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なぜ19世紀日本は植民地支配されなかったのか?について、様々な意見があります。しかし、実際は、明治維新がイギリスの植民地政策だったという説もかなり有力です。グラバーやフルベッキの存在を勘案すればすぐに分かるでしょう。

質問者からの補足コメント

  • タイトルは、なぜ植民地にならなかったか?ですが、問うているのは、実は植民地にされていたのではないか?ということです。ややこしくてすみません。

      補足日時:2017/06/10 20:01

A 回答 (9件)

19世紀の植民地は何かを知らないから馬鹿考えに喜ぶ。


21世紀の植民地は何かを知らないから馬鹿考えに喜ぶ。
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日本が植民地化されなかったのは、日本民族が優秀で欧米列強に付け入るすきを与えなかったからに決まっている。

 欧米の植民地経営は言うまでもなく、植民地の人間を牛馬の如く扱い教育も受けさせず、徹底的に搾取すること。「明治維新がイギリスの植民地政策だった」というほら話が「かなり有力」などと言う愚かな記述は止めて欲しい。 グラバーは自分の利益のために商売に精を出していただけだし、ブルベッキは日本の高等教育の発展に貢献している。
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なぜ植民地にならなかったか?


  ↑
これには諸説あります。

地理的に遠い、というのは違うでしょう。
インドだって植民地にされています。
文明が高かったというのも違うと思います。
インドも中国もやられています。

ワタシは武力があったからだと考えています。
薩英戦争は、軍事的には薩摩の勝ち、といって良いほどでした。

当時の英国人の手記に残っていますら、彼等は
武士を異常に怖がっていました。

武士のテロに悩まされていた彼等ですが、
植民地支配したら、百万いるロー人が、テロを
起こして収集がつかなくなるだろう、という手記が
あります。

日本の学者でも、武士が支配していたのが
幸いした、とする人もおります。





問うているのは、実は植民地にされていたのではないか?
   ↑
当時の英国の新聞「タイム」は、横浜は
英国の植民地だ、と紹介されていました。

植民地とは、本国政府の支配下にある領土のこと
を指しますが、支配とまでは行かなかったと
思われます。

インドと比較します。

1,英国は、日常的業務の権限の他、
 事実上大臣クラスの任命罷免の
 権限を持っていた。
 日本はそんなことは無かった。

2,インドは英国に、毎年膨大な経費を
 支払っていたが、日本ではそんなことは
 無かった。

3,英国は軍隊を投入して一般庶民の虐殺
 投獄を行って治安を保とうとしたが、
 日本ではそんなことはやられていなかった。
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なにをもって植民地と言われているのか分かりませんが、明治時代にイギリスやアメリカが宗主国として日本から資源を搾取したとも思えません。

むしろ不平等条約ですが貿易が盛んになり日本の産業が発達しました。

明治中期には鉄道網が全国に敷かれ製鉄も、造船も盛になり近代産業が欧米の技術に追いつこうとしていたころです。
民法や刑法、不登法など今の初歩的な判例は明治中期から大正時代確立されました。
明治憲法も天皇を規定したところ以外はほとんど今の憲法と変わりません。天皇は政治に意見を言う立場にはなくただ裁可されるだけでした。

植民地状態というのは現在の方が近いでしょう
占領軍に憲法によって武装解除され国家の基本的権利である交戦権も取り上げられています。
現在でも国連は日本に敵国条項を突き付け、削除要求もかたくなに拒否しています。

世界に交戦権のない国があるでしょうか。国を侵されることがあったら宗主国である米国が戦う
なんという憲法を破棄できない日本は独立国とはとても思えないでしょう

最近でも国連人権報告者というわけのわからない人物に我が国の立法まで介入され有難がっている
マスコミまで存在する状態です
               このような独立国を観念できますか
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僥倖といっていいかもね。


全土植民地でなくても、当時の清国のように、
いろいろ租借地取られる形は、ありえた。
英国は、薩長に肩入れし、金貸し、維新政府の債務不履行口実に、
植民地化狙ってた、とか、仏国は、幕府側とか。
露国も、維新政府が、朝鮮半島にちょっかいかけないと、
日本のみこんでいたろうし。

