認識論というものの存在を知ったのは実は数か月前のことで、その概要を
知って尋常でない興味を持ち勉強を少しづつやっていた矢先に、認識形式
とかカントのコペルニクス的転回等の質問がありました。
そして、私なりに順を追って理解したいと思い、質問をさせていただきま
した。
1.合理論と経験論の欠陥について。
2.1に対するカントの哲学の優位性について。
3.ニコライ・ハルトマンの認識形而上学の概要を教えて下さい。
4.主観と客観が一致するという仏教の依正不二について概要を教えて下さい。
5.認識とは何ぞや?
どれか一つでも結構ですし、学問の枠に収まらない持論でも結構です。
よろしくお願いいたします。
No.8ベストアンサー
- 回答日時:
1.合理論の欠点→合理性を保証する存在が必要になる。
(もしくは、合理性を確証する原理が必要になる)経験論の欠点→経験のみで、全ての現象が把握できる理由がわからない。(経験を現象として、無条件に承認する必要がある。
2.カントの優位性
現象の把握は、感性と悟性によりなされ、それはアプリオリに与えられていると判断。(合理性と現象(経験)は、無条件に保証される)
現象(経験)により、純粋理性が、その合理的判断を行う事が可能になる。
つまり、合理論と経験論の欠点を解消できる。
ただし、純粋理性だけでは、判断不可能な問題は残る。
3.ニコライ・ハルトマンの認識形而上学
ニコライ・ハルトマンは、認識を、心理学的、論理学的、存在論的、認識論的の4種類に分類し、それを階層的に分析しています。 認識に関して、知覚レベルまで含めるとすれば、カント的な受動的感性が要求する「物自体」の存在の知覚による情動が、その実在性の根拠となると考えています。 また、最終的な認識論において、存在論は、分離不可能なので、形而上学として、認識論を考えるしかないと判断します。
つまり、カントが「純粋理性批判」において、純粋理性では判断不可能と考えた、形而上の問題を解決しなければ、認識論は成り立たないと言う事になります。
4.これは、他の回答者の回答のとおり、主観と客観の問題では無いと思います。(仏教的な縁起の問題でしょう)
5.認識とは、ある対象に対する、合理的な解釈が結果となる、過程と言えます。 カントにおいては、現象の純粋理性による解釈と、実践理性による解釈があります。
どちらにしろ、我々が、現象をどのように解釈するかと言う問題になります。(形而上学的問題と考えれば、現象を与える、人間の認識の外の存在への解釈も含む事になります)
多少、誤解されている人もいるかもしれませんが、哲学者のほとんどは、人間が把握する「現象」は、ほとんどの人で同じと考えています。(カントが、悟性と理性を分けたのは、その為です)
後は、現象の理解が、人によって変わると言う事です。
良くないたとえですが、ある映画を、複数の人が見た場合、現象(あらすじ)は、同じでも、現象の関連性の解釈は異なる場合があります。
また、その映画の製作者が意図した理解を観客が得ない場合も多いでしょう。(これは、観客に与える現象が適切で無かったり、曖昧である場合によくあります)
この場合は、はたして、「真理」や「真実」とは、何でしょうか?
製作者の意図でしょうか?、それとも観客が受けた印象でしょうか?
