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こんにちは、初めて質問させていただきます。
どの様に説明させていただけば良いのか途方に暮れながら書いおります。
あまりに突拍子もない内容に、読まれた方が困惑されるのではないかと悩みながら、とりあえず何かの糸口を見つけたい一心で質問させて頂きます。

私は去年、40年間持ち続けた海の恐怖心をなくそうと初めてカウンセリングに行きました。私は足のつかない海の中は全くダメで、恐怖心からパニックになりました。
そのカウンセリングの時、過去の記憶を紐解き原因を探るため、退行催眠を受けました。
カウンセラーとのセッションで、はじめに私が見たものは海底でした。深い海。悲しんでいる私。海底に沈んだ大破した飛行機。それを上方から見て悲しみ、悔しくて嗚咽している自分。二十三歳くらいだと感じました。

泣いている理由を探るため(カウンセラーによって指示され)時間を遡ってみると、私は空中にいました。戦闘機の中。目の前のたくさんの計器が見え、狭い操縦室の中にいました。
前方右下にはグレーのアメリカの空母が見え、周り上空には星のついた灰色のグラマンが多数飛行していました。仲間の日本軍の戦闘機(もしくは偵察機)は3機。自分の飛行機は古い飛行機である上、多勢に無勢で全く歯が立たず、そうこうするうちに機体が何かに当たったか、または打たれたかで、操縦室の足元右下に大きな穴が開き、次の瞬間そのまま滑る様に海に突っ込みました。海中で脱出しよういう気持ちあったのですが体が動かず、短期間苦しんだのち、体から意識が出て(魂が)海中の上から飛行機を眺めて悲しんでいたのです。

今度は戦争になる前に時間を遡ると、家族と一緒に生活している十歳くらいの少年の自分でした。父母の顔、弟や妹の顔。家、縁側。庭には鶏がいて、のどかな田舎な感じでした。

次のシーンは召集されて軍隊に入隊する時で、町のこげ茶色い木造の役場の前で壮行会をして頂ていていました。10代後半十八歳くらい。

次のシーンは海軍航空学校に入って、学校で授業を受けている映像です。二十歳前後。校舎は木造だが、2階から見下ろすととても高かったのが印象的でした。
次のシーンは、滑走路で飛行訓練をしている自分です。ここの滑走路は舗装されていました。白く細長い倉庫のような建物が滑走路の横に立っていました。

次おシーンは、海の近くの基地で、結構のんびりしていました。
その次に見たのは出撃か偵察で、私が一番機で3機編隊です。ここの滑走路は乾いた土で、見通しの良い場所でした。フィリピンではないかと感じていました。
季節は初夏か秋口で、木を組んだ物見台の上に、白い布をふる兵士がいましたる。
そして、次のシーンは狭い操縦室で真剣に操縦している私がみえました。角形(U字型の)の操縦桿を両手で握っていました。と箇条書きで書くとこの様になりますが、私が知らなかった内容が入っていたので驚きました。

前世の彼は海軍の航空隊員で中尉、二十三歳で死亡。名前は近藤じゅんいち(もしくは、じゅん)死んだのは日本が優勢の頃かその過渡期。自分の顔も見ました。

上記私が見た断片的な映像の箇条書きですが、この体験の後、調べてみたいと思う様になりました。もしこれが本当のことであるなら、戦争史料によって確認できるはずですし、急げば妹と弟に会える可能性もあります。
前世という漠然としたものを証明する一つの手がかりになることにも意義を感じます。

インターネットでの調べていたのですが、限界があります。
私は今アメリカに住んでおりますので、日本に何度も足を運ぶことも難しのが現状です。
もしどなた様か戦争の資料に詳しい方がおられましたら、お知恵を拝借できるならこんなに有難いことはありません。身内でなくても名簿などを取り寄せることはできますでしょうか?また戦没者の個人情報を開示していただけますでしょうか?
膨大な数の海軍航空隊員の中からこの名前を探す方法んどお知恵をお貸しいただければ有難いです。どうぞよろしくお願いいたします。

