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高学歴(高偏差値)や学力(学校の成績がいい)を教養という人がいますね。

確かに、戦前の旧制中学、旧制高等学校では、単に学問に止まらず、理系の学生でも文学書、哲学書を読むなど人格形成を怠りませんでした。

しかし、現代では高学力(高偏差値)が教養があるとはいいきれませんね。
何故ならば、受験塾にみられるように詰め込み教育による受験技術が進んでいるからです。

単に、難しい漢字、言葉を知っている、高等数学が解けるだけでは教養があるとはいえませんね。

Wikipediaによれば「教養ある人間、すなわち、教養人が相応の尊敬を得るのは、単に知識が豊富な状態(博識)に留まらず、人間性という実を伴うためである。仮に、現状の知識が乏しいからといって、その状況は非難される性質ではない。知識を求めて学ぶことで品位と人格を高めようとする心構えが重要と考えられる」とあります。

皆さんはいかがお感じでしょうか?

A 回答 (20件中1~10件)

知恵と知識とは違うものです。


偏差値の高い教育機関に入り、さらに高度な大学院の各課程に入ったり、海外に渡って学ぶのは主に知識です。

知恵というのは、おばあちゃんの知恵袋みたいに学歴も家柄も関係なく、それまでに身をもって体験し取得した生存の為のノウハウです。冠婚葬祭のしきたりもその中に含まれているでしょう。
こちらの方が教養に近いと感じます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「知恵と知識とは違うものです。偏差値の高い教育機関に入り、さらに高度な大学院の各課程に入ったり、海外に渡って学ぶのは主に知識です」
⇒まったく、その通りですね。

「知恵というのは、おばあちゃんの知恵袋みたいに学歴も家柄も関係なく、それまでに身をもって体験し取得した生存の為のノウハウです。冠婚葬祭のしきたりもその中に含まれているでしょう。こちらの方が教養に近いと感じます」
⇒私もそのように思います。

お礼日時:2017/07/09 10:43

御説ごもっともですが、現代はこのご時世に日頃の行動と発言から教養が理解できるもの。

裃絞めてインテリをアピールするもので無し。最もインテリは市中でこじきみたいに生活しているんですよ!
見分けつかんでしょ?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「最もインテリは市中でこじきみたいに生活しているんですよ!見分けつかんでしょ?」
⇒それが何か問題なのでしょうか?

インテリはお金持ちにならないといけないのですか?

お礼日時:2017/07/11 08:47

有名大学でていても知恵がない人はダメです。


高卒でも、ゆたかな人間性持った人は社会でかならす認められます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「有名大学でていても知恵がない人はダメです。高卒でも、ゆたかな人間性持った人は社会でかならす認められます」
⇒その通りだと思います。

お礼日時:2017/07/10 20:52

この問いは ただの愚痴です。



しかもその根拠としている事由は:
★ 単に、難しい漢字、言葉を知っている、高等数学が解けるだけ
では教養があるとはいえませんね。
☆ という当たり前以前の当然のことである。

★ 現代では高学力(高偏差値)が教養があるとはいいきれませんね。
☆ ないとも言い切れませんね。

そんな分かり切ったことを訊くというのは いったいどういう思考
なのでしょう?

★ 確かに、戦前の旧制中学、旧制高等学校では、単に学問に止ま
らず、理系の学生でも文学書、哲学書を読むなど人格形成を怠りま
せんでした。
☆ 《文学書、哲学書を読むなど》のことが どうして《人格形成
を怠っていない》と言い切れるのですか?

言い切れないと分かっているのを いったいどういう問いとして取
り上げていましょうか?

けっきょくは何かの愚痴である。というのが もっともありそうな
原因でしょう。





ヰキぺにしたがうことが・つまり判断の材料としてというよりは
ものごとの判断そのものとして書いてあることに従うことが 普遍
的に妥当であると誰が言ったのですか?

いったいどういう思考の回路であれば こういったうわっつらのも
のごとを並べることができるのでしょう?

