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1. 《ナゾ》ではないものについては 信じるとは言わない。

2. 経験しうる何かについては 感じるまたは考えると言う。


3. 《無条件で》でなければ 何かを考えていることになる。


4. 《無根拠にて》は 《無根拠を〔受け容れる〕》と言ってもよい。
《ナゾ》なのだから。


5. 《受け容れる》とき 何かのシルシを媒介とする。

5-1. 一般に言葉である。

5-2. 一般に《かみ》である。

5-3. ただし《無根拠なるナゾ》なのだから 具体的に《神は有る》
と言ってもあるいは《神は無い》と言っても どちらも互いに対等である。

5-4. 《広義の神(つまり 普遍神)を信じる》というとき――その
ように抽象的な呼び方よりも人は 具象化を好み―― 《〔有る〕神》か
《無い神》かいづれかの言葉で呼ぶようである。

5-5. いづれかひとつをえらび 自分の具体的な信仰のかたちとして
いる。



6. 《信じる》は 《無条件・無根拠》において成るからには 《非思
考》である。=(2)項。

7. 《無神論》も 《非思考》として成っている信仰である。そう規定
されるのが嫌なら 《神は無い》を論証して欲しい。



☆ 以上を問います。不備な点について さらになお妥当なところをおし
えてください。

質問者からの補足コメント

  • №2お礼欄のつづき

    ★ 「思考の放棄」
    ☆ おっしゃっていることは 分かるように思いますが 要は《思
    考を おこなうも放棄する》も どちらも自分の考えと意志によっ
    て行動しています。――《無条件・無根拠》ではなくなります。


    ★ 何十年も生きてきて、人間の想像力、創造力の豊かさ、人間の
    言動の虚実の実態、自分の体験などの蓄積から、体得してきたこと
    を根拠とした判断で、実感です。
    ☆ それは――否定するのではなく―― 経験的な事象についての
    知見でありその確かさがなお深められることだと思います。つまり
    《信じる》とは区別される《考える》の領域だと思われるのです。

    ★ 存在を実感していないものを人に言われて心底、信じようとし
    たことはあります。
    ☆ それも信じるではなく いったいどういうものかと考えをめぐ
    らしたということだと思います。根拠を探究したということでは?

    つづく

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/09/12 10:36
  • №2お礼欄のつづき(2)

    ☆☆>《受け容れる》とき・・・のシルシ
    ★ どういうことを言っているのか、よく分かりません。
    ☆ ああ ごらん いい月だと言ったとき 言われた人は まさか
    指し示すために上げた手の指を見るおろかなことはしません。指の
    先にある空の何かを見ます。

    《信じる》ときにも 指つまりシルシつまり一般に神という言葉を
    用います。用いますが そのシルシを見つめてはいけないわけです。

    そしてこの場合には その先に月のような物体も何もまったくない
    わけです。

    ぢゃあそれは何なのか? と考えてもいいのですが その考えとは
    別に 考えとわが意志を超えて 理屈抜きでわが心に受け容れる。
    これが 信じるだと思います。

    能天気みたいで 阿呆っぽく見えるかも知れません。でも それは
    現代人(近代人)が あまりにもソフィスティケートし過ぎた結果
    ゆえだとも考えられます。

      補足日時:2018/09/12 10:40

A 回答 (9件)

「信じる」には人が必要


「人」は者である
「信じる者」を合わせると
「儲かる」である
よって信者を集め金を搾取する手段の「信じさせる」ことにより「信じる」と錯覚させているかと…
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「信じる」には人が必要
☆ 信じるのは 人〔がその意志によっておこなうもの〕である。
――と表現するのがよいでしょう。

★ 「人」は者である
☆ はい。そのようにも表現します。

★ 「信じる者」を合わせると
「儲かる」である
☆ 偶然です。



★ よって信者を集め金を搾取する手段の「信じさせる」ことにより「信じる」
と錯覚させているかと…
☆ 信じる人が そのヒラメキなどから神についての何らかの認識を得るこ
とがあります。

これを 宇宙に関する見方としてやあるいは人間関係における倫理のあり方
としての命題(判断)にまとめ それらをオシヘとすることがあります。

つまり このオシヘを中心にして世界観を作り上げ これを人びとに伝え説
こうとする動きが出て来ます。

つまりすでに個人の信仰から離れた宗教ですが このとき もしそのオシヘ
をこそ信じなさいと説いたとしたら それは 明らかに神を信じるのではな
くなります
宗教と信仰とは 似ても似つかないふたつの別の物です。

つまり その宗教家は おのれの自己満足のために――そしてそれは 人を
支配する快楽を得るためにか あるいは 金儲けのためにかの二つの要素が
あると考えられますが―― 《活動する》ことになります。

