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日本人はなぜ誰かから嫌われないように努力するんですか?間違ってはないですがそれで本当にいいの?って思います。だって誰かになんか言われたら、その人の為に自分が変わろうとするって常に他人基準で自分が変化す
るっていうことになってきます。それじゃまるで最初から自分の存在を否定し、相手に合わせてばかりだと思います。海外で日本のことを嫌ってる人の意見を聞くと、私達は行いを改めなきゃいけませんね。と言う。また学校で親からクレームがくるとそのクレームを避けるために学校側があらゆることを禁止にしていく。
悪いことを改善することは良いことですが誰かに批判されたからってすぐこっちが変わらなきゃって意識は、自分の価値や主張を何も持っていないのと同じだと思います。伝えたいことは分かりますか?

A 回答 (14件中1~10件)

伝えたいことは分かります。



ご質問のテーマについては考えたことがあり、同じ結論に至ったことがあります。

大筋で賛成です。


しかし、私は自分の考えや価値観に従った結果、相手にあわせる事にしています。

長いですが、このあたりを説明します。


私は、

自分の存在と言うのは常に他人に否定されており、それが正しいのだと思っています。



当時は、まるで最初から自分の存在が否定されているように感じ、怒りを覚えました。

しかしこの怒りは純粋ではなく、甘えがあり、卑怯なものであると知ってしまいました。

「さすがに、これ(個人の存在を否定される)は皆も怒るだろう。嫌だろう。

 大人は皆で個々人の存在を尊重して綺麗ごとを言う。

 よし、この論法から、正当性を主張してやろう。」

と思っていたのは確かです。



しかし、学校から社会に出ますと個人の価値は希薄になります。

「いや、俺の存在を否定されるのは嫌だが、君の場合はどうでも良いと思える。」

と言うのが一般論でして、

「ああ、いったな、おまえ。よし、お前の冷血さを皆に宣伝してやる。」

とやっても、子ども扱いされて笑われるだけです。

「もしお前の言う事(他の人なんてどうでも良い)がほんとうなら、

 大人は綺麗ごとばかり言って、子供に嘘を言っている。

 大人なんて信じられない。」

と言えば、

「まあ、君もその一人なんだがね。鏡を見てきなさい。

 そして、同じことを実際に鏡を見ながらいってみなさい。」

と言われるだけです。

ほんとうにやるとチョーきついですよ。

他にも悩める人がいて、助言したことがあります。

その人も「これ以上きついものは滅多に無い。」と言っていました。

子供の頃に否定していたダメな大人が鏡の中にいるんですから。

私たちは普段自分自身が見えないので自由に物事を考えられるだけです。



鏡を見ながら、

「人は誰だって生きる権利があり、自分の考え方を尊重されるべきだ。」

と言ってみましょう。

「うーん。きっつい。かなり相手にされてない人に見える。

 このオッサン生き残れないので必死って感じだ。」

とわかるはずです。

これは考え方の正しさ以前の問題です。

「 『正しいものは正しいはずだ。それを許さないというのは差別だ。

  どんな人間にだってそれだけは尊厳として許されるはずだ・・・。』

 お、勇気がわいてきた、ちょっと純粋な怒りが生じてきたぞ。

 えっと・・・よし、鏡を見ながらいってみよう。

 ・・・うっはきっつ。

 すごい差別されて苦しんでいる人に見える。

 『考え方は正しいが、お前が言うと我侭な大人に見えるぞ。」

 と突っ込みたくなってきた。

 なにこれ、なんでなの?」

このときはじめて、淘汰の本質がわかりますよ。

鏡の中には、そろそろ色んなモノを諦めて楽に成りたいという人物がいます。

気持ちや心はそうではないのですが、外見の印象は(素直にみて)そうなんですね。

ここで、

「俺なんかはこれで満足だが。君たちは諦めちゃいけないよ。」

とか言ってみると、普通に見えます。

全く、気持ちはそうではないんですが、まだマシです。

「ああ、そうか。みんなそうだったんだなあ。

 大人に成ると自然に大人に成るんじゃなく、

 大人として発言すると惨めになる考え方やワードがあるんだ。」

とわかります。

全ての大人が嘘を言っていたのではなく、

自分の尊厳のために発言の自由が無かった(綺麗ごとを言うしかない)。

