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たまに急に「死」とか「生きること」とかをゴリゴリと考えてしまうことがあります。

今の僕の考えです。
これが正しいとか、間違っているとかではなく、今こう思うということです。
人それぞれ、違うものだと思います。

感想とか、皆さんの思いとか教えてもらえると嬉しいです。

■死という現象
死とは1人称とそれ以外(2人称/3人称)で異なるという考えです。
一般的に言われている死という現象は、1人称では存在しない事だと考えています。
人は自分の死を認識出来ないからです。
自分にとっては「生しかない」ということだと考えています。

「僕が死ぬ」とは、僕以外の人(2人称/3人称)の現象だと考えています。

そして、2つの「死」があると僕は考えています。1つめの死とは、医学的には決めた「死という現象」を受け入れることです。つまりは、僕の存在が死んだという認識に変わることです。
そして、2つめの死は、僕の存在を全ての人が忘れることです。
つまり、僕の存在認識が誰かの中にあり続けているのであれば、
僕はその人の中で生きていることになります。
例えば、あなたが海外旅行中にあなたの事を思っている人は、生きていると感じています。肉体が動くかどうかということや、実際に確認できるかは関係ないといえます。
もし、あなたの知人が失踪したら、あなたにとってはその人は死にませんよね。

そう考えると、有名になり、多くの人の記憶に残すこと、自分の姿を絵や像にすること、写真を撮ることで、不老不死に近づく事が出来るのかも知れませんね。

■1人称での死とは
人が生きるということが定義できると、必然と死ということが定義できると考えられます。
僕は人が生きるということを「欲求を満たすこと」だと考えています。
つまり、死とは自分の欲求を満たすことができなくなった時です。

基本的には、人は常に欲求を満たしています。
人は自分の欲求に従わない行動はとれません。
ただし、すべての欲求が満たされるわけではないので、
欲求不満が生きていることへの不満になるわけです。

より自分が満足する生き方は、どんな欲求を満たせるかによるということです。

A 回答 (9件)

No.5です。


①ポジション等が関係することで、感じ方の違いが出てくるということでしょうか?それとも、ポジション等の関係で成立しない考え方なのではないかということでしょうか?

❶書き方が良くなかったです。 ポジションは組織集団での地位や役目・役割・存在価値のようなもののことです。
「僕が死ぬ」の(2人称/3人称)の現象
これには、ポジションとか財産とかも関係してくるようなケースがあると思います。
残された夫、残された妻、残された子、残された恋人。 職場だと、その跡をだれがカバーするか、etc
「私が死んだ後の状態では、この私の家族は、、、」「私が死んだら、この国は、、、」「今私が死んだら、このプロジェクトは、、」のように、《自分の死》を第三者の死のような観点でみようとすることもあるという意味です。 現状のポジションがどのようなものであっても三人称の死としてみるということはあると思います。 現状の自分に関して「私なんかいてもいなくても」とか「私なんかいない方が」とかの評価を持っている場合でも、「私は死んだ方が良い」というのは、「僕が死ぬ」の(2人称/3人称)の現象としてのとらえ方の一つではないかという意味です。 『ポジションによっては「僕が死ぬ」の(2人称/3人称)の現象は起きないこともある』とは考えていません。

②今を逸脱したいというケースは、多いと思います。ただ、死は本当に今から逸脱できるのでしょうか。
死んだ後の状態は誰も知らない訳です。 僕は、意識がなくなるから認識出来ないということではなく、何をもって今自分が死んだのか判断出来ないということです。
突拍子のない例かも知れませんが、死のうとしても、ある瞬間から別の次元の世界に飛んで、生きていて、何も状況が変わっていないかもしれません。 分からないわけだから、どのような事があるかは否定出来ないでしょう。
つまり、死で意識がなくなるので終わりという考えや、死後は別世界ということ、現世はひとつであるという一般的な考え方(推測であるにも関わらず)が、逸脱(自殺)を生む大きな要因であると僕は思います。

❷私が述べているのは、{「一人称の死」には「今を脱却したいというケースが多くある」「今の私から抜け出したい」「脱皮、脱却・脱出・生き返り再生・再誕したい」というケースがある}ということです。それに成功するかどうかではなく、《いまの状態かたなんとかぬけだしたい》という願望が「一人称の死」そのものの内容である場合があるということです。死んだ後にどのようになるかはさして重視されていません。また同じになりそうかどうかの視点はもともとないことが多いと思います。死後意識がどうなるか、なくなるか、あるのか、それも関係ないです。今の状態からの脱出脱却が「一人称の死」である場合、【今の状態からの脱出脱却を願う=死の願望・自死念慮】になるのはありうることです。 それは《逸脱(自殺)を生む大きな要因》というよりも、同値に近いものだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

①について
補足ありがとうございます。
そうですね。確かに第三者的に考えることも含まれそうですね。納得です。
僕の中では無かった観点で、面白いです。ありがとうございます。

