![](http://oshiete.xgoo.jp/images/v2/pc/qa/question_title.png?e8efa67)
このような問いかけをすると 問い求めやすいかも分かりません。
A. 神は 精神であるという勘違い。
――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。
B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。
――宗教とは 一般に教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力に
かかわっている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般
をけっきょくは信じるというおかしなこととなる。
C. 同じく 教義を信じるという間違い。
――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=精神的
な能力とその行為成果であるに過ぎない。オシヘは 神秘の部分をふくむ
けれど けっきょくは経験思想であり 倫理規範である。やはり 精神主
義的な人間信仰ないし《信念の人》主義となってしまう。
D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思ってい
る間違い。
――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。想像と思
考の産物である。《人間の能力》信仰となる。
ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いではないか。
偶像は 神本体の仮りのシルシです。正解へとみちびく補助線です。
オシヘが 偶像なのです。仮りの表現としての偶像です。神を指し示すた
めのシルシです。
人びとは 指の先を見るのではなく 指を見ている。
いかに?
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No.10
- 回答日時:
又か・・だから 哲学の人って屁理屈だらけなんだよ・・俺は あなたが「神についての勘違いがどうだこうだ
という問いとは」と書いた事に対して「勘違い等と書いた事は無い」といってるだけ・・
そもそも あなた自身 既に 答えをもってるのなら 他人に聞く必要の無い事 ・・
〔部分的に〕ご回答をありがとうございます。
★ そもそも あなた自身 既に 答えをもってるのなら 他人に聞く必要
の無い事 ・・
☆ ひとつに なにごともみなすべては 万機公論に決すべし。
ひとつに 《答え》が 相対的な主観真実であり それにしか過ぎないと知
らなければいけない。
ひとつに ひとは つねにきよらかなおそれを持って 生きているもの。あ
なたが 阿呆なだけ。
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No.9
- 回答日時:
>神論としても存在論であったと思います。
私もそう思います。
「霊的啓示=直観知」は、なるほど「ヒラメキ」という日常的単語で表現できますね。
>梵我一如の一如の部分にその源泉があるのではないか
仰ることは分かります。
>それはいわゆる「良心」の源泉と同じではないか
私は「良心」は後天的に学ぶものだと考えています。かと言って私は「性悪説」を支持
しているわけではなく、これを「愛・慈悲」とした場合は賛成します。ちょっと微妙な
話ですが。
「殺すなかれ」という戒めは、そもそもは規範(お手本)であったと思います。これを律法
としてしまったことが私は哲学の「解釈の誤り」であったと考えます。
これは、信仰の命である「自発性」を殺すもので、仰る通り「自殺行為」と言えると思い
ます。
人類の歴史において、権力者が大衆を支配しようとしなかったことはほとんどなかったと
言っていいと思います。従って、人類は政治と宗教において最も大きな誤りを犯してきた
わけですが、だから「宗教が悪である」という結論は、論理の一段の飛躍であると思いま
す。宗教においては「聖職者」が誤りを犯したということであって、「あるべき宗教」が
悪ではないと考えます。
ご回答をありがとうございます。
★ 私は「良心」は後天的に学ぶものだと考えています。
☆ そうだと思いますよ。
つまり梵我一如なる仮説が
――わが固有の時間(非時間)とも言うべき非思考の庭(つまり信仰)にあって しか
も無梵無我一如なる無神論とも同等にして さらに別様には 仏仏一如や霊霊一如なる
説明ともけっきょくは同じ信仰論として――
成り立つとするのは 《おわり(= end = 目的)》を先取りするかのように じつは
われわれずる賢い人間がそう《想定している》のだと見ます。
《良心》も同じです。あるいは 《自由ないし自由意志》も同じくです。決定的な証明
は抜きでいわゆる公理として 互いにみとめあっているものです。
言いかえると 《後天的に学ぶもの》であるのが実際ですが 理論(仮説)の上では
生まれつきの自然本性において《潜在的なチカラとして》そなわっているとも言おうと
しています。――という理屈を人間は持ち合わせています。
★ かと言って私は「性悪説」を支持しているわけではなく、これを「愛・慈悲」とし
た場合は賛成します。ちょっと微妙な話ですが。
☆ 良心を出したのは ヒラメキを持ち出したとき分かりやすいようにです。
良心はヒラメキにおいて得られるような思想内容を意識として持たないにもかかわらず
何か思うことや実行することについて いやそれはまづい やばい とさとすかのよう
に 鼓動をおぼえ赤面し呂律がまわらなくする。
これは ものごころが付いてから学ぶものですが それでも自然本性にすでにそなわっ
ていたチカラだと捉えます。ヒラメキと良心とは 同じ源泉から違ったかたちで現われ
てくる。と見ます。
★~~~
「殺すなかれ」という戒めは、そもそもは規範(お手本)であったと思います。これを律法
としてしまったことが私は哲学の「解釈の誤り」であったと考えます。
これは、信仰の命である「自発性」を殺すもので、仰る通り「自殺行為」と言えると思い
ます。
~~~~
☆ ありがとうございます。パウロは 《文字(=掟・規範)は人をころし 霊は生かす》
と言っていましたか。霊は 思考に非ずですが それでも《自発性》のみなもとだと思い
ます。
補足欄へ。
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No.8
- 回答日時:
神についての勘違いがどうだこうだ
という問いとは 関係ないでしょう」←何 それ?・・
他の人の回答を あなたが勝手に 俺のと間違えてるだけだが・・?
