあっしにとっちゃ、それが滑稽でやんス。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

人の認識と云う働きを"想像"と云える事柄にまで適用しているのかな、と思いました。

有り難うございました。

お礼日時:2016/11/11 09:53

もっと単純です。

少なくともわたしの場合の疑問は。

受精卵として成ったとき あなたは存在し始めたのではないですか?
と問うているのみです。

そのような存在は 単なる現象であるのかも知れませんが やがて
そこから――すでに潜在可能性としてそなわっていた能力として―
―認識のハタラキが現われて来る。

ですから このとき認識は 世界を認識しおのれの存在をも認識す
るわけですがそれは 存在を生じさせたわけではなく すでに存在
していたおのれの存在を確認したということになります。

違いますか? と問うているだけです。

したがって

 認識が世界を生じさせる。

という命題は 少なくとも表現がつたない。ということになります
ね? ということです。


さもなければ 認識という能力は 何か《メタ認識力》なるものに
よってヒトとしてのハタラキが現われる前に生じていた・・・とい
うふうに説明することになるのではないかと 推測します。

メタ認識なるチカラとは 何ぞや?
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この回答へのお礼

やっぱり「認識存在論?」はその人だけの世界に限定されてしまうと思います。

有り難うございました。

お礼日時:2016/11/09 12:07

認識なんかがなくったって、宇宙は存在するってのが、実に、実に、人間的でやす。


そういやぁ、かのアインシュタインもそう言っておりやした。深いとこまで辿りついてやしたのに、実に、おしい。

そりゃ、地球の消滅後だって、今の人間からみりゃ、宇宙は坦々と存在し続けまさぁ。
でも、その存在し続けるだろう宇宙ってのは、今の人間の認識にほかなりやせんや。

人間てのは、現実があるようにあるように、疑いなく有るように認識しているんでやす。
それが人間の言う「存在」でやんす。

卵が先か鶏が先か? 認識が先か存在が先か? 

存在から生まれた認識。そして、存在から生まれた認識が存在を認識する。
コギト・エルゴ・スム、そして時間と空間の人間臭い把握をベースにして、宇宙を「存在」させているのが認識でやんす。宇宙は、自分の反射と言われる所以でやんすなぁ。

存在の皮を一枚一枚ひっぺがしていきゃ、後にはなぁ~んにも残りやせん。

さて、冒頭にもどりましょっか。
認識なんかがなくったって、宇宙は存在するってのは、実に、人間的でやす。
存在は、認識されなければ存在になりゃしやせん。
新種の発見は、発見によって新種が誕生したなんてこっちゃありやせんよ。

存在ってのは、どこに存在しているかってことでやす。
太陽ってのは、自分が死んでも、ずっと太陽として存在し続ける、としているのが、今の自分の認識ってこと。
ほかに、他のあらゆる認識の、認識している側にしか太陽は存在しちゃいやせん。

太陽は、太陽の位置に燦然と輝いて存在している。と、みんなが認識しているんでやんす。認識した人の中にだけ。

人間てのは、現実があるようにあるように、疑いなく有るように認識しているんでやす。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

自身がこの世にあらわれる前の両親は、実は存在していないのだと云っているような、実に、実に、非人間的な"認識存在論?"に反論・論破、しようとあれこれ考えるのですが、これだと云った"意見"が云えないところが悔しいね。

でも事柄が想像の世界の事だから・・・どっちも実証、なんて出来ないという事柄だから・・・結論なんてものも無いのかもしれません。
もっとも、いや、そう言う意味じゃないんだよ、と云う言葉も聞こえてきそうですが・・・

だだじゃさん、ブラジュロンヌさんは"認識存在論?"には疑問を持っているようで、そういう点では私にとっては力強い味方、と思えます。
そう思うからでしょうか、だだじゃさんは今現在は2対1。孤軍奮闘、ですね。

本来ならだだじゃさんを差し置いてでも"あの人"がしゃしゃり出てこなければならないはずなのに、なぜかとても静かです。物音一つ立てません。
情けないと思いませんか、だだじゃさん!