どちらでも、変わらない「真実」とは、映像だけとしか言えないでしょう。
つまり、我々にとっては、「現象」のみしか「真実」と言えないと言う事です。(その裏に隠された意図があったとしても、わかりません)
物理学者が、物理的法則が、宇宙全般で一般的に成り立つと考える根拠は、宇宙が均一であり、特別な局所性は無いと言う概念に基づいています。(宗教の場合は、地球や、太陽、人間、その他の惑星などを特別な存在と考える場合があります)
これも、一つの観念にしか過ぎませんが、実験や観測により、成り立つ範囲を検証しようとします。(これが、科学と言う事です)
もう少し勉強しないとピンとこないようですね。
>現象の把握は、感性と悟性によりなされ、それはアプリオリに与えられていると判断
すると、何故
>合理性と現象(経験)は、無条件に保証される
のか?このあたりの論理がよくわからないです。
(こういうことが知りたいと思っていたことの一つなのですが)
ニコライ・ハルトマンについては、論文を見つけたのですが、とても私の手に負えるも
のではありませんでした。
ご回答も難しいですが、なるほどと思うところもありました。
このあたりのことを理解するには、当然それなりの訓練が必要ですね。
依正不二については、いただいた回答にあるように、正報と依報は因果関係と言えるの
ですが、「不二」ということは「不可分」というよりも「合一」という風に理解してい
ます。
妙楽が「十不二論」を立てているということです。この「不二」という原理こそ生命と
いうもの理解する大きな鍵の一つではないかと踏んでいます。
このことは№4の方に返信すべき内容でした。
仏教を哲学的に理解したいというのが私の一つの目標なのですが、この調子だと随分時
間がかかりそうですね。
>哲学者のほとんどは、人間が把握する「現象」は、ほとんどの人で同じと考えています
なるほど。
>我々にとっては、「現象」のみしか「真実」と言えないと言う事です
客観性がなければならないということですね。
No.15
- 回答日時:
にゃんぽこさんのお礼は二度読むと二回おいしい気がします。
そもそも、なぜ人は形而上のものを志向するのか?と言う疑問はあります。これを一つの現象と捉えると、そこに何故?と問うのはとても不合理な気がしますね。
この、ある種の志向性にただ従うだけでは、求めたところに到達するのは難しいだろうとは思います。無限を求める様な事だからです。しかし求めなければそもそもゴールが存在しない。
そして、それが人間をしあわせに導くかどうか。
ある方が、人々がしあわせを求めるのは当然の妥当であるが、人々はしあわせのかたちを知らないでいる、又、ものを欲しがる様にそれを求め、手段を選ばないことさえある。それ故にしあわせに到達するのがある種困難になっている、と言っていたのを思い出しました。
認識能力の高低は人によって差異があるでしょうが、人ならば必ずしあわせに到達し得るというのが、私の一つの信念です。お釈迦さんの時代には、周梨槃特の好例が挙げられるでしょう。
しあわせのかたちと言うのは、オーダーメイドの靴の様なものではないでしょうか。
靴として確かに成立しており、且つその人に完璧に合った風に設えられている。
真っ当な人間の、得べきしあわせであり、しかもその人の人生の中で立ち現れてくる現実のもの、という事です。
人は、形而上のものを求めつつも、人の身を知ってその想いを超克し、至る着地点において、自己の有様を如実に知って、観じたその姿を自身に体現するのだと。
無限など形而上界への想いの超克→人間を知る→自己の完成
こんな流れがあるなぁと。
想いの超克によって、形而上のものものが、想いの産物だった事に気がつく。近づき過ぎるとものは見えず、適度に離れるとよく見えると言うことが日常生活の場にもありますね。
哲学的な理論のみでものを言おうとしても、今の私には難しいことなので、
いつものように自由にものを言いますと…
>なぜ人は形而上のものを志向するのか?
と言えば、人がそれを感じずにはいられないから、だと思います。以前もお
話した「子供の何故何故攻撃」とは、正に形而上への志向ではないでしょう
か?
それは、宇宙の片隅にポンと生れ出た自分の存在の位置づけをするために、
「何故?どういうこと?」を求めるのだろうと思います。
それを、どこで満足するか、あるいは妥協するか、には個人差があって、私は
まだ満足していないので求めるということです。
問題は、このことが人間にとっていかなる意味を持つのか、ということです。
物事の本質的なことをいかに深く捉え、いかに多様に結びつけるか、これが
一人の人間の宇宙とその中の自分というものの理解の「確信」つまり「信念」
になるのだと考えます。
主観の中での「分かった」という感覚ですね。これが多いほどに環境に左右さ
れない自己の主体性というものが出てくるように人間は出来ていると思えるん
です。
勿論、「全知全能」からは程遠いはずです。ソクラテスですら知らないことが
多かったのですから。
この「信念」というものは、主体性を生むので、この主体性が「幸せ」をつくる
