プロが教えるわが家の防犯対策術!

学生の頃、先生に対して反抗的態度や言動をしていた方。
大人になって、反省するものですか?
先生がそれで辞めたり、病んでしまっても、子どもたちにとっては何ともない過去の思い出なのでしょうか。

私は教員をしていますが、子どもたちに心を潰されてしまう先生たちを何人も見てきました。子どもたちを可愛いと思う一方、恐ろしい存在に思えてくることもあります。夢を叶えた一人の教員の人生を変えてしまうのですから…。
大人になって、どのように思われているのでしょうか。お答えください。

A 回答 (7件)

支援学校教員です。



確かに「子どもの言動で、心を病んでしまう教師」はいますね。ただ、私が出会ったどの方も「子どもの言動」だけが「心を病まれた」原因ではなかったと思います。一因ではあっても。もっと大きいのは「それを相談できる環境になかった」と言うことかと。

>子どもたちを可愛いと思う一方、恐ろしい存在に思えてくることもあります。

当たり前ではないでしょうか? 相手は「人間」です。夜の暗闇で出会って一番怖いのは「人間」です。

ただし、それは「知らない人間」です。

教師が「その子のことを深く理解すれば、怖い存在にはならない」と思います。「絶望すること」はあっても。(自分ではどうしようもない、手を差し出すことが出来ない境遇や人格の子どもはいます)そして、その場合は「次につなげる」だけです。私が出会った「心を病んだ先生」は、これを「自分の負け」と捉えてしまいがちですが。

教師は「一人で教育している」訳ではないでしょう。多くの「教職にある職員」と共に「どうすれば、この子たちの心を開かせることができるか。大人として成長させることが出来るか」を考え、対応していきます。「一人で苦しんで心を病む」事は、教員自体の環境や個人の特性によると思います。

それと「思春期の子どもにとって、大人への反抗的な態度・言動」は「絶対ないと、後から困る」ものだとは思っています。「発達段階としてまっとうな手順である」とも。

私見です。
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この回答へのお礼

相談できる環境にない、という点にとても共感します。

療休に入られる先生は、学年のメンバーが協力的でなかったり相性がよくなかったり、学校の先生たちが冷たかったりしている気がします。
組むメンバーは本当に大切だなと思います。
私は今年異動してきた身ですが、こういった雰囲気を作ってる人たち(陰口、他人に批判的な教師)に上が気付き、なぜ改善していこうと思わないのだろうと疑問ばかりです。。
私はそこに染まらないように努めておりますが、年下ですので行動に動くことができずにいます。。

お礼日時:2016/11/23 13:30

ご質問の内容を読んで、驚き、



「自分の場合はどうであったのか?」

と、今反省しています。

以下に(長く)書きましたが、

幾ばくかの参考になり、心が楽に成れば幸いです




たしかに・・・ご質問文を読むまでは、なんともない過去の思い出でした。

先生方に対しては良い印象しかありませんでしたし。

しかし、

数人に対しては、失礼な態度をとったと、ずっと後悔しています。

ですので、切っ掛けがあれば反省すると思えます。


自分の経験でしか判断できませんが、

大人に成っても勉強をしますし、苦しんで成長すると思います。

答えを得て楽に成ったと思うと、更に次の悩みが生じます。

経験が活かされたと感謝して、未来に希望が持てた時があったとしても、

次は、

「その経験が無駄であった。」

と成功体験そのものを否定しないと、自分が前へ進めないときがあります。

こんな葛藤が続いて、

何時の間にか、自分で自分を認められるようになり、好きになれます。

大分年を取ってからでしょうね。



先ほど書いた、葛藤と言うのは、質問者さんの言う所の”潰れる”です。

人と言うのは何度も潰れるみたいなんですね。

ただし、それで終わりではなく、必ず再生して新しい自分に変わります。

そして思うのは、

「大人だと思って接していた大人(親、親戚、先生)は、

 今の自分の年齢から考えると、社会ではまだまだ若輩ではないか。

 何もわかってない年だろう。

 頼っても答えがあるはずが無いし、

 勝手に大人だと決めて、恨んだり責めたりするほうが無理を言っている。」

と言うことです。

先生に限らず、殆どの大人は経験しますので、子供を恨んではいけませんよ。

先生に成っていない人は、別の人に接して潰れます。

このときはやはり、理不尽、不条理、事故などに出会います。


ですから、深刻でありますが、珍しいものではないと思います。

これも人類が誕生してから、全てのご先祖様が受けいれて、私たちに繋いだんです。

私たちも仕方ないとして受けいれるしかありません。


私と皆さんの共通するご経験から、似たようなものを探しますと、

トイレに行くのと同じじゃないでしょうか。

トイレだって、慣れていなかった幼少の頃は地獄に思えました。

なんて理不尽なんだろう。

そう感じたことを今でも思い出します。

潰されてから再生する過程も、同じようなものに思えます。


再生の過程を思い出しますと、

「自分には、どこも良いところが無かった。」

と受けいれて、否定をし続けている過程があるようです。

正しいところもあったはずだ、とやっていますと苦しみが続きますから。

「どこも良いところが無かったとしよう。」

と決意して、やっと楽になれます。

この決断が苦しいです。


最初のほうは、

自分が自分を支えてきた、色んな自分の良さを諦めさせていきます。

最後は、

「これまで頑張ってきた。こいつは耐えてきたんだ。

 それは否定できないはずだろう?

