現代文の150字以内要約みたいな問題です。
問 傍線部A「めまいを感じるほどの当惑」とあるが、筆者はなぜ、そのような当惑をおぼえたのか。150字以内でわかりやすく説明せよ。
(本文)出展 田中克彦 「ことばと国家」
母国語とは、母国のことば、すなわち国語に母のイメージを乗せた煽情的でいかがわしい造語である。母国は、いなかる政治的環境からも切りはなし、ただひたすらに、ことばの伝え手である母と受けて手である子供との関係でとらえたところに、この語の存在意義がある。母国にとって、それが国家に属しているか否かは関係がないのに、母国語すなわち母国のことばは、政治以前のような関係である母ではなく国家に結びついている。そのために、これを区別せずにいつでも「母国語」を用いていると、次のような奇妙なことが生ずる。
(沖縄で行われた教研全国集会でのこと)「平和と民族」分科会では、民族衣装に身を固めた北海道の少数民族ウイルタ(オロッコ)の北川源太郎ことダーヒンニェニ=ゲンダーヌさんの母国語による訴えが静かな波紋をひろげた。それは長年、民族差別の中で苦難の生活を過ごしてきたウイルタの人たちが自らの手で、民族の誇りと文化を守ろうとする自立の宣言であり、それは同時に日本を単一国家としてきた日本人の意識の改革を迫るものであった。(『朝日新聞』、1978年2月4日)
私はここに報じられたゲンダーヌさんの行動はもちろんのこと、また、それ を支持して、広く世に知らせるために記事にした、この文章の書き手にも共感する。そもそもこういう記事は、言語的少数者が置かれている状況にたいする深い理解なくしては書けないものである。それだけに、「ゲンダーヌさんの母国語」にはA(めまいを感じるほどの当惑)をおぼえたのである。
ゲンダーヌさんは北川源太郎という日本名の持ち主であるから、たぶん日本国籍の人であるだろう。だとすれば、ゲンダーヌさんの母国は日本で、その母国のことばは日本語であるから、オロッコ語のことを母国語と言ってしまってはまずいのである。ゲンダーヌさんのことばは、この「母国語」とはするどく対立するところの非母国語、非国語であるからこそ、ここにその訴えを報じる意義があったのではなかったか。ゲンダーヌさんが用いたことばは、国家とは対極にあって、その国家によって滅ぼされ、滅ぼされつづけてきた、かれ自身の生まれながらの固有のことばなのである。それを母国語と呼ぶ矛盾が、これほどゲンダーヌさんに共感を寄せる記者に気づかれず、またその記事を読んだはずの編集総括者にも気づかれず、さらに数百万の読者からもとりたてて疑問があらわれなかったことに、ことばとその話し手との関係に関する、日本人の平均的な理解度があらわれてはいないだろうか。すなわち、ことばはすべて国語であるの考える日本人の考えかたに根深く宿ってあるこの盲点こそは、この記事がまさに指摘してきた、「日本を単一民族国家としてきた日本人の意識」をありのままに示しているのである。
ゲンダーヌさんは、日本人の国家、すなわちその母国が使用を保障してくれないことばを生まれながらのことばとして持っている。学校、役所、裁判所のどこにも、そのことばのための場所はあてがわれていない。だから、そのことばはどんなことがあっても母国語とはいえないのである。もしかして太古にあったかもしれない、まぼろしの母国を思い描く以外には。

A 回答 (1件)

これには筆者自身が答えている。

「もしかして太古にあったかもしれない、まぼろしの母国を思い描く以外には」つまり「本来の母国語」は死んでもう無いのだ。坂上田村麻呂と戦って降伏したアルテイ以後日本の北方民族は二度と反撃する力を持つ事は無かった。現在北川源太郎ことダーヒンニェニ=ゲンダーヌさんの母国語は残っているだけマシで、欧州各国の元植民地は文字さえ失い「本来の母国語」を記述するのに「宗主国」の文字つまりラテン諸語を使っている。この記者は知識が貧しすぎてそれをさえ知らなかった、だからめまいを感じたのだ、あるいは「植民地」の上に住んでいる事を失念していたのだ。
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