主要な要素の一つだと思います。
幸せとは、作り上げるものですからね。
修利槃特(私の持っている辞典ではこの字です)は二人とも愚鈍であったのだけれ
ど、釈尊の話を素直によく聞いたので成仏した、という話ですね。
人間は誰にでも幸せになる権利があるし、その潜在能力はあると私も思います。
しかし、そのためには「主体性」「生命力」などの条件が必要です。自分の幸せ
の形へ持ってゆく力が必要だということです。
No.14
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
人間の知的好奇心に関しては、アプリオリに与えられている事なのかは、わかりません。
カント流に言えば、感性・悟性・純粋理性という認識形式の中で、純粋理性は、合理的な理想を持つ可能性があると言う事がそれに該当するのかもしれません。
カントは、悟性までは、アプリオリな認識形式としましたが、それを合理的に統合する機能は純粋理性、実践理性が持つ事になります。
これは、経験的知識や、アプリオリな論理形式が統合されるわけですが、そこには、わからないと言う感覚が、認識に対する衝動として、考えられるとは言えるでしょう。
したがって、「わからない→わかりたい」と言う意志は、何らかの形で生じているのは確かです。
ただし、人間は、その実践理性において、「わからない」事に鈍感になる場合があるとは言えるでしょう。
それが、既成観念によるバイアスと言えると思います。
全てが、わからないとなると、人間は認識に多くの時間を費やす必要がありますが、既成観念がある場合は、そのバイアスによって、認識時間の短縮が行えます。
全てが、既成観念で埋め尽くされた人間を想定すれば、そこに問題意識は無く、単なる処理をする機関となるのは、容易に推定可能でしょう。
知的好奇心は、当然ながら、幼少期の方が大きいのは、確実です。(既成観念のストックが少ないからです)
論理的思考に関しては、学習により、その因果性が認識出来ていれば、きちんとトレースが可能なはずですが、人によって、その認識能力に差が生じるのは、学習心理学でも明らかになっています。
観念論は、基本的に心の機能の哲学です。
そういう意味では、心理学の元となった哲学の分野とは言えるでしょう。
ある、真言宗の僧侶は、仏教は心の科学だと述べていました。(これが、真言宗の教義にあっているかどうかは、わかりませんが、その僧侶が考える仏教は、心の科学だと言う事でしょう)
釈迦牟尼は、涅槃に至る過程において、結論が得られない思考は、無記としました。
カントの「もの自体」も同様の事と言えますし、ヴィトゲンシュタインの「語りえぬもの」も同様でしょう。
基本的に、哲学においては、無限の比較を行う事は矛盾になってしまいます。(哲学的に許される「無限」の定義が終わらない事だからです)
我々は、時間が存在するとしたら、その時間の一部分しか認識できません。
したがって、「無限」は、認識不可能です。(終わるか、終わらないかが判定できないからです)
そういう意味では、数学の集合論で扱う「実無限」(ひとかたまりの無限)は、哲学では、認識の権利を持たない事になります。(数学においても、「実無限」は、公理系を一部制限しないと、矛盾が生じますし、その大小は比較できず、集合の濃度だけの比較となります)
無限は、哲学においては、示せても、語りえないものとなります。(単純に言えば、「無限」は、「終わらない」に置き換えて、考えるしか無いと言う事です)
仏教を哲学(西洋哲学と言う意味でしょうか?)として知りたいと言う事でしたが、哲学的な仏教論争ならば、部派仏教の論争などは、認識論の論争と言えると思います。(釈迦牟尼が説いた事は、初期仏典などでは、純粋な認識論と言えますから、それは、西洋哲学との対比は容易だと思います。
ただし、仏教の認識学を初期仏典から読み解くには、適当と言うか、わかりやすい翻訳が存在しないのが問題と言えるでしょう。
日本仏教の仏典にしても、それなりの仏教用語の知識が無ければ、読み進むのは難しいでしょう。
その真言宗の僧侶が「仏教は心の科学だ」と言ったのは、本来の科学という意味ではなく、
きちんとした考え方の筋道があるのだということを訴えたかったのだと思います。
私の仏教の定義は、法華経と日蓮の仏教です。釈尊の仏教は八万法蔵と言われるほどたくさ
んの教えが存在しますが、法華経が結論であり、それ以前の教えは仮の教えであるという天
台の解釈が正当であると考えています。
天台は法華経を最もよく理解した人間と言われ、理論体系を作りました。それが一体どういう
理論なのかということに大変に興味があるのです。
また、日蓮は法華経をふまえて、釈尊が説かなかった(説けなかった?)究極を説いたと言われ
ています。それが、一体どういう理論なのか?
主としてこの二つを学び、西洋哲学・その他あらゆる思想と対比してゆきたいと考えています。
西洋哲学とは当然違いはあるはずですが、学んだ末に得られた理論をどう考えるか?西洋哲学の
考え方を取るのか、科学を取るのか、仏教を取るのか、あるいはすべて捨てるのか?