このシュウキョウにだまされる側も かんばしくありません。

お礼日時:2018/09/17 05:57

一神教マルクス主義シンクレティズムの調子はどうですか?世界同時革命まで遠そうですね。

布教お疲れ様です。ナゾの何ものかを自分の心に受け入れるのに、《自我》は自分の心に受け入れてないみたいですね。つまり、質問者はナゾの何ものかは信じるのに、《自我》は信じないです。なんでですか?Q:《自我》って何ですか? 《われ》のことでないなら まぼろしではないのですか?https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10720582.htmlジークムント フロイト著で渡辺 哲夫訳 の『モーセと一神教 』(ちくま学芸文庫)1939年の論文の日本語訳です。p163より
 エスはより古いものであり、自我は、エスという樹木が外的世
 界の影響力を受けた結果発達してくる樹皮のようなものなのだ
 。
ところで一般的には神の話なのに、仏教徒の親鸞や、指月の法という禅の話が突然出てくるのはどうしてですか?神があるとしてさらに普遍神があるとすると、同様に普遍普遍神があるだろうし、普遍普遍無い神もあるかもしれないし、神の神の神があるかもしれないし、絶対っていっても絶対の絶対?とか絶対の絶対の……と思うじゃん?https://twitter.com/yp_ui/status/583608829524312 …言葉の上を滑っていってどこにもたどり着かないし、妄信っぽい感じ強みです。その《無限》軽く-3で割ってみてはどうか?シルシってザビエルカットやスキンヘッドはどうですか?不信感の元は論理の弱さと歴史的経緯の薄さと宗教的、学問的言説のまぜこぜと言語の無理解の4点が原因ではないでしょうか?



織部さんこんばんは。
私は揶揄ったを「やゆった」と読んで訝しんで楽しみました。自分の無知を知るのはツラたんたか楽しいです。考えると信じるのあちらを立てればこちらが立たず関係を迫られたのに対して、考えてから信じるとし、一神教は契約が間にあって、考えて、契約して、帰依するという指摘が良かったです。何を、どのくらい、どのように信じる、おなじものを他の人がどのくらい、どのように信じてるか、加えて歴史的経緯で、危なさを考察するとの指摘も良かったです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 一神教マルクス主義シンクレティズムの調子はどうですか?
☆ 何と何とが混淆しているのですか? それなのに《一神教》であると?
マルクス主義が一神教であり得るとしても どうしてシンクレティズムに
なるのか?

★ 世界同時革命まで遠そうですね。布教お疲れ様です。
☆ そのうちどんでん返しが起きます。

★ ナゾの何ものかを自分の心に受け入れるのに、《自我》は自分の心に
受け入れてないみたいですね。・・・なんでですか?
☆ 自我などは まぼろしだと言っています。

★ フロイト著の『モーセと一神教 』p163より
 エスはより古いものであり、自我は、エスという樹木が外的世
 界の影響力を受けた結果発達してくる樹皮のようなものなのだ。
☆ フロイトは時代遅れです。エスとは 《あれ》という概念です。
自己形成の結果発達してくるのは 自然本性にもとづくわれであり 自己
です。


★ ところで一般的には神の話なのに、仏教徒の親鸞や、指月の法という
禅の話が突然出てくるのはどうしてですか?
☆ あたまを柔軟にしてください。

★ 神があるとしてさらに普遍神があるとすると、同様に普遍普遍神があ
るだろうし、・・・
☆ 《絶対性》が何であるかをまなんでください。

★ https://twitter.com/yp_ui/status/583608829524312
☆ エラーが出ます。

★ 言葉の上を滑っていってどこにもたどり着かないし、妄信っぽい感じ
強みです。
☆ 意味不明です。

★ その《無限》軽く-3で割ってみてはどうか?
☆ どの数で割っても 同じことです。

★ シルシってザビエルカットやスキンヘッドはどうですか?
☆ どういう意味ですか?

★ 不信感の元は論理の弱さと歴史的経緯の薄さと宗教的、学問的言説の
まぜこぜと言語の無理解の4点が原因ではないでしょうか?
☆ 《宗教的、学問的言説のまぜこぜ》は合っています。ほかの三点は例
証してください。

お礼日時:2018/09/16 22:54

>そういう思いの先人が身のまわりにすでにいるならなおさらのこと たとえいなかったとしても 安全ではないけれど信じようというようなことではないでしょうね。


――このようにご見解を受け取るべきだったでしょうか。

正気の沙汰なら、「安全ではないけれど信じよう」ということは、まずありません。
宗教団体に属せず、ひとりで何かを信じる分には、自分の想念の中にあるものなら、自分のコントロールの域内にあるものなら、安全なことを、とくに考えずとも当然のこととして分かるので、私でも、故人が見守ってくれていることにして、気休めにすることはあります。意気投合しても絶対に会えない人に、あの世で合いましょうと言って別れてきたことも2,3。べつに普段、なにも信心はしていません。ナゾなものは信じていません。

