誕生日にもらった意外なもの

前方後円墳は大和政権の勢力によってつくられたものですか??

A 回答 (5件)

古墳時代の前は弥生時代ですが


お墓は、墳丘で甕棺に遺体をいれてお墓の地域を決めて埋めていました。
古墳時代に、豪族の長など一般の人との格差が広がり、諸国の王が大きな古墳を作る様になります。
近畿のヤマト一族が、後円墳に棺を入れて遺体を埋葬、手前に四角い前方部分を作り儀式を行った事が始まりの
様です。
手前に祭壇を作って儀式を行う前方後円墳は、大和朝廷(天皇家)以外の豪族も真似て作ります。
初代神武天皇の橿原神宮にある古墳を始まりに歴代の天皇家の墓として宮内庁が近畿内の幾つかの古墳を指定しています。
天皇以外にも皇后、親族の古墳もあります。
全てが、前方後円墳ではありません。
また、九州など諸国にも前方後円墳があります。
前方後円墳=大和朝廷一族の古墳ではありません。
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政権とは何でしょうか。

 
“くに・国家”のような概念は、昔はなかったです。
単に“有力な勢力を振るっている一族”があちこちの地域に跋扈しているのが、昔の社会です。
そうした社会状態では、政権も存在しません。

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次のような説明をしているサイトもあります。
ヤマト「王権」の成立  「前方後円墳体制」も参照
ヤマト王権の成立にあたっては、前方後円墳の出現とその広がりを基準とする見方が有力である[15]。その成立時期は、研究者によって3世紀中葉、3世紀後半、3世紀末など若干の異同はあるが、いずれにしても、ヤマト王権は、近畿地方だけではなく、各地の豪族をも含めた連合政権であったとみられる。
3世紀後半ごろ、近畿はじめ西日本各地に、大規模な墳丘を持つ古墳が出現する。これらは、いずれも前方後円墳もしくは前方後方墳で、竪穴式石室の内部に長さ数メートルにおよぶ割竹形木棺を安置して遺体を埋葬し、副葬品の組み合わせも呪術的な意味をもつ多数の銅鏡はじめ武器類をおくなど、墳丘、埋葬施設、副葬品いずれの面でも共通していて、きわめて斉一的、画一的な特徴を有する。これは、しばしば「出現期古墳」と称される。

箸墓古墳(北西方向から)
こうした出現期(古墳時代前期前半)の古墳の画一性は、古墳が各地の首長たちの共通の墓制としてつくり出されたものであることを示しており、共同の葬送もおこなわれて首長間の同盟関係が成立し、広域の政治連合が形成されていたと考えられる。その広がりは東海・北陸から近畿を中心にして北部九州にいたる地域である。
出現期古墳で墳丘長が200メートルを超えるものは、奈良県桜井市に所在する箸墓古墳(280メートル)や天理市にある西殿塚古墳(234メートル)などであり、奈良盆地南東部(最狭義のヤマト)に集中し、他の地域に対し隔絶した規模を有する。このことは、この政治連合が大和(ヤマト)を中心とする近畿地方の勢力が中心となったことを示している。この政権を「ヤマト政権」もしくは「ヤマト王権」と称するのは、そのためである。また、この体制を、政権の成立を画一的な前方後円墳の出現を基準とすることから「前方後円墳体制」と称することがある[16]。
「王位」「王権」「王統」
山尾幸久は、「3世紀後半の近畿枢要部に『王位』が創設された公算は大きいが、これを『王権』と呼べるかどうか。まして既に『王統』が実在したのかどうかは今後の研究に委ねられている」と説明しており、「ヤマト王権」の用語の使用について慎重な立場を示している。山尾自身は「王権の確立は雄略の時代、王統の確立は欽明の時代には認められる」との見解を示しているので、このような観点も含めた体系的な国家形成史の研究が求められる。
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自分でも、「自分は“何を”考えているのか」を考えてみましょう。
それと、図書館などで調べるのが面倒だとしても、WEBでも検索すれば、多くのことはそれなりに少しはわかります。 陸上部でも、音楽部でも、歴史部でも、どこに所属していても、どの分野のことでも、初心者にも、少しは調べたことがある人でも、役に立つ情報は、ネットで自分で調べられます。
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詳しくなくてもうしわけないですが。



機内ヤマト王権(となった勢力)が始めたと考えられています。ただ記録に残る前の話なので、昔は誰が一番ということでなく権力者が合議してゆるい連合を作っていたのではないかなどとも、いろいろ言われています。

死んだ後の価値観なんてのは、これが正解などというものがなく、こういうのが正しいんじゃないかなんてのが作られると結構な早さで全国に広まっていっても不思議ではないと思うのですが、畿内で最大級のものが作られる一方、他の地方ではそれを超えるものが作られていなかったり、畿内の近くから広まっていくというより、遠い地でも早くに前方後円墳が作られるようになった地や、遅くまで作られなかった地があったりすることから、前方後円墳の作成を畿内ヤマト王権の下に入った証と捉えたり、あまり大きなものを作るなというような何らかの関与があったのでは無いかと考える人もいるようです。果ては作る作らないや大きさまで畿内ヤマト王権に管理されていたなどという人が出てきてたりしますが、これは行き過ぎでしょう。

後期になると、古墳の壁に絵などを書いたものが登場してくる、つまり古墳の壁画で有名なやつは新しい方になるようですが、このような古墳は多くは渡来の人たちのものだったと聞いたことがあります。また時代が経って次第に古墳も作られなくなりますが、畿内で最後のほうまで古墳を作っていたのも渡来の人たちだったと聞いたように思います。

地方では関東と山口県あたりだけ7世紀になってもまだ古墳を作っていたようですが、当時はこのあたりが情報伝達のとっても遅い田舎だったためでしょうか。
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「政権」ではなく「個人」が作りました。



「政権」を持っている個人は、その利権で金がありますから。
大和にも地方にも、「政権」は持っていないが金のある人はいましたから、そういう人も作ったのでしょうね。
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北海道、青森、秋田、沖縄を除く、43都府県に存在確認され、


3世紀中頃から7世紀初頭に作られているので、
大和政権によりつくられたものも、そうでないものもあると思います。

関連するウィキペディア記事(前方後円墳)です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%96%B9 …
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