お時間を割いてお読み頂きまして、本当にありがとうございました。

*セッションの後私は海に行き足がつかない深い海が克服できているかを試したところ、まったく問題なくなっていました。生まれて初めて見たことのない光景を見ることが可能になりました。


犬の八より

A 回答 (3件)

前世の記憶とありますが、色々な記録映像やら映画、ドラマで見た映像を、無意識に自身の記憶と摩り替えている可能性があります。

幾つかそう思える記述もあります。悪意があるとは申しませんし、そうも思いません。実際、臨場感たっぷりの情報に触れ、かなりの時間が経過すると、自身の経験なのか聞いた経験なのか混乱というか混濁することは人間の脳の構造上、多々あることです。これは情報を入手したときの状況、その後の人生経験、更に脳は本当によくできたもので、それらを実に矛盾なく記憶であるかの如く、再構成します。

本当に気になるのであれば、水行社(今は水行会)に問い合わせてみるのも手です。
https://suikoukai-jp.com/suikoukai/
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この回答へのお礼

お時間を割いてお読みくださり有難うございました。
アドバイスも有難うございました。早速水行会に問い合わせてみます。

そうですね。おっしゃられる通りです。2度目のセッションの時は自分でも失敗したと思いました。事前にいろいろ調べてしまったのが災いとなり、信憑性に欠ける結果を自分で招いてしまったと感じました。

しかしながら、1度目のセッションで見た、舗装された滑走路脇の白い倉庫(の様なもの)、3機で編隊、木で組んだ滑走路脇の物見台の様なものの存在、中から見た飛行機の計器、そして操縦室のあの狭さ、土の滑走路の存在など、それまでの自分が全く知らない情報でしたので、全てが脳の錯覚とは言いづらいです。

正直、セッション中映像(スライドショーの様なもの)見ていた自分自身、(はたして戦時中にこんな目立つ白い倉庫が滑走路脇に置いてあるのか?)とか、(3機編隊?こんな少人数で出撃(任務は不明)するのか?)そして、土の滑走路も(日本軍の滑走路が土だなんてあり得るのか?)とか、心の中で半信半疑になりました。が、後で調べてみて、実際に事実と合致していました。

夢物語かもしれませんが、とりあえず調べてみます。
問い合わせるに際し、理由などを聞かれると、いったい何と答えれば良いのもやら、頭が変と思われるやもしれませんが、正直に理由を話してみます。その人が見つからないかもしれませんが、最善を尽くしてみます。

戦争は辛いものですね。私が見た彼も愛国心はあっても戦争に行って人を殺すなどということから極力避けたかった、人が好きな人でした。

本当に有難うございました。感謝でいっぱいです。
そして戦争で亡くなったたくさんの方にも、哀悼の気持ちと、
「日本のためによく頑張られました。有難うございました」という気持ちでいっぱいです。生存された元兵士の皆様にもただただ感謝の気持ちでいっぱいございます。

この場を借りまして、先にアドバイスをくださいましたみな様にも、感謝の気持ちでいっぱいです。本当に有難うございました。
ベストアンサーを一つ選ぶなどということは出来かねます。しかし、選ばないと質問を閉じられないのかもしれませんね。
気にかけてお読みくださり、親身になってアドバイスをくださいましたみなさん全てがべストアンサーです。

お礼日時:2017/01/26 04:36

海軍兵学校の卒業生リストを見てみましたが、


同名の方はいないです。
名前出すのはちょっと差し障りがあるので、どの近藤さんならいるかは控えます。

昨年発掘された2式水偵も操縦桿は一本ですね。
90式以降の水偵なら安全帯の位置で機種特定出来るかもしれません。
ベルトはどの位置ですか?
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この回答へのお礼