結果的にそれが子供を甘やかすことになっていただけなんです。


ほんとうは生きる権利などというものは保障されていません。

生き残る確率があるだけであり、そうであっても最後は老衰して死にます。

死なないで済む確率は限りなく0%です。

段々とこれに近づいていくわけですから、色んな贅沢なモノを切り捨てて延命を図ります。

その過程でもっともどうでも良いのが、自分の自由な考えとか感じ方です。

これはさして惜しくもないと(いずれは)感じるはずです。



新型のウツ病が大流行し、適応障害になる社会人が増えてます。

学生のうちから不登校に成る人も増えています。

これは、自由な考えや感じ方を手放すまいとして、口喧嘩などで周囲と戦うからです。

周囲と生き残りをかけて戦い、他を圧して一人勝ちし、独裁するという方法もあるんですよ。

私は、こちらの方が実際的だと(経験からも)思っています。

現代では経済(商売)で闘います。

昨今では、周囲を圧倒し市場を寡占した人がセレブと呼ばれています。

戦争が身近であった時代ではハイソ(上流階級)と呼んでいました。

そういう立場じゃないのに、自分の考えを通そうとしますと、不全を引き起こします。

「小人閑居して不全を為す」

ですね。


「自分ひとりで皆に勝つ?

 いや、それは無理。

 そういう凄い力が無くても、何とか成りませんか?

 嫌なことも少しは我慢します。」

と諦めの悪いことを言っていると、執着を生み、ストレスが貯まり続けます。

これで消耗し、どうでも良いオッサンに負けてしまえば、不戦敗です。

意地を張って淘汰されるというのは最も愚かなシナリオでしょう。


自分の考えを通すためには、力(正義もその一つ)でねじ伏せるしかないんです。

力を得るために、余暇を削ることになります。

これは苦しいし、人生を楽しめているか? と考えると、勿体無い。

では力がつかないのか? と言うと、無駄ではなく確かに向上します。

周囲を圧することは出来なくても、自分を頼りにしてくれる人も増えます。

ここで折り合いが付くというのが妥当な人生です。

私も綺麗ごとを言いますが、この部分(力が無ければ発言も出来ない)

だけは当たり前だと思っていますよ。


これらは、

すっきりする原則だと思っていますので、納得しています。


すべての人は淘汰の対象であると思えます。

自分が生き残る方法については誰も考えてくれません。

自分で考えるしかありません。

ですので自分の考え方が正しいかどうかは、自分の人生への満足度ではっきりとわかります。

考え方が正しければ、生存確率があがるはずです。

そうでなければ、誰にも知られず消えていくことになります。

デスゲーム、罰がそのまま死です。

しかも、これらは貧困や事故(事件)を経由するはずです。

突発的に生じるのではなく、長い期間の衰弱を伴うはずです。

苦しんだ挙句に力尽きて死ぬわけです。

逆に言えば、長く苦しむからこそ、気力がつきて死ぬのです。


人間は食物連鎖の頂点におり、生きているだけで資源の消費が激しいんですよ。

生きていること自体に無理があり、科学が自然法則をねじ曲げて成立させています。


百歩譲って人間という種がそうして生きているのが正しいとしても、

「・・・と言う事で、種のために、そろそろ若い可能性に席を譲ってくれないだろうか?

 私たちは個々人のコストが割高なんです。

 あなたは原始時代の人間と同じことも出来ていないでしょ?

 人間の歴史上では最低ランクの人間力ですよ。

 無人島に漂着したとして、現代の社会を独力で構築できますか?

 それが出来る人が他にいるんですよ。でなければ、こんな社会は出来ていません。

 実は戦力外なんです。諦めてください。」

と人間種の意思(があったとして)から頼まれたとき、反論できる自信がないですね。


もう少し若ければ、可能性(ありもしないと分かっていても)を盾に粘ったでしょう。

しかし、自分より優れている人を引き合いに出されて説得されるかもしれません。

「・・・と言う事で、可能性としてもこの人達のほうが高そうに思えます。

 どうか、ここにリソースを集中させてください。そろそろ諦めてください。」


さらに、これに皆の意見を求められて、白黒つけられるかもしれません。

「・・・ええと。誰かこの人のほうが自分より生き残るべきだと弁護する人はいますか?