 それは真実なんだから。

 それすらも否定するのか?」

となります。

純粋であって、非常に強い光に満ちて、炎の様な情熱的な主張です。

自分で驚くぐらい綺麗な心です。

自分が自分に必死で訴えるんですね。


しかし、

それすらも無駄であると否定をしないといけません。

「他の人にとっては、やっぱり関係ないんじゃないかな?

 その気持ちをそのままぶつければ、相手は驚くだけだし、

 君が思うほど美しい物に見えないと思うよ。」

私がこれをやったときは、物凄い涙が出て、泣きましたね。


このあと自分の中の何かが諦めて、空っぽに成ります。

すると、それまでの自分とは違った解釈をする自分が自分の中に出現します。

カタルシスと言ってしまえばそれまでですが、

確かに前よりマシになっています。

しかもそれで最後だと思ったら、何度もあるんですよね。

苦しいですが、その後が大変心地よいですよ。

ですのでトイレに似ていますね。



しかし、

そうなるまでの自分は、

何もわからない中で必死に自分を支えてきたんです。

他の人の言葉や態度を見て、

「ああ、この人は、あのときの自分だ。」

と分ることがあります。

「だめだよ、諦めちゃ。そこから、こうなっていくんだ。」

とか、

「ああ、大丈夫だよ。初めてなんで驚いているだけだよ。」

とか、

「それは逆だよ。反対側にもっと良いものがあるよ。」

とか声をかけたくなりますよね。



ところが、語りかける言葉が自分にありません。

自分の事ばかりを考えていたため、

まさかそんな時が来るとは思っていませんでした。

語彙も無ければ文章力も無い。

これにはとても反省しました。

こんなとき思い出すのは、学校の先生と授業です。

先生方はそんな素晴らしいことを仕事としているんですよ。

夢をかなえて先生になったと書いていらっしゃいますが、

こういう意味であったのでしょうか?

自分より何十歳も年上の人が、その年になって感謝をする。

そういうものだとは思っていなかったはずです。


そこで、最近色々と思い返して感じるのは、

大人も子供も、

今の自分が完成されていると、

前提を置きすぎていませんでしょうか?


例えば、

自分が誇らしく感じられ、さらにどんどん素晴らしく成って行く。

そういう自分に変化し続けていくと信じていますか?


それを信じていたら、今の自分をそれほど大事にしないのでは?

「今はショボイけど、ああなるので、先が楽しみ。」


今が限界であり、これで終わりだと思えば、他の人に求める事が多く成るはずです。

それ自体が二重の苦しみを増やしていませんでしょうか。


どうせなら、

自分も子供も、そしてお年よりも、なお成長をしていると考えませんか。

夢をかなえたとしてゴールにしてしまえば、ご褒美が欲しくなりますよ。

まだテストの答案に名前を書いただけかもしれませんし、

裏に返したら、まだ問題文があり、200点満点の試験であるかもしれませんよ。

ですので、

「ごめん、余裕の範囲で教えるけど、俺も自分を成長させたいので、

 それほど関われない。でもまあ、一緒にやるなら、やろう。」

としていれば、

自分の悩みと子供の悩みを分離して、

発想を変えて捉える事ができたんではないでしょうか。

また、

「子供が残酷であると想定していなかった。」

と言う部分が伺えます。

驚いている無垢な貴方がいるだけに思えます。

この純情さは喜ばしいことでしょう?

そして、それでも大丈夫だよ、と子供が自分を諦めないように、

安心させてあげる役割なのかもしれませんよ。


発想を変えて、(今回の自分は)

薄着で冬を過ごそうとし、風邪を引いたと捉えてみましょう。

それは悪意や善意が原因ではなく、

「冬は寒いものだ。寒いと風邪を引きやすい。

 風邪を引いた状態は、健康な人から見ると変な人に見える。

 だけど、今は風邪が原因で熱が出て咳が出ているだけ。」

であり、自分も含めて人の是非を問うては変ですよね。


そして、

本当に潰れた方には、

風邪を引いたのと同じなんですから、

(こじらせれば大変危険ですから)

