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1. これを 文体論( stylistics )と名づけているのですが 全般的に批判はあ
りますか?

2. 《わたしは わたしである》: 1 = 1

3. 《〈わたしはわたしである〉わたしがわたしする》: 1 x 1 x・・・x1=1
                  
4. 《われがわれに還る》永劫回帰: 1 ^ n = 1

質問者からの補足コメント

  • トランプーキム会談について 別の情報がありました。

    キムジョンウンは 非核化の工程など具体的に明らかにしたいが 周り
    (自分の側近たち)の雑音を封じ込めるには 早急すぎる。ゆえに 包
    括的・抽象的な表現にせざるを得なかった・・・という見方。

    ▲ トランプは「北」に甘い妥協をしてないという推測 --- 八幡 和郎
    6/13(水)
    https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180613 …

    ☆ トランプは それを告げられているからには 知っているのだと。

    だとすると 《決意は堅い》のかも知れない。

    No.46の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/06/13 19:48

A 回答 (49件中41~49件)

(かみよわれを使いたまえ)の気持ちであるとき、振る舞いそのものが世界との調和のように思えるので、これは無作のように思えます。



それでもわたしたちは何かしらを残したい気持ちをもっていて、言葉を編んでいます。


理系的な気持ちでこれを考えてみると、日記がわたしたち各々の(一次データ)であり、もっとも尊重すべきデータに思えます。

二次的、三次的な(加工データ)は、「あの時、あの人が言っていたことは、このような意味だったんだ」というようなものが後から分かる場合がよくあることだと思うので、これは、少し時間や労力を圧縮した、濃縮されたものに思えます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 無作
☆ というのは 無策ではなくて 本有無作(ほんぬむさ)のことですか?

