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欧米の歴史を見ると、古代から中世はスラブ人やアラブ人、近代は黒人を奴隷として大規模に酷使していました。

一方、日本の歴史を見たら、人身売買は皆無でなかったもののいずれも小規模なものに留まり、また他民族・他人種を奴隷にするという発想もなかったようですが、それは何故でしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 古代・中世ヨーロッパも大型船舶はなかったですよ。近世まで大西洋を渡る技術もなかったくらいですし。

    なのでローマ人は地続きのところに住むスラブ人を奴隷にしていたのです。
    スラブ人は白人ですが、slave(奴隷)の語源となった民族です。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/03 09:42
  • 西洋人は黒人を奴隷にしていましたが、黒人を奴隷にする前はスラブ人(白人)を奴隷に使っていました。

    一方で日本人が(少なくとも大規模に)奴隷にされたことはあまりないと思います。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/03 09:50
  • 日本では昔から借金返済のための人身売買はありましたが、奴隷は皆無でなかったものの制度として定着するまではいかなかったはずです。

    また、戦国時代にポルトガル人が日本人を奴隷として売買したことはあったようですが、それは戦国の混乱期に少しあっただけで、天下統一した秀吉がそれを知ると大激怒し、即刻止めさせたようです。

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/03 11:11
  • それでは、まあ奴隷制はあったとしましょう。私も全くなかったとは言ってませんし。

    もう一つの質問である、日本では他民族や他人種を奴隷として売買しなかったのは何故でしょうか。
    一般的な奴隷のイメージは、やはり他民族や他人種を酷使するというものですから。黒人奴隷なんかまさにそうですし。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/03 13:46
  • 日本は昔から地域大国だったので、その気になればアイヌ人、琉球人、朝鮮人あたりを奴隷にすることができましたが、したという証拠が見つかっていないので、仮にあったとしても小規模なものに留まったでしょう。

    あと、昔の中国は確かに超大国ではありましたが、日本は中国の冊封体制の下に入ったことは足利義満の時の1回だけですし、中国史上最強の元が攻めてきても返り討ちにしてるくらいなので、中国をそこまで恐れていなかったはずです。
    加えて昔の中国の冊封体制は緩いものだったようで、元など一部の帝国を除き西洋列強のように植民地拡大のため諸国を侵攻し回ったわけでもありません。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/03 15:34
  • 補足はシステム的に削除できないはずですが。

    日本は中国を大国として尊重してはいましたが、恐れてはいませんでした。
    何せ、白村江の戦いの時代から戦いを挑んでいるほどです。それも、中国史上屈指の超大国だった唐帝国に。
    そして、中華帝国の軍事力が特に強大だったわけでもなく、北方の遊牧民族にしょっちゅう脅かされていました。
    明の時代など、日本の非正規軍にすぎない倭寇に海岸を荒らされて、それが明の衰退の一因になったくらいです。

    戦国時代にスペインから来た宣教師は、我々の武力で中国を征服することは可能だが、日本人は精強で武芸に励んでいるため、攻めたら逆に皆殺しにされると報告しています。

    これが第三者から見た冷静な両国の分析なのですよ。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/03 19:12
  • あなたは、日本人が中国を恐れていたと言いますが、その証拠はあるのですか?
    まあ、出せないでしょうね。
    恐れていたら中国に朝貢貿易くらいはするでしょうが、朝貢したのは初期のヤマト政権の時くらいで、それ以降はやっていないですよね。
    また、皇帝の地位は中国以外認めないというのが歴代中国王朝の立場でしたが、日本はそれを無視してずっと天皇(=皇帝)を名乗り続けています。恐れていたら「日本国王」と名乗るはずです。

    日本と中国の間には東シナ海があり、お互いに攻めるのは困難な位置にあります。
    そのため、日本から中国への侵略、中国から日本への侵略の試みは常に失敗してきました。

    朝鮮民族は古来から中国から侵略を受けており、当然ながら中国を恐れてきましたが、朝鮮と異なり、日本は中国とは対等な立場でずっと接してきたということです。

    No.9の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/03 22:02

A 回答 (11件中1~10件)

