よく祖谷みたいな辺鄙な土地の集落を平家落人の集落だったという話を聞きますが、腑に落ちません。
北条氏は平氏ですし、北条得宗家の身内人には「たいらの」、「の」まで入った者もたくさんおります。

源氏による平氏殲滅など行われたのでしょうか。

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A 回答 (6件)

私の先祖も平家方の落人です。


(私の先祖の家は大分県日田郡中津江村宮原郷にあります。)
平家時代から明治までは いちかわ と名乗っていましたが名を改めたため別の名になっています。このように、平家であろうがその家臣であろうが源氏の力が弱まればたいした弾圧もされなくなります。(寝返って職に復帰したものもいるか)
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一級品(大日本史等の)の資料と言われましても、本人たちは見つかれば殺される訳ですから、落人達からの文献は有りません、有っても眉唾物(系図など)、従いまして資料となりますと、物的資料が主になります、旗などですね。

ただし、間接的な資料文献は有ります、あの時代でも日常的に書き物をしていたところは、役所やお寺です、高野山の文献の中に、文治二年ごろから平家の落人が、身を隠しに来るようになった、と有ります、寺で下俗した人もいるでしょうが、その後、下山した人もいるでしょう、ただ、それらの人が落人村をつくったとは、書いてありません。
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ごめんなさい。


表記が間違っていましたね。
仰る通り「平」は「氏」です。
「姓」は官途制度のはしりですね。
すみません。
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 リーダー格の武士を殲滅することはあっても、一党殲滅は不可能だと思います。

歴史をみても、棟梁・謀反人の男系は殺されても、あとの多くの人々は命を救われて、亡くなった人の霊を慰め、冥福を祈って日々過ごしていますよね。
 昔読んだ本には、こんなことが書かれていました。
 辺鄙な山村では、村人以外との交流はままならない。狭い村の中で婚姻を重ねていくうち、いろいろな問題が起こってきた。そんな村にも時折来訪者がある。山で修行する山伏、聖、他の村を追われて来た者・・・。村人たちは、彼らを歓待し、村の女を世話した。それは、村の存亡を左右する大切な行為であった。歓待された者は、村を去るとき、実は自分は何某と言う立派な氏の出である。世話になったお礼に、またもし、子ができたなら、その子のためにも、家系図を残そう。などと言って、でたらめな、少しばかり聞きかじった知識で家系図を書く。あるいは、みなさんはこんな山奥で生活するような人たちじゃない。世が世なら天上人の近くにいらっしゃる人たちだ。と、持ち上げいい加減な作り話を聞かせる。家系図を書いてやる。それを後生大事に保管した。
 といった落人村がたくさんあったようです。
 日本人は、どうしても判官贔屓なところがあるので、平家の落人という方が希少価値もあって、喜びます。平家もいろいろ。棟梁から下人まで、何がしかの関係があれば、すべて平氏の落ち武者といっているかもしれません。確かめるのは、不可能でしょう。mieekoさんのおっしゃるように「事実か嘘かは、あまり追求せず夢のあるお話として」受け止めるのが良いように思います。
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gokuhさんが書かれた通り、殲滅戦ではないので数多くの平家は残っていました。


ただし、落武者となり山間部などに隠れ住む者が出たことも、資料的には事実のようです。日本各地に残る、平家伝説の中には、本物も、偽物も、玉石混合でしょうが、戦国時代には源平を遙かに上回る落武者を出した時代です。武士を名乗る以上は、平氏か源氏を一流の祖としました、落武者の中には源平の頃からの家系を誇る者も(鎧や刀、旗、等の遺品を所持)居たはずです、人知れず山間部に隠れ住むうちに、遺品から源平の頃からこの地に住んでいると勘違いしても、やもうえない仕儀だと思います。事実か嘘かは、あまり追求せず夢のあるお話として、ロマンだけを感じたら、おもしろいと思います。

この回答への補足

「落武者となり山間部などに隠れ住む者が出たことも、資料的には事実のようです」の史料をぜひ参照したいのですが、刊行されていますか?『大日本史料』のように。

補足日時:2001/06/26 00:03
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確かに源平合戦で平家は壊滅しましたが、源平合戦は源氏vs全ての平家では


