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1. その何ものかが《人知を超えている》というところまでは 人知が
及んでいるわけだ。

2. では その《超えている》そのもの(そのこと)の内容は 何か?
――超えているなら 分からない。

3. この場合の《分からない》の意味するところは 何か?

4. 《知り得ない》のか? ――いや。そうかも知れないが そうでな
いかも知れない。つまり 《知り得るかも知れない》。

5. つまり 《知り得ない》と言い切ったとしたら それは 知り得な
いと証明できたことを意味する。中身の分からないことについて証明も何
もあったものではない。――これは 《知り得る》と言い切った場合にも
当てはまるはずだ。

6. ならば 《知り得るか知り得ないかが知り得ない》と概念規定する
しかない。そこまでは 人知が及ぶ。

7. 人知を超えたものは けっきょくナゾである。つねにナゾである。

8. これが 世にいう神のことだ。




9. (5)をあらためて説明したい。《知り得るか知り得ないかが知り
得ないナゾ》なら 人びとの中には 《われは知り得た》と言う人が出て
来るかも知れないという問題だ。

10. ただしこの問題も はっきりしている。《おれは 神を見たんだ。
はっきり知り得たぞ》と言う人が現われた場合 そうだとしても その発
言ないし人知は それと同時に《いや それはただしいかどうか分からな
い》と成らざるを得ないということだから。

11. 言いかえると 神についての説明は 《知り得るかも知れない。
と同時に 知り得ないかも知れない》という相い対立するふたつの人知
(?)が同時に成り立っているというわけだ。
――ここから 《有る神》派と《無い神》派とに 人びとの信仰は 分
かれる。普遍神のナゾの普遍性ゆえである。

12. 世に蔓延る宗教は 《神を知り得た。この神を信じなさい》とそ
の一辺倒を押し進めるなら すべて完全にアウトである。それは 神では
ない。その人たちがこしらえた観念であるだけの神だ。

☆ いかに?

A 回答 (16件中11~16件)

取り急ぎ。


アプリオリな人智が経験の塊と言った事について補足を。
これは、先験的な経験と言うと矛盾を感じられるかもしれませんが、なにか経験の原型のようなものをあらかじめ備えて居て、後に経験する事柄とこの原型とを照応して知覚しているのでは無いかと言う推測があって、それで、アプリオリな人智は経験の塊と表現するに至ったと言う事です。前回の説明だけでは分かりにくかったと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ なにか経験の原型のようなものをあらかじめ備えて居て
☆ そうですね。いささか乱暴な議論をしますが:

遺伝子は われという存在および自己意識にとって アプリオリ
なものですね。ただし 経験的なものごとです。

そこには みづからの行動としての意志行為や人びとのそれを受
け留める意志行為をおこなう器があります。

この器が 《原型》でしょうか。


★ 後に経験する事柄とこの原型とを照応して知覚しているので
は無いか
☆ これは 集合的無意識でしたか――ユングもフロイトも嫌い
なんですが(好悪の問題を持ち出してすみませんが)―― 過去
の人類の歴史における《意志行為とその相互関係の 集積》とそ
の記憶があります。

この問題でしょうか。


《自然本性における――DNAなどとしての――原型ないし器》。

これは:

(あ) それがそなわっていることは アプリオリであり

(い) 過去の経験の集積としての記憶は たぶん後天的な経験
事象であり

(う) この原型=器=記憶と そのいま現在の行為や事象とを
照らし合わせるのは 経験行為である。



★ それで、アプリオリな人智〔の原型〕は 経験の塊と
☆ はげしく絡み合うと見られる。

人間たるわれが 意識的にわが意志において照らし合わせる事象
もあれば それとは違って すでにその照合の以前に 記憶とい
う行為能力において――意識しないところで――あたかもアプリ
オリに《絡み合い》が始まっているように思われる。・・・でし
ょうか。

お礼日時:2017/10/06 16:32

添削


なるほど、人智を随分狭義に捉えられているのだなと言う印象でした。この文章に示された認識能力を人智とするなら、のちに展開される経験、非経験の話とは随分話の大きさに乖離があるかなと。

説明された人智の定義に沿うと、例えば感性によって世界を知覚し、と言う冒頭ですが、この場合、(論理の話になるのですが)感性によって知覚されなければ世界があるかどうかも分からないわけです。世界よりも感性が先立っていると言う点で、感性が世界を生じているとも見れます。そうすると、以降に続く世界認識を推し進めていくと言うところまで全てが、人の認識作用による自作自演による世界創造のプロセスと言う事になります。こう言う事を想定されは居なかったと思いますがいかががでしょう。

感性によって世界を知覚する以前に、アプリオリな人智が前提としてあるから、感性もその一つの意味として機能するのではないかと私などは思うのですが。つまり、文章が下るに従って形を成して行く様に見える人智は、むしろもっと以前にその躯体を備えて居たのではないかと。木の生えている地面の下に根っこがある様なものです。