お礼日時:2016/11/08 22:51

★ (№13お礼欄) 例えば、動物やそれ以外の生物でも自身に都合


の良いものか、あるいは危険なものかは認識することによって行動が決
定される、と云うことが正しければ・・・
☆ オオカミナスビには 目のハタラキを強める作用があるそうです。
( Miss Marple なるミステリ・ドラマで言っていました)。

ただし それは毒であって 少量なら薬になるけれど 多量を服用する
と 酒に酔ったようになり命にも影響するそうです。

あるいはつまり この作用は アトロピンと言うそうですが これに対
抗するハタラキを持つ成分をふくむのが ピロカルピンだと言っていま
した。蜜柑科の植物だそうです。


つまり 人間は このように言葉≒概念をとおして世界を認識している
ようで それを《言(こと)分け》と誰だったかが言っています。

つまり このように草やキノコに毒があるかないか 食べても大丈夫か
を 人間とは違って動物は 《身分け》で対処しているのだとか。

身の知覚をとおして 世界を認識(?)している。




ところが ヒトにも 《身分け》に近いようなハタラキがあるかも知れ
ない。

その昔 アイヌの人たちの間で こういうことが起こったそうです。

 一人のアイヌの男が 山で遭難した。戻って来ない。
 巫女が占なった。この山のどこそこあたりに倒れていると言う。果た
 してその通りであったが そのわけは こうだと説明した。

  ――わたしが からだ全体で 山になる。その山の全体に わたし
   の体を重ねてみる。
    そうすると 体の一部が 痛くなる。その部分が 山のどこに
   あたるかを考えてみれば そこに男は遭難しているはずだ。
 


☆ 《認識》が なんぼのものぞ。
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この回答へのお礼

仏道修行して悟りの境地に入ることが出来るようになると、あの山が我か、我があの山か、といったような一体感を覚える、といったような事を彼の弁栄(べんねい)上人は言っています。

だから、この巫女は特別に修行しなくても(それなりの行はしていたはずですが)自身の心を自然と一体化させる事は出来たのだろうと思います。

信じられる話です。

有り難うございました。

お礼日時:2016/11/07 15:54

別様に問いたい。



○ 認識が世界を生じさせる。
☆ というとき それでは 身体はどうなっているのか?

脳細胞をじっさいに認識することはむつかしいと思われるけれど
この身に認識の能力がそなわっていると認識するはず。

すなわち わたしが世界を認識するとき 認識の能力はすでにそ
なわっていたと認識するのでは?

ものごころが付くまでにからだが育ってきていたと認識するので
は?

だとしたら 認識する前に世界は存在していたと考えられるので
は?
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この回答へのお礼

私は思うのです。
認識と云う能力は動物的な事柄の範囲になるのではないでしょうか。

意識する、あるいは意識していると云う事さえも意識できる、と云うところが人間のもつ能力の特徴部分であって、認識と意識と云う言葉の意味を使い分けて考えなければいけないのではないかと。

例えば、動物やそれ以外の生物でも自身に都合の良いものか、あるいは危険なものかは認識することによって行動が決定される、と云うことが正しければこうしたこと、それ自体を意識できる人間だからこそ、情的にも理的にも自身による発達を可能にしたのだと思うのです。

意識、という能力が人間を"人間たらしめている"と云いたいのです。

回答、有り難うございました。

お礼日時:2016/11/07 02:25

>個人の内面に於いてはそうであるのかも知れない、



人間が宇宙だと言い張っているものは、人間の「個人の内面において存在する」宇宙の共通部分なんでやんす。
それ以外にはなりようがありやせん。人間の宇宙が宇宙だなんて思いあがっちゃなりません。

水槽の金魚が認識する宇宙と人間が認識する宇宙。餓鬼のあっしからみりゃ、どっちも独特の宇宙でやんす。
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この回答へのお礼

いいですね!

とても力作、だと思います。
私が"凡人"という言葉を使ったから、カリカリしてるようですけど、そこは我が意を得たり!と云った気持ちです。

決してだだじゃさんを愚弄してるわけではありません。大多数の人間は(99%以上か?)凡人と云えるので、そうした思いで使いました。
でも狙い通り、本気になってくれました。有り難うございます。