▲  (大辞林) ~~~~~
む さ [1] 【無作】
〘仏〙 因縁によって生じたものではなく,従って生ずることも滅すること
もないこと。現象を超えた真理。無為。 ↔ 有作(うさ)
~~~~~~

☆ 人間の思いや行動は 無作そのままではないでしょうね。言いかえる
と めぐみによって 無作のごとく生きることができる。



★ 一次データ 二次的・三次的データ
☆ わたしの感覚では それらが互いにコンコーダンスのもとに集まると
いうふうに思われます。

その統覚主体は われです。あやまちうる主観としてのわれです。



ちょっと 対立的な応答になりましたか。

お礼日時:2018/05/30 22:01

いえいえ、恐らくあなたの感覚のほうが正しいです。



祈りのまえに記して置くなら、それは俗世のカスを記述しているだけなので、本当は祈りを捧げたときに調和がなっているものと思います。


うまく日記が書けたあとは、随分時間が経ったあとでも、それを読んで、その時の情景がよく思いだされて、このように表現したほうがもっと真意が伝わるかもしれないと、加筆訂正が可能なように思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

そうですか。

いづれにしましても 誰もが試行錯誤の過程を通ることは 間違い
ないところだとは思います。

お礼日時:2018/05/30 18:19

一日が終わり、デスクの灯りをつけ、今日一日のできごとを踏まえて、



三行なり、一ページなりの日記をつけるとき、

我が一日の出来事のコンコーダンスが綴られる。


この日記が終われば、一日の終わりの祈りを捧げるか、屁をこいて眠りに就きます。


このコンコーダンスの意味は、我と世界の調和的一致(あるいは和解)のようなものでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ このコンコーダンスの意味は、我と世界の調和的一致(あるいは和解)
のようなものでしょうか。
☆ すでにその書く時点で 和解が出来ていますか?

それは すごいと思います。

わたしの場合は あとで――ひと月あとや 一年あとに――読み返して
それこそコンコーダンスとして いろいろ考えや思いを 必要ならば 耕
し(田返し) 練り直していました。


いまでも 必要な事項などは メモをしますが 日記形式は だいぶ以前
から書かなくなっています。


われながらそれを解釈するなら かつてはその現在と過去の軌跡とをあら
ためて照らし合わせていたわけですが いまでは その歴史をふまえて
未来へのあゆみとして 照らし合わせようとする恰好です。

人生二段階 あるいは 二毛作といったかたちで もうしばらくすれば
あらたなステージが始まるものと思っています。(飛躍した論理と根拠と
の上に成り立っていますが)。






文体の主体を 樅の木あるいは数として《一》を想定していますが ただ
し書きをするなら その一なる樅の木は どうもエーテルのような空域を
そのまわりにつくっていると言えるかも知れません。

アンテナが張られているといったふうにたとえたほうがよいでしょうか。

お礼日時:2018/05/30 17:17

お久しぶりですが、またブロックtされますかねえ。


いまだに生活の展望が開けず。田舎で人生を無駄にして、
どういうわけか、世間からクレジットかカードの取立てだけを
請求される可哀想な人になっていました。

もう少し、けんこうじょうたい

また聖書の顕教とかやる人生なのでしょうかね。
一円も稼げず、知り合いもできないし、いないし、
バカにされるだけで、意味あったのかな。
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なにか自分の文体にてごころを加えるようなことはあまりよいことではなさそうですね。



なにかに迫られてそれをせざるを得ないとすれば、それは、われに還ることを忘れて、いつのまにか暗闇を歩いていたのだろうと思います。

なんらかの事態にあるときは、過去のものに触れずにおいておいたほうがよさそうですね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

あぁ。そういう反応を持たれましたか。

たしかにわたしは そのような方向性で じつは考えています。

タトへとして クリスマスツリーの樅の木と飾りの問題だと言って
来ています。

われがわれに還るのわれは 樅の木本体であると。これが 数とし
て 《一》ですね。

飾りは 基本的には要らない。という見方です。



カザリには じつは 仕事の成功に与えられた栄誉や名誉もあれば
〔そのような成功・失敗の過程にからまった人間関係としての〕シ
ガラミもあると思います。マイナスのカザリです。

別の言い方をすれば 栄誉とは その基礎として見れば 人間関係
であり 共同作業であり 助け合いによって成り立つ。

そしてそういった〔薄く編成された〕チームワークが かなしいか
な しばしばやがてシガラミとなって 互いをよからぬことへと縛
り付けることもあります。

栄誉が シガラミに成らないためには そのカザリは要らないとい
う原則にさえ成るかと。《われ》は 樅の木本体だけなんだと。


そういった捉え方をしてみています。






諸法(栄誉なるカザリ&シガラミ)皆空。

《空》というのは カザリなる空として現象はしています。

お礼日時:2018/05/26 23:43

過去の日記を読んでみて、成長の過程をみてみるようなものに近いのでしょうか。



わたしは自分が昔書いたものを発見して読んでみたとき、すごく恥ずかしくなりました。
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この回答へのお礼

あぁ。ええ。そういう逆の発見もありますね。

でも それは そのいまの状態・情況がよくなっている証拠でもあり
ますね。



つまり――問題としては―― 過去の言動をおさめた索引を検索し検