>☆ 《創作物》という表現〔だけ〕が ふさわしくないと思います。

それは、ふさわしいのだ、という、たとえ、あなたにとっては”仮定”であっても、これを前提にして”考えてみる”のでなければ比較になりません。

なぜなら、創作物でないとする建前自体が、すでに神は存在すると断定したものだからです。

この壁が越えられないということは、あなたはただ、真実を受け入れることを拒んでいるのです。

仏陀が悟ったのはなんだったか。実話かどうかは知りませんが、「あるがままがある」ということだと聞いています。「無」ということに並行して、「あるがままがある」以上には何もないのです。それを悟ることを仏陀は人々に伝えたかった。こう考えることで、納得し、悟りの境地を分けてもらって光が差し、迷わずに、現実の問題に立ち向かっていけるのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ナゾなものは信じていません。
☆ 考えても分かるか分からないかが分からないナゾ――《非知》なる神と
言いますが――については 無条件に(なぜなら 考えようがない)わが心
に受け容れるしか 扱いようがありません。

ただし 受け容れないという処理があり得ます。それは 《そのナゾがとに
かくわが心にもおとづれたと認めた上で 受け容れない・信じない・つまり 
信じないと受け留めておく》というのが その中身であるはずです。

つまりこれは・これが 《無い神を信じる》という態度だと捉えます。《有
る神を信じる》と互いに同等な神論なのだと見ます。そうでなければ 《ナ
ゾ》でなくなります。




★ なぜなら、創作物でないとする建前自体が、すでに神は存在すると断定
したものだからです。
☆ 微妙ですが 違った見方があり得ます。

(あ) 神が人間の創作物でないとすることは 《神を人間がつくったか作
らなかったかの認識可能性を超えている》という場合をふくみます。

(い) 超えていなければ 創作物であるか否かの答えが ふつうは 出ま
す。出ないときは 《不可知》として出ます。

(う) 言いかえると 《神は存在するとも存在しないとも断定できない》
というのが 妥当な判断だと思われます。

(え) したがって 《普遍神》という抽象的な呼び名ではなく具体的な捉
え方として 《有る神》派と《無い神》派とに自由に(良心・信教の自由に
おいて)分かれる。


☆ シュウキョウの人たちの中には 《神は存在する》としかみとめない場
合があるかも知れませんが 哲学は それは間違いだと言います。


有神論と無神論とが――ともに信仰のかたちとして――あり得るという命題
が どうしても成り立ちます。:
★☆ この壁が越えられないということは、あなたはただ、真実を受け入れ
ることを拒んでいるのです。
☆ と思いますよ。


《無条件・無根拠》ということは:
★ 「無」ということに並行して、「あるがままがある」以上には何もない
のです。
☆ それが 有る神と無い神とのふたつの信仰のかたちをふくみ包むものと
思っています。《無限》とは そういう中身を持ちましょう。

お礼日時:2018/09/16 12:34

>神を受け容れるに当たって:


>★ 危ないかどうか分からなくても信じられるというのは、安全だと思っているからです。
>先人がいて大丈夫だと思えるからです。
>もし少しでも《安全だと思えた》から受け容れたのだとすれば それは
《考える(また感じる)》であって 信じるではありません。条件をつけ
根拠を捉えて 受け容れています。

べつに「思う」は意識的に考えることではありません。先人も、自分の世代もまわりがみんなやっていて、平気な顔をしている。考えることなく、考える必要を知らず、大丈夫だと思ってしまっているのです。

これが、物心つく前に、育ての親や身近な大人たちにすでに、そういう環境にされていたら、考える間もなくすでにそういう環境にいるのですから、何も考える必要がありません。考える、機会がまったく与えられていません。

そういう環境にない場合、自分の意志で信心を始める場合、これも、社会がすでにこの有様ですから、神様自体は、危ないものだと思う人はいませんが、それを理由に集まる人の集団が、危ないかどうかを見極めます。これなしに、個人で信じる際も、なにも危害は及ばないことを、社会を通じて知っています。