それは、我が純粋理性が判断するということなのでしょう。
No.13
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
まず、カントが何故、「もの自体(無制約)」と言う物を必要としたかは、引用した文に全て表されていますが、ここで注意するべきことは、「無制約」とは、我々の認識が理解できる論理構造に当てはまらないと言う事です。
つまり、我々の認識したものしか存在しない場合は、「無制約」は存在しない事になります。
これは、「無制約」なものを信じる人にとっては、許しがたい事でしょう。
したがって、カントは、「無制約」なものは、我々の「認識」の中には存在しないと仮定したわけです。(これは、「無制約なものは、我々の認識では、決して認識出来ない事を意味します)
これを、宗教的配慮と考えるか、当時発展してきた、自然哲学(現在の自然科学→物理学、化学)への敬意と考えるかは、自由だと思います。(当然ながら、カントはその真意を表記していませんが、自然哲学に対する称賛を見れば、ある意味あきらかでしょう)
私の個人的見解ですが、これは、カントの自然哲学の発展の為の、一種の助け舟としての理由と同時に、一切の説明を「無制約者」に還元する事を良しとしなかった、カントの矜持であったと考えます。
また、悟性が把握する現象をアプリオリとしたのは、現象のみを解析して、自然哲学で顕著の功績をあげた、ニュートン、コペルニクスの業績に対して、その権利(この場合の権利とは、確実なものと認識する根拠と言う意味です)を証明していると言えるでしょう。
この序文には、明示はしていませんが、デカルトへの批判も書かれています。(現象が全てであると言う認識がありながら、結果的に「無制約者」に、その根源の根拠の権利を与えた事に対してです)
カントが「もの自体(無制約)」をある意味、認識から切り離す為に、仮定した事に対して、デカルトは認識の権利を「無制約者」に委ねてしまいました。
カントは、「無制約者」に因果的理由を求めてしまったら、学としての形而上学は成り立たないと考えました。
人間の認識を「無制約者」とは、無関係に解析し、純粋理性(純粋な論理推論)だけでは、矛盾する結果を与える命題が存在する事を明らかにし、純粋理性で解決不能な命題は、実践理性(実用的な理性)で、判断する必要があるとの結論を得たわけです。(これは、純粋理性は形而上のものを認識するには、その能力が足りない事を意味します)
純粋理性とは、現代で言えばAIのようなもので、一定の現象を与えれば、一切の感情を含まず、論理推論だけで結果を与える機能と考えて良いでしょう。
論理で解決できる命題は、純粋理性はきちんと判断が可能です。
ただし、二律背反などの、矛盾をおこす命題に関しては、判断が出来ないと言う事です。
人間は、このような命題でも、何らかの判断を下しています。
それは、「実践理性」が行っている事になります。
しかし、これは、超越論的制限により、確実なものとは、純粋理性では判断できない事です。
カントは、倫理はこのような存在だと考えました。
したがって、倫理は、純粋理性では確実ではないが、実践理性では妥当な判断となるべき事と言う事です。
それは、人間が、人間の社会の中で、妥当と見なせる権利を有すると言う事です。
その妥当性は、カントにおいては、格律(格率)と呼ばれました。(人間が、人格として、各個人が考える成すべきことを自らに命言する自由を持つと言う事です)
したがって、格律に関する指針は、単純にカントが考えている命言すべき事を述べているだけです。
カントは、そのように考えると言っているだけで、それを押し付けているわけではありません。
各個人が、自らの格律で、自らの行動を律する必要があると言う事です。(きちんと考えて、行動すべきと言う事です)
カントが何故「物自体」というものを立てたのかということについて、デカルトとの
対比を含めて説明していただきましたが、私にとってかなり納得のできるものでした。
余談になりますが、ここで少し不思議に思うことがあります。
私が哲学と言うものを勉強し始めたのは最近ですし、その勉強の量は微々たるもので
あるにもかかわらず、気が付けば哲学的疑問を持ち続けていたし、哲学的な思考を受
け入れる度合いが人よりも大きい気がしています。
勿論これは主観的な感覚にすぎませんが、アプリオリな認識力と言うものは個人差も
大きいのかなとも思いました。
このあたりのことはサイエンスとしては心理学ということになるのでしょうか?