しかも その問いの形式のままに回答しているとしたなら そのほ
うが 思いやられます。

質問するにあたっては こうではないかと 多少でも《考えている》
のですが 回答するにあたっては ほとんど条件反射として――つ
まりなああーーーんも考えることなく ただ世の中のナラハシに誘
導尋問のごとく従って―― 文字をつらねている。だけだからです。

恥づかしめるために投稿しました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「恥づかしめるために投稿しました」
⇒書かれている内容、何も驚くに値しません。
この質問に回答いただいた多くの方々が判断されることでしょう。

お礼日時:2017/07/10 16:32

しつこく失礼します。

大学がおっしゃる通り、その質を変容させたのは、戦後になってから、ということははっきりしてますよね。終戦の荒廃から国をいちはやく立て直すのに、国家は「科学技術者の大量養成」を昭和40年代頃まで推し進めました。その機運を受けて新しい大学が乱立し、そこに団塊の世代が流れ込み大学がマンモス化。戦前のような教授との触れ合いの中で研究していた環境が失われ、大教室で、教授がひとり壇上で毎年同じ講義を繰り返す風景が一般化しました。こうなればもはや最高学府としての矜持は失われ、評価する方も学期末試験の結果で評定する形に安住するという環境が固定化することになりました。こういった土壌に乗って1970年の大阪万博の頃には浅薄な「科学万能主義」が日本中を席捲していました。
あらためまして、学問を真剣に続けられている方はお分かりだと思いますが、世の中には科学の分野にかかわらず、わからないことの方が圧倒的に多いです。ひとつ解明できればそれに隠されていた新たな謎が2〜3顔を出すといった具合です。学問と言うのは字義にもあります通り、そこに常に「問い」がなければ意味のないものです。学問されている方はその不思議との出会いが楽しくて仕方ないのだと思います。
何が言いたいか、と言うと、本当の知性とは「自分が何を知っているか」ということではなく「自分が何を知らないか、ということを知っている」ということです。ですから「私は何でも知っている」と言っているような人は「自分は馬鹿です」と言っているようなものです。先ほどのメールでも書きましたがことは大学の環境の問題ではありません。学ぶ気になればいつでもどこでも学べるはずです。人間一生勉強です。本当の教養を大学の名で判断するという態度こそ戒めむべきですね。失礼しました。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。
大丈夫ですよ。
何度回答いただいても歓迎です。

「大学がマンモス化・・1970年の大阪万博の頃には浅薄な「科学万能主義」が日本中を席捲・・」
⇒そうでしたね。

「本当の知性とは「自分が何を知っているか」ということではなく「自分が何を知らないか、ということを知っている」ということです」
⇒そうです。ソクラテスもそう言ってましたね。

「私は何でも知っていると言っているような人は「自分は馬鹿です」と言っているようなものです」
⇒同感です。
私も自慢する人とは付き合いません。
そういう人は、他人が褒めてくれないから自慢するんですね。
中身がないから褒めないのですが(笑)。

お礼日時:2017/07/10 12:15

続けざまに失礼します。

早い話、知識があっても(頭は良くても)、馬と鹿の区別もつかないバカはあちこちにいる、ということです。
通常、大学というのは一定の知識を土台に自己の人間形成(哲学を醸成)する場のはずなので、大卒で教養がないのはおかしいんですけどね。教育制度の歪みですかね。質問者様が戦前の帝国大学を懐かしむのもわかりますが、ことは教育制度の問題だけじゃなく個人の自覚の問題ですね。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。

「早い話、知識があっても(頭は良くても)、馬と鹿の区別もつかないバカはあちこちにいる、ということです」
⇒その通りですね。

「通常、大学というのは一定の知識を土台に自己の人間形成(哲学を醸成)する場のはずなので、大卒で教養がないのはおかしいんですけどね」
⇒まさに、おっしゃる通りですね。

日本では、ある時期から大学が学歴という単なる証書を発行するところになったのでしょう。
つまり、高度経済成長に気を良くした政界、官僚、学界がこぞって大卒を大量に作り出したのです。
ですから、大学の講義が高校までの授業とまったく同じになってしまった。
そもそも、大学は教師が学生に教えるところではなく、学生自らが考えるところですからね。

大卒を受け入れる企業側にも問題があったのでしょうね。

お礼日時:2017/07/10 10:43

受験勉強などの詰め込み教育で得られるのは単なる「知識」。

「教養」というのはこの単なる道具である「知識」の意味(歴史的背景など)を知り、その使い方(これを「知恵」という)に哲学(独自の価値観)を持つことを言うのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「受験勉強などの詰め込み教育で得られるのは単なる「知識」。「教養」というのはこの単なる道具である「知識」の意味(歴史的背景など)を知り、その使い方(これを「知恵」という)に哲学(独自の価値観)を持つことを言うのではないでしょうか?」
⇒その通りですね。

大切なのは博識ではなく、考える力でしょうね。

お礼日時:2017/07/10 10:29

他の方のご回答を読んでいないので、かぶるかもしれませんが。



昔は漢籍の知識が教養であったと聞いています。明治以前の話です。森鴎外や幸田露伴のころですね。現在の日本ではどうなんでしょう。私の見るところ、海外での面白いニュースは、一般人受けしているように思えます。