>★ 最初の人はどうして、安全だと思ったのでしょう。自分や人の”創作物だ”と分かっていれば、そしてそれが、気心知れて、信用できる、信じあっている相手との了解から、身の回りに起きる雷とか、地震とか、山火事とか、死とか、わけの分からない恐ろしい現象への恐怖から、少なくとも、精神を守るためと理解しあった上でなら、絶対の安全が保障されています。
>☆ とすれば そのような心づもりにおいて 神を利用しています。神を受け容れるのは おのれの利害関係に発しています。そういう人間の知恵でありたくらみです。そのために神を人間がつくったことになります。

最初に考え出した人たちにとって、自分の創作物を利用するとか、冒涜になるとか、そんな危惧をかける必要がありません。それは、最初の人たちが、人に伝え広めるために脚色したかもしれませんが、後々の人たちが飾り付けていったことも考えられます。

実際、シッダールタやキリストや、偉人さんたち自らが、自分の像をつくって、拝みなさいなどと、言うはずがありません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★★ 危ないかどうか分からなくても信じられるというのは、安全だと
思っているからです。
☆ 神を受け容れる瞬間を別として あとで振り返ってみたとき 安全
だと思っていたか? とかあるいは 信じてもよいと思っていたか?
と問うならば それは 安全だ・よいはずだと思ったと答えるでしょう。

そういう思いの先人が身のまわりにすでにいるならなおさらのこと た
とえいなかったとしても 安全ではないけれど信じようというようなこ
とではないでしょうね。

――このようにご見解を受け取るべきだったでしょうか。





★★ 最初の人は・・・自分や人の”創作物だ”と分かっていれば・・
★ 最初に考え出した人たちにとって、自分の創作物を利用するとか、
☆ 《創作物》という表現〔だけ〕が ふさわしくないと思います。

ヒラメキは 人間の意志によって得られるものか? とかあるいは
よろしくないことを想ったりそれを実行しようと考えたりするとき顔
を赤らめ胸の動悸は高鳴り冷や汗さえ出ますがそのヤマシサ反応は 
われが自分でそうしようと意志してそう成るのか? という問い。

つまり 直観や良心の――感覚をつうじての――恥ぢ反応は 人間の
創作物か?

そうではないと考えます。それと同じように 神の使いのおとづれも
或る日どこかわれの知らぬところから――あたかも夜中に盗人が忍び
入るように―― わが心にやって来ると捉えます。

アブラハムという人には 或る日《故郷を去って行け》という言葉を
ともなって訪れがあったと言います。その神を受け容れつつ言葉にも
従ったと。行き先はまだ告げられないまま。


あるいは 神は《絶対性》や《無限》という概念で規定されますが
無限とは 二で割っても三で割ってもその商はやはり元の無限のまま
です。こういうナゾの何かは 人間の創作物でしょうか?
つまり 発見したということではないかと。

神について それは善だとか愛だとかといろいろ属性を考えたりする
のは 人間のおこなう忖度であり 思考や想像の産物です。そのよう
な言葉やオシヘが 神そのものではないのも 当然です。

お礼日時:2018/09/16 05:14

>☆☆> わづかに窓をノックする音が聞こえたというとき これを開きその何ものかを中へ受け容れるだけです。

相手が何ものなのかを詮索することもしません。
★ それはもう「妄信」というより無意識みたいですね。なんだか危なくないですか。「無」の境地でしょうか。
>☆ 危ないか危なくないかが 人間には分からないのです。世の中のものごとを超えています。

危ないかどうか分からなくても信じられるというのは、安全だと思っているからです。
先人がいて大丈夫だと思えるからです。

最初の人はどうして、安全だと思ったのでしょう。
自分や人の”創作物だ”と分かっていれば、そしてそれが、気心知れて、信用できる、信じあっている相手との了解から、身の回りに起きる雷とか、地震とか、山火事とか、死とか、わけの分からない恐ろしい現象への恐怖から、少なくとも、精神を守るためと理解しあった上でなら、絶対の安全が保障されています。

>★ そうですね、縛り合いを作るのは人間です。
>☆ 無条件・無根拠のところへ あとからでも 自分の思うような条件をつけ 根拠を確かめたくなるのだと思います。人間は 心配症でしょうか。

心配性なら、危ないかどうか分からないもののために、窓を開けません。でも、開けてしまった後に、あ、やっぱり、ちょっと、待って、と不安になったりするのは分かるような気がします。でも、ここで私が念頭にあった「縛り合い」は人間同士がすることです。信心とは関係なく。人間同士のコミュニティには縛り合いが生まれやすいです。分かっている人はできるだけこれを避けようと配慮しますが、そういう人ばかりではないのと同時に、それを知ってなお、助け合いの精神で寄り集まるのが、宗教の一つの機能だと、聞きますし、納得できます。そういう集まりが地域に必要です。町内会の方が健全な在り方だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


