アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

日本の大名と武士はどういう経緯で誕生したのですか?

A 回答 (4件)

大名の権力が落ちた時に出てきたのが武士だと思います(^^;

    • good
    • 0

1,大名は、当初は守護大名、つまり幕府によって


任命されました。

応仁の乱の後、それまでの秩序が乱れ、
戦国大名という新しいタイプの領主が現れます。
それまでの守護大名は、室町幕府によって任命された大名でした。
しかし幕府の権威がなくなると、自力で領国を支配する
戦国大名が登場します。

戦国大名たちは様々な形で生まれてきましたが、
その成り立ちは、大きく分けて以下の3通りです。

・守護大名がそのまま戦国大名へとなっていった者
 例)武田氏(甲斐)、島津氏(薩摩)など

・守護大名の家臣である守護代が のし上がっていった者
 例)上杉氏(越後)、尼子氏(出雲)など

・各地の有力武士、国人たちが同盟を結び、その中から頭角を現していった者
 例)伊達氏(陸奥)、毛利氏(安芸)など



2,武士

武士の誕生にはさまざまな説がありますが、大きく二つの方向から説明す
ることができるといいます。

一つは、もともと京都の朝廷に仕えている貴族だったという説です。
貴族たちが都を離れて現地へ下向し、次第に力を得て武士に
なっていったというものです。

もう一つは、もともと現地の豪族などの有力者だったという説です。
この場合は、有力な農民というケースもあった可能性があります。
これら現地の有力者たちが力を得て、次第に成り上がっていき、
武士になったという説も有力なシナリオです。
    • good
    • 0

日本の歴史も、世界の歴史も人間の物欲、性欲で見ると分かり易いですよ。


大がかりなヤクザの縄張り争いです。農民から年貢と言う安定したみかじめ料を取っていたわけです。
そのような連中をヤクザと呼ぶのは、今の政治家や財閥をヤクザと言うのと同じなので、大名や武士と
呼んで誤魔化しています。
このような経緯で大名や武士は誕生しました。とさ。
    • good
    • 0

・武士


武士の発生の基礎となったのは、地方に移封された貴族たちだったと言われています。そして彼らが力を持つ源泉になったのは「永年墾田私財法」で、これにより各地で自前の開墾地を作り勢力を拡大した人々が武士の起こりです。

しかしこの当時は中央集権制であったため、中央に居る貴族たちが地方の実情を無視して、せっかく開墾した土地を、自分たちの荘園に組み込んだりしたのです。

そのため、逆に地方の初期の武士たちは、中央にいる有力な貴族と手を結び「この土地は中央にいる○○さんの土地で私が管理している」と言う用心棒的な立場を得ることにしたのです。つまり武装して、手を結んだ貴族以外が土地を奪取しようすれば実力で排除し、また武装して貴族の土地を守ることで中央に居る貴族たちにも約束を守らせる効果を生みました。

これにより「武装して自分の土地を守る」ということがだんだんに合法化され、その結果地方に「武士」という武装勢力が生まれることになったわけです。

この武装勢力がそのまま京都に昇り「帝をお守りする」地位を得たのが平家であるといえます。つまり平家は今風に言えば「元は臣籍降下した皇族の末裔で、武装して勢力を誇示するために都に上り、天皇のボディガードから政策顧問にまでなって、武力と政治力の両方で栄華を誇った一族」なのです。

しかし平家が武力も政治力も持つと、その協力者なら土地が保障されるのに対して、武力的な対抗勢力や政治的な対抗勢力だと「平家にあらずんば人にあらず」ということでないがしろにされかねません。記録にはありませんが、開墾地や田圃に引く水争いなど、各地の生活を掛けた争いで平家とその協力者に有利な裁定が下され続けたことは想像に難くありません。

結局、平家に不満を募らせた人々が源頼朝に賛同して、平家を倒したのが源平合戦とよばれるものです。

源氏は「武士たちが和合して、安定した土地と生活を維持するためには都で貴族化するより、武士たちみんなで政治をしたほうがよい」と考えて幕府を開いたといえます。幕府と言うのは今でいえば「軍政」であり、軍政は基本的にそこに参集している軍閥たちの総意で行われるものだからです。

これによって「武家政権」が開かれることになります。

・大名
鎌倉幕府の指揮権は東国が主体で西国にはまだ天皇支持派が多かったことから、幕府も朝廷を監視する六波羅探題などを置きつつ、それでも律令制で国の主体である朝廷に遠慮して、朝廷が派遣する国司などの仕事も最初期は邪魔しませんでした。鎌倉幕府の構成員は御家人と呼ばれ、あくまでも「源に支持する武士集団の集まり」だったので、最初は「幕府は適正な土地管理がなされているか監視する」だけだったからです。

ですからこの頃には大名はまだいません。

しかし鎌倉幕府も後期になるにしたがって、だんだん国司の業務を鎌倉幕府の守護・地頭が行うようになり、国司の権力は衰退していったのです。

この国司の権力の衰退は直接的に朝廷による収税や警察権などが衰退することであり、朝廷の権力の衰退でしたから、結果として後醍醐天皇の建武の親政を呼び、鎌倉幕府はこれにより滅亡することになります。

しかし、建武の親政の後ろ盾になった足利尊氏は後醍醐天皇を裏切り、室町幕府を開くに至ります。いろいろな考えがあったのでしょうが、結局「朝廷よりも幕府のほうが武士たちには」良いと判断したのです。

その結果、室町幕府は朝廷の役職である国司の権力を奪うことに注目し、徐々に国司から守護に権力を移していきました。その結果鎌倉期の守護のように、武士階級だけの軍事・警察的権能から収税・司法・行政権といわゆる「領地運営のすべての権利」を得て行きます。

この「領地運営の権利を得ることができた有力な武士」が「大名」なのです。

そのため守護大名は江戸時代の藩主とそれほど変わらない地位と権力を得ていたといえますが、江戸時代と違って、国司の勢力は残っていましたし、幕府に対抗したい西国勢力もあれば、守護に反発する地主武士(国人など)まだまだ安定した政治体制とは言えませんでした。

その結果起きたのが「応仁の乱」でこれにより全国の争いを収拾できなかった室町幕府は事実上倒壊し、戦国時代になっていったわけです。そしてその戦国時代の主役は守護だった大名が初期には大きな役割を果たしたわけですが、真田家のように「元々の領地を治めていた守護の武田家」が滅んだあと、国人たちをまとめながら大名にのし上がったものもあれば、秀吉のように農民と武士の狭間のような階級から自分の武功で大名になったものまでいたのが戦乱期の特徴です。

結局、徳川幕府により領地管理を任されたものが大名であり、大名とは「収税・司法・行政権」という国家権力に相当する力をもった領主のことをいうのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

みんなありがとう

お礼日時:2018/10/09 19:49

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!