奴隷制についてはかなり研究しました。

日本で諸外国のような奴隷制が発展しなかった理由は主に4つあります。

・日本が島国で異民族との戦争・侵入をほとんど経験していないから
・日本は大宝律令の時代にほぼ現代に匹敵する統一国家を作り上げたから
・律令時代を結果的に終わらせた墾田永年私財法によって、土地所有権がすべての個人に認められたから
・日本は近代まで騎馬民族の文化などを拒否したから

奴隷制の始まりは「異民族を支配すること」に端を発します。ユーラシア大陸は様々な民族が隣り合って住んで居るのが普通で、その間で戦争が起こり、一方が勝つと最初の頃は負けた民族を皆殺し、にしていたようです。しかし、時代が下って農業生産力が上がって養える人口に余裕が生まれたこと、鉄器などの生産などに労働力が必要になった事、などから、次第に負けた民族を「奴隷」として使うようになります。
 また、様々な民族を横断して必要なものを流通させた商人たちは、戦勝民族から敗戦側の人々を買い取り、その他の必要とする民族や都市などに売るようになりました。

たとえば、ある民族が負けると、王様と王妃は殺されるのが普通でしたが、政府の官僚や軍人、学者などは知識があるので、他の地域で高く売れたので儲かったのです。
ユーラシア大陸における「奴隷」は基本的に、その体を誰かの所有にする、ということであり、現代でもISISなどが行っている奴隷売買はほとんど同じ形を取っています。

日本は、たしかに魏志倭人伝の時代などは大陸との交易のために、奴隷を送っていました。この時代の奴隷は大陸一般の奴隷制度とほとんど同じだったといえるでしょう。なぜなら、魏志倭人伝の時代の日本は、大陸同様、豪族が別の豪族と戦って、負けたほうを皆殺しにするような時代だったからです。なぜ皆殺しにするかというと、土地の生産性が低く、負けた側の人口を養う余裕がなかったからです。

これが変わったのが大宝律令以後になります。律令は、すべての人民に口分田を与えて、国民として処遇したからです。もっとも律令制には奴婢制度と呼ばれる奴隷制度がありましたが、持統天皇が一度禁止したりして、だんだんに大陸型の奴隷制度からは乖離していきます。

この奴婢制度が完全に崩壊したのが、平安中期で私田制度による律令制の崩壊とともに奴婢制度は廃止されます。

鎌倉時代になると、人身売買は再度禁止されます。奴婢制度はすでにないはずなのですが、借金などで奴隷状態になっているものは常に居たため、それを売買することが何度となく禁止されたのです。

ただ、この時に注意が必要のは、日本の人身売買は「借金」の問題であって、人種とか敗戦民族などではなく、すべて日本国民だった、ということです。この「日本国内での日本人による日本人の売買」というのが、その後の性格を決定します。なぜそうなったかというと、日本が外国とほとんど交流をしなかったからです。逆に室町期など外国と交流が増えると、大陸式の人身売買も増えていきました。

次の転機は戦国時代になります。
豊臣秀吉が南蛮貿易での人身売買に怒ったのは有名ですが、なぜ怒ったかというと、商習慣が違ってトラブルになったからです。
なにがちがったかというと、値段と条件です。大陸の奴隷制度は「買った人の所有物」であり、家畜と同等です。たとえば農夫レベルを20歳ぐらいで購入したとすると、後20年ぐらいは使役できるわけですから、値段もその金額で計算されます。
学者や職人など付加価値があれば、それを得てもたらされる利益も上乗せされるのが普通でした。

しかし、日本は何度となく奴隷が禁止されていましたので、事実上「借金の負債分の拘束」でしかなかったのです。そのため、売買金額は背負っている借金と同額でしたので、基本的には欧米の奴隷書価格の半分から1/3という値段であったと言われています。

貿易で来た奴隷商人は、当然ですが日本でも奴隷を買おうとします。日本の奴隷商人は大陸の奴隷制度を知りませんから、日本の取引価格で提示します。多少上乗せしたとしても、一般的な価格よりも大幅に安かったのです。