余談ついでに…
私は理論家ではなく独断家です。祖父は事業家でしたし、父は職人でした。私自身も
商売人です。そういうDNAなのでしょう。
しかし、現代は宗教に代わって科学が信仰されている時代だと思い、論理的思考が必
要だと考えたので、あまり好きでない(笑)ことを勉強しようと思ったのです。
なるほど、かの有名な「格率」というのはこういうことだったのですね。
大変に論理的ですね。
思想・哲学・信仰の「押しつけ」など基本的にはできないはずです。本人が納得しな
ければ意味がないからです。
しかし、現実にはあり得ますね。組織的な圧力とか、個人的にしつこくするとか、ま
たは社会的空気の圧力によって。
いずれにしましても、愚かな行為です。
No.12
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
カントが、「純粋理性批判(第二版)」序文において、「対象が認識に従う」必要がある事を説明している部分を、参考として、引用します。
カント、「純粋理性批判(第二版)」序文(ⅩⅩ~ⅩⅪ一部抜粋)
「しかしながら、理性による先天的な認識についてのこの結論、つまり、経験によらない先天的な認識は経験の世界の現象(被制約)だけに関わるものであって物それ自体はたとえそれ自身にとっては現実的なものであっても、我々には認識できないという前半部の結論の正しさは、それがまさに後半部で扱う目的にとって不利であることによって、間接的に証明されている。
なぜなら、我々に経験の世界(被制約)つまり現象の世界(被制約)をどうしても越えて行こうとさせるのは絶対的な存在(無制約者)であって、理性が物それ自体の中にこの絶対的(無制約)なものを追い求めて、それによって条件と結果という因果の連鎖を終わらせようとするのは当然のことだからであるが、今もし「経験によって得た知識が物それ自体としての対象と一致する」と考えるなら、わざわざ経験の世界(被制約)を越えて絶対的(無制約)なものを考えるのは矛盾している。
それに対して、「対象に対する我々の認識は、我々に与えられたものの認識であって、物それ自体としての対象には一致しない。それどころか、現象として現れた対象の方が我々の認識の仕方に一致する」と考えるなら、絶対的(無制約)なものを考えたところで何の矛盾も発生しない。
この結果、絶対的なものは、我々が認識する限りでの対象、つまり我々に与えられる対象の中に見出せるものではなく、我々が知ることのできないような対象、つまり物それ自体の中にだけ見出せるものだということになる。
こうして、最初に試験的に想定したこと、つまり「現象として現れた対象の方が我々の認識の仕方に一致する」という命題の正しさが確かめられたことになる。
(原注)純粋理性に対するこのようなテストの仕方は、化学の世界で還元法と呼ばれ、一般的には総合的方法と呼ばれているものと非常によく似ている。
純粋理性の認識は、形而上学の分析論(前半部)においては、二つの全く異質な要素に分けられる。それは、現象としての対象に対する認識と、物それ自体と しての対象に対する認識である。次に、弁証論(後半部)においては、理性がどうしても絶対的(無制約)なものを考えるということが矛盾に陥らないようにするために、 この二つのものが再び結合される。そして、純粋理性の認識をこの二つに分けなければこの矛盾が避けられないことが明らかになる。したがって、この区別は正しいのである。
しかしながら、こうして理論理性は経験を越えた世界ではまったく進歩が期待できないことが明らかになっても、実践的認識(実践理性)には、理性が 経験の世界を越えて絶対的なものを認識できる要素があるかどうか、そうやって、形而上学の希望どおりに、実践的な観点からではあるが、先天的な認識を通じ て経験の世界の限界を超えることができるかどうかを調べる余地は残っている。」
難しいのですが、集中して読んでゆくと次第に分かってきます。
とは言っても「合点が行く」とか「腑に落ちる」というところまではゆかず、
形而上学の分析論と弁証論の結びつきなどということについては、お手上げと
いうことになります。
我々が認識するものは、認識する自我が生み出す空間・時間・因果性の枠の中
に現れる世界であって、認識できない「物自体」とは、はっきりと区別すべき
であるということが、この本での主題であるという風に理解しています。
その区別をしたうえで「実践理性」というものを考えたということなのですね。
No.11
- 回答日時:
再補足です。
カントは、「純粋理性批判」をニュートンがプリンキピア・マセマティカ(別の邦題としては、「自然哲学の数学的諸原理」)で示した方法を参考にしたとされています。