証するとき コンコーダンスを勝手に捻じ曲げる場合もあるようです。
U 前監督とか。

《〈わたしがわたしではない〉わたしがわたしする》といったように
わたしの二号がつくられます。文体が ウラオモテに分かれます。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2018/05/26 21:40

聖書コンコーダンスとか、チョーサーコンコーダンスとか、シェークスピアコンコーダンスとかあるみたいです。



Love でコンコーダンスを引いてみて、どんな用法で使用されているかを調べるのに便利なようです。

ひとそれぞれに、使うことばがあり、その用法にも個性がでてくるかもしれません。もし、ナポレオンコンコーダンスがあるなら、真っ先に(不可能)のところを調べてみたいように思います。

これは、単語のコンコーダンスですが、文節のコンコーダンスとかリズム的なコンコーダンスがあったら、だれがどのような、音感を駆使し、リズムをもっているのかもわかったら面白いような気がしました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

わたしは 引用された語句や文の出典・原典を求めるために利用する
ものとして勝手にイメージしていたようです。――重なっていますが。



文体なる過程としては けっきょく軌道修正するため――われがわれ
に還るときのため――過去の振る舞いを検索するといったかたちにな
るかと思います。

アメフト選手のおこなった検索の過程のごとく。

お礼日時:2018/05/26 21:07

コンコーダンスはどこに含まれるのでしょうか。

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この回答へのお礼

★ コンコーダンス
☆ って?

▲ (百科事典マイペディア) 一般に文学作品などの用語索引。
▲ (大辞林 第三版) 聖書や特定の作家の用語索引。
▲ (デジタル大辞泉) 1 一致。調和。2 用語索引。語句索引。
▲ (ブリタニカ国際大百科事典 ) 字義どおりには一致,調和であるが,
字句索引をも意味するようになり,現在では主として聖書語句索引をさす。

☆ あぁ。わたしが 《文体論( stylistics )》と書いたのがいけなかった
みたいですね。ほとんど――言語学などで研究されている――《文体論》と
は関係なく用いようとしてのことでしたから。

表現の主体たるわたしが その表現(≒文)の動態として いかにあるか?
自己表現の過程が 文章のかたちおよび中身として いかに推移するのか?

こういう単純な《文体》の問題として 《わたし》の理論がある。――こう
言おうとしてのことでした。あたらしい別の文体論を形成したい。という魂
胆を 勝手に不用意に出してしまったようです。


☆☆ 4. 《われがわれに還る》永劫回帰: 1 ^ n = 1
☆ このような過程――わが精神の遍歴――において そのときそのときの
考えや行動の歴史は 記憶として索引を成すがごとくファイルされていると
言ってよいかも知れません。

ですから そういった意味では コンコーダンスの用意はできていると言え
る・・・とよいのですが。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2018/05/26 17:52

1.「達意」であれば特に書き方は問わないのがよいと思う。


そして達意という観点からすると
・2.これがすべてなら文章にする意味がない。
・3.4.そう言いたいならそう言え。

一般にこういう文を書く場合
 わたし(という存在)は(主婦としての価値を持つ)わたし(に立脚している)。
という言葉が省略されている。
つまり不完全なのである。
不完全であるゆえに、状況によって達意の場合もあればそうでない場合もある。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ 1. これを 文体論( stylistics )と名づけているのですが 全般的に
批判はありますか?
★ 1.「達意」であれば特に書き方は問わないのがよいと思う。
☆ ん? 《達意》とは:
▲ (デジタル大辞泉) 自分の考えが十分に相手に理解されるように表現する
こと。
▲ (大辞林) 言わんとする事柄を十分にわからせること。
☆ つまり 《自分の考えを伝えるとき 相手に理解されることを第一義とする
なら 〈書き方〉ないし表現のかたちには こだわらなくてよい》といった意味
でしょうか?

つまり 《文体〔論〕》というとき そこには《伝える内容だけではなく その
表現のかたち(書き方)をも問題としている》と受け留めておられる・・・とい
うことですね。

そうですね。話は結論に飛びますが わたしの場合は 文体と言っても おもに
はその表現主体――《われ》――の社会関係における動態ないしその自己表現の
過程に重きを置いています。それは (2)以下に示したささやかな理論の内容
が示しているはずです。

ひと言で言って 《書き方にこだわることはない》とは思います。



★ ~~~~~~
そして達意という観点からすると
・2.これがすべてなら文章にする意味がない。
・3.4.そう言いたいならそう言え。
~~~~~~
☆ よく分からなかったのですが 次のように説明があります。

★ ~~~~~~
一般にこういう文を書く場合
 わたし(という存在)は(主婦としての価値を持つ)わたし(に立脚している)。
という言葉が省略されている。
つまり不完全なのである。
不完全であるゆえに、状況によって達意の場合もあればそうでない場合もある。
~~~~~
☆ これにつきましては こうです。

《わたし》とは わたしと自称して自己表現し 人間関係ないし社会において生活
するヒトなる存在のことです。

お礼日時:2018/05/26 17:28
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