勘違いなんて 一言も回答してないよ・・
★★(回答№5) ~~~~
最初から言ってるでしょ?
神は 神を認めて貰う必要は無いって・・
唯 人間の幸せを願ってるだけだって・・
~~~~~~~~
☆ これでも 神からのメッセージをあなたは伝えようとしたのでは
ないとおっしゃる?
ご回答をありがとうございます。
同じ押し問答にしかならないと判断したら(――すでにそうなってい
ますが――) 応答せずにもう放っておきます。
![](http://oshiete.xgoo.jp/images/v2/common/profile/M/noimageicon_setting_07.png?e8efa67)
No.7
- 回答日時:
いつ神に聞いて来たのですか。
何も思っていないとしたら あなたにメッセージを伝えることもなかった
でしょうから。」←んっ?・・メッセージなんか無いし要らない・・
単に 自分に娘が居て そして孫も産まれた・・
こうやって 俺の子孫が次々に産まれて来るのに 俺らは 自分のゴミの片付けを子孫に託す事になる・・
そう考えて行けば 少しでもポイ捨てゴミを無くせば子孫の住む環境に相応しい地球になる・・
俺は そうおもって してるだけ・・
![](http://oshiete.xgoo.jp/images/v2/common/profile/M/noimageicon_setting_11.png?e8efa67)
No.6
- 回答日時:
哲学とはそもそも「存在論」であったわけです。
絶対的、無謬的存在の解明に向かってゆく、というのは現在でも哲学の
第一の重要な使命であると思います。それは、「信仰の対象」であると
考えるからです。
宗教とは哲学を信ずることに他ならないと考えます。つまり、教祖は哲
学者であるということです。
仏陀もモーゼやイエスやマホメットも哲学的解明に至ったということと
そこに至る過程において、先の質問の時に触れた「霊的啓示」が含まれ
ることにおいて、デカルトやカントまたはbragelloneさんと何ら変わら
ないと思います。(霊的啓示=直観知と考えます)
あなたは宗教というものを決定的に否定しているようですが、そもそも
宗教というものは、ユダヤ三宗教では名前は違えど「神」を信じている
し、仏教(大乗仏教=北伝仏教と理解してください)では「仏性」を信じ
ているわけで、その哲学の正邪を問うべきだし、教祖を神としたり、教
団が個人を圧迫するような宗教は、「死んだ宗教」と私は考えます。信
仰は自由で自発的でなければならないからです。
もう一つ、「究極の実在」は精神的なものであるかどうか、これはいまだ
確信が持てないのですが、「梵我一如」であるならば精神的面もあるとい
うことになるでしょう。
ご回答をありがとうございます。
★ 哲学とはそもそも「存在論」であったわけです。
☆ モーセがその名を問うたとき 神は:
《わたしはある》 それがわたしだ。
と名乗りました。神論としても 《存在論》であったと思われます。
つまり:
★ それは、「信仰の対象」である
☆ とも言えるのだと。その場合は 《絶対存在》となると思います。
存在論が:
★ 哲学的解明 と 「霊的啓示」
☆ として成り立っていると同じく考えます。
《霊的啓示=直観知》は ヒラメキと言うとも思います。梵我一如のその
《一如》の部分にその源泉があるのではないか。それはいわゆる《良心》
の源泉と同じではないか。
★ あなたは宗教というものを決定的に否定しているようですが、そもそ
も宗教というものは、ユダヤ三宗教では名前は違えど「神」を信じている
し、仏教(・・・)では「仏性」を信じているわけで、その哲学の正邪を問
うべきだし、教祖を神としたり、教団が個人を圧迫するような宗教は、
「死んだ宗教」と私は考えます。信仰は自由で自発的でなければならない
からです。
☆ (あ) 神を信じていることとそして《神が ころすなかれと言った
というその規範(律法)を信じてその――思考としての――命令にしたが
