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1.
次の結論は 《知り得るか知り得ないかが知り得ない非知なるナゾ》
のことだと理解してよいのですか?

▲ (ヰキぺ:連続体仮説) ~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E7%B6%9A …

現在の数学で用いられる標準的な枠組みのもとでは
「連続体仮説は証明も反証もできない命題である」
ということが明確に証明されている。
~~~~~~~~~~

2.
これは 大澤の次の議論をめぐって知りたいという事情です。

▼ (大澤真幸:超越的な聖は 連続体仮説に対応する!?) ~~~
われわれは 宗教の基層には 二つの体験がある と述べておいた。

〈他者〉への不可避的な関与の体験と 超越的な「聖」をめぐる体験で
ある。

集合論との対比をさらに進めれば 前者が対角線論法に 後者が連続体
仮説に それぞれ対応していると解釈することが許されるだろう。
(『現代宗教意識論』 2010 第Ⅰ部 宗教原理論 第1章 宗教の社
会論理学 6.集合論的類比 p.69)
~~~~~~~~~~~~

3.
対角線論法と言っても――トンチンカンな問いを発しますが―― 実数
の集合は 自然数で順序づけすることができるのではないですか?

あるいは 言わば垂直線論法で 対角線論法と同じようにして対角線論
法で見出したあたらしい実数を見つけ出すことができるのではないので
すか? 

そしてそれは 自然数で番号をつけることが可能ではないのですか?

4.
断片的で不案内ですが 次の議論を解説してくれませんか?

▼ (大澤:第三者の審級としての神は 連続体仮説にかかわっている)
消極的=否定的に現出している無限集合(〈他者〉)=実数の集合に
それ自体として存在しうるような 超越的で積極的な同一性〔☆ そう
いう単位体のことだと思われる〕を与えたらどうなるか。

つまり ――数学と類比させるならば――連続体仮説を真理として受け取
ってしまえばどうなるだろうか。

そのとき得られる 超越的な同一性を有する形象こそが 神=第三者の審
級である。神=第三者の審級を措定するということは 数学的には 連続
体仮説を 証明された真理のように扱うことである。( ibid. p.69)
~~~~~~~~~~~
☆ 非知なる神が どうして《形象》を持つのか?

〈他者〉は あたかも対角線論法であらたに見出される実数の数値のごと
くに捉えられているようです。《消極的=否定的に現出して》くるのだと。

ただし いかにそこで《無限集合》だと言いいかに濃度が高いと言っても 
その無限は 経験世界に属しています。無限集合の全体として 相対的で
有限なものです。どうして 絶対たる《超越的な神》と対応すると言うの
でしょう?

質問者からの補足コメント

  • こう考えられます。

    問題は 初めに《並べ漏れがあったのか なかったのか》だ。

    あったのなら 見つかるのは 当然。背理法の問題ではない。
    対角線論法うんぬんの問題ではない。

    なかったのなら 見つかるはずがない。並べられていない数値
    が見つかったというのはおかしい。あり得ない。

    ・・・ではないですか?

    No.12の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/06 09:01
  • 《形式主義》に対して 《直観主義》というのもあるようですね。流行らない
    のかもしれませんが。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AD%A6 …

    論理――それも 形式に合わせてつくった公理系――で塗りつぶす思考の優勢
    なあり方に対してこそ バタイユやレヴィナスはそれぞれ《非‐知》をかかげ
    反対したのではないのでしょうか?