このアプリオリな人智は経験の塊のようなものですが、これはとても知り難いものです。つまり人は、経験世界の事も実は深く知らない。

一方、あなたが非経験であると言う所の神は、信じる事によって心に受け入れる事が出来ると言う。ではこの、非経験のものを受け入れる事の出来る心とは一体何か?それを非思考の庭と呼んでいるが、これは結局、神は信仰を通して経験可能なものとして捉えているのではないだろうか。感性の知覚によって世界が生じると言った場合のように、信仰によって神が生じているのではないのでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 人智を随分狭義に捉えられているのだな・・・のちに展開される・・
・非経験の話とは・・・乖離があるかなと。
☆ 人知をめぐって 非経験の場との関係について触れていない。という
意味で 狭い定義でしたね。

《狭義の人知で認識しうる範囲》のほかに《人知を超えていると想定する
領域》があるわけです。



★ この場合・・・感性によって知覚されなければ世界があるかどうかも
分からないわけです。
☆ 二点おぎないます。

良心という概念がありますが これは決して観念なのではなく わが心に
逆らうような意思決定をするなら 動悸を速め冷や汗をかかせます。つま
り 感性とつながるかたちです。

感性とつながらないかたちというのは 感性で知覚した概念を 感性から
離れて・その意味で想像裡における観念として用いて 世界を知ろうとす
る場合です。

世界認識には まづは 感性がはたらくと言ってよいと考えます。

神という言葉≒概念にしても 神々しい(かむかむし⇒こうごうし)とい
った知覚をとおして〔仮りのシルシによる〕認識をおこなっています。



★☆ 感性によって世界を知覚する以前に、アプリオリな人智が前提とし
てあるから、感性もその一つの意味として機能するのではないか
☆ アプリオリなるものは 人知を超えたナゾとかかわっているという想
定です。そしてそれは 一般に感性に現われる。

つまり:
★ 世界よりも感性が先立っていると言う点で、感性が世界を生じている
とも見れます。
☆ は行き過ぎです。世界の自己運動を まづ 感性をとおして捉えると
いうところまでです。


★ このアプリオリな人智は経験の塊のようなものですが、
☆ 《経験知》は アポステリオリですよ。


★ 神は、信じる事によって心に受け入れる事が出来ると言う。
☆ 世に《かみ》という言葉が出回っている。何だか分からないが 昔は
《かみ鳴り》とも言っていたなぁ。このカミという言葉を 受け容れてみ
ようか。・・・と言って受け容れることを 《信じる》と呼ぶ。です。

神なんて死語だ くそくらえ! という受け容れ(信じる)もあります。

★ 神は信仰を通して経験可能なものとして捉えているのではないだろう
か。
☆ 信仰が 経験事象です。信じるその相手は ナゾです。アプリオリで
す。

お礼日時:2017/10/06 08:09

この問いを考えるには、人知、或いは人智と言うものが何を意味しているのかを捉えなければならないと思う。

その捉えたものを、誰もが納得できる形で表現出来た時、それを定義として話を進められるのではないだろうか。
人の想いによって現れる全ての事象、つまり人が感じたり考えたり、悩んだり慮ったり、信じたりした結果の全ては人智の範疇に入ると私は見ます。
そうではなく、人が何を為そうが為すまいが、逆立ちしても至れないそれ、想いを超えたそれを、人智を超えていると言うのではないかと。

例えばある人が病気になった。打つ手がなく、医者も匙を投げた。どうすればいいのか、どうも出来ない中で、答えを見いださなければならない。この様なシチュエーションで答えになるそれと言うのを私は言葉にできない。ここには一つの人智の限界があると言って良いのではないか。
世に言う人智とはこう言うものではないだろうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ この問いを考えるには、人知、或いは人智と言うものが何を意味
しているのかを捉えなければならないと思う。
☆ たとえば:

《世界を感性で知覚し これを悟性で概念化し その概念≒言葉を用
いて 世界を知る。

認識内容をつねに見直し――問題とおぼしき事柄についても――捉え
直し 間違いのないものとしつつ 世界認識を推し進めて行く。その
能力》

すでに捉え得ていると思う。

★ その捉えたものを、誰もが納得できる形で表現出来た時、それを
定義として話を進められるのではないだろうか。
☆ 添削をどうぞ。



★ 人の想いによって現れる全ての事象、つまり人が感じたり考えた
り、悩んだり慮ったり、信じたりした結果の全ては人智の範疇に入る
と私は見ます。
☆ おのれの存在をもふくめて世界のすべてとその認識が それでし
ょう。

★ 信じたり
☆ については げんみつに扱う必要がありましょう。

信じる――神の名を無条件で無根拠にてわが心に受け容れる――行為
は その《受け容れる》のは 経験事象ですが 受け容れる対象は 
経験事象ではありません。

《人知を超えたナゾ》を心に受け容れるのは わが意志行為であり 
経験世界のものです。人知の及ぶ範囲です。

ただし 受け容れたそのものは 人知を超えています。それを仮りの
シルシ――神の名――で受け容れるのです。シルシは 経験事象で人
知に属します。


★ そうではなく、人が何を為そうが為すまいが、逆立ちしても至れ
ないそれ、想いを超えたそれを、人智を超えていると言うのではない
かと。
☆ ですから その《知り得ないかも知れない》という側面だけでは
一面的だと申し上げています。