つまり、ニュートンが、力学を万有引力を含む)を現象の法則化、現象の解析のみで構成し、その根本原因を明示しないで説明した事を参考にしたと言う事です。(それまでの、自然哲学では、その根本原因を説明しなければ、意味が無いと考えられていました)
したがって、ニュートンは、遠隔力など、実際の直接作用力以外の現象を法則化したので、魔術的な説明として批判されたわけです。(現代の物理学では、遠隔力では無く、場の作用力として、場が物理的実体として、作用力を伝搬すると考えます)
しかし、根本原因を説明しないで、現象の法則や解析が可能だと示したのは、物理学が科学として、哲学(根本原因を追究する学)から分離して、発展する契機となったわけです。(科学的実在論で、研究が可能になったと言う事です)
カントは、これから、純粋理性のみで、認識を明らかにできるのでは無いかと考えたわけです。
ここでは、「客観性」のみを問題として、「現象」、「対象」の関係性を解析する事が出来ると考えたわけです。(つまり、「認識」に関して、「真理」・「真実」などは、人間の認識を超越した存在として、解析から除外する事が可能となったと言う事です)
これは、従来の哲学的概念からしたら、充分な解析とは言えないでしょう。
しかし、カントは、人間が、「客観性」を捉えるには、これしか確実な方法は無いと考えました。(「真理」・「真実」は、人間が捉える事は不可能と考えたわけです)
ですから、「純粋理性批判」は、従来の哲学概念に対する、一種の問題提起なわけです。(ただし、カントは、この考えが自己において、充分な妥当性を持つと考えたのは確かでしょう)
もちろん、カントが示した「もの自体」は、カント自身もその実在は説明できません。(最初から、説明するつもりが無かったと考えるのが適当でしょう)
「叡智界」(又は「英知界」)は、人間がわからない世界と言う程度の意味で、そこに何らかの実体が明示されているわけでは無いです。(キリスト教的には、カントは宗教批判は行っていないと言う程度の免罪符でしょう)
当時の哲学者が、中世の魔女狩りや異端審問みたいな事はなかったとしても、教会から目をつけられるのは、回避したかったのは、当然でしょう。
実は私がカントという哲学者に興味を持ったのは、「もの自体」という言葉を
知ってからです。
カントも学者ですから、非論理的なことは言えなかったのでしょう。叡智界(知
りませんでした)ということについてもそうであると想像しますが、非感覚的な
直観というものを論理的には否定しながらも、その存在を感じていたのではない
かと、よく思います。
いずれにしましても、このカテに参加するようになって随分になりますが、もっ
と上手に利用すればよかったと反省しきりです。
No.10
- 回答日時:
補足ですが、回答で記載した「現象」は、物理的(空間・時間的)な「現象」のみと考えてください。
基本的には、感情などを交えた心的現象は含んでいないと言う事です。(こう限定しないと、個人差が大きくなって、共通の現象把握能力としての、「感性」・「悟性」がアプリオリに与えられたものとして見なせなくなります)
物理的現象を人間が共通の「現象」として把握可能であれば、それを生み出す「感性」・「悟性」は、共通の現象把握として、アプリオリな能力と見なす事が可能となります。
物理的現象の、理性による「認識」は、経験による学習により異なる事になります。(これが、「対象は、認識にしたがう」と言う事です)
No.9
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
感性と悟性がアプリオリ(経験によらず与えられているもの)ならば、それは経験によらず共通に与えられている能力となります。
したがって、その共通性により、合理性が確保される事になると考えられると言う事です。(共通性として、客観的と考えられると言う事です)
例としては、以下のとおりとなります。
〇として悟性に与えられる知覚→感性(空間と時間性の付与)→悟性(〇として識別)
カントは、ここまでの過程は、人間がアプリオリに持つ能力と考えました。
多少の差はあっても、〇は〇として、ほとんどの人が識別できると言う事です。
次に、理性が経験などの学習により、〇→丸に言語化します。(英語の場合は、〇→Circleとなる事になります)
上記の例は、物体の言語によるラベル化ですが、理性は、悟性が捉えたもの以外も考えられます。
概念だけの存在も、理性は考える事ができるので、ある現象の認識は、物体の空間的、時間的位置、概念などで、複合的に行われる事になります。