大政奉還戊辰戦争が、結構あっけなくおわり、
日清日露の役で露国の植民地化免れた。
日清日露の役負けたら、露国の植民地化されてた可能性高い。

植民地化されるシナリオは、確かにあり、しかも
実際の歴史進行よりありそうなシナリオだった。
実際の歴史進行となった理由は、
一つに絞って論じることはできないと思う
(どこに焦点、ウエイト置くか次第)。
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それを言うなら、今、日本がアメリカの植民地であると言う論法と同じになって来ますね。


諸外国は通商条約で有利な条件で日本に武器や産業機器、技術を売り付けたかった。だから例えば世界遺産の富岡製糸場もフランスの技術で建ったものです。日本は地租改正で現金収入を得て、国民皆兵制で徴兵をしましたよね。これらは海外からの技術やノウハウの導入が必須だったのです。
それをアメリカもイギリスもフランス他海外勢が狙ったのです。
イギリスの植民地になった、と言うのは、このような展開をイギリスが薩摩に持ちかけたことを誇大に表現したような話と思います。
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司馬遼太郎さんも言われていますが、文明のレベルが高すぎて統治は無理だったということでしょう。


戦国末期には鉄砲の生産量、保有量が世界一だったといわれていますし。
徳川幕府によって平穏に統治され
江戸の人口も世界トップクラス、絵画など芸術も独自に発展し、庶民まで識字ができる。江戸時代に欧州から日本に来た人たちは日本こそがユートピアと感じた人が多くいたということです。

このような国は統治不可能です。宗主国より国家、国民のレベルが高い植民地なんてありえないでしょう。
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この回答へのお礼

回答の早いのにびっくりしています。^^みなさん、日本が好きなんですね。私も、日本人ではありますが特別に日本贔屓せず、客観的な歴史観を得たいと思っています。どうぞよろしくお願いします。

お礼日時:2017/06/10 20:06

生麦事件で薩摩がイギリスから攻撃されてボコボコにされ、長州もイギリスを含む海外勢と下関で戦争になったが、なぜ攻め落とされなかったかというと、この時あまりに進んだ外国の武器や戦法にむしろ感服して、ズルいアイデアを思いつき外国と手を結んだ。

特に薩摩がイギリスと組んだために薩摩や長州から国内への戦争に波及しなかった。それは薩長へむしろ感謝しなければならない。そしてこいつらを結ばせたのが坂本龍馬。結局は1853年の黒船以降の国内の騒乱でドタバタしながら、そうした背景で薩摩、長州、土佐などが結託したので侍社会の江戸幕府が倒されたわけ。
植民地にならなかったのは薩長の国を憂える志士と、それをビジネスに利用したイギリス他外国のしたたかな内戦を煽る戦略があったことが背景。あとは日本国民の知的レベルと尊王攘夷の思想がとても強かったからだと思う。現人神を護ることこそ日本国民の美学という考え方だ。
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欧州からはるかに遠い、且つ島国だから、でしょう。


国外人の活動と支配は別です。
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この回答へのお礼

早急な回答ありがとうございます。もちろん、おっしゃるような意見も多数あります。確かに地の利が原因で植民地にしなかったというのも頷けるのですが、それならばなぜ、ペリーがしつこく日本に開国をせまったのか?という疑問も湧いてきます。ペリー来航から明治維新まで、その資金はすべてイギリスのアヘン利権が大半を占めていました。しかし、アヘン戦争などで多数の命を失った当時他の植民地政策のように戦争を起こさずやれる方法はないかと探ったところ、日本には幕府に反感をもった四国、九州のテロリストみたいな若者がいるということを知り、彼らを利用しようとした。そこで送り込まれたのがお雇い外国人として訪日したフルベッキや貿易商のグラバー達だった。実際、明治維新での近代化は西欧化ですよ。西欧化=善であると洗脳するのも必要だったでしょうしね。

お礼日時:2017/06/10 19:52

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