アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

多くの人間にとって神は信じるものであると受け止められておりまする。
それ故神を信じることを信仰などと称しているのでございまする。
しかしながらこれは途方もなく大きな勘違いなのでございまする。
なぜなら神は信じるものではないのでございまする。
神は信じるものではなく、感じるものなのでございまする。
この勘違いは人間精神において夜の東西を問わず古来から永々と続いている大いなる勘違いなのでございまする。
世に蔓延る宗教などが生まれてきたのも実はこの勘違い故なのでございまする。
人間は今なお大変な勘違いを続けているのでございまする。
神は信じるものではなく、感じるものなのでございまする。
にもかかわらず今なお多くの人々が神を信じよーと願っている。
ほんとーに愚かなことではございませぬか?

A 回答 (8件)

間違ってるかもしれないが、愚かではない。

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この回答へのお礼

間違ってことはきほん愚か。

お礼日時:2018/07/12 08:28

神とは感じるもの、という事を知らない人も多いのでしょうし



希にそれを知ってる人がいても神を感じながら他の人の信仰とは違う事を感じてたりとか

ここは人の道さんがアルケーの神を教えて回るしかないでしょう。

なかなかピンとくる人は少なくても。
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人間は実在しないモノを存在する、と


信じることが出来る能力をもっています。

人間に、この能力があるので、国家が成立し
単なる紙切れが、貨幣としての意味を持つことが
出来るのです。

だから神を信じることが出来るわけです。

それなのに、感じることが正しい、となったら
どうでしょう。

国家や貨幣が存在すると信じるのではなく、
感じるのでは、その機能を果たすことが
出来ません。
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この回答へのお礼

貨幣は存在しますよ。
とりあえず財布の中に千円札が1枚入ってたらそれで十分感じることができます。

お礼日時:2018/07/12 20:54

なんか新しいボーか炉意図かボイス路胃が


発売されたと云うことで、名前がなんだろうと思ったら、
また当て字で、読めないよと
itmediaを読んでしまった。経は韓国の日。
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1. まづ 《超経験(非経験の場)》と経験世界とを分けてください。



【非経験の場】:カミ
________________________(絶対のへだたり)
【経験世界】:ヒト:自然本性=身と心

  【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト 
  【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス




2. 絶対のへだたりを超えて 神の声(またはチカラ)がヒトたるわれにやって
来る。神にそれだけのチカラがある〔という想定である〕。

3. それは 《心の明け(=信じる)》としての窓をとおしてである。

4. そこでは 《自然本性 プラス・アルファ 》としての霊我たる【 +α 】(つ
まりアートマンまたはブッダターまたはスピリトゥス)がやどると想定されている。

(これを アルケーと呼んでもよろしい。表現は まったく自由です)。


5. (1)の図は 想定の限りで 次のようになる。

【非経験の場】:カミ
___________________________(絶対のへだたり)
【経験世界】:ヒト

   【 +α(霊我)】:信じる:非思考の庭:クレド(ヒラメキ・良心)
   -------------------------------
   【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト 
   【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス





6. 前項の図解を ウゴキを交えてさらにくわしく示します。

〇 《かみ と ひとたるわれ のカカハリ》についての図解  

超自然なるカミ:【非知なるナゾ】非経験の場:真理・生命・道
  ↓       ↑             ↓   ↓
____________________________________
自然本性たるヒト: ↑             ↓   ↓
【 +α(霊我)】:信じる:非思考の庭:クレド:ヒラメキ・良心
-------------------------------------
 [経験世界]                  ↓   ↓
【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト: 直観   ↓
【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス:ヤマシサ反応(恥)




7. 《信じるという動態(非思考の庭)》において想定したヒラメキや良心は
かんたんに捉えて《考える》にも《感じる》にも 通じていると見られます。

8. したがって 《きのうおれは 神を見たぞ》とか《いや わたしは神のこ
とばを聞いたんだ》とかあるいは《わたくしは じつは いつも神を――霊とし
てのように――感じています》といったそれぞれの主観が その自己表現として
世に現われてもおかしくありません。

9. 感性の原野に神が現われたというそれぞれの自己表現は 《特殊絶対性》
として 捉えられます。主観の内部における〔のみの〕絶対性だという意味です。


10. 信教・良心の自由ゆえに そこまでの人間主観は とうとばなければな
りません。もしくは 《信じる》が《非思考――無条件ないし無根拠――》だと
いうことが 《信教・良心の自由》そのものを表わし 延いては 《あらゆる思
想・表現の自由》そのことを 物語っていると考えられます。


11. 《信じる》とは 《非知なるナゾを無条件に無根拠においてわが心に受
け容れること》です。
★ 勘違い
☆ ぢゃないんだよ。
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「大いなる勘違い」は、あなたでしょう。

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感性の問題となれば、感じられない人も存在しますが、信用の問題となれば、信じられない人は少ないので、神のような概念を基礎とする宗教では感じるよりも、信じることに重点を置きます。


精霊や祖先といった概念を基礎とする宗教なら、感性が重要視されるでしょう。

神をどうやって感じているのでしょうか。
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素晴らしい山や神社見たときは何か神々しいものを感じますけどね。

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