そのため、戦国時代はものすごい数の奴隷が海外に売られていったとされています。同時に、売春婦や傭兵なども商人と一緒に答案アジアまで行き、日本人街ができる都市もあったようです。

さて、豊臣が政権を担っていた時期に、奴隷で売られた日本人が戻ってきます。そして秀吉に「約束が違う」と訴えるわけです。本人としてみれば「借金の方」に売られたはずなのに、実際に現地についてみれば「他人の所有物」として一生を拘束されていたわけです。

実際天正十年(1582年)にローマに派遣された少年使節団も
『実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか』
と書かれています。世界的に見て非常に安値で買われたのは、制度そのものが違ったからです。


これを知った秀吉は、キリスト教宣教師にこう詰問します。
「予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」

なぜ秀吉が「すべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ」と言えたのか、というとすでに当時の日本では原則的には奴隷制度が存在せず、拘束し使役を強制できるのは「借金の分だけ」とされていたからです。ですから、借金分を返し終えた日本人はすべて帰国できるのが、日本の制度として正しい、わけで、だからこそ、秀吉は「予はそれに費やした銀子を支払うであろう」と言っているのです。

秀吉が愛国者であり、日本人が売られるのが我慢できなかった、とか宣教師が好き勝手やって怒った、という説がたくさんありますが、実際には「日本の人身売買制度を誤用して、安い値段で買いたたいて、だまして外国に連れていった」という日本の法規を危うくする状態だったから、これを正そうとしたのです。

これが江戸時代になって、年季奉公が許されるひとつの法理になっていきます。江戸時代は、人身を他人の所有物とする奴隷は禁止でありましたが、借金の返済のために自由を拘束されるのは合法だったからです。

現代でも日本が「人身売買が行われている国」に指定されるのは、このような「借金のカタ」という考え方が生きているからです。

で、ここから先は推測なのですが、
どうも古来から、日本人は騎馬民族の文化を忌避する傾向が強いように思います。
律令制度を取り入れた時も結局「宦官」は受け入れませんでした。宦官は自分の一物を切り落として官僚になる方法で、中国では一般的でしたし、古代のエジプトなどからアジアには普遍的な制度でありました。

この宦官は、馬の去勢からヒントを得ているもので(牡馬を去勢しないと荒っぽすぎて人間が制御できない)、人間を家畜として扱う奴隷制度も、非常によく似た側面を持ちます。ローマ時代の農業経営指南書には「牛・馬に投資すべきか、奴隷に費用を使うほうが採算性が高いか」ということが論じられているぐらいです。

このような「人間を家畜」として扱う奴隷制度は、少なくとも日本という国号になってからは存在が消えていくのです(奴隷を禁止した持統天皇の在位期間と日本という国号を使用した史実の時期は一致します)

どうも、農業文化を主体とする日本人は騎馬民族の血なまぐさい生き物の扱い方を嫌ったように思います。そして、日本の土地が個人所有になるにつれて、個人を他人の所有物とする法理は成り立たなくなっていくわけです。

逆に、外国との接点もほとんどありませんから、外国の奴隷を受け入れることもないし、日本の制度から言えば「いや、あなたの所有物ですよ」と言われても処遇に困るでしょう。

良くも悪くもいったん律令で人民が一律に国民として権利が与えられた後は、比較的フラットな階層構造であった日本では「公家も武士も農民も元はみな同じ」という考えが根付いていて、外国との戦争を経験していませんから、大陸式の奴隷制度を知ることも無かったのだと思います。

実は日本に大陸型の奴隷制がなかったであろう、証左はもうひとつあります。それは明治時代の四民平等です。
封建的な制度を廃止したものですが、それ以後日本では不思議なぐらい階級差がなくなっていきます。アメリカなんてあれだけ新しい国なのにいまだに人種問題や奴隷問題に苦しんでいるのに、日本ではそういうことがないのです。

これはすなわち「奴隷のような断絶を生む階級制度がそもそもなかった」ということだと思います。

ということで、日本には大陸型の奴隷制度はなかったのです。
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№4,5,6,8、9で回答した者ですが補足を受けて再回答します。