    ふたりは 経験事象と非経験との区別が あいまいでした。無限を相対世界の
    中でも捉えています。(と知りました)。

    どうもそういう問題であるようですね。数学の独立性をみとめたとしても 哲
    学の場への侵略は 勘弁して欲しいと考えます。

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/09 08:38

A 回答 (17件中11~17件)

2, 4については、数学からアナロジーとして何か(何だか知りませんが)詩的な意味を読み取るという夢想の話でありましょう。

(選択公理にも同様の夢想が可能だろうし、そのほうが文芸としてよっぽど面白そうだと思いますが。)ちうわけで、つまり、2, 4は普通の言葉で言えば「単なるスカタン」です。

3.は誤りです。実数は自然数でどうやっても順序付けられない。

さて1.について。連続体仮説はZFC公理系と独立した命題である。つまり、ZFC公理系に連続体仮説を追加して新たな公理系を作り、その上で数学を展開することができるし、ZFC公理系に連続体仮説の否定を追加して新たな公理系を作り、その上で数学を展開することもできる。両者が出してくる定理のうち連続体仮説(あるいはその否定)を使った定理たちは、両者で互いに異なる訳です。
 同じ事はZFC公理系の公理の一つである選択公理についても言えます。すなわちZF公理系に選択公理を追加して新たな公理系を作ったのがZFC公理系で、その上で数学を展開することができる。また、ZF公理系に選択公理の否定を追加して新たな公理系を作り、その上で数学を展開することもできる。(ただ、選択公理の否定が使える場面はまずありえないので、選択公理がない公理系(ZF公理系)に基づく数学と同じことになりますが。)選択公理のない体系ZFは、ZFCに比べて「無限」を扱うに際して制約が多く、窮屈であるために、ZFCの方が標準的に使われております。ですが、たとえばバナッハ・タルスキーの定理のような、現実の感覚からすると明らかにへんてこな定理が、選択公理から出て参ります。

 話が前後しますが、現代数学はZFC公理系(またはZF公理系)という言語として整備され、現実とは断絶しています。断絶するように慎重に構築したんです(形式主義)。なので数学は(神を含めて)現実の話とは関係なく、ただ「この言語の中で何が言えるか」ということだけを追求している。数学で証明ということができるのは、そのおかげです。(科学で言う「証明」は、数学や論理学から見れば証明ではなく、単なる例示に過ぎません。まして詩が語る「証明」は、詩人が信念を表明したというだけでしょう。)
 もちろん、たとえば物理と数学の対象との対応を考えることによって、物理を記述するモデルとして数学を応用することが行われます。しかし、モデルが現実と合わないときには、それは数学ではなく、モデルの作り方に責が帰されるに過ぎません。たとえばニュートン力学は数学からベクトル解析を借用して物理のごく一部を記述したモデルと言えるでしょう。で、そのモデルから演繹される結果が、現実の物理とは一致しないとなれば、これは(数学の誤りではなく、単に)このモデルが物理に即していなかったのだ、ということになる。慣性系における真空中の光速が一定だという物理的観察はニュートン力学というモデルと合わなかったので、このモデルは否定されましたが、そのことによって数学が修正される訳ではない。だだ「ニュートン力学というモデルが物理を記述している」という信念が間違っていた、というだけのことです。なお、バナッハ・タルスキーの定理が現実の感覚と合わないのも、数学で言う「球体」が現実の(有限個の原子の集まりでできた丸いものであるところの、いわゆる)球体とは異なる、ということをこの定理が鮮明に見せているに過ぎません。
 で、連続体仮説にしても選択公理にしても、いまだかつて(物理など)現実の対象を記述するモデルとして利用されたためしはなく、またモデルとして使いようがあるとは到底思えない。なぜならそれらの公理は「構成的には作れない(存在は証明出来ても具体例は出せない)無限個の無限集合」の話をするための命題だからです。現実には無限集合なんざ転がっていない。ただ現実の一面を記述する何らかのモデルの中で、特定の無限集合(たとえば時空をモデル化した空間)が現れるぐらいのもんです。予測(=演繹)の計算が出来ないモデルは使い物にならないんで、そんなモデルは存在意義がない。そして、「構成的には作れない無限個の無限集合」なんざ計算には出番がない。だからお門違いなんです。

 再び2, 4に戻りますと、連続体仮説にしても選択公理にしても、それらの公理を現実の何かを記述するモデルと対応付けようとすれば、その相手はせいぜい神秘思想(それが現実の何かのモデルであるかどうかはさておき)ぐらいしかない。ですが、それらの公理を現実の何かを記述するモデルと対応付けねばならん理由はない。ただ単に、(現実のモデルであれかしと夢想されたところの)或る神秘思想の方こそが、(何かすっごく確からしい体系として権威を持っているような印象がある)数学に対応付けられることを望んだのでしょう。でも、この対応付けが現実の何かを「証明」するものではないことは、言う迄もありません。
 以上を要するに、ただのスカタンです。
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この回答へのお礼

ふむふむと相づちを打てるほどの素養はありませんので おおむね
そうなんですかと受け留めつつ ううーんとまづは溜息をついてみ
ます。

ご回答をありがとうございます。

★ 3.は誤りです。実数は自然数でどうやっても順序付けられない。
☆ それは 証明抜きの公理としてしまうということでしょうか?