 取り急ぎ代わりの方がいたら、その人でもいいです。一人分のコストは同じですから。」

これをやられたら、分が悪いですね。

私のために弁護をしてくれる人を探すだけでも大変なのに、

引き換えにするものが等価であったら、余計に確率はなさそうです。


しかし、私は生きていたいんです。

ヤバイと思っている人達を味方につける方法もあります。

「『人には誰にだって生きる権利がある』ってムーブメントを起こさないか?」

これは嘘ではあります。

経済格差や教育・能力の格差まで埋めるはずがありませんから。

汚い大人の駆け引きです。



結論として、

公平に見てですが、

一人一人の実力は、その人の自我の強さに見合うほど高くないんではないでしょうか?

実力のある人の影に隠れて、まるで同じ力があるように見せかけて語っているだけでは?

嫌われないように考えて、その通りにすることも出来ないんじゃないでしょうか?

じっと手を見て、まずはそこからと思うのは仕方ないですし、堅実なはずです。


日本人の考え方が間違っているのではなく、

日本人の多くがそういう立場であると言うことではないでしょうか?

「生意気な人から生贄にしていく。」

と言う時代に進んだためだと思います。

社会が万人にとって幸福であるはずがなく、

自分の分は自分の現状にあわせて、自分で作るしかありません。

以上、ご参考になれば。
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『長い物には巻かれろ』『朱に染まれば赤になる』『右向け右』


そんな教育を受け続けて 戦争を知らない世代の人間たちが
昭和から平成まで 築き上げてきた社会なのです。

『出る杭は打たれる』『矛盾』『理不尽』横行の世の中です。

平成ももうすぐ30周年を迎えます。
あなたが社会に出る頃は もう少しマシになっているでしょか。

『個性的 』『柔軟性 』『創意工夫 』を自然に受け入れてくれる
社会になっていて欲しいと つくづく思います。

次世代に期待してます。
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仰りたい事、よく分かります。


私が、尊敬している友人に、昔、言われた言葉があります。
「相手が間違っていても、とりあえず「はい」と言って話を聞いていればいい。
 ただ、心の中では、それは違うと自分に言い聞かせて、自分の信念を
 大切にして、自分の核を保つようにしたらいい」
見掛け上の行動は、人に合わせて変えた方がいい事も多々あるかもしれません。
でも、心の中までは、自分の考えを曲げてまで、従う必要はないと思います。
それを、行動にまで移せるなら、一つの生き方として凄いなぁとは思いますが、
世の中、生きにくそうだなぁ、とも思うと思います…。
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言いたいことはわかるつもりです。



問題を日本人にまで拡大すると答えも広がりすぎてしまうのです。
どうすれば良いかですが、あなたがそう考えたということは、
自分に具体的な出来事や材料があるはずですよね。
その場、そのときの体験を話すと、より的確に現実的に考えやすく、
その場合、どう対処、どう対応すれば良かったのか、
今後そのような場ではどうしたいのか、適応しやすくなります。

その場合、という言葉には、その場、そのときの事情や局面という意味合いがあり
人間はそのとき、その場、その関わり合い、など事情は毎回異なりますので、
そのつど色々な自分でもって適応も変えているのです。
そういう機能なのです。

言い方をわかりやすくすると、引き出しに「ワタシ」(多様性)を抱えています。
人間は、その場に応じるワタシという、自己の概念の中の一つで対応するのです。
言いかえると、人間は、その場やそのとき、時間に対応するときは、
色々ある中の一つでしか対応できない。

今日と明日で、自分は違っていることを自覚し、許容できる人がいます。
自分を、感性を信じ、日常に適応できる、こころが自由な人と言えます。

「日本人として」考えてしまうことも、
日本人を全て同じように見なし、ひっくるめて同じとしてしまう思考の呪縛に囚われていないでしょうか。

>だって誰かになんか言われたら、その人の為に自分が変わろうとするって常に他人基準で自分が変化するっていうことになってきます。

その人の為に自分が変わろうとするのが日本人とまで極論を考える、そういう質問者さん。
「日本人は」と決めつけていないでしょうか。

自分が変わろうとすることを、人が選択する場合、
自分以外の誰かの為に自分を変えたいと思っても、思うまでです。
現実的にはその理屈では人間はほぼ変われません。

人の為に己が変わろうとすることが正しいとも教育された覚えがありません。
自分のなかのこうあらねばの「ワタシの思い込み」に気づきましょう。
問題を日本らしく皆同じとして広げすぎず「ワタシのお話しをするだけ」で足りると思います。
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>日本人はなぜ誰かから嫌われないように努力するんですか?