わざわざお調べくださってありがとうございました。
残念ですがベルトの位置はわからないです。飛行機の中は自分自身が座ってる感じだったので、目の前の計器はよく見えました。しかしカウンセラーに質問されないと自主的に調べるのはできない感じでした。映像はスライドの様に出てくるもの(古写真を見ている様に)と少し動画的になっているものがありました。
また、カウンセラーの質問されても、はっきり分かるものと分からないものがありました。分かるものはスラスラ答えるのですが、わからないものはいくら考えても真っ白でした。

初めてセッションを受けた後、とても衝撃を受けいろいろ調べてみました。自分の見たものが歴史的な内容が合致していたので驚きました。
そして、さらに個人的な情報を探ろうともう一度セッションを受けました。
地名や名前なども質問され、名前も『森山ただし 少尉』というのも頭をよぎりました。果たして自分なのかわかりません。
その他に数字で283(部隊の名称か?)や、数字の6の字、が出てきました。出身地も岡山か兵庫県あたりだとか、漠然としか答えられないのです。

2度目のセッションの際に、戦闘機は単発の灰色の零戦(尾翼に白の線が2本)をみました。しかし、この時にはすでに戦争に関する情報が頭に入っていたので、それが影響した可能性は否めません。海軍か否かについても何か証拠になる映像を見たわけではなく、漠然とそう感じたのです。

こんな調子ですので、曖昧な部分が多いです。

きっと夢物語でしょうね、、。
しかしながら、家族から離れ、人知れず海の中で死んだ(過去生の自分であった)あの人の悲しみ、悔しさ、嗚咽して泣いていたあの悲しみは夢ではありません。あの体験以来、戦争について深く考えさせられました。20年前に靖国神社に初めて行った折、号泣してしまったのですが、これが理由だったのだと理解できました。

時代の流れに巻き込まれ、日本のために戦争に行き、まだ若い、夢いっぱいの年齢で亡くなった多くの青年がいた事を、知ってあげることが何よりの供養になると痛感しました。
アメリカ人を理解するべく、好きでもない(失礼)アメリカで住む運命になった事もふに落ちました。

お名前は存じ上げませんが、あなた様のご親切は忘れません。お時間を割いてお読みくださって、名簿まで調べてくださって、本当にありがとうございました。

お礼日時:2017/01/22 05:59

先ず「戦闘機」に乗っていて操縦桿が「角型 U字型」


これ日本機ではありませんね。
戦没者名簿はたしか厚生労働省管轄だと思いますし
防衛省では膨大な戦記を所蔵しているはずです。
お時間作って調査なさってください。
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この回答へのお礼

お時間を割いてお読みくださったばかりか、アドバイスも頂き本当にありがとうございました。この様な狐につままれた様な話を真面目に受け止めてくださってお返事をくださったことを本当に感謝しています。
調査の足がかりにさせて頂きます。ありがとうございました。

戦闘機と書いたのですが、機種は不明です。誤解を生んでしまうことを書いてしまってすみません。爆撃機か偵察機か。。。残念ながらわかりません。それも知りたいと思っています。質問文には長くなるので、書きませんでしたが、催眠中に見た、自分が乗っていた飛行機はもう一つあります。スティックに赤いボタンでした。「任務によって航空機が変わる」、であるとか、「いつも同じ飛行機に乗るわけではない」などの理由で、みたものが一貫していなかったのかなと、それを見た私自身感じました。
私も気になって調べましたところ、銀河の操縦桿は私がみたものとよく似ていました。偵察機など戦闘機より大きいタイプは日本機にも角形の操縦桿は存在する様です。ですが、一人で乗っていた感覚があったので、複座の飛行機に一人で乗ることがあったのか、とかも気になります。銀河ではないかもしれません。あと月光、陸攻などもスティックではない様です。
何れにしても現存機が極めて少ないので、スミソニアン博物館で現物を見てくるか、それらの設計図をみてみないと操縦室の中までわからないのかもしれませんね、、、。根気よく調べてみます。

お礼日時:2017/01/21 02:31

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