>あなたは、日本人が中国を恐れていたと言いますが、その証拠はあるのですか?
>まあ、出せないでしょうね。

恐れていなかったという証拠こそありません。
日本は常に中国の動向の調査に余念がありませんでした。日本はすべての外国から海を隔てて比較的安全とはいえ、所詮はアジアの二次国家にすぎず、アジアの一次国家である中国の影響は避けられない存在でしかないからです。
そして日本では中国の事情に通じている人物は常に重用されており、中国の知識や事情に通じている事は中世までは日本でのエリートの条件です。
日本である程度以上の立場にある者は元寇も事前に知っていたほどです。
恐れていなかったというのなら、何故そこまで注意を注ぎ続けたのか。なぜ白村江での敗戦以来東日本から二千人も常備兵を集めて防人としていたのか。


>日本と中国の間には東シナ海があり、お互いに攻めるのは困難な位置にあります。
>そのため、日本から中国への侵略、中国から日本への侵略の試みは常に失敗してきました。

そんなものは結果論にすぎません。
相手の侵略が失敗するなら被害は無いとでも?
元寇がどれほど日本に被害をもたらしたのか知らないのですか?
倭寇が国力を衰退させて明の衰退の一因になったと言いながら、海で隔てられているせいで侵略は失敗するから相手を恐れる必要が無かったと考えているのなら、そこに自説の矛盾があることに気づくべきです。


>本は中国とは対等な立場でずっと接してきたということです。

「対等な立場をとっていた」ことと「恐れていた/恐れていなかった」は全く別の話です。


あなたは「恐れていた」という字面に過剰反応しすぎです。
隣国から奴隷という労働力を大々的に奪おうにも、それを抑止する存在があったという事実がそんなに気に入らないのですか?
近くに日本を大きく上回る力を有する国が存在することを理解し、それを常に警戒し、それを常に注意を払い、適切に対処する。それがちゃんとできていたから今の日本があるのです。
中国が全力を挙げて攻めてくれば日本は対処のしようがない。そのことを正しく理解し恐れていたからこそ、注意を怠らなかったし、注意を怠らなかったからこそ正しく適切に、時には勇敢に対処できた。それは誇れることであって恥じるような事ではありません。
既に奴隷云々という話題から大きく外れているのに何をムキになって続けているのか。
ここは質問をするところであってあなたの意見を主張する場ではありません。
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https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …
鎌倉時代に寛喜の飢饉と呼ばれる飢饉が発生した際に多くの人々が自身や妻子を身売りして社会問題となったっぽいからじゃないかなぁ。
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№4,5,6,8で回答した者ですが補足を受けて再回答します。



あなたが挙げた事柄は「恐れていない」の理由にも証明にもなりません。

>白村江の戦いの時代から戦いを挑んでいるほどです。

白村江の戦いで大敗してから必死で講和を模索していますが、知らないのですか?


>そして、中華帝国の軍事力が特に強大だったわけでもなく、北方の遊牧民族にしょっちゅう脅かされていました。
>明の時代など、日本の非正規軍にすぎない倭寇に海岸を荒らされて、それが明の衰退の一因になったくらいです。

遊牧民族にしろ海賊にしろ、正体は国家ではなく民衆にすぎません。王を称する族長のような存在はいますが、王によってすべてが統治されていたわけではなく、敵の首都を攻めて敵国の王を殺すか降伏させれば終わるという性格のものではないのです。そして、彼らの戦いはゲリラそのものです。
大規模な正規軍が最も苦手とする相手であり、手こずるのは当然なのです。というより、こうしたゲリラは軍事力によって撃滅することが事実上不可能で、根本的に被害を解消するには彼らを経済的に豊かにしてやるしかありません。しかし、当時の中国にそこまでの力はない。
中国が周辺の蛮族に悩まされたからと言って軍事力が大したことなかったとするのは、あまりにも現実を無視した暴論でしかありません。ローマ帝国だって強大な軍事力を誇りましたが、蛮族によって国力を衰退させて滅亡しました蛮族の被害を軍事力で解消できた帝国なんか歴史上存在しないのです。