★ ZFC公理系に連続体仮説の否定を追加して新たな公理系を作り、
その上で数学を展開することもできる。
☆ 《連続体仮説の否定》というのは 《実数を自然数で順序づけ
ることができないわけではない》という意味でしょうか?

実数の無限集合と自然数の無限集合とのあいだに 濃度の違いがあ
る場合と ない場合とが ともに認められる。のでしょうか?


ただし わたしのそんな問いには関係なく:
★ 現代数学はZFC公理系(またはZF公理系)という言語として整
備され、現実とは断絶しています。
☆ ということなんですか。

★ 断絶するように慎重に構築したんです(形式主義)。なので数
学は(神を含めて)現実の話とは関係なく、ただ「この言語の中で
何が言えるか」ということだけを追求している。
☆ 現実を・世界のすべてを 数学という言葉で表わすというので
は ないんですね?

とは言え:
★ 2, 4に戻りますと、連続体仮説にしても選択公理にしても、そ
れらの公理を現実の何かを記述するモデルと対応付けようとすれば、
その相手はせいぜい神秘思想(それが現実の何かのモデルであるか
どうかはさておき)ぐらいしかない。
☆ 《あり得る》んですね?

そうしますと その神秘思想との:
★ この対応付けが現実の何かを「証明」するものではないことは、
言う迄もありません。
☆ つまり 神論は それでよいのだと思います。つまり:

★ 数学からアナロジーとして何か(何だか知りませんが)詩的な
意味を読み取るという夢想の話で
☆ よいはずです。つまり 《アナロジー》だからです。超越者と
経験事象との・類似としての対応づけでよいわけです。

もし神が《非知》ならば われわれ経験存在との類比として 神は
有ると夢想しても あるいは逆に無いと言い切っても どちらも成
り立つことになります。

それは非知としての神の《無限》が――想定のかぎりで――保証し
ています。《絶対》とは そういうものではないですか?

お礼日時:2017/04/05 08:04

お礼ありがとうございます。


バタイユは、〈非ー知〉を内的体験として、体験したと述べているので、そこに到達しましたが、帰ってきました。
レヴィナスの場合は、〈在る〉と言う状態で、それを体験していると思われますが、それは、〈私〉が生まれた瞬間に忘却されたと考えています。(ただし、なんらかの形で、すでに関わっていると言う表現をしています)
バタイユが、ヘーゲルほどの人間であれば、〈非ー知〉に到達したら、発狂したであろうと語ったのは、ヘーゲルならば、そこからは帰ってこないだろうと言う程の意味でしょう。
〈非ー知〉とは、〈私〉が消える、つまり精神などは存在しない世界です。
精神の喪失を狂うと呼ぶならば、それは発狂と言えるでしょう。
実数(連続)が、自然数で可付番で無い事は、カントールの対角線論法の説明を読まれれば、数学的に自明に成り立っている事がわかると思います。
それは、無限操作の途中でも、そこまで可付番だった無限小数と違う無限小数が現れているからです。(n番目の無限小数のn桁目が違うので、それまで可付番の無限小数のどれとも違いますし、n+1番目の無限小数でも同じ事が明らかです)
これは、無限操作であっても、一般式としての操作が可能だからです。
ですから、そのような一般式が存在しない事項については、適用できません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 〈非ー知〉とは、〈私〉が消える、つまり精神などは存在しない世界です。
☆ なるほど。《体験する》世界ですか。だとしたら 《さとり》のようなも
のですね。必ずしも 内容として明確な定義を成し得ないというような。

ううーん。でも これは 哲学ではないですね。《脱自》状態だと言えば シ
ャーマンのトランス状態に間違われますし。そう言ってみるというだけの提案
のように思われます。



★ 無限操作の途中でも、そこまで可付番だった無限小数と違う無限小数が現
れているからです。
☆ つまり初めに《可付番》だと仮定するわけですよね。《隙間がなく連続体》
だと付番は不可能だと初めに分かっているのではないのですか?