②について
補足ありがとうございます。
確かに死を望むということが、一人称の死のように表現されますよね。僕も気になっていたんですよ。
死を望むというのは本来成立しない欲望だと僕は考えています。yoreyoreさんの言う通り、逃避とか逸脱が本来の目的なのに、死と逃避/逸脱が強く紐づいているんですよね。
逃避/逸脱を望むことは生きている証です。これは、概ね保身が目的ですよね。それでは死を望むとは、何からの保身でしょうか。保身でなければ何のために?そしてそれが達成されるかも分からない?
謎です。
理屈じゃないのかもしれましんが、そうだとすると、暗黙知や本能的に死の捉え方が影響しているのかも知れません。そのような死の捉え方がどの様に創られたのか?
人間の本能は不完全だとも言われていますから、アンコントロールの事柄があっても致し方ないとも感じます。

お礼日時:2017/11/16 12:34

死とは無です。



若い頃、付き合っていた彼が事件に巻き込まれ殺されました。
1時間前まで一緒にいて死ぬ直前に電話でも話していたのに、数時間後、呼ばれて病院に行ったら警察と、裸で血塗れの彼がいました。
ビックリしすぎてぶっ倒れました。
霊感がない私でしたが死んでからありえない現象に何度か遭遇しました。
その瞬間に一緒にいた友達や家族も同じ物が聞こえ見えてるので本当です。

私は誰がやっているかわかってましたが怖くもあり、死んだらどうなるのかあーでも無いこーでも無い考え、1人の友人に話していたら、全部きいた後、その友人は「死んだら無だよ」と言いました。
その言葉でなんだか救われたと言うか、もう居ないからサヨナラしようと思えました。

死後は死んで見なきゃわからないので、考えず今の現実に向き合って楽しく1日生きれますよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

何故「無」と考えるようになったか理解できました。
ありがとうございます。
もし、触れたくなかった過去の出来事を出させてしまったのであれば、申し訳ありませんでした。

お伝えいただいたことに感謝致します。

お礼日時:2017/11/14 20:33

興味を持って頂いて、ありがとうございます^_^



あなたの考えを否定するつもりはありません・・・

ただ、私は生と死に、あなたとは少し違う解釈をしています

ひとつの可能性として、聞いてもらえれば嬉しいです

人が生まれる環境はさまざまだと思います

書いている通り、その生まれた環境により、一生、過酷な人生が決定されてしまう人も少なくないと思います

人が、生とともに存在し、死とともに完全に消滅するのなら、生まれきた環境は、偶然でなんの因果関係も無いものとなります

なぜかというと、誕生において存在し、死とともに消滅するのなら、うまれた時に何かの因果や原因が存在するはずはないと思います

また、生まれる前に何もなく、死んだ後も何も無いのに、生まれてきた環境にだけ何かの意味があるとは、おかしな事になると思います

しかし、当人の、過酷な環境に生まれた人は、とてもじゃないが、この環境に生まれた事は、たんなる偶然です!
・・・お気の毒です!・・・では納得できないものがあると思います

誕生と共に存在し、死と共に消滅する・・・ここまては、納得出来るのに、なぜ・・・過酷な人生を送る理由が偶然・・・だけ納得出来ないのでしょうか?

私は、それが理屈ではなく、心が真実ではない事を、表現しているのではないかと感じます

で、あなたが思われた様に、肉体は死と共に消滅しますが、私達の生命は永遠に存在します

実際に死んで、生命になった時の記憶は無いので、細かい事は分かりませんが・・・生命が、ダイナミックな経験をする為に、肉体に宿り、五感を使って体験する事が〝生〝となります

変な例えかもしれませんが、経験の上で、ハイリスク・ハイリターンなのが肉体をもった〝生〝という事になります

実際に肉体を持ち、痛みや快感などがある為に、よりダイナミックな体験が出来る訳です

それに比べ、非物質の生命の状態は、ローリスク・ローリターンと言えます

とにかく、圧倒的に幸福感が伴った状態なのですが・・・肉体が無い為に変化にとぼしいのだと思います

だから、一長一短があり、生・死を繰り返す事になります

そして、前世の自分の行いの影響を受けて、次の生が始まる事になります

そう考えると、今の自分の環境にも少し納得がいくし、後、生きている時に、めちゃくちゃな事も出来なくなるのではないでしょうか?!
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

僕の考えを否定されているとは感じませんので安心して下さい。

辛い境遇の意味を考えると、輪廻するということで、救われる部分がありそうですね。

1点、僕が感じたのは、”過酷な環境とは、一律ではないのではないか”ということです。
ある人にとって過酷な環境でも、ある人にとっては過酷ではない。
ある社会では過酷であっても、ある社会では過酷ではない。
アルバート・エリスというアメリカの臨床心理学者がABC理論というものを提唱しています。
結果は出来事で決まるのではなく、その人の信念によって決まるという理論です。
だからといって、例えば幼児虐待を本人の感じ方によって幸せに感じられるはずはないとも思います。ただ、その子が他を知らなければ過酷とも感じられないでしょう。
つまりは、生きているその本人が生きている意味を決めて、過酷かどうかを感じているのではないでしょうか。そうであれば、生を受けた時点での生きる意味は、そもそも無く、生きていく中で作り出すのでは、とも感じました。

お礼日時:2017/11/14 22:01

初めまして



私は、輪廻を信じています・・・

一番の理由は、生まれて来る環境の違いです!