治療に専念するのが良いと教えるべきでしょう。


まだそうなっていない人には、

天気を恨むより、防寒と予防について注意するように声をかけましょう。

外が怖いと言う方には、何時も風邪を引くわけではないと教えるべきでしょう。


これらは体で言うところの病気、俗に”風邪”と言う概念ですが、

心については、”自分”と言う概念に相当すると思います。

風邪という概念があると、適切な助言や対策が出来ます。

しかし、”自分”と言う概念は色んな解釈がされており、捉えづらいものです。

そのため、”自分”に掛かってしまい、苦しんでしまうのだと思います。


心が辛いと感じるときも、

体調が悪いとか、天気が悪いとかそういうものが原因のはずです。

しかし、誰かに叩かれたんだと錯覚し、

相手を攻撃したり、辞めさせようと頑張ってしまうものです。

これは、咳が出るたびに空を恨んで怒鳴ったり、

「天気はどうして自分に意地悪をするのか?」

と悶々と考えるのと同じ考え方です。

本当は、心と体を温めて、安静にすることが大事なはずです。

家庭、教室や学校が心にとって寒ければ、心に風邪を引いた生徒が多くなるはずです。

そんな生徒に風邪をうつされても、相手を責めたら、自分のほうがこじらせますよ。

例えば、風邪を引いた生徒を処罰する学校は、とても寒いですよね。

そこにいる人皆が風邪に掛かりますよ。

大人として、どうすると温まるのか、予防が出来るのか、

対策をしてあげるべきなんです。


誰かを責めたくなったときは、体で言うところの咳だと思いましょう。

「まてまて、変だぞ。今寒いんじゃないか? 皆はどうだ?」

と一呼吸おいて、周りを見回し、恨み言を心に刻まないようにしましょう。

人ではなく、環境に目を向けると、気分が変わりますよ。


また、生徒に対しては人として接するのではなく、

患者に対する医師の姿勢で接しましょう。

子供と言うのは、笑っていても常に苦しいはずです。

本人が自覚していないだけのはずです。

「それだけだ」

と堅く信じれば、見えなかったものが見えてくると思います。


以上、ご参考になれば。
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中学生の時に性的嫌がらせをする英語教師、まともに授業しない数学教師、正当な評価をしない家庭科教師を学校から追い出した経験があります。


私一人の力では到底無理です。
被害を受けた生徒全員の意思により当時生徒会役員だった私が、代表で学校と教育委員会相手に訴えを起こした結果でした。
大人になって反省?
自分達を守れるのは自分達だという認識でしかありません。
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この回答へのお礼

それは教師側に問題があったからですね。そうなっても仕方ないですね。
それとは別で、教師に非がない場合について、お聞きしたいと思います。

お礼日時:2016/11/23 08:53

反抗的態度や言動はとっていたけどそのせいで辞めたり病んでしまった先生は記憶にありませんね。

プライベートもいろいろあるだろうし、私のせいだなんて言える人いるのかな。とりま僕はそんなに悪質なことはやってないので、反省してません(;・∀・)
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この回答へのお礼

悪質なことをしていないなら、そうでしょうね。中には悪質ないたずらや態度をとる子どももいます。あなたがそうでなくてよかったです。

お礼日時:2016/11/22 21:06

私は反発しなかったので殴られるだけでした。

今でも深く恨んでます。
教員だって人の人生変える仕事です。
脱線して申し訳ないけども。
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この回答へのお礼

教員も言葉やふるまいを間違えると、子どもに一生の傷を残しますね…。
ただ、私の見てきた先生方は、そんな方ではありませんでした。
大人が理不尽なら反発されても仕方ありません。まともに一生懸命やっているのに、子どもの態度に病まれてしまう方が気の毒でなりません…

お礼日時:2016/11/21 16:14

「社会」というのは常に変動を続けるものですが、現代は、小中学校の先生にとって大変働きにくい時代だと思います。

「親」が強くなりすぎて「先生」が非常に苦しい時代です。

自殺する先生もいますが、自殺するのなら転職した方がいいと思います。

やがて、今、過保護に育てられている子供が、社会の厳しい波風に勝てず脱落していく時代が来ると思います。
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この回答へのお礼

私もそう思います。
この仕事にはやりがいがとてもありますが、心身を病んでしまうならば転職を考えます。(まだその予定はありませんが)
大人が子どもに潰されるなんて…おかしな世の中ですね…。

お礼日時:2016/11/21 16:17

自分の学生時代は小学生の頃から体罰は当たり前の時代に学生生活を送りました。

中学も、高校も同じです。教師の中に過剰なくらいの体罰を繰り返す教師もいました。そういうのに対して反発のようなかんじで反抗していました。年月が経ち、今ではそんな先生とも笑って話せるかんじです。質問者さんの問いに答えるならば、自分なりにそんな態度をとっていた事は反省しています。でも、当時の教師はストレスであったり生徒への怒りを思いっきり体罰として振るっていた教育者も多数いたというのは生徒にとっても見てわかる事実だったと思います。
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この回答へのお礼

体罰も賛否両論ありますが、怒り任せに子どもを殴ったり蹴ったりされたら、反抗したくもなりますね…。
でも反発していた子ども時代があっても、今は反省されているのですね。
辞められてしまった先生方を思うと、いつかいつか…反省してもらいたいものです。

お礼日時:2016/11/21 15:52

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