もし仮定としてでも可付番でありその数値の列挙が成ったとするのなら いく
らあたらしい別の無限小数が見つかったと言っても 仮定ではもともと可付番
としてあったはずの数値です。

★ (n番目の無限小数のn桁目が違うので、それまで可付番の無限小数のどれ
とも違いますし、n+1番目の無限小数でも同じ事が明らかです)
☆ この《n番目の無限小数のn桁目が違う》別の無限小数も 仮定では番号が
振られていたはずです。振られ得ると仮定したはずです。だってその挙例は 
限りなくつづくのですから。まだ挙例の中に入っていなかったというだけのこ
とです。

★ これは、無限操作であっても、一般式としての操作が可能だからです。
ですから、そのような一般式が存在しない事項については、適用できません。
☆ 《仮定の話》ではなかったということでしょうか? ペテンではないので
しょうか。





☆ 《非‐知》は その場所には 超越的他者が入るというとき このひとつ
の判断についてだけでも 論証しなければ――または 想定として定義するな
りをしなければ――話は始まらないと思います。

お礼日時:2017/04/05 02:58

お礼ありがとうございます。


〈非ー知〉、〈非ー場〉は、かなり難しい概念です。
有名なのは、バタイユですが、バタイユ自身は、そのヒントをレヴィナスから得たと言い、レヴィナスはバタイユからもヒントを得たと言っています。
これは、ヘーゲルの「絶対知」に対置される概念です。
バタイユは、滑り落ち、レヴィナスは引きずり込まれるなどの表現を使っていますね。
バタイユが、それを「恍惚」や「交流」と呼ぶのに対して、レヴィナスはそれを「恐怖」と表現しています。
これは、二者の立場の違いでしょう。
バタイユは、ヘーゲルが、〈非ー知〉まで、到達しかかっていたが、そこに到達する恐怖から、〈全体知〉の方向へ、方針転換したと記述しています。(ヘーゲルほどであれば、そこに到達すれば、発狂しただろうと記載しているようです)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

この議論は わたしにはむつかしいのですが 考えるところがあり
ます。

★ (ヘーゲルほどであれば、そこに到達すれば、発狂しただろう
と記載しているようです)
☆ これによりますと 《非‐知》には《到達することができる》と
いうことでしょうか? 仮りにそう言っているだけでしょうか?

到達できると言うのであれば その《非‐知》は 《理性=「知」が
存在しない場》であると 言わばその外部からその外枠くらいなら
知ることができたと言ったことになります。

こういうものが:
★ ヘーゲルの「絶対知」に対置される概念
☆ であるのでしょうか?

絶対知なら 《真理がすべてにおいてすべてであること》ですよね?
あるいは 要するに全知全能なことではないのですか? つまりこ
れには 人間は到達できません。

もし《仮りにのみ〈非‐知〉に到達できる》と言っているのなら そ
れでもなぜ《発狂する》という推測をおこなうのか? これに答え
る責任があります。


★ バタイユが、それを「恍惚」や「交流」と呼ぶのに対して、レ
ヴィナスはそれを「恐怖」と表現しています。
☆ これは これだけでは いづれもまだ哲学の議論にはなってい
ないと思います。

(《有責性》について考えています。まだ《非‐知》の議論を読むに
は到っていません)。

お礼日時:2017/04/04 06:28

お礼ありがとうございます。


加算無限と、連続的無限に関しては、元々、加算無限が数えられるのに対して、実数などの連続なものは、数えられない(番号を振れない)と言う違いがあります。
簡単に言うと、加算無限は、それぞれの値が離散しているので、必ず隙間があります。
連続した実数の場合は、切れ目が無いので、隙間が無いんです。
ですから、濃度の議論なんです。
完全に稠密な連続の濃度は、濃度の限界です。
これ以上の濃度は存在しません。(間に切れ目が無いので、番号が振れません)
自然数は、隙間があるので、番号が振れます。(ちなみに、自然数の比で表される有理数も、自然数で番号を振る事が可能ですから、濃度は自然数と同じです)
実数の中の無理数は、自然数の比では、絶対に表せないので、自然数で番号を振っても、必ず、どこかの隙間にはまります。
何故、数学的に意味が無いと書いたかと言うと、絶対的超越者は、何らかの方法で数値化が可能でしょうか?