一概には言えないかもしれませんが・・・自分がその環境に生まれて、苦労しなければならない理由が〝ただの偶然〝では、納得できない人が多いのでは無いでしょうか?!

その生まれてきた環境の違いを考える時に、一番しっくりくる理由は、輪廻をもちだしてくる事だと思いますが・・・
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

これは生を受ける意味ということでしょうか。
人それぞれ違う環境ですよね。
確かに。

では、死ぬということは、どの様な意味になるのでしょうかね。

輪廻する場合は、死なないということになりますかね。

お礼日時:2017/11/14 08:12

面白いですね。


① 「僕が死ぬ」の(2人称/3人称)の現象
これには、ポジションとか財産とかも関係してくるようなケースがあると思います。
残された夫、残された妻、残された子、残された恋人。 職場だと、その跡をだれがカバーするか、etc
② 1人称での死
これには、今を脱却したいというケースが多くあると思います。
最近ニュースでしばしば見受ける「死にたい」は一人称の死の一つだと思うのですが、辛い、苦しい、嫌だ、この世から消えたいといいたいくらい「今の私から抜け出したい」という、脱皮、脱却・脱出・生き返り再生・再誕のことを一人称の死で表現していることが結構あると思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

①ポジション等が関係することで、感じ方の違いが出てくるということでしょうか?それとも、ポジション等の関係で成立しない考え方なのではないかということでしょうか?

②今を逸脱したいというケースは、多いと思います。ただ、死は本当に今から逸脱できるのでしょうか。
死んだ後の状態は誰も知らない訳です。
僕は、意識がなくなるから認識出来ないということではなく、何をもって今自分が死んだのか判断出来ないということです。
突拍子のない例かも知れませんが、死のうとしても、ある瞬間から別の次元の世界に飛んで、生きていて、何も状況が変わっていないかもしれません。
分からないわけだから、どのような事があるかは否定出来ないでしょう。
つまり、死で意識がなくなるので終わりという考えや、死後は別世界ということ、現世はひとつであるという一般的な考え方(推測であるにも関わらず)が、逸脱(自殺)を生む大きな要因であると僕は思います。

お礼日時:2017/11/14 22:41

有名になり、多くの人の記憶に残すこと、自分の姿を絵や像にすること、


写真を撮ることで、不老不死に近づく事が出来るのかも知れませんね。
  ↑
そういうことだと思います。
人間は必ず死にますから、子供を作り、己の
遺伝子を残そうとします。
人々の記憶に残りたいと頑張ります。
何とかして、永遠、永久を求めるのでしょう。



「死」について考えること
  ↑
何で死があるのだろう、と考えます。

生物学的には、死によって、その種をリセット
するためでしょう。

ワタシは、死を認識出来るから、美があるのだと
考えています。

美と死は表裏の関係にあると思っています。

美は、死にいく人間に神が与えたプレゼントです。

人間が不老不死になったら、美という感覚も
失われると思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

死の理由が種のリセットですか。
面白い考えですね。

リセットとは、どんなものとして捉えていますか。また、リセットするのがどんなものとして捉えているのか、もう少し詳しく教えて頂けると嬉しいです。

死と美が反対というのも、面白い考えですね。
何故この様に感じられたのか、もう少し詳しく教えて頂けると嬉しいです。

お礼日時:2017/11/14 08:08

死とは無です。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

死は無か?と僕もかんがえたのですが、無を自分の中で定義するのが難しく、納得しきれましんでした。

すうすうさんは、無をどの様に捉えていますか?

お礼日時:2017/11/14 06:51

「二度死ぬ」の二度目だと


もちろん、特別な人はおっしゃるように永遠に不老不死のように生きていくことになりますけど
(神道では特別な人は神になります。菅原道眞とか)
一般の人でも
すぐにみんなに忘れ去られる人と
そうでない人がいますね…

「死んだら子孫を見守る」ということで
子孫のほうもご先祖に感謝する
会ったことのないご先祖のために
手を合わせて祈る

そういう家だと、二度目の死は
なかなか来ないことになるんでしょうね
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

有名人だと神になるというのは、神は死なない存在という考え方とも一致しますよね。

また、先祖を大切にする風習の意味も出てきますしね。

宗教観としても日本文化としても、2度死ぬは、受け入れやすいものなのでしょうね。

お礼日時:2017/11/14 06:47

人は二度死ぬ、ってやつでしょうか?


一つ目は肉体の死
二つ目はその存在を知る人、思い出す人がいなくなること

宗教学の質問なのでそういう回答をしますと
いろんな宗教で死について、見解が違うと思います
日本古来のものだと、人は死んだら魂が「あの世」に行く
「あの世」とは地域によって、海の向こうだったり山の向こうだったり天上だったりします
そこで子孫を見守る
という感じですね
私はこれだといいなあと思っています
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

子孫を見守るというのはいいですね。

人は二度死ぬというのは、永六輔さんが言われていたんですね。
実は知らなかったのですが、とてもしっくりと来る捉え方だと思っています。

お礼日時:2017/11/11 16:16

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