神は 或る日或る時ふと わが非思考の庭をおとづれて来るかも分か
らないのです。

おれは神を見たと――主観の範囲で・つまり勝手に人知にかかわって
――自己表現しても構わない。

それはつねに間違っているかも知れないので 主観の外に出かけるこ
とは かなわない。ということです。

《知り得たと――勝手に――思うかも知れない》し 《バカヤロー!
神なんかいるわけないだろうと言うのも もっともであるかも知れな
い》のが 《人知を超えたナゾ》でしょう。


この神論がここ十年普及しないのです。

お礼日時:2017/10/05 07:45

世界を創造した者を神として、


世界を創造した証明を理解すれば、
その者を神と認識できると言う事ですね。
それは無理だと思います。
フェルマーの最終定理の証明すら理解できないのですから、
それより複雑な証明を理解できるはずがない。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 世界を創造した者を神として、
世界を創造した証明を理解すれば、
☆ いえ。そんなことは言ってませんよ。

《人知を超えたもの》は 《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》で
ある。これが 神である。――と言っています。

そしてそこからは 神は 《知り得るかも知れない》し しかし同時に《知
り得ないかも知れない》となるんだ。と

これは 《同時に》というところが 大事ですね。



それゆえ 神は 簡略に捉えたときには 《おれは神と話をしたんだ》と言
いたい側の《有る神》派と そして 《神なんぞは いるわけないぢゃん。
神を見たという人間を呼んで来い》と言いたい側の《無い神》派とに分かれ
る。とも言いました。

つまり 両派は 互いに同時に対等にして成り立つのだと。普遍神のナゾ。




★ フェルマーの最終定理の証明すら理解できないのですから、・・・
☆ よくは分かりませんが その場合は あくまで《人知のおよぶ範囲》の
経験事象をあつかっているのではありませんか?

言いかえると 既知か未知のいづれかに分かれる《知り得る(可知)》とい
う事柄であり さもなければ 《知り得ない(不可知)》なる事柄であると
なる場合では?

つまり その場合は 《知り得る》か さもなければ《知り得ない》か ど
ちらかひとつの場合を言うのみでは?

知り得ない不可知というのは 知り得ないと証明し得た場合であり そこま
では 人知が及んでいます。


《知り得るか知り得ないか それが知り得ない》という場合は 《非知》と
呼ぶことになるはずです。

お礼日時:2017/10/04 21:10

ひとつを学んでも、それを記述する変数はおよそたくさんある。



どの変数が中心的で、どの変数が周辺的か調べる必要ができる。

その変数の存在範囲はどのようにして理解できるようになるか、これも試してみなければわからない。


一つの仮説にどれだけの変数を必要とし、道具を必要とするかわからない。


私は思う。だから私はある。

私のなかに、私の支える私もいる。

私のなかに、私の主人と私の従僕がいて、普段は私の従僕は何も語らない。

私の従僕が語り始めるとき、それは苦痛である。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~
ひとつを学んでも、それを記述する変数はおよそたくさんある。

・・・

一つの仮説にどれだけの変数を必要とし、道具を必要とするかわからない。
~~~~~
☆ これはですね。だいたい 経験事象としての問題やその解をめぐる認
識についての問題ですね。

しかるべき数の変数を取り上げて方程式をつくり これを解く。つまり
解法がいくつかあったり 正解がいくつかあったりするとしても 基本は
一般に《知り得る(可知)》と捉えている問題なのだと思います。

人知では まだ既知にはならない場合に未知として扱っても それは い
づれ《知り得る》と見なしているはずですから。


★ ~~~~~~~
私は思う。だから私はある。

私のなかに、私の支える私もいる。

私のなかに、私の主人と私の従僕がいて、普段は私の従僕は何も語らない。

私の従僕が語り始めるとき、それは苦痛である。
~~~~~~~~
☆ ううーん。ちょっと むつかしいですね。

主人と従僕とそして私と 三者がいるのですか?

むつかしいところを乱暴にかんたんにするとしますと:

○ わたしはわたしである。はずです。主人と呼んでいる者も 従僕とし
てそこにいる者も けっきょく 《大いなるわたし》ではないのですか?

お礼日時:2017/10/04 20:55

「1. その何ものかが《人知を超えている》というところまでは 人知が及んでいるわけだ」


⇒神は人知を超えている、というのはあなたが勝手に云っているだけです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

この質問では 《人知を超えている》について定義するようにして
説明を加え そこで得た内容が 神のことを言っているという論旨
で問うています。

★ 神は人知を超えている、というのはあなたが勝手に云っている
だけです。
☆ 《だけ》を別として その指摘は当たっていますが この質問
では 的を射たとは言えないと思います。

お礼日時:2017/10/04 09:56

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