人間にしても、同様です。
ですから、そのような事は、数学的に意味が無いと書いたわけです。
実は、大澤氏の議論は、レベルの違う問題を、同様の議論のように書いているわけです。
絶対的超越者が、連続である数に対比出来る方法があり、人間が離散化した数に対比できるならば、議論は成り立ちます。
人間の何らかの数との対比に対して、絶対的超越者が対比される数が、必ず、その隙間に入ると言う議論が可能ならば、それは、対角線論法にのります。
ただし、大澤氏の議論は、そうではありません。(必ず、「知」からあふれると言えば、一対一対応は出来ないとは言えます。)
したがって、濃度の議論にはならないわけです。
どちらにしろ、そのような数値化が可能な範囲で、絶対的超越者が捉えられるのならば、それは「知」の範囲に納まります。
もし、そういう議論で、絶対的超越者を語るとしたら、人間が「知」の範囲にとどまる数値化を行い、必ず絶対的超越者が「知」の範囲からはみ出す数値化が行えないと、数学的に妥当性は無い事になります。
もともと、絶対的超越者が、「知」で把握できない範囲で、人間を超越しているならば、議論する意味すら無いとは言えますけどね。(それは、定義であって、検証する事ではありません)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 加算無限は、それぞれの値が離散しているので、必ず隙間があ
ります。
☆ というとき その《加算》は 限りなく番号付けがつづくとい
う無限ですよね?

★ 実数などの連続なものは、数えられない(番号を振れない)
☆ それは 言いかえれば ひとつの実数の値が取り上げられたな
ら そのつど番号づけをしていくということになるのでは?

つまり だからこそ 対角線論法では 仮りに自然数との対応が成
ったとしている。つまり 《限りなく終わることなく番号を振り続
けて行く》と言っているし 仮りにそのように行なっているのでは
ないのでしょうか?

つまり 帰謬法としてながら すでに仮りの前提として実数の番号
づけが成ったとしているのでは?

でしたら あとで まだ番号づけられていなかったあらたな実数の
値が発見されたと言っても 意味をなさない。のではないのですか?


★ 濃度の議論〔☆ ゆえ〕 間に切れ目が無いので、番号が振れ
ません
☆ だとしたら もともと対角線論法を使う余地はない。と言いま
すか 《番号が振れる》という仮定をなぜ置いたのか? 置けると
しているのは なぜか?




★ 絶対的超越者は、何らかの方法で数値化が可能でしょうか?
★ 大澤氏の議論は、レベルの違う問題を、同様の議論のように書
いている
☆ 実質的にそういう判定になるかと思うのですが そうかんたん
ではないと思うのです。

《数値化》は可能ではないという前提を踏まえつつ 不可能(ほん
とは 可能か不可能かが分からない)なものと可能なものとの《類
比》だと言っています。

それは 《観念に到来する神》というふうにアナロジーですすめて
行く議論と同じことだと考えられ ひとまづ受け容れなければなら
ない哲学による神論のひとつだと思われるのです。

★ 人間の何らかの数との対比に対して、絶対的超越者が対比され
る数が、必ず、その隙間に入ると言う議論が可能ならば、それは、
対角線論法にのります。
☆ 《対比》が 類似によるのだとすれば なお受け容れなければ
ならない余地があると考えます。

つまり問題は 《対角線論法》にある。それが 成り立たないこと
にある・・・のではないでしょうか?

シロウトのたわごとだと思われていましょうが 反駁をお願いでき
ますでしょうか?

お礼日時:2017/04/04 06:11

お礼ありがとうございます。


レヴィナスやバタイユの〈非ー知〉や〈非ー場〉ってのは、問題にされている「非知」とは違うんですよ。
文字通り、理性=「知」が存在しない場なんです。
そこでは、〈私〉と言うものも存在しない、〈在る〉だけの世界です。
ですから、ここでは、倫理的構造などは、一切存在しません。
人間の考えが及ばない場と言う意味では、非知にも通じる面はあるかもしれませんが、この言葉が意味するのは、〈私〉が存在しない場と言うだけの意味です。(また、絶対的超越者を表す言葉でもありません、ただし、絶対的超越者がいるであろう場所もまた、非ー知の領域です)
レヴィナスは、それを恐怖として表現し、バタイユは、享楽として表現しました。
したがって、「非知」とは、分けて考えてください。(別に「非知」と、同一視しているわけでは無いです)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ レヴィナスやバタイユの〈非ー知〉や〈非ー場〉ってのは、問題に
されている「非知」とは違うんですよ。
★ ただし、絶対的超越者がいるであろう場所もまた、非ー知の領域で

☆ いやぁ ここが――そう言ってよければ―― 曲者ですよね。

★ 文字通り、理性=「知」が存在しない場なんです。
☆ いえ。分かりません。そんな場を措定する意味も理由も分かりませ
ん。

★ レヴィナスは、それを恐怖として表現し、バタイユは、享楽として
表現しました。
☆ ますます 分かりません。《理性=「知」が存在しない場》・・・
いったいどう理解すればよいのでしょう?