うこと》とは 別です。
(い) 倫理規範を至上命題とするならそれは 非知についての信仰では
なく 理性による思考とその理念や信条にしたがうことになります。
(う) そのようなアタマによる思索と行動が 集団としての宗教にあっ
てはさらに そこに圧倒的な社会力学を形成してしまったときには その
クウキやクウキをあやつる権限の上位にある人間に 服従しなければなら
ない場面がしばしばです。
(え) 規範ないしオシヘを持った時点で 信仰から離れ 信仰内容を蒸
留したような思想(またはそれを取り決めるヒエラルキアとしての組織体
制)が 君臨すると考えます。
(お) つまり宗教が成った時点で 信仰の自殺行為が起きたと見ます。
★ 「究極の実在」は精神的なものであるかどうか、これはいまだ確信が
持てないのですが、「梵我一如」であるならば精神的面もあるということ
になるでしょう。
☆ 霊です。非知です。そのあと ヒラメキや良心をとおして 精神にや
って来ます。と考えます。
![](http://oshiete.xgoo.jp/images/v2/common/profile/M/noimageicon_setting_07.png?e8efa67)
No.5
- 回答日時:
そういう問題ではないのですか? それでも言い添えたわたしの物言いは」←最初から言ってるでしょ?
神は 神を認めて貰う必要は無いって・・
唯 人間の幸せを願ってるだけだって・・
ならば 哲学だ 宗教だ・なんか言ってる人よりも 人間の幸せに繋がる事を実行する人を善とする・・
教会で祈る人よりも その辺のポイ捨てゴミを掃除する人を善とする・・
★ ~~~~~~
唯 人間の幸せを願ってるだけだって・・
ならば 哲学だ 宗教だ・なんか言ってる人よりも 人間の幸せに繋がる
事を実行する人を善とする・・
教会で祈る人よりも その辺のポイ捨てゴミを掃除する人を善とする・・
~~~~~~~~
☆ いつ神に聞いて来たのですか?
もしそうだとしたら 《唯 人間の幸せを願ってるだけ》なのではなく
完全に何かを伝えたいと思っているらしいと知られます。
何も思っていないとしたら あなたにメッセージを伝えることもなかった
でしょうから。
ご回答をありがとうございます。
![](http://oshiete.xgoo.jp/images/v2/common/profile/M/noimageicon_setting_07.png?e8efa67)
No.4
- 回答日時:
ただし哲学による定義と説明は ふつう必要でしょう。
」←俺は「哲学は屁理屈の塊を競争してるだけ」だと思ってるので・・あー言えば こう言う・・ならば 他人の意見等 全く不要なのに 質問だけは投げかける・・
まっ こんなサイトの哲学カテでの投稿での判断なので 本当の哲学者は 違うのかも知れないが 少なくとも こういったQ&Aサイトで哲学を語る人は自身の意見を曲げない事は理解出来てる・・
これでは 神は絶対に見えない・・
神は「自分が」を嫌い「他人に」を好むから・・
ご回答をありがとうございます。
あなたの結論に賛同しています。よ。
そして 哲学は 結論と同時にそれをみちびいた推論をもおもんじます。
そういう問題ではないのですか? それでも言い添えたわたしの物言いは。
![](http://oshiete.xgoo.jp/images/v2/common/profile/M/noimageicon_setting_07.png?e8efa67)
No.3
- 回答日時:
神って 神自身を認めさせないと いけないのかな?
「これが神だ」と しなくても 例え 全人類が「神は居ない」と言っても 別に構わないのでは?
様は 人間を「神の子」として創造したのだから 子供に幸せになって貰えば 親なんて必要ない・・と 考えるのでは?
ご回答をありがとうございます。
★ 神って 神自身を認めさせないと いけないのかな?