教養すなわち、人格形成に関わる努力、知識を蓄えること、というご意見に賛同します。学歴は、ひとつの指標のようなもので、その後の努力が大切です。

私は、四年制大学で英語学を専攻しましたが、もう、三十年も前の話で、就職当時、最初に習ったコンピューターのシステムはDOS,ゼロックス社でした。化石時代の出来事のように感じられますので。

一体、どうすれば、現代に即した知識が蓄えられるのか、と、ネット・ニュースなども読みますが、混交玉石です。難しい時代になったと思います。たとえば、漫画が悪いとは言いませんが、三十有余年前に読んだ源氏物語も、枕草子も、今の若い人たちは漫画で読んでいるようです。漫画で読んで、教養になるのか。。。たぶん、私の偏見でしょうが、そんな風にも思います。

教養を蓄えることによって、高められた人間としての品格を、どのように役立てるか、という問題もあります。教養豊かな人間が、SNSを駆使して、一般社会に発信を続けてゆけるチャンスのある時代だと思います。そこに希望を見出しますが、私自身は、プライバシーを守るのが大切で、フェイスブックもしていない状態です。そういう教養人とのつながりが、見出しづらい状況です。

ダメですねぇ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「ダメですねぇ」
⇒とんでもございません。
書かれていること、まさに教養ある方とお見受けしました。

「最初に習ったコンピューターのシステムはDOS」
⇒懐かしいですね。いい時代でした。

「一体、どうすれば、現代に即した知識が蓄えられるのか、と、ネット・ニュースなども読みますが、混交玉石です。難しい時代になったと思います」
⇒よく分ります。
昭和50年代から情報化社会といわれましたが、ほとんどは不必要な情報でしたね。
それは現在でも同じように思います。
どんなに科学技術が発展しても、一人の人生に必要なものは少しでいいのだと思います。

「教養を蓄えることによって、高められた人間としての品格を、どのように役立てるか、という問題もあります。教養豊かな人間が、SNSを駆使して、一般社会に発信を続けてゆけるチャンスのある時代だと思います。そこに希望を見出しますが、私自身は、プライバシーを守るのが大切で、フェイスブックもしていない状態です」
⇒私もSNS、フェイスブックはしておりませんね。

ciaopolpo2さんは、私よりお若いようですが、あなたのような素晴らしい方がいること、安心しました。

お礼日時:2017/07/10 10:25

>>皆さんはいかがお感じでしょうか?



恥ずかしい限りです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「恥ずかしい限りです」
⇒あれ~、ずいぶん早い結論ですね。

お礼日時:2017/07/10 10:08

>どの方法をとっても、多分骰子さんの気分はよくないでしょうね。



それは手厳しい。でも事実かもしれません。
漢字の書き順は悩ましいですね。文化庁によると、漢字のはね・止め・払いや、書き順は、そもそも統合されていないそうです。文科省の子供の教育のガイドラインでも、ある程度まで、書き手(=子供)に裁量をもたせて良いという御達しが出ています。
http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodoha …

地方差、書体の差、世代の差など、様々なものがあります。例えば、私が覚えている手順と、祖父母が書いていた手順は違い、書初めの際に口論になったりしました。でもどちらも正しかったんですね。

田舎だと、漢字を立派に見せるために、漢字の棒が一本多かったりします。私は実家の請求書に墨で書かれていた文字を見て、びっくりしてしまった。匿名サイトなので字を言えませんが、棒が一本も二本も多い。でも、お客さんに格式を持たせようとする配慮を感じました。棒が増えるとバランスが良くなって、なんか立派な文字に見えてきます。棒を増やさずに立派に書けたらばもっといいのでしょう。文化省はここまでの逸脱は許していません。でも、これもいいんだと私は思っています。

教養というのは、他人に対する配慮になって意味があるものだと思っております。

まあ、その京大卒の方は、いろんな意味でまずい手合いだったのだろうと私は思っております。そういう人が出現した時に、「あんた文化庁にはこうありますよ」と凹ましてもいいことはないわけで、gouzingさんは、大変良い対応をなさったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。

「文化庁によると、漢字のはね・止め・払いや、書き順は、そもそも統合されていないそうです。文科省の子供の教育のガイドラインでも、ある程度まで、書き手(=子供)に裁量をもたせて良いという御達しが出ています」
⇒そうなのですか、知りませんでした。
また一つ勉強になりました。ありがとうございます。

教養の質問と皆さんの回答、これが文化醸成であってほしいのですが。

お礼日時:2017/07/09 22:50

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