ひょっとして 《理性=「知」が存在するわれわれ人間》が 勝手に
《理性=「知」が存在しない場》を想像しているという場合 そのと
きには 《有‐知》なる人間が この《非‐知》なる領域を《有‐知》と
いう広い場のもとに囲っている・・・のでしょうか?

お礼日時:2017/04/04 00:32

前回の回答は、一部訂正します。


大澤氏は、連続体仮説が、実数の集合の濃度と、自然数の集合の濃度の間の濃度は無いと言う仮説である事を理解しているようです。
ただ、その対比が悪いと言うか、どうも、実数を絶対的超越者に、自然数を人間と捉えているようです。
はたして、その中間があるかと言う議論のようですが、一応、連続体仮説は間違いだろうという予測はあるので、それが、人間と絶対的超越者の間の絶対的隔絶に対応させているような感じみたいですね。(これは、正直、問題のレベルが違うのでは無いかと言う気がします)
ユダヤ教は、連続体仮説が真として、構成されているとか、キリスト教は、絶対的超越者をあきらめて、人間であるキリストを神にしたとかの話が書かれているようですが、実際問題、通読しないと、真意はわからないでしょう。
無理に、集合論と対比する必要は無いような感じがしますね。(もちろん、これは、数学的には何の意味も無い議論です)
対角線論法で、表出する無理数は、別に消極的=否定的に現出してきているわけじゃないんですけどね。(多分、絶対的超越者は、「知」の範囲では、その範囲に無い=否定で表すのが簡単な事を言っているんだろうとは思います)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 大澤氏は[・・・]実数を絶対的超越者に、自然数を人間と捉えている
ようです。
☆ ええ。そちらのほうへ引っ張って行きます。

《類比》と言っているぶんには よいのでしょうが 《自然数からの実数
のはみ出しがあらたな値としてつねに見出されるという事例にもとづき 
他者の存在の事例(ほんとうかどうか?)》を みちびきます。そこから 
ほとんどそのまま絶対的他者へとも みちびこうとしています。

つまり:
★ 人間と絶対的超越者の間の絶対的隔絶に対応させているような感じ
☆ なのですが この《絶対的なへだたり》を言いつつ どうもその絶対
者が人間のコギトないし観念に到来するという仮説を措いているようです。

神が第三者の審級として 人間の思考し得る概念として扱われていると思
います。

たしかに 宗教――オシヘ・規範つまり思考の産物――における神は ま
さしくこの《思考や想像の産物としての観念の神》ですが。人間のこしら
えたものですね。

★ 対角線論法で、表出する無理数は、別に消極的=否定的に現出してき
ているわけじゃないんですけどね。
☆ 趣旨説明欄の(3)の疑問は こうです。つまり このあらたに《表
出する無理数》も そうは言っても 次々と自然数によって番号をつける
ことができる・・・のではないか? です。

何のことはない。元からすでに数え上げられているはずです。

すでに順序づけて 0から1までの実数の例をしめしたとき 次から次へ
限りなくあらたに見出される〔と言われる〕数も すでに初めから順序づ
けられているはずです。これは 当たり前だとしか考えられないのですが?

次のご見解をそのように受け取ってよいのか 分からなかったからです。
★ 無理に、集合論と対比する必要は無いような感じがしますね。(もち
ろん、これは、数学的には何の意味も無い議論です)

お礼日時:2017/04/04 00:23

大澤氏は、連続体仮説の意味がわかっているのでしょうか?


もしかして、連続体が存在しないと思っていないですかね?
