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江戸時代に公家や武家以外の一般の人々は苗字を公称できなかったと言っても多くの人が実際は苗字を持っていたそうで、明治時代になるとその苗字を使用したという話を聞きますが明治時代になってから苗字を付ける際に制約というのは特になかったのでしょうか?与謝野晶子の与謝野家はもともとの苗字は与謝野ではなかったそうですが、特に制約らしい制約は存在しなかったのでしょうか?

A 回答 (4件)

江戸時代に苗字御免の人や武家以外の人は名字を公称できませんでした。

持っていなかったのではなく公的な場(あるいは文書)で使ってはいけなかったのです。私的な範囲ではどこまで使われていたか正確にはわかりませんが小生のまわりで言えばまず墓があります。「俗名 竹蔵」の脇にやや小さめの字で「田中姓」のように書いてある墓がいくつもあります。「田中竹蔵」と一行に書くと苗字を唱えたことになり御法度だつたのでしょうね。
日記帳などの私的な帳面でも使われています。持ち主を示すためと思いますが裏表紙に「田中氏」のように書いてあることが多いです。
江戸時代は何かあると証文を書きました。それにはハンコを押しますが基本的に苗字が彫ってあります。古文書の研究者の話ではどう考えても田中姓のはずなのに山本というハンコが押してあることもあるそうです。
領主が特別に苗字を許可する場合その旨を伝えるだけでどんな苗字にするかは指定しません(特別に文字や苗字そのものを与える場合は別)。
一般人が公称できるようになるのは明治3年9月からですが、苗字は公的にはなかったわけですから変えるのも勝手。どんな苗字にしようと制限はなかったようです。中には永く使わなかったためにわからなくなった人もいたでしょう。こんな人は新たに作ったでしょうね。
商人は「伊勢屋」「越後屋」などの屋号を使いました。苗字が使えないためのささやかな抵抗だったかもしれません。屋号は農村などでも使っています。本家を「元屋」、東の方へ分家すると「東屋」とか。まわりに同姓の人が多いと苗字では区別できず名前か屋号で呼び合わないとややこしかったのです。

#1の方、失礼ながら、
國定忠治の本名は長岡忠次郎。笹川の繁蔵は岩瀬繁蔵。清水次郎長は山本長五郎。日本左衛門(日本駄右衛門)は濱島庄兵衛。というわけでヤクザでも苗字があります。
なお石川五右衛門の本名は古過ぎてわかりません(豊臣秀吉の頃の人)。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2017/04/02 17:16

あと家紋もありません。

明治から、以前は公家、武家、商人だけでした。鍛冶職人や陶工は名を打つ
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いや、それなりにあったようです。



日本人は元々苗字を持っている人が多かったのは事実ですが、田舎の集落などは使わないから忘れてしまった人や、落人村なので苗字を封印してしまったとか、いろいろな状態であったようです。
ですからそういう家では、新たに苗字を作っていきました。

また、集落全体が同じ苗字をもつ地域もたくさんあったのですが、元々苗字帯刀を許されていた庄屋さんが「うちは元々○○と名乗っていたからそれを使うけど、君たちは違う名前にしてね」という場所もあったようですし、逆に「一族なんだからみんなで同じにしよう」というところもあったり、一族で武家と庄屋(百姓)に分かれていたので、憚って違う苗字にしたり、といろいろあったようです。
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明治時代迄、一般庶民には、姓は無く、名のみでした。


ただ、次郎兵や、新ベェでは、在所が分からないので、〇〇村の新ベェとか、ヤクザなどは、〇〇無宿の〇〇とか、名乗ったものでした。
昔は、全国民が、人別帳で区分けされており、無宿は、刑期を勤めたり、罪を犯し、故郷を追われた者が、無宿と言いました。
有名な(國定忠治)は、国定村出身の無宿者忠治で有り、(石川五右衛門)も、石川郷の五右衛門です。
天保水滸伝の(笹川の繁蔵)も、笹川宿の、繁蔵親分の、通称でした。
因みに爺いの本家筋にも、屋号があり、子供の頃は、新兵衛、新兵衛と呼び合っていました。
屋号の新兵衛は、は、代々長男が名乗り、〇〇村の〇〇宿の新兵衛で日本全国通用したものでした。
与謝野については、良く判りません。
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