初めて自分の家と他人の家が違う、と意識した時

1873年~の寺島宗則による条約改正交渉について質問です。
寺島の交渉の際、米が改正に合意したのに対し英・独は反対したとされていますが、英・独が反対した理由は何だったのでしょうか。
歴史に詳しい方、ぜひ教えてください。
宜しくお願いします。

A 回答 (2件)

根本的には、当時の日本の文明(文化ではありません)の程度に対する評価が反映されている、と考えるべきでしょう。



当時、欧米列強は、国際社会を3段階のカテゴリーに別けていました。第一は文明諸国です。文明諸国は国際社会の正会員であり、相互に対等の資格を有しています。第二は低文明諸国です。低文明諸国は国際社会の準会員(半人前)であり、正会員と対等の交渉はできません。第三は未開社会です。未開社会には国際社会の会員資格はなく、もちろん条約締結などの交渉はあり得ず、文明諸国による自由な処理に委ねられる「対象物」にすぎません。言うまでもなく、日本は第二のカテゴリに属しているとみなされました(未開社会とみなされ、勝手気ままに処理されたアジア・アフリカ諸国と比べれば幸せでした)。

日本は準会員とみなされたがゆえに不平等条約を押し付けられました。条約改正は、日本に正会員の資格があることを列強に認めさせるため是非とも成し遂げる必要がある事業でした。正会員の資格を得るため日本は、欧米を範として国内制度の整備に全力を尽しました。

個別・具体的な利害関係もあるでしょうが、根本的には、上記のような日本の努力に一定の評価を与えたのが米国、時期尚早と判断したのが英・独だったというわけです。
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなり、申し訳ありませんでした。
米国との違い、よく理解できました。
ご丁寧な解説、本当にありがとうございました。

お礼日時:2004/11/22 22:19

手元に資料が少なかったので、分かるかぎりのことを書きます。

寺島宗則の条約改正でイギリスとドイツが反対したのは、2つの事件があったからだそうです。

まず、イギリス。
1877年に「ハートレー事件」と呼ばれる事件がありました。この事件は、イギリス商人であるハートレーが、アヘンの密輸が発覚。しかし、治外法権の御陰で、イギリス領事裁判所はハートレーに無罪判決としました。

次にドイツ。
1878年、神戸でコレラが大流行しました。その時に、神戸港に停泊中だったドイツ船ヘスペリア号の乗組員に対して、日本側は検疫を要求しました。しかし、ヘスペリア号側は日本側の要求を無視。検疫も拒否して横浜に向けて出港を強行したため、横浜でコレラが流行してしまいました。これが「ドイツ検疫拒否事件」と呼ばれるものです。この事件もヘスペイア号側は、治外法権のため罪にはなりませんでした。

寺島宗則による治外法権の撤廃を求める条約改正は、2つの事件が治外法権の御陰で両方とも罪にならなかったイギリス・ドイツにとっては認めるわけにはいかなかったらしいです。
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この回答へのお礼

お礼が大変遅くなり、申し訳ありませんでした。
判りやすいご回答、とても参考になりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2004/11/22 22:17

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