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新撰組の土方歳三は最終的に陸軍奉行並+αの要職に就きましたが、多くて200人程規模だっただろう新撰組の副長からは、随分のし上がったなという印象があります。
不釣合いと言うと言いすぎだと思いますが、規模が全然違う感じがして…。
元々軍を指導出来るような立場の人間でもなかった気がするのですが、どうして函館でそこまでの重要人物になれたのでしょうか。
元から新撰組自体の地位が高かったのですか?それとも転戦している内に引き連れる人数が増えたり、物凄い功績を残したりしたのでしょうか。あるいはイメージ戦略?
選挙結果がある程度反映された上で榎本武揚に買われたとも見たのですが、その票を得るにしても理由があると思います。
タイトル通り、土方歳三が陸軍奉行並になれた理由を教えて下さい。ご存知の方よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

最大の理由は「他にふさわしい人物がいなかった」に尽きるかと思います。

蝦夷共和国といえば聞こえはいいですが、要は幕府軍や会津藩の敗軍の生き残りの寄せ集めです。

だけど、土方さんの名誉のためにいえば、このときの土方歳三は日本一の野戦指揮官だったと思いますよ。

鳥羽伏見の戦いで土方は新撰組として参戦しますが敗北します。そりゃ命知らずの剣客集団とはいえ、鉄砲にかなうはずはありません。戦後に「やっぱ槍や刀と鉄砲じゃ戦さにもならねえ」という言葉を残しています。
その後近藤勇らとは生き別れて、千葉にいた土方は敗残兵を率いて宇都宮城を占領します。このときに率いていた兵隊は銃で武装していたのですが、土方は既にこの銃兵を見事に指揮しています。
その後、会津から東北各地を転戦するのですが、これらの戦いで土方はみるみるうちに近代兵術というのを自家薬篭中のものにしていきます。

そして転戦の苦労と近藤らの仲間との別れが土方の人間性にも大きな影響を与えたようです。宇都宮での戦いで、土方は逃げようとした兵士をその場で斬り殺しています。これは戦場で士気を保つためにはやむを得ないことなのですが、後に土方は従兵に金を渡し「あの兵士には可哀想なことをした。この金で葬式を出してやってくれ」といっています。
また函館の戦いの前には別の従兵に遺品などを託して土方の実家に届けるように頼みます。従兵は「嫌です。私も一緒に戦って死にます」といいますが、「従わなければ斬り殺す」といわれ、その迫力に圧倒されて命令を受けます。そのときに託されたのがあの有名な洋装の写真ですが、このとき土方はいくら戦ったところで見込みがあるわけではないことを悟っていたと思います。若者をあたら無駄死にさせるのに忍びなかったのではないでしょうか。

また函館の戦いでは土方の指揮した二股口は新政府軍はどうしても突破することはできませんでした。もし土方が二人いたら新政府軍は勝てなかったかもしれませんね・笑。
また函館の戦いではこんな逸話もあったそうです。
激しい戦いで、あるとき新政府軍の兵士の遺体に辱めをした兵士がいたそうです。「いくら敵兵とはいえ遺体に辱めをするとは武士の恥」という意見と「仲間を大勢殺した敵兵だ。このくらいことはやって当然」という意見に分かれて仲間内で一触即発の殺気立った雰囲気(なんせ戦争をしているので)になったそうです。そこに土方が現れて、「咎める者の意見ももっともだし、遺体を傷つけた者の胆力もたいしたものだ」といったら、双方が「土方さんがそういうなら」といって納まったそうです。
函館の戦いのときの旧幕府軍兵士は土方のことを「父のように慕っていた」ということですから、それだけ人望が厚かったということだったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

他に人物が居なかったというのは、やはりなかなかシビアな現実があったようですね。
同時に土方自身にも実際実力が備わっていたようで、言わば現場の叩き上げといった感じでしょうか。
人望もあったようですし、上に立つに相応しいと判断されたということなのでしょうね。
回答どうもありがとうございました。

お礼日時:2013/01/23 22:08

天然理心流・試衛館の主、近藤勇と新撰組全盛期まで寝食を共にした土方歳三は、新撰組としての最期の行動となる甲州勝沼の決戦に臨む、甲陽鎮撫隊と改名した新撰組は、近藤も大久保大和と改名して新政府軍と戦うが敗北し、事実上新撰組は瓦解する、近藤はこの敗北により覇気を無くして西軍に捕縛され、板橋刑場にて斬首される、これを知った土方は一路、斎藤一たちと共に宇都宮の戦いに臨む、この時はすでに永倉新八は近藤とは袂を分かち土方とも距離を置く、宇都宮の戦いで敗れ深手を負った土方は、会津若松の中将松平容保のもとへ、東山温泉で逗留養生して傷を癒した土方は会津を終生地と考える、恐らく土方の胸中は<近藤さん、あんたは薩長の軍門に下ったが俺はやれるところまでやる>と思っていたのではなかろうか、土方は近藤のことを松平容保に知らせると近藤の身柄は無かったが若松の天寧寺に墓を立ててやる、幕府軍最期の決戦場となった蝦夷共和国においては幕府家臣の大鳥圭介の次の陸軍奉行並みになれたのは戦闘能力に長けていたからほかならない、余談ですが斎藤一の墓は会津若松の阿弥陀寺にあります、斎藤が強く望んで会津の地で眠っています。

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こんにちは。



土方歳三は、会津戊辰戦争にも参戦して活躍したが、会津の劣勢を既に悟った藩主・松平容保の依頼で、容保の弟にあたる桑名藩主・松平定敬を始め桑名藩士の警護を任され仙台藩に入り、仙台藩で榎本武揚等と合流して箱館(函館)に向かった功績と箱館戦争の実践でも活躍したことが評価されたと思いますけどね。

要するに、佐幕派の中心的な存在だった松平兄弟からも絶大な信頼を得てたのみならず、箱館戦争での実績でも活躍した優れた指揮官だったから、箱館戦争では単なる新撰組副長ではなかったのです。

(※文中、登場人物の敬称は略させていただきました)
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この回答へのお礼

藩主の覚えが目出度かったというのは結構大きなポイントですね。
更に実際に指揮官として優秀な成績を収めていたようですし、抜擢されるに相応しい実績があったのですね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/01/23 22:12

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