ただ、主張が良く分かりませんでした。
金魚の認識する宇宙と人間が認識する宇宙はどっちも独特の宇宙、と云うところが。
ほかにもありましたが。
共通部分、とか。

でも、再度考えてみようと云う気にさせるご意見です。
有り難うございました。

お礼日時:2016/11/07 01:59

>存在するものが無ければ認識できません。



逆に、「存在するもの」ってのは、人間が認識するように、存在なんかしちゃおりやせん。
餓鬼のだだじゃが言うのもなんでやんすが、色?固さ?重さ?形?そして変化?・・どれをとったって、人間の認識がそういう存在ってのにしているじゃありやせんか。
突き詰めていきゃ、何にもありはしない。なにか認識させる元っていうのが「存在」しているって、どうしたってそう思うでやんしょ。

それがあなただ。

あなたは、つまり、その認識は、いつ、どうやって発生したのか・・・これらも実に人間的疑問。
いつ・・なんてのはないんでやんす。規則正しく刻まれる時間の中に今の瞬間があるんじゃありやせん。
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この回答へのお礼

今は、認識と云う働きが気になっています。

お礼日時:2016/11/11 09:41

■ 逆に言やぁ、yy8さんは、認識する主体なんかなくても


この宇宙は歴然と存在すると感じるってことでござんしょ。
☆ わいわいえいと氏は そういう見解なのかも知れませんが

○ 認識によって 世界が生じる
☆ というときには その《認識》の能力ないし主体は いつ
生じたのか? と問わねばならなくなるのでは?
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この回答へのお礼

だだじゃさんとブラジュロンヌさんの意見を聞いて、それじゃあ、と言ってみたくなりました。

認識というのは対象物の存在を意識するということだから、存在するものが無ければ認識できません。認識によって物が忽然と現れるのではなく、元々有る処に意識が向う事で認識が可能となり、認識した事を我々人間は意識出来る、と受け止めた方が自然ではないでしょうか。

人間の社会の発達は科学によるところ大だと思いますが、人の認識とは全く関係なく存在するといえる物を対象に研究されてきたのだと思えば、認識によって世界は有るという捉えかたは、個人の内面に於いてはそうであるのかも知れない、と言わざるを得ません。

お礼日時:2016/11/06 16:06

◆ 「0-認識体=環境」


☆ だったら この《環境》はすでに《認識されている》はず。
引き算する前に。
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だだじゃのような餓鬼が「見立て」などおこがましくってとても出来やしません。


あっしには、ブラジュロンヌは神、haruは普賢菩薩、psytexは文殊菩薩でやんす。

一つだけ・・・
回答に書かれてた「認識する主体がいなければこの宇宙は存在しない」というのを餓鬼のだだじゃは当然だと感じまさぁ。
逆に言やぁ、yy8さんは、認識する主体なんかなくてもこの宇宙は歴然と存在すると感じるってことでござんしょ。

そうだってのは、人間様の時空間認識とかが不可欠なんじゃありやせんかね。人類が滅亡したって後も宇宙ってのは存在しつづけるんでやんしょが、そんまま宇宙として存在しつづけるって想像すんのはその人間様の認識がありゃぁこそ。餓鬼のあっしからみりぁもともと全く違う宇宙なんすから。

突き詰めて考えりゃ、宇宙の中身はことごとく何もありゃしない。何かあるってことにしているのは人間でやんすから、人間の認識が無くなりゃ、宇宙も消失するというのはホントなんでやんすよ。
人がよく言う色即是空、空即是色ってのがこんなようなことを言っているじゃありやせんかね。餓鬼のあっしにゃ、よう分りやせんが・・

人間には色々な宇宙論ってのがありやすが、餓鬼からみりゃ、宇宙は、始まってんのか、成長の途上なんか、はたまた、終わってんのかわかりゃせん。始まってもねぇし、終わっちゃいねぇってだけ。でも現実ってのは、認識する主体次第でやんしょ。それが人間であれ、畜生であれ、現実ってのはてめいが作り出しているってことなんすよ。

そんなわけあるかい。ってのが人間でやんす。
まっ、餓鬼のあっしにゃには、かかわりのねぇことでござんすが。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

全くその通りだと思えてしまいます。

凡人の宇宙観ですね。

ところが、釈尊はそうは云ってはいませんね。

このあたりが、理性と感性の境目ではないでしょうか。

凡人は、感性を磨きぬく"ちから"に限界がありますね。

エベレストを登頂するのも、この程度の凡人の心構えでは不可能でしょうから。

お礼日時:2016/11/05 22:00

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