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明治維新のときの桂小五郎の活躍について

幕末のときは積極的に活動、活躍したのにも関わらず、明治維新のときは大きな活躍、活動をしていないのはなぜでしょうか?

海外に行ったことはわかっていますがそれ以外でなにか政府に関わっていない気がします。維新の三傑のなかでは影が薄いです。

A 回答 (3件)

明治維新のときは大きな活躍、活動を


していないのはなぜでしょうか?
  ↑
大久保利通との権力闘争に敗れた、という
ことが挙げられます。

また、心の病があったとされ、それが
原因で45歳の若さで亡くなった、ということも
あったからだと思われます。


以下、コピペ

明治政府の設立後にやったこととしては五箇条の御誓文の作成や
廃藩置県政策の断行、岩倉使節団の副使として欧米歴訪など、
新政府の中心メンバーとして相応しい活躍ぶりを発揮しています。

しかし、もともと身体が弱かった木戸は、45歳の若さでその生涯を閉じます。
その死因は、肝臓肥大、腹痛、胸痛だと言われており、その背景には、
新政府内での複雑な争いの中心労を重ね、大酒を飲んで
ストレスを紛らわしていたという木戸の晩年の姿が浮かび上がってきます。

勝ち気で頭もよく、剣術にも優れ社交的な性格であった反面、
生来は病弱で、生真面目な性格でもあったといわれる木戸孝允。

近代日本が生まれる大変革の時代を生きたその人生は、
今の私たちには想像も出来ないほど多くのストレスを
抱えた一生だったのかもしれません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

体が弱かったことははじめて知りました。剣術をやっていたから体が強いかなと思っていました。
真面目過ぎたため寿命を縮めてしまったのかもしれませんね。

お礼日時:2018/05/13 01:46

いろいろやろうとはしているのですが、大久保利通に主導権をとられてしまっていました。



木戸孝允は急進的で、西郷隆盛は保守よりなところもあるけど自分の考えだけではあまり動かない、大久保は現実主義者ですね。
木戸と大久保は方向性は近いものがありましたが、政策のタイミングや段取りは大久保の方がうまかったようです。

大久保に待ったをかけられることが多い木戸でしたが、廃藩置県では三者の考えが合い、うまくいきました。
その後は木戸は政府から一時抜けたり病気になってしったり、関わりが減ってしまいましたね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

大久保の存在が大きすぎたのかもしれませんね。

お礼日時:2018/05/13 01:43

桂 小五郎って改名して「木戸孝允(キドタカヨシ)」に成ってますが、



相当な活躍の痕跡は有りますね、
「廃藩置県」の実現、
岩倉使節団に同行して、充分に見聞を広めて帰国の様ですし、

唯ね、西南戦争時に病没したらしく活躍の期間が短かったのかも知れませんね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

若くして亡くなったからかもしれませんね。

お礼日時:2018/05/13 01:42

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