☆ この問いは 微妙です。
つまり 人間の生きることとしての自己表現は すべて自由です。
これが 大前提です。
その上で 哲学として神を定義した場合その結果として――神が
絶対であるからには―― 人間は神から そのみづからの頭やチ
カラで完全に自由になるということは かなわない。となります。
《神自身を認めさせ》るのではなく 生まれつきそなわった身と
心とから成る自然本性において じつは――それは 分かるか分
からないかが分からないまったくのナゾであるのだけれど それ
でも・または むしろそのような非知なるナゾであるゆえにその
――神に対しては〔人間は〕つねにカカハリを持つ。
と結論づけられるはずです。
だから 微妙です。強制は無い。と分かっています。
★ 「これが神だ」と しなくても 例え 全人類が「神は居な
い」と言っても 別に構わないのでは?
☆ そのとおりでしょう。次のごとくです。:
【Q:《神は有る》のみや《神は無い》のみはアホバカ教】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9456638.html
☆ ただし哲学による定義と説明は ふつう必要でしょう。
★ 様(=要)は 人間を「神の子」として創造したのだから
子供に幸せになって貰えば 親なんて必要ない・・と 考えるの
では?
☆ 煮詰めた考えとしては おっしゃるとおりだと思います。
子どもが――さげすむためにではなく自立するという意味で――
★ 親なんて必要ない
☆ と思ったとしても さほど間違った思いではないでしょう。
しかも 《親》としての神から見ても 子どもにはそう成って欲
しいと思うことが 自然でふつうのことであろうと考えられます。
つまり そういった主題を じつは次の質問があつかっています。
【Q:神が消えた ?!】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9639204.html
いま上映中です。あなたの示した考えも 神については必要で重
要なのではないか。そう思って いま現在まだ入場者ゼロですが
上映中です。
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では 律法なる倫理規範――そして石打ちの刑という処罰まで持つ法律――が なぜ
できたか? なぜいまも法律を持っているか?
みづみづしく生き生きとした心の自発性を なかば打っちゃってしまったがごとくわ
れらは法治社会をどうしてえらんでいるのか。
モーセは 自身としてはアブラハムと同じように個人の信仰に生きていましたが 単
純に言って 社会における共生の問題としては 秩序と安全をも重んじた。そのため
ナラハシをそれとしてとうとび 掟や法律を活用する行き方をもえらび つけ添えた。
という説明だ思います。
ユダヤやムスリムの社会は いまも そのような生活の様式でしょうか。
《殺すなかれ》は 言わずとしれた《不殺生戒》のことですから ブディズムを受け
容れたところでは やはり理性としてはたらくような戒律が 自発心との葛藤を生ん
でいる? いや ブッダはもう古い・・・でしょうか。
A№9へ。
★ 人類の歴史において、権力者が大衆を支配しようとしなかったことはほとんどなかっ
たと言っていいと思います。従って、人類は政治と宗教において最も大きな誤りを犯して
きたわけですが、だから「宗教が悪である」という結論は、論理の一段の飛躍であると思
います。宗教においては「聖職者」が誤りを犯したということであって、「あるべき宗教」
が悪ではないと考えます。
☆ 《「あるべき宗教」》について 場をあらためて問いたいと思います。
《B. 宗教を信じるという矛盾》は 表現の問題ですが 《C. 教義を信じるという間違
い》は 《律法や戒律による抑圧》が無いかどうかの問題です。
オシヘは 正解へとみちびく補助線である〔に過ぎない〕と《あるべき宗教》は言ってい
るか? 宗教家は 果たしてそう言えるか? 言えたら 宗教は要らないのでは? 思想
としてのオシヘ〔のみ〕があるべき姿では?
よろしかったら どうぞ。
【Q:《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9101555.html
【Q:ゴータマ・《ブッダ》は なぜペテン師か】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8539646.html
非知ならば 神は無いと言う人がいても・あるいはアン‐アートマン(無霊我)
と表現してもその言い分は 成り立つと有神論の人もみとめなければならな
い。ここが キモです。
信教・良心の自由は 誇張して言うならば侵すべからざる奥底なる主観――
非思考の庭――をとうとぶという趣旨だと思われます。
★ 信ずべきものを正しく信じているか
☆ これは 問いを発することが出来ますが 答えは出ません。出せると言い
張るのは 厚かましさの塊である宗教家だけです。
人間の出せる答えは 《〈わたしはただしい信仰を持っている〉とたとえ言え
るとしても それが ほかの人にふさわしいと決めることは出来ず ましてや
信仰内容を一致させることは出来ない》です。
なおヒラメキは:
【Q:《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9101555.html
BAは 問い求めを引っ張ったその姿勢に対してです。