日本が内向きの社会の国、だからです。ほとんどの外国は日本に比べれば「外向きの国」であるといえます。

日本と多くの国との違いは「異国戦争・異人種戦争をしたことがあるかどうか」です。日本は明治以前3回しか外国との戦争を経験していません。諸外国はそもそも戦争といえば外国との戦争、であるといえます。

この違いは「社会の運営と維持」に決定的な違いを与えました。外国ではそもそも「政府は今ある形でずっと続くとはいえないし、国の枠組みも変わるだろうし、俺たちだってずっとここに住んでいるかどうかわからない」と言う感覚が強くあります。
たとえばインドから中近東の民族が金のアクセサリーを身に着けることを好むのは「財産を金に替えて、身に着けてれば戦争になっても財産をもって逃げられる」からです。

そういう社会では「今の為政者や実力者に気に入られて生活が裕福でも隣の国と戦争になったら終わり」だし「今は貧乏だけど、戦争になって活躍できれば逆転もありえる」という考え方があります。これが「ユニークであること」の本質的な正体です。

また、民族的な問題もあります。大陸ではそもそも多くの民族が隣同士で住んでいました。ある民族が支配者になることもあれば、今まで被支配側だった民族が支配階級になることもありました。重要なのは「自分の所属する民族が滅びないこと」であり、そのためには「自分たちの民族の伝統や価値観を守りつつ、他の民族に負けないような方法を取る」ということになります。ですから、戦争の少ない地域の比較的安定した民族でも「内向きの部分は大切だが、同時に外を見て警鐘を鳴らせるユニークな人も必要」であるとされているのです。

外を見て「このままでは自分の民族が危ない」という意見を持てないレベルなら民族として滅んでしまうからです。
ですから、今現在生き残っている民族はそういう危機を何度も乗り越えて現在がある、ということであり、そのためには一定のユニークさを内包し、時には「相手をこちら側に意図に沿って変えさせる能力」も持つ必要があった、といえます。

日本人にはこういう能力はほとんどありません。ないわけではありませんが、少なくとも「日本国内社会のコンセンサス」としては機能していない、といえるでしょう。

逆に日本は「古来からの決まり事を守れば、社会が永遠に続く」とほとんどの人が思っている社会であるといえます。
質問者様は「他人」と書かれていますが、誰でもどこでも「他人に言われたから」直す人はそれほどいないでしょう。でも「世間」と呼ばれるレベルの他人、実力者とか町内の意見などであれば、自分の意見を引っ込め変えてしまう人が多くいます。それは「社会の安定がなにより大切で、無駄な諍いは社会の安定に寄与しない」と多くの日本人が考えているからです。この点において日本の社会は「ユニーク」であることを避ける社会であるといえるでしょう。

また、日本は対外戦争はないものの、世界で最も過酷な自然災害のある国、でもあります。実は地震はそれほど問題ではありません(地震は都市化した現代だから問題なのです)一番の問題は水害、日本人は田圃を耕す民族であるため、河川に近いところに住み、そのため水害にはものすごく弱い社会でありました。

このような災害に対応するためには「多くの人々の力を集めて、一糸乱れぬ行動をすること」が重要であったのです。
そのためには、自分も常に社会の中にいること、が必要でそうしないと死活問題だったわけです。

だから日本人はユニークであることよりも「社会の中に自分の居場所があること」を重視します。それは災害に勝つために必要なこととして日本の社会が求めたからです。

明治になると、日本は西洋に出会い、西洋文明を取り入れていきます。アジアは米を作るので、日本よりは外向きであっても共通点がありましたが、西洋文明は全く違いました。彼らは田圃を作らないので河川から離れた場所に住み、ユニークであることを好んだわけです。

そして、西洋文明はユニークであることが技術革新を推し進め、だから西洋人は「発想が豊かでユニークであること」を(少なくとも日本人よりは)良いこととして受け止め、個性的な人、自分と意見が違う人でも社会の中で上手く付き合おうとする傾向があるといえます。

現代日本人はこの狭間で揺れています。技術発展にはユニークであること、非凡であることが必要ですが、たとえばスティーブジョブズ並みに非凡でもあのユニークさは日本の社会では全く受け入れられないでしょう。

>悪いことを改善することは良いことですが誰かに批判されたからってすぐこっちが変わらなきゃって意識は、自分の価値や主張を何も持っていないのと同じだと思います。

質問者様は学生さんでしょうか。社会にでると、もう少し違う仕組みはあります。そうでなければいくら外国と戦争をしてきていない日本民族もこれほど長い歴史を作ることはできなかったからです。
 しかし、実態として「日本の教育やしつけが、社会の要望に合わせるように個性を矯めていく」という点についてはその通りでしょう。