また、倭寇は別に日本人によって構成されていたわけではなく、日本人が全く含まれていない「倭寇」も存在していました。倭寇とは東シナ海周辺を荒らす海賊の総称にすぎず、東の海の果てにいる蛮族として「倭」と呼ばれているだけです。倭寇の存在や行為を当時の日本人の対中認識の反映とか日本人の総意だと考えているとすれば、それはとんでもない勘違いです。

それから宣教師の報告も個人の主観でしかありません。
現実に中国は大国であるという点はゆるぎない事実であり、実は脆弱であるという事が明らかになったアヘン戦争後であってさえ、列強諸国は中国を無遠慮に侵略するようなことはしていません。

あなたは客観的に物事を見ることができていません。馬鹿げた民族主義的認識は改めなさい。
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№4,5,6で回答した者ですが、補足を受けて再回答します。


といっても、その捕捉は何やら削除されたようですが・・・


地域の国際関係は冊封体制に入っているかどうかで決まるモノではなく、単純に力関係で決まります。
元寇を退けたからといって日本が中国を恐れない理由にはなりません。日本が中国を恐れていなかったというのはあなたの思い込みでしかありません。
沖縄、朝鮮半島、台湾、江戸時代~明治時代にそれらの地域を日本が支配下に入れる際、日本がどれだけ中国に気を使っていたか知らないのですか?
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№4,5で回答した者ですが、補足を受けて再回答します。



>もう一つの質問である、日本では他民族や他人種を奴隷として売買しなかったのは何故でしょうか。

しなかったわけではないでしょう。ただ、規模が小さくて目立たないだけです。

大規模に他民族を奴隷化しなかったのは単純に武力が足らなかったからにすぎません。
大規模に他民族を奴隷化するためにはそれこそ国家レベルで他国を侵略しなければ、多量の他民族奴隷を獲得できません。
アジアでは中世以前の世界最大の先進国である中国が「世界の警察官」のような存在で、ほとんどの国が中国の影響下にありました。それらの国に国家レベルで侵略を行い、大量の人を奴隷として連れ去るならば、中国による攻撃を覚悟しなければなりません。
そもそも、日本国内で外国に侵略してまで労働力を獲得しなければならない程の労働力不足が発生したことはありません。なのにわざわざ外国に侵略して奴隷を獲得し、結果として中国が寄こしてくるかもしれない大軍勢と対峙するのは採算が合いません。誰もそんな覚悟も出来なかったでしょう。
そもそも、海を渡って外国に奴隷を獲得しに行くくらいなら、山一つ川一つ向こうの近所を攻めた方がはるかにマシです。

小規模での他民族の奴隷化が発生したのは、倭寇に代表されるような海賊の影響です。
海賊の実態は主に貧困に陥った民衆が武装して他所に略奪しに行くことです。奪えるものは何でも奪いますし、そこには女子供を含む人間も含まれます。
日本も被害にあっていますし、日本以外のアジア諸国も被害にあっています。
個々の海賊行為はいずれも村落レベルの集団によるものであって国が行ったものではない(国はむしろ取り締まる側)なので、「日本で」とか「日本が」という話ではないと強弁できないこともありませんが、「日本で他民族の奴隷が存在しなかった」とするのであれば、それは実態を反映してはいないと思います。
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№4で回答した者ですが、補足を受けて再回答します。



>日本では昔から借金返済のための人身売買はありましたが、奴隷は皆無でなかったものの制度として定着するまではいかなかったはずです。

「制度として定着」がどの程度のことを言っているのかがわかりませんが、魏志倭人伝には卑弥呼が千人もの奴隷を侍らせていたと記録が残っています。古代の部民制、平安時代の律令制では奴隷が存在します。鎌倉時代に人身売買は禁止されていますが、14世紀には黙認されるようになり事実上空文化します。


>また、戦国時代にポルトガル人が日本人を奴隷として売買したことはあったようですが、それは戦国の混乱期に少しあっただけで、天下統一した秀吉がそれを知ると大激怒し、即刻止めさせたようです。