簡単な例としては、「太陽が東からのぼって、西に沈む」と言う、悟性が捉える現象を考えます。(太陽と書いていますが、この段階では、太陽は、言語化はされず、太陽としてカテゴライズされていると考えてください)
認識1→太陽が、地面の上の天空を運動していて、それは東から西である。
認識2→地球が自転しているので、見かけ上、太陽が東から西へ運動しているように感じる。
この認識の違いは、経験から得られる理性により起きています。
この二つの認識は、それぞれの認識を持つ人にとって、それぞれ客観的な事実となります。
カントは、アプリオリな能力で得られた結果は、客観的と考えられる根拠となると判断しました。(一般の人は、このような理由を考えなくても、自分が見たものは、幻覚でなければ、客観的な事実と判断します)
カントは、「純粋理性批判」において、客観的と見なす根拠は、どこにあるかを、分析しました。
重要なのは、客観的とは何かと言う事です。(真の「客観」は、単独の人間では得られないし、検証も不能な事に注意してください)
したがって、カントは、「純粋理性批判」において、「真実」とか、「真理」とかは問題にしていません。(そのような分からない事は、検証できないので、意味が無いからです)
検証の結果、純粋理性だけでは、客観性が判断出来ない問題が存在する事を示唆しました。(つまり、純粋理性だけでは、実用的(実践的)な判断は不可能な場合があると言う事です)
ここにおいて、「客観的」とは、ある現象が、客観的な事実として、認識できる根拠が明らかに出来る事です。(「真実」とか「真理」は、誰も検証できないので、無意味です)
カントが用いている「感性」と言う言葉は、一般的な感性をかなり限定している事に注意してください。(これを、感情的な感覚を含む感性として、解釈すると、間違った理解になってしまいます)
例えが悪いですが、視覚に関して言えば、視覚の歪みや解像度は、人間の肉体的な条件で制約されます。
一応、一般的な視力を持っている場合は、〇を丸として認識できるはずです。
この視覚の情報を、〇として悟性に与える能力が、カントの言う「感性」と考えてください。
人間は、視界の3次元認識において、垂直方向の距離感覚と水平方向の距離感覚に違いがありますが、これは、人間の感性の違いと考えても構わないでしょう。
もちろん、他の生物は、人間とは違う感性を持っていると考えた方が普通です。(馬の視覚は、直接わかりませんが、目の物理的配置から、人間の空間認識とは違うのは確かでしょう)
少なくとも、カントの場合は、「感性」や「悟性」は、人間では、ほぼ共通と考えています。(個人差はありますが、〇を△と見るほどの違いは無いでしょう)
あくまで、現象の「感性」による「直観」(これは、悟性に与える情報が変化せずに与えられると言う意味の直観です)までは、アプリオリに与えられているし、その空間・時間展開もアプリオリに与えられていると、カントは考えています。
悟性までの、現象把握は、これでかまいませんが、理性の現象解釈に関しても、カントは経験によらない、アプリオリな判断が可能なものがあると考えました。
それを、経験によらず判断可能な、純粋数学的概念などとして、例示したわけです。(これは、形式科学としての数学としては、アプリオリとは言えないものも含んでいます)
現代では、数学は、形式科学として成立しているので、「真理」などとは、無関係となりましたが、一定の形式の中では、成立できると言う限定性では、アプリオリと考える事は可能です。(人間の空間認識が、ユークリッド空間に限られるのであれば、ユークリッドの原論で公理とされている事は、アプリオリと見なせる)
カントの「純粋理性批判」において、重要なのは、何がアプリオリと見なせるかと言う事です。
アプリオリは、「客観性」の根拠となるだけで、「客観」とか「真理」などとは、無関係な事に注意してください。(カントにおいては、それを把握できるのは、「叡智」もしくは「英知」だけですから、人間の認識を超越しています)
カントの「純粋理性批判」で、「客観」や「真理」がわかると考えるのは、間違いです。(それが、与えるのは、人間の「認識」において、「客観性」を与える「根拠」は、何が考えられるかと言う、ケーススタディです)
なんだかんだで、お礼の返信が遅くなってしまいました。
勉強になります。
今は変にひねって考えたりせずに、カントという哲学者がどう考えたのかということを
キチンと理解したいと思います。
この機会にカントの哲学というものを勉強しながら、哲学という学問そのものを知って
ゆきたいと思います。
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