なかったのです。
平家と言っても清盛の一統が主流です。
ですから平を名乗る武将で源氏についた氏族も少なくありません。
北条氏を挙げられましたが板東平氏と呼ばれる系統・・・平将門や国香の系統です
は、関東に根強く広まりました。
土肥氏、千葉氏、三浦氏、和田氏、相馬氏。戦国時代にまで続く板東平氏です。
つまり源平合戦の時の鎌倉方の主力は平家の支流なんです。
ちなみに「平」は姓であり、「北条」「三浦」「相馬」等は苗字です。
ですから北条氏は苗字は北条ですが姓を名乗るときは平です。

また、ご質問の中核であろう平家の主力系統の殲滅ですが、全国各地に落ち武者
伝説が残っています。真実もあれば眉唾もあるでしょう。
それが眉唾であっても後々に自分の家系に箔を付けるため平落ち武者の末裔を
名乗る場合もあります。

織田信長の家系は遡ると平家にたどり着くと言われます。
(諸説あり、私個人も眉唾の類ではなかろうかとは思うのですが)
平清盛の孫、資盛は愛人を近江の津田の庄に身を隠させた。
その愛人は資盛の子を身籠もっており生まれた子供が、越前丹生郡織田の庄、
織田神社の神官斎部某の養子となり織田を称した。
と、家系の上ではそうなっています。

同様の話も探せば多いのではと思います。

この回答への補足

「源平藤橘」は氏ではないのですか。姓は官途名になるのでありませんか。

補足日時:2001/06/25 23:57
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 現代語訳なら、次のサイト
http://kazeoto.com/heike-yaku001.html
 現代語訳読むだけでも大変ですよ。
勿論、本気で読むなら「古典文学大系・平家物語」、「岩波文庫 平家物語」でどうぞ。

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別府駅西口バス停(山側)
   駅前バス停(海側)北浜方向
東洋軒ー船小路バス停
http://www.beppuni.com/bus/area/area45.html
24路線新港町・鉄輪経由APU線 別府駅~餅ヶ浜~新港町ー「船小路」ー港中央通り~総合庁舎前~鉄輪~APU
http://www.beppuni.com/bus/route/k24.html
別府海浜砂場ー六勝園バス停
http://www.city.beppu.oita.jp/01onsen/05maps/09kaihin.html
血の池地獄ー血の池地獄前


亀の井バス路線
西口(山側から)発が多い
http://www.kamenoibus.com/rosenbus.php

別府駅西口・石垣線 別府駅西口~市役所下~鶴高前~別大下~亀川駅~国立別府病院
http://www.beppuni.com/bus/route/k6.html
野口原経由 鉄輪線 別府駅西口~ホテル白菊前~上野口~朝日橋~新別府口~鉄輪
http://www.beppuni.com/bus/route/k7.html
石垣経由 APU線 別府駅西口~南石垣~総合庁舎前~鉄輪~明礬~湯山~APU
http://www.beppuni.com/bus/route/k9.html


大分交通
駅前(海側から)北浜方面
http://www.oitakotsu.co.jp/timetable/rosen/
別府市内路線図 クリック PDF 拡大してください。

ちなみに鉄輪バス停から別府駅まで歩いて約1時間でした。

参考URL:http://www.beppuni.com/

別府駅西口バス停(山側)
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東洋軒ー船小路バス停
http://www.beppuni.com/bus/area/area45.html
24路線新港町・鉄輪経由APU線 別府駅~餅ヶ浜~新港町ー「船小路」ー港中央通り~総合庁舎前~鉄輪~APU
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上記のスケジュールで移動を考えているのですが、これだと内容が薄すぎるのではないかと思い、行きか帰りに博多空港を使い博多にも立ち寄りたいと思ったのですが
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>湯布院と別府の町は、それぞれ丸1日つぶせるほど、みどころはあり ますでしょうか
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Q平家の落人って・・・

最近、平家物語に興味を持ち出して本を買ったりネットなどでいろいろ調べたりして楽しんでいるのですが、そこで気になったことがありました。

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例えば中流以下の平家方の貴族や、平家方について戦った平氏ではない一般人なども共に戦ったが故に「平氏である」と名乗た場合もあり、それが現代まで伝わっている場合もあるのではないでしょうか?