奴隷売買を知って大激怒云々が本当だったのか、ただの名分だったのかは断定できるものではありません。「即刻止めさせた」とは言ってもポルトガル人追放令が出されただけで効果は海外への奴隷輸出が止まったというにすぎません。人身売買そのものは無くなっていないのですから、奴隷の存在や奴隷制度を否定したというのとは全く違います。
上辺の話を鵜呑みにするのであれば、それこそ宗教にでも理由を求める方が考えなくてすみますから楽でいいでしょうね。
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宗教はおそらく理由になりません。

宗教の教義はしょせん人間が考えたものにすぎず、人間の都合によって容易に変えられてしまうものだからです。現にユダヤ教から派生したキリスト教には当初、食事に関する戒律によって厳しい制約がありましたが、現代ではほとんど残っていません。ユダヤ教だって昔は午前中は断食せねばならなかったはずですが、現在では普通に朝食をとっています。
それに日本に宗教が神道しかなかった時代にも、日本には奴隷が存在していましたし、日本人を人間として扱い対等に商取引をしていた16~17世紀であっても、西洋人は日本人奴隷を売買していました。

大雑把な理由としては、奴隷制はメリットよりもデメリットの方が大きかった。そして、奴隷制を成立させうる条件を満たせなかった。というようなものでしょう。具体的な理由は一つとか二つではないと思います。

例えば、麦作と稲作の違いが影響しているかもしれません。
稲作は麦作に比べて耕地面積あたりの収穫量が高いですが、生産には手間がかかります。つまり、生産量が耕地に投入できる労働力に依存します。
麦作は耕地面積あたりの収穫量は稲作にくらべて少ないですが、手間は稲作ほどかかりません。生産量はある程度の人手さえ確保できれば、あとは耕地面積に単純比例します。
この違いが「人の価値」に影響を与えた可能性はあるかもしれません。

次に土地柄が影響しているのかもしれません。
日本は実は欧州諸国にくらべて国土面積はそれほど狭いわけではないのですが、人の住めない山が多いため生活できる地域は限られ、おまけにそれが山や川によって細かく区切られています。そのため、個々の村落の間の交流が乏しく、山一つ川一つ越えればその先は言葉も習慣も異なる未知の別世界です。つまり、奴隷にされたとしても、比較的逃げやすい環境にあったと考えられます。
上述のように生産量が耕地に投入できる労働力に依存する稲作社会で、一方の領主は領地から過酷な扱いに耐えかねた奴隷が逃亡し、もう一方の領主は領民の扱いが比較的マシで領地から労働力が逃亡しないのであれば、両者の生産力はほんの数年で圧倒的な差が開いてしまうでしょう。
であれば、労働者に逃亡を決意させるほど過酷に扱うのは理にかないません。必然的に人の扱いは「死を覚悟してでも逃げようと決意させる程ではない」程度まで優しくするようになりますし、領内社会の安定を図る領主らもそうなるように政策を打ち出すようになります。

日本に奴隷に近い身分や奴隷に近い扱いを受ける人たちはいても、西洋で見られるような過酷な扱いを受ける奴隷そのものの存在が目立たないのは、そういう理由がいくつも重なった結果だろうと考えます。
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>>西洋人は黒人を奴隷にしていましたが、黒人を奴隷にする前はスラブ人(白人)を奴隷に使っていました。



同じ白人でも、「われら以外の他民族(白人でも)でも、われらの神を信じない人間は家畜」っていう考えかたもありますし・・・。
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日本人は、犬や牛、豚などのペットにも魂があるとしています。


そして、仏教の転生輪廻の思想から、「次の人生は、猫や豚かもしれない」と考えることもあります。
しかし、欧米では、「家畜には魂は無い」と考えていますし、その延長で「黒人には魂がない」という考え方をしていたようです。
となれば、黒人は、牛や豚と同じく家畜のレベルになりますよね?
また、その黒人を黄色人種に変えたら、そういう人も家畜レベルとなります。
となれば、そんな人たちを奴隷扱いしても、まったく問題ないってことですね。
これは唯一神の宗教観からきているみたいですね。
「われらの神が、われら以外の民族は家畜と同じであると言っている」となれば、奴隷にしようが、女・子供まで皆殺しにしようが、神の命令に従っているので、全く問題ないってことでしょう。
多神教、汎神論の日本と一神教の宗教の差だと思えます。
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