もし、それから脱したいなら、ユニークを貫き通して社会中に居場所を自分で作るか、勉強して「自分の意見は正しい」と他人が認めるレベルになるしかありません。
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中野信子さんの著者に書いてありますよ。

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「伝えたいことは分かりますか?」


⇒よく分りますよ。

社会に出ると、企業などでずる賢い人間達が権力を握って大手をふるっていますからね。
そういう中で、保身に走る周囲の人々のことでしょうね。
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貴方は、クレームをつけて居ますが、では打開策は?


日本には、イエスとノーの間の曖昧な返事が存在します。
それは、相手にイヤな思いを直接的にさせたくない、自分もしたくないという思いでしょう。そうやって、円滑に穏やかに物事を進める国民性?かと思いますよ。ですが、ダメなモノはダメで、それを指摘されたら、悔い改めるのは当たり前ですよね?学校に来るクレームも、親が目に余るような事を子供がしているからで、じゃあ?悪いのは誰?って事です。親や学校が自己満足の為にしてるわけではありませんよ。そりゃあ、強い人間ばかりではありませんからネ。寄らば大樹の陰と思う人だって居ますよ。いいじゃないですか?その人の生きる術なら。あなたが、そういう日本人や日本がイヤなら、他国で生きるか、なんらかの打開策を持って、政治家にでもなったら?でも、そんな事より、私には、北朝鮮問題や、少子高齢化の方が、ずっと脅威です。
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大人の事情、ビジネスの為、儲けの為ですね。



学校では「嫌なものは嫌と言え」「間違ってることはキチンと指摘する事」「化粧するな」「食べ物を粗末にするな」と言われますが
社会に出たらすべてが逆になります。

サービス業では例え客が間違っていても謝らなきゃいけないし 高校卒業したら突然女性は化粧がマナーになるし
コンビニや弁当屋では廃棄する食材を従業員やホームレスに分けず捨てなければならなりません。

それもすべて儲けの為です。 いつの時代も金を出してくれる取引相手が強いのです。
正しいかどうかなんて金や権力次第で捻じ曲げてしまうのです。

正確に言うと強い権力者の為に合わせるのです。
もしこれが、なにも持たないホームレスや子供相手ならそっぽ向きます。

学校の場合 親は子供を預けて金を払ってくれる権力者なので 多少の筋の通らないクレームにも言いなりになるのです。
それによって迷惑なのは子どもたちなんですけどね

海外でもそんな社会情勢なのですが、日本ほど客を甘やかす事はしないでしょう 出入り禁止なんて珍しくありません。
ではなぜ日本はこんなに客に甘いのか?  悲しいことに、それは豊かな国から次第に貧しくなっているからです。

バブル経済の頃は一般庶民でも心に余裕があり あまり理不尽なクレームもなくマナーや倫理もある程度安定していました
故に客に尽くせば尽くすほど儲かるので 業界は一層サービス精神に力を入れるようになったのです・・・が

この不況の今 理不尽なクレームは増え、それに応じてしまうことで倫理の基準が下がり。
先程言った学校の教育はほとんど矛盾する社会になってしまったのです。

学校もいじめなんとか穏便に済ませようと誤魔化したり
大手の企業も過剰な誇張宣伝やわざと誤解させるような見せかけの宣伝を行うようになりました。
もう倫理なんて言ってられない社会なのでしょう。

こんな時代なので 金のあるものにすがりつく為 一団となって自分を偽り相手を騙す技術が必要なのです!
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国が違う。


法律も違う。
言語も違う。
季節も違う。
育つ土壌が全然違う。
考え方が根本的に違うの。
変わらないのは血の色だけ。
先ず行こね。
肌で感じて理解しよね。
その考えが外国で通じるかどうか勉強してみなよ。
やってみて何ぼね。
やってないなら島国何たらって語る資格なしね。
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この回答へのお礼

全然語れてないじゃないですかw当たり前のこと並べてるだけですよそれ。10年も言ってたら具体的にこういう会話をしたときに、日本人だったらこういうけど、アメリカではこうとかそういう比較もサラサラ言えるはず。
価値観の違いを教えてくださいといったのに国が違う、言語が違うってw
誰でもわかるよそんなことw
見栄張るのはやめましょう

お礼日時:2017/10/22 18:27

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