実数は、連続体ですから、それより大きい濃度の集合は存在しません。
したがって、他者が連続体ならば、それより濃度の多い集合は存在しない事になります。
連続体仮説とは、実数の集合の濃度と、自然数(もしくは、有理数)の濃度の間の濃度の集合は存在しないと言う仮説です。
したがって、もともとの議論自体が成り立っていないですよ。
対比するならば、実数に絶対的超越者を置いて、〈他者〉が、それとの間の集合の濃度を持つかと言う事になるんですが、それ自体意味が無いです。
もともとの議論は、〈同〉、〈他〉の問題であり、それは、お互いに対格化されるので、双方で〈同〉にはならないと言う事です。
したがって、対格化は、本来、双方に起きているいると言う事です。
絶対的超越者は、あえて言えば、人間の理性=「知」の範囲から逸脱すると言う事です。(これは、一方的な対格化しかありえないと言う意味です)
これを、レヴィナスや、バタイユは、「非ー知」、「非ー場」などと表現しましたが、これは、あくまで理性の範囲から逸脱した世界が存在すると言う事を言っているだけで、ヘーゲルの知で満たされた、全体性の「世界」は存在しないと言う事を述べているにすぎません。
レヴィナスは、そのような観点から、哲学や神学(哲学的方法を使う場合)は、「知」の範囲で、絶対的超越者の実在性を証明しようとしていたので、無意味だと批判したわけです。
大澤氏は、このような論点から、スタートしているはずです。
したがって、本来は、絶対的超越者は、知の範囲では、把握できません。
この場合の、非ー知、非ー場は、絶対的超越者が、知の場の中にはいないと言う意味で、その存在がどうこうと言う議論ではありません。
存在を問題に出来ないと言う意味では、有るか無いかは、判定できないとは言えますが、本来は、絶対にわからないと言う事です。
そういう意味では、「謎」としか、表現出来ません。
そして、それは、絶対に「知」では、わからない「謎」なわけです。
もちろん、「知」以外では、把握できる可能性はあるわけですけどね。(レヴィナスは、トリッキーで苦しい方法で、人間が、「知」以外で、それにかかわる事を説明しようとしましたが、完全に成功したというわけでは無いです)
何と言っていいかは、わかりませんが、大澤氏は、ちょっと例え方を間違っているような感じがします。
その後の論はどうなっているんですかね?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 連続体仮説とは、実数の集合の濃度と、自然数(もしくは、有理数)の
濃度の間の濃度の集合は存在しないと言う仮説です。
☆ A(実数の集合の濃度)とB(自然数(もしくは、有理数)の濃度)の間
の 濃度の 集 合 は存在しない・・・ですか?

この分かち書きした《集合》は要らない・・・ですか?

とにかく勉強したかぎりでは ふたつの間の 中間の濃度は存在しないのだ
とか。

とは言っても その仮説は証明も反証もできないと証明されていると言って
いますよね? 分かりづらいなぁ。

人間どうしの間では:
★ 対格化は、本来、双方に起きているいると言う事です。
☆ のはずです。超越者と人間とのタテの関係では 前者からの一方的な対
格化が――論理的には――あるのみだと。(確認しつつすすみます)。

★ 絶対的超越者は、あえて言えば、人間の理性=「知」の範囲から逸脱す
ると言う事です。(これは、一方的な対格化しかありえないと言う意味です)
☆ 追いつきました。

★ これを、レヴィナスや、バタイユは、「非ー知」、「非ー場」などと表
現しましたが、これは、あくまで理性の範囲から逸脱した世界が存在すると
言う事を言っているだけで、ヘーゲルの知で満たされた、全体性の「世界」
は存在しないと言う事を述べているにすぎません。
☆ ここは分かりづらいですね。《非知》なるナゾについては それが存在
すると言ってもよいでしょうが その存在は さらに人間の言葉としては
《有る》とも《無い》ともどちらでも言い表わし得る。と捉えています。

★ レヴィナスは、そのような観点から、哲学や神学(哲学的方法を使う場
合)は、「知」の範囲で、絶対的超越者の実在性を証明しようとしていたの
で、無意味だと批判したわけです。
☆ わたしの《非知》は――と出しゃばりますが―― 仮説法による想定で
すから 有るとも無いとも言える存在について 証明する・しないにはなじ
みません。

★ それは、絶対に「知」では、わからない「謎」なわけです。
☆ ここは反論します。非知は 分かるか分からないかが分からないナゾだ
と見ています。

★ レヴィナス
☆ は 追い追いです。

大澤の議論は 集合論との類比という一主題としては それほど拡散してい
ないと思います。もう少し説明は必要でしょうが。

お礼日時:2017/04/04 00:00

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