興味を持ち出してから日も浅いため思い違いなどもあると思いますが、このことが気になりだしてからここ数日、気がつけばこのことばかり考えてるので、ご存知の方がいらっしゃいましたらおしえてください。

Aベストアンサー

私は平家の子孫です。(らしい・・・かもしれない)
うちの先祖は平家方の武士のひとりで、どうも壇ノ浦敗戦以後、猟師になりすまして、ゲリラしていたらしいです。
源氏の監視がごろごろしている中、夜中に小船に乗って、平家物語で有名な入水自殺した安徳天皇の死体を引き上げて、赤間神宮というところにまつったそうです。(と、その昔、じいさんばあさんに教えられました。)
ひょんなことですが、ある日知り合いと話していて、その先祖の話をしたら、「あっうちの先祖もおんなじことした言い伝えがある!」・・・もちろん親戚でもなんでもないですから、そうすると何百年も前に、うちの先祖と貴方の先祖は同僚かなんかで、一緒にゲリラして、一緒に小船に乗って死体を引き上げにいったんだ!そして何百年たった今、その子孫が再会したんだ!ロマンだねぇ・・・って。
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講談社学術文庫に入っていますが、一部版元品切(と云うより一部残本ありと云う感じ)ですね。
http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=1583514
以下は図書館ででもご確認後購入されたらと思います。
この全集にも全訳は入っています。
http://skygarden.shogakukan.co.jp/skygarden/owa/sol_detail?isbn=4096580457
御参考迄に。
http://www.shinchosha.co.jp/book/620325/
http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/qsearch
http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/qsearch
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Q源氏、平氏

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Aベストアンサー

江戸期は勉強してませんので、室町幕府発給文書から少しコメントします。

朝臣は五位以上に叙任(自称ではなく)された人が称することが出来ましたが、普段発行する文書には、実名、若しくは官途名だけを書きました。
源朝臣・平朝臣・神宿禰、三善朝臣などと署名しているのは、不特定多数に命ずる文書の場合が殆どのようです。(禁制など)

永禄五~十年前後の奉行人奉書では

不特定多数に対する禁制(寺院宛て)や、個人に対して各地関所を無条件に通行できるよう証明書を発行する場合は、

前大和守三善朝臣(花押)   (飯尾尭連)
備前守源朝臣(花押)     (中澤光俊)
丹後守平朝臣(花押)     (松田藤弘)
信濃守神宿禰(花押)     (諏訪晴長)

身分の有る個人に対しては

前大和守(花押)
備前守(花押)
丹後守(花押)
信濃守(花押)

同位若しくは下位の個人や団体に宛ての文書では

尭連(花押)
光俊(花押)
藤弘(花押)
晴長(花押)

というように署名しています。

飯尾、中澤、松田、諏訪、等の姓は文書に署名しません。彼ら奉行人は鎌倉時代からの武家官僚の子孫で、三善氏、源氏、平氏、神氏、として、公家や武家の間で「由緒正しい人」として認識されていました。江戸期のアヤシゲな家系ではありません。(笑)

これらの文書は畳まれて、上包みがあったようで、そこには、○○殿  ○○□□守と署名されていたようです。

署名方法の違いについては、私の主観的な見方ですので、先生方からツッコミが入るかもしれません。(笑)

室町幕府文書集成 奉行人奉書篇(上下) 今谷明・高橋康夫共編 思文閣出版 が大学や県立レベルの図書館にあります。ゆっくり眺めて下さい。

江戸期は勉強してませんので、室町幕府発給文書から少しコメントします。

朝臣は五位以上に叙任(自称ではなく)された人が称することが出来ましたが、普段発行する文書には、実名、若しくは官途名だけを書きました。
源朝臣・平朝臣・神宿禰、三善朝臣などと署名しているのは、不特定多数に命ずる文書の場合が殆どのようです。(禁制など)

永禄五~十年前後の奉行人奉書では

不特定多数に対する禁制(寺院宛て)や、個人に対して各地関所を無条件に通行できるよう証明書を発行する場合は、

前大和...続きを読む


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