神を受け容れるに当たって:
★ 危ないかどうか分からなくても信じられるというのは、安全だと思っ
ているからです。
先人がいて大丈夫だと思えるからです。
☆ ううーん。微妙ですが・そしてげんみつに言うとすると たぶん違う
と思います。

もし少しでも《安全だと思えた》から受け容れたのだとすれば それは
《考える(また感じる)》であって 信じるではありません。条件をつけ
根拠を捉えて 受け容れています。


★ 最初の人はどうして、安全だと思ったのでしょう。
自分や人の”創作物だ”と分かっていれば、そしてそれが、気心知れて、信
用できる、信じあっている相手との了解から、身の回りに起きる雷とか、
地震とか、山火事とか、死とか、わけの分からない恐ろしい現象への恐怖
から、少なくとも、精神を守るためと理解しあった上でなら、絶対の安全
が保障されています。
☆ とすれば そのような心づもりにおいて 神を利用しています。神を
受け容れるのは おのれの利害関係に発しています。そういう人間の知恵
でありたくらみです。そのために神を人間がつくったことになります。



★ 心配性なら、危ないかどうか分からないもののために、窓を開けませ
ん。
☆ とにもかくにも 心の動きや頭の回転を超えたところで 窓を開ける
のが 信じるだと思います。さもなければ 一時的・その場的な心の動き
としての心理の問題になります。

有限で相対的で移ろいゆかざるを得ないこの人間なる存在にそなわった能
力 それとしての知性や知恵の枠内に 神がいる・・・ことになりません
か?

▲ (親鸞) 義無きを以って義とす
☆ が 信仰であると言っています。やはり あぶないですか?


★ でも、ここで私が念頭にあった「縛り合い」は人間同士がすることで
す。
☆ クリスマスツリーのカザリが なお人間どうしの血縁や地縁そしてま
たもろもろの貸し借り関係において シガラミとなった場合ですね。

★ ・・・それを知ってなお、助け合いの精神で寄り集まるのが、宗教の
一つの機能だと、聞きますし、納得できます。そういう集まりが地域に必
要です。町内会・・・
☆ 《ひとり》なるわれが シュウキョウや助け合いのネットワークを超
えて 得体の知れない神のもとにそれでも自由人となるというのが 信じ
るです。

お礼日時:2018/09/15 06:41

>端的に言えば 《無償》も――《無》が非思考に似ていますが―― 《見返りを求めない》という思考と意志(決意)をともなっているのではないですか?



ですね。「無償の愛」は(決意は比較的軽くできたとしても)これを貫くには、相当の忍耐を必要とします。意志と思考が必要ですね。
似ていると思ったのは「無条件」「無根拠」が同じなことですが、立場というか存在意味に違いがありました。

>神は 受けれいてくれと言っているわけではありません。

これですね。


>信じるは まったくの受け身です。わづかに窓をノックする音が聞こえたというとき これを開きその何ものかを中へ受け容れるだけです。相手が何ものなのかを詮索することもしません。
>《盲信》に近い或る種の《賭け》でしょうね。

それはもう「妄信」というより無意識みたいですね。なんだか危なくないですか。「無」の境地でしょうか。

>考えるのは 信じる行為とは別です。

はい。考えて調べて納得して、そして、信じる。別の行為です。

>何ものかが分からないのに それによって:
>★ 縛られ
>☆ ることはありません。あり得ません。考えるを差し挟むと 自縛するのかも知れません。

そうですね、縛り合いを作るのは人間です。

>《信じる》のは ただシルシをつうじて何かナゾを心の中へと受け容れるだけです。あるいは 心を――心の窓を――開いただけかも知れません。

シルシは契約だろうと思います。なんらかの思考なしに、シルシを持つに至らないです。
ただ、物心つく前に保護者が代わって、あるいは先祖代々そういう家系という場合、たしかに、なにも考えることもなく「そういうもの」となってしまっていて、考えることもなく、すでにシルシがあったりもするでしょう。
けれども、そうでなければ、逆に、考えないと、存在し得ないです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆> 端的に言えば 《無償》も・・・

★ ですね。「無償の愛」は(・・・)これを貫くには、相当の忍耐を必
要とします。意志と思考が必要ですね。
似ていると思ったのは「無条件」「無根拠」が同じなことですが、立場と
いうか存在意味に違いがありました。
☆ ありがとうございます。

☆☆ > 神は 受け容れてくれと言っているわけではありません。
★☆ これですね。


☆☆> 信じるは まったくの受け身です。・・・
> 《盲信》に近い或る種の《賭け》でしょうね。
★ それはもう「妄信」というより無意識みたいですね。なんだか危なく
ないですか。「無」の境地でしょうか。
☆ 危ないか危なくないかが 人間には分からないのです。世の中のもの
ごとを超えています。

