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『俳諧の点者』の表現はある短編の中にを私が読んで、意味が理解できなかったのです。「点者」は、私の辞書によると、俳句を批評している者という意味があります。でも、「俳諧」はもっと一般的な意味があるみたいで、「はいが」も「俳句」も「せんりゅう」も「俳諧」に含まれています。それとも、『俳諧の点者』の「俳諧」は「俗悪なれんが」のスタイルですか。それでは、『俳諧の点者』はこの「俗悪なれんが」で誰かの俳句を批評している者ですか。


『俳諧の点者』は下の文章に出ています:

『十五の年から茶屋酒の味をおぼえて、二十五の前厄には、金瓶大黒の若太夫と心中沙汰になった事もあると云うが、それから間もなく親ゆずりの玄米問屋の身上をすってしまい、器用貧乏と、持ったが病の酒癖とで、歌沢の師匠もやれば俳諧の点者もやると云う具合に、それからそれへと微禄びろくして一しきりは三度のものにも事をかく始末だったが、それでも幸に、僅な縁つづきから今ではこの料理屋に引きとられて、楽隠居の身の上になっている。』

A 回答 (2件)

「俳諧」は諧謔・ダジャレ・卑猥という意味です。

それである意味「俗悪な」ということにもなります。文学史的には貴族的な「連歌」に「俳諧」の要素を取り入れて庶民の特に遊郭での言葉遊びとしたものが「俳諧の連歌」と呼ばれています。龍之介の作品中のそれは、この意味です。江戸庶民の遊びは今ほど多様では無く、金銭の余裕がある者は主として遊郭で遊びますが、この際時間を持て余さないよう、様々な芸事が考案され、これに通じている者は「通・粋」、いない者は「野暮」ということになりました。接待側の女性は勿論ですが客のランキングも瓦版等に摺られ、「通・粋」の言動は実況の形で出版されもしました。こういう世相の中で、遊び方の先生、芸事の師匠といった職業、「歌沢の師匠もやれば俳諧の点者」もやって生活の糧とする者も登場しました。「歌沢・川柳」などはお調べになれば、その創始者や作風などはすぐに分かります。

俳句は連歌の初句(五七五)の重要性を説き、そこに意識して芸術性を求めたのは芭蕉ですが、完全に独立させ世界最短の芸術形式五七五として確立したのは正岡子規で、「俳句」という呼び名も彼によるものです。

芸術かそれとも俗悪か、といった議論はいつも存在します。
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平安時代の「歌合せ」の頃から「点者」は存在します。

「連歌」「(俳諧)連歌」「(俳諧)連句」「川柳(雑俳)」などいろいろな文芸作品を評価し、優劣の判断を下す人です。古くは名誉職でしたが、江戸期には金を稼ぐ人も現れました。当時は師匠と呼ばれました。芭蕉などはその中で広く知られた人でした。下記に見られるように、芭蕉は金稼ぎを戒めていますが、「奥の細道」の旅をつづけらえたのも,宗匠としての地位があったかです。

点者てんじゃ
連歌、俳諧(はいかい)、雑俳などで、作品の優劣を評価し点をつける者。宗匠(そうしょう)。点には、句頭から斜線一筋を引く平点(ひらてん)(一点)と、二重を引く長点(ちょうてん)(二点)の2種があったが、元禄(げんろく)(1688~1704)以後しだいに点印などを用いて多様化し、其角(きかく)の「半面美人(はんめんびじん)」の点印など五十点と最高のものであった。点者になるには一定の修行が必要で、芭蕉(ばしょう)時代では宗匠立机(りっき)の万句興行を行って初めて点者になれた。のちにはその方式も緩み、元禄以後は職業化し、作品に点をつけて得る点料や、前句付(まえくづけ)の選句料などの収入で生活する者が多くなった。また金品を賭(か)けて争う点取俳諧の流行に伴い、点者の堕落が著しく、芭蕉(ばしょう)は「点者をすべきよりは乞食をせよ」と門人に戒めている。[雲英末雄]

"点者", 日本大百科全書(ニッポニカ)より
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