☆☆> 考えるのは 信じる行為とは別です。
★ はい。考えて調べて納得して、そして、信じる。別の行為です。
☆ ええ。しかも 何かを考えているとき 《非思考の庭》とも言うべき
わが存在のどこかなる場では 《信じている》ことが起き得ています。


☆☆>★ 縛られ
>☆ ることはありません。・・・
★ そうですね、縛り合いを作るのは人間です。
☆ 無条件・無根拠のところへ あとからでも 自分の思うような条件を
つけ 根拠を確かめたくなるのだと思います。人間は 心配症でしょうか。

☆☆> 《信じる》のは ただシルシをつうじて・・・
★ シルシは契約だろうと思います。
☆ ただ それだと 相手の神を擬人化したあとの出来事です。

★ なんらかの思考なしに、シルシを持つに至らないです。
☆ けっきょく人類史においてどの民族でも《かみ》という言葉を持つに
到っています。

そして では ヒトが最初に《かみ》という言葉を持ったのは どのよう
にしてか? という問いに代わって行きます。次のようにおっしゃるとお
りです。

★ ただ、・・・先祖代々そういう家系という場合、たしかに、なにも考
えることもなく「そういうもの」となってしまっていて、考えることもな
く、すでにシルシがあったりもするでしょう。
けれども、そうでなければ、逆に、考えないと、存在し得ないです。
☆ 《考えた》はずですがそれは 《想定》という方法ではないかと。
想定(仮説法: abduction )なら 思考を超えています。

お礼日時:2018/09/14 11:21

>《無根拠を受け容れる》ことは 思考に非ずつまり非思考ですから それによって ひとは思考を放棄していません。

非思考と思考(また知覚)とが 両立しています。

とおっしゃっていたので、その姿勢は「無償の愛」にとてもよく似ていると思いました。考えてはいるけれども、「無条件に」「無根拠に」信じるのですよね。たいていの宗教に所属する人たちの姿勢はこういうものなんだろうと、想像しています。半分はおつきあいなんです。町内会みたいな、協力し合う団体という在り方は悪いことじゃないですけど、縛られて大変な面もあるだろうと思います。

でも、考えると違うと仰るのでしたら「妄信」です。実際、信心してなくても「妄信」状態の人がいくらでもいるのが現実だと思います。

>帰依は もしかすると《人間の側から・われの考えと意志とによってナゾの何ものかに寄り添って行く》といった意味がありますか?

「帰依」するということは〈契約〉を結ぶのですよね?よきにつけ悪しきにつけ、何があっても、一緒に参ります、と、結婚にも共通するものがありますね。

>《無条件で・・・受け容れる》というとき 何の考えも無しに(と言ってもさんざん考えたあとにであるのが ふつうだとも思われますが) 

契約前に、納得や決心するだけの思考があるわけですね。ない場合は初めっから「妄信」です。逃げかもしれないし、強制かもしれません。

「帰依」した後「妄信」になる場合もあるでしょうね。それで身が安全なら、大変、楽そうですね。

でも、《信じる》ということ自体は、信心や「妄信」だけでなく、俗世にいくらでもある、考えたうえで、納得して信じる、というのも含まれるはずです。もしかしたら、それは「信じて買う」とか「信じています」とかであって、「信じる」という形にはならないから別だと言うことでしたら、この動詞の使われ方の可能性をそこまで確信できるほど知りません(「信じる」と言ったら信心のことでした?…私はたまに完璧に忘れている当り前な日本語がないとも限らず、あまりその辺、自信がありません…><)。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ >非思考と思考(また知覚)とが 両立しています。
★ とおっしゃっていたので、その姿勢は「無償の愛」にとてもよく似て
いると思いました。
☆ 分からず屋だとよく言われますがなお微妙だと思います。

端的に言えば 《無償》も――《無》が非思考に似ていますが―― 《見
返りを求めない》という思考と意志(決意)をともなっているのではない
ですか?

★ 考えてはいるけれども、「無条件に」「無根拠に」信じるのですよね。
☆ げんみつに行きたいと思います。

《信じる》のは ただシルシをつうじて何かナゾを心の中へと受け容れる
だけです。あるいは 心を――心の窓を――開いただけかも知れません。

何かの思念だとかイメージを伴なっていることはないわけです。

信じるは まったくの受け身です。わづかに窓をノックする音が聞こえた
というとき これを開きその何ものかを中へ受け容れるだけです。相手が
何ものなのかを詮索することもしません。
(ひょっとしたら そのノックの音は 神の使いの訪れかといったヒラメ
キはあるかも知れません)。

考えるのは 信じる行為とは別です。

何ものかが分からないのに それによって:
★ 縛られ
☆ ることはありません。あり得ません。考えるを差し挟むと 自縛する
のかも知れません。

★ でも、考えると違うと仰るのでしたら「妄信」です。
☆ 正体の分からないものについて 《妄信》も《正信》もないわけです。


★ 「帰依」するということは〈契約〉を結ぶのですよね?・・・何があ
っても、一緒に参ります、と、・・・
☆ それは 受け容れたあとの思索や行動の問題です。その人の自由です。

旧約聖書では 神との契約として 信じるを説明しているとは思います。

 

★ 契約前に、納得や決心するだけの思考があるわけですね。
☆ 思考はありますが 納得はありません。分からないのですから。
決心は 受け容れようという意志があります。

《盲信》に近い或る種の《賭け》でしょうね。

★ 強制
☆ はありません。心の窓をノックさせておけば済みます。

★ 「帰依」した後「妄信」になる場合もあるでしょうね。
☆ ちがうと思います。信じたあとは 思考の領域で考えることをする
だけです。信仰をいぢくることはないと思います。

お礼日時:2018/09/13 13:19

快いお出迎えありがとうございます。


おかげさまで、忘れていたこと、これまで気づきもしなかったことに思いを馳せる機会になりました。

分かりました。ご命題は「妄信」についてではなくて、「帰依」なんでしょうね。
この姿勢は、無償の愛とよく似ています。

私の言う「思考の放棄」も、脳死状態ではない人が意識的に思考を放棄することで、脳は働いていて、自分が好む思考はしています。ただ、面倒な判断は人任せという無責任状態を言っていました。これは卑怯です。あるいは、他者から操作された思考の放棄であれば、危険です。自分の意志で放棄した場合も危険を伴わないとは限りませんが。

>ところが この《神》については 一味おもむきが違っていると思います。
>おそらく 神は有るにしても無いにしても どちらも その根拠は示すことができず その内容を証明することができないはずなんです。

>★ 私はこんな考えでいるので、ナゾなものを信じようがありません。
>☆ ナゾを信じていないとしても その《考え》を信じている――つまりすでに持った考えを無条件に無根拠で心に受け容れている――のではないですか?

恐れながら、無条件、無根拠とまではいかないです。何十年も生きてきて、人間の想像力、創造力の豊かさ、人間の言動の虚実の実態、自分の体験などの蓄積から、体得してきたことを根拠とした判断で、実感です。

存在を実感していないものを人に言われて心底、信じようとしたことはあります。が、それは私にとって、どんなに努力してもつかみどころなく、実感のない”ごっこ”でした。フィクションの世界に浸ることよりも滑稽に感じました。

>《受け容れる》とき 何かのシルシを媒介とする。
> 5-1. 一般に言葉である。

これに関して、「そうですね。分かりやすい言葉であるほど良いと思います。」と答えましたけど、”シルシ”というのを見落としていました。どういうことを言っているのか、よく分かりません。別に受け入れるのに”シルシ”は要らないです。本当はそうしたほうが、何かあった時に、法的に訴えられて良いのでしょうけど、なかなかそこまで用意周到になれないです。もし、”シルシ”を交わすとしたら、べつに言葉である必要はないですけど、言葉は無難なのかもしれませんね。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

過分のお褒めかとも思いますが よい結果を得られたのでしたら 
それはよかったと思います。

ご回答をありがとうございます。

★ 分かりました。ご命題は「妄信」についてではなくて、「帰依」
なんでしょうね。
この姿勢は、無償の愛とよく似ています。
☆ なるほど。広義の神への《帰依》。イスラームという言葉も言
葉として帰依なようです。

注意点があると思います。帰依は もしかすると《人間の側から・
われの考えと意志とによってナゾの何ものかに寄り添って行く》と
いった意味がありますか?

あるとしたら 《信じる》とは やはり基本的に別です。



気むづかしいことを言いますが 《無条件で・・・受け容れる》と
いうとき 何の考えも無しに(と言ってもさんざん考えたあとにで
あるのが ふつうだとも思われますが) ただ心を開いてその得体
の知れないナゾを――いやいやながらでも――受け容れるのだと思
います。

こんなものを信じるかという判断も 否定的に受け容れたことにな
ります。神は そのような人間の判断を超えているからです。

神は 受けれいてくれと言っているわけではありません。有限で相
対的かつ経験的な生き物である人間にとって 無限で絶対的・超経
験なるナゾは いかにしても・どこへ行っても そこから逃れるこ
とはなりません。絶対性とは そういうものです。

(否定し無視することは 自由に出来ます)。


信じるには 神に近づこう・寄り添って行こうといった考えも動き
もありません。

この神(あるいはブッダ)は きっと真理であり知恵であるはずだ
から わたしはみづからを心身ともにささげよう・・・といった健
気な気持ちは 要らないわけです。信仰にとっては 余計なものな
んです。

いや 要るという場合には そのようなアタマで じつは自分の神
をつくっている。ことになります。

《信じる》は 非知で非思考なんだとわたしは結論づけています。



つづく

お礼日時:2018/09/12 10:31

こんにちは。

お久しぶりです。^^
お邪魔になるだけなようでしたら申し訳ないですが、参加してみようかと思いました。

と言っても、
「《信じる》とは 無条件で無根拠にてナゾの何ものかをわが心に受け容れることだ。」
という命題からして、私は相容れないのですが、最後に「《神は無い》を論証して欲しい。」とあるので、それでも参加していいのかな?と思ってみました。

まず、この最後の「《神は無い》を論証して欲しい。」について、
神は無いという考え方の存在をすでに知っていて、なお、まだ、「いや、そんなことはない」と思ってらっしゃる方には、もう、それ以上、言うことは、繰り返しになるだけです。

それまで思っていたこととは違う考えを聞いて、なるほど、と思う人は、そこで、考え方を変えるか、そういう考え方もある、という程度で共存していこうとするでしょう。

私はこんな考えでいるので、ナゾなものを信じようがありません。
存在を知らないものを信じようがありません。

信じようがなくても、敵意を感じずに済む相手(生き物)であれば、友好的に関わり続けることはできます。特に、自分が責任ある対象についてはたとえ信じようがなくても、愛をかけ続けるべきものだと思っています。そういう関係を築いた責任がありますから。

無条件に信じはしませんけど、
無条件に愛することは、しないと世界が上手く回らないです。

>《受け容れる》とき 何かのシルシを媒介とする。
> 5-1. 一般に言葉である。

そうですね。分かりやすい言葉であるほど良いと思います。

考えることを放棄するのは、それでも生きていられるだけ守られているなら卑怯となりますし、そうでない場合は自らを危険に晒すことになります。救われるチャンスすら逃してしまいます。

ただ、もう本当に望みがないほど追い詰められたときのみ、もう、思考を捨てて根拠のない何ものかに救われることを思うのは、安楽剤になっていいかもしれません。でも、そこまで追い詰められる時のためには、できれば、もっと確実な安楽剤が出回ることを願っています。
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この回答へのお礼

こんにちは。いつでも どうぞ。遠慮は要りません。
ご回答をありがとうございます。



★ 神は無いという考え方
☆ 《考え方》と言えばそう言えそうですが 実際にはその考えの根拠は
何か? このことがまづ問われなければならないのではないでしょうか?


★ そういう考え方もある、という程度で共存していこうとするでしょう。
☆ 考えや考え方は 思想の自由にもとづき自由ですが その中身につい
ては人は つねに互いに受け取り合って その違いをめぐってやはり互い
の考えを伝え合うのではないでしょうか?

ところが この《神》については 一味おもむきが違っていると思います。

おそらく 神は有るにしても無いにしても どちらも その根拠は示すこ
とができず その内容を証明することができないはずなんです。

そういう問題がまづ初めに横たわっているのでは?

つまり この根拠を問う問題からすると 次のようになります。:
★ 私はこんな考えでいるので、ナゾなものを信じようがありません。
☆ ナゾを信じていないとしても その《考え》を信じている――つまり
すでに持った考えを無条件に無根拠で心に受け容れている――のではない
ですか?

★ 存在を知らないものを信じようがありません。
☆ それは 《考えようがない》という意味であるはずです。ナゾとして
存在を知らないものについては 考えようがないから あとは二つに一つ
です。《信じる》か《信じないか》。

《信じない》という判断も じつは根拠がないのだから 《信じないと信
じている》ことでしかないはずなんです。どうでしょう?

★ 無条件に信じはしませんけど、
☆ 信じるのは 無条件でなんです。そうでなければ ひとはじゅうぶん
考えています。条件をつけるのが その証拠です。

★ 無条件に愛することは、しないと世界が上手く回らないです。
☆ そうですね。思想や好き嫌いよりも前に 存在やその人格が先に来ま
すね。これをとうとびます。

★ 望みがないほど追い詰められたときのみ、もう、思考を捨てて根拠の
ない何ものかに救われる・・・
☆ ここが 最初の大問題にひっかかります。

《無根拠を受け容れる》ことは 思考に非ずつまり非思考ですから それ
によって ひとは思考を放棄していません。非思考と思考(また知覚)と
が 両立しています。

お礼日時:2018/09/11 09:38

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