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哲学するにあたって、「情」は不要なのだろうか。
或いは事がらに依りけり、なのでしょうか。

よく分からないので、意見を聞かせてください。

☆ こんな質問を立てたのは、哲学するにあたって情は必要なのではないだろうか、と思ったからですが、漠然としているのです。

宜しくお願いします。

質問者からの補足コメント

  • 皆さま、回答ありがとうございました。

    私にとっては全てベストアンサーでした。

    有り難うございました。

      補足日時:2019/02/09 22:39

A 回答 (22件中11~20件)

>要は、ここは哲学もどきの庭、井戸端会議(これも確かブラジュロンヌさんが使った表現ですが)


のような世界である、というご意見ですね?

全く違います。

要は、哲学をするということと、情をかけるとか、情が出てしまう、ということをごっちゃにする
のはまずいのではないですか、ということです。

もう一つ、ここは、大学のゼミではなく、Q&Aのサイトで、哲学あるいは哲学的なことに興味を
持った人が質問したり、あれこれ対話して、学んだり楽しんだりする場であるということで、学
問の厳しさを参加者全員に求めようとすることが、そもそもトンチンカンなことだということで
す。

また、「哲学もどき」とか「井戸端会議」とか「中身がない」とかいう言葉を連呼する行為は、
迷惑ということを通り越して、「異常」であると思いますが、どうですか、汽笛さん?

まだご不明な点があれば、説明させていただきます。
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この回答へのお礼

情は哲学の足を引っ張る可能性あり、と云うところですね。
気を付けるようにします。

有り難うございました。

お礼日時:2019/02/07 14:39

ご質問の意味が不明瞭です。



人間は誰でも情(なさけ)というものを持っています。
哲学にせよ物理学にせよ、何をやるにしても、人はそういう感情を常に持っている
と言えます。

例えば、討論をしているときに相手に対する情を見せてしまった人がいたとして、
だからと言ってその人が真理に対する思いが「薄い」とは言い切れないと思います。

片や、ポーカーフェイスでクールな人が、ストイックに真理を追究する典型に見える
けれど、それはあくまで見てくれの話でしょ?

フロイトはユングとの対話の中で、夢の中のことを一部意図的に隠したらしいのですが
それでユングはフロイトに対する信頼を失い、決別したと言う話を聞いたことがありま
す。

これは私は納得できます。私がユングの立場であったなら、同様のことを思ったでしょう。
しかし、この哲学カテはそんなに凄い世界ですか?

ここはQ&Aコミュニティー、というのが基本形ですよね?
コミュニティーの中では、愛とか情、倫理などが必要であると、私は経験的に思っています。
しかし、現実はチリヂリバラバラになっているようです。

先日ラジオで、こんなことを言っている人がいました。
「今の社会は、他人を怖れるか舐めるか、どちらかだ。だから、見てくれが大事だ」
結構そうなっていると思いました。
どっちが上か下か、倫理が消えれば、そこへ人は流れ着くと思います。
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この回答へのお礼

このご意見に支持者が二人現れましたね。

要は、ここは哲学もどきの庭、井戸端会議(これも確かブラジュロンヌさんが使った表現ですが)のような世界である、というご意見ですね?

「倫理が消えれば、そこへ人は流れ着く」と云うところが分かりませんでした。

有り難うございました。

お礼日時:2019/02/07 13:09

哲学は理性だけで構成できますが、人生には情も必要でしょうよ。



数学者として生きる人間と同じです。
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この回答へのお礼

他の人はみんな「情」が絡んでくると云っているようですが。

「構成」と云うところがミソになりますか?

有り難うございます。

お礼日時:2019/02/07 12:53

☆☆ マがくっつきすぎる。


☆ たとえば 次のように《情》にうったえられたなら マが――人格
どうしの自然でふつうの距離が―― くっつき過ぎるのではないですか?

♪ きさまとおれとは 同期の桜
同じ兵学校の庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
みごと散りましょう 国のため

・・・
血肉分けたる 仲ではないが
なぜか気が合うて 別れられぬ
・・・



☆ むろん 現代は・現在は 社会も情況も変わっています。
と同時に・しかも 同郷・同学などの縁によって親交をはぐくみこれを
生涯たもつ場合が 少なくありません。(日経の交友抄には毎日そうい
う記事が載ります)。

ま それらの体験記事は 成功経験なので マがうまく保持されている
と言えるかも知れません。


どうなんでしょうかね。思想を前面に出さないといったコツがあるのか
もと 別の角度から見れば 思えるかもわかりません。
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この回答へのお礼

確かブラジュロンヌさんは、哲学はケンカだと云っていましたね。

辛うじて、思い出しました。

有り難うございました。

お礼日時:2019/02/07 12:43

★ (№6お礼欄) 価値観の違いが論争の種になるのではと思うのですが、


ブラジュロンヌさんにしてみれば論争の種にしてはならず、尊重しなければ
ならない、と云う事ですか?
☆ 相手が 《この主題ではいろいろやり取りしたが どうも価値観の相違
だね?》と言い出したら ひとまづマを置きます。(あとでまた じゅうぶ
ん議論すればよいです)。

でも 価値観という言葉で 互いに問いかけたり答えたりする個々の発言の
ことを言うのだとすると むろん議論をつづけます。よ。
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この回答へのお礼

マが違ってくる。
マがくっつきすぎる。

これが分かりません。
マを置く、のマの事ですか?

お礼日時:2019/02/07 10:09

要らぬおケンカをけしかけます。




《なさけ》と《情・気持ち・感情》とは 別です。ハタラキカケが
あるかないかで。



ですが 情の問題なようで けっきょく墓場の掃除というより お
墓の磨き上げでは?

木なり石なりで 死んだひとを彫刻するがごとき。
顔の問題なら 目鼻をしっかりとつける。
ハラワタの問題なら どこに何があるか。それぞれどうなっている
か? となぞっている。

ところで 自分自身は いったいどこにいるのか? 位置がない。
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この回答へのお礼

何を云っているのか、私の頭では分かりませんでした。
残念。

お礼日時:2019/02/07 09:35

☆☆(№4) 〔情の突出によって〕くっつき過ぎるマにな〔る場合〕


☆ も
★ (同上お礼欄) 価値観の違いと判断して
☆ おられるのなら 話し合いは そこまででしょうね。異なる価値観
を尊重しなくてはなりません。


★ (間)に付いての説明
☆ は そうなると思います。
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この回答へのお礼

価値観の違いが論争の種になるのではと思うのですが、ブラジュロンヌさんにしてみれば論争の種にしてはならず、尊重しなければならない、と云う事ですか?

お礼日時:2019/02/07 09:17

哲学的に「情」を考える、ということも


あるでしょう。

だから事柄によると思います。
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この回答へのお礼

これまでいただいた回答も皆、事柄に依ると云う考えのようですね。

有り難うございました。

お礼日時:2019/02/07 08:56

哲学は 世界のあらゆるものごとをその問い求めの対象とします。



★ 「情」
☆ をも対象とします。情とは何か?

身の感官に刺激を受けて生じた《感性》一般があります。
 
《情》とは――質問者氏の定義は いま分かりませんので わたしの定義で行
きますが―― その感性一般のうちいわゆる《気持ち》として捉えている内容
があります。そのとき この気持ちをなお意識してどちらかと言うとよきもの
として捉え大事にする。また あらたに自己表現におよぶというとき この意
識した気持ちを捨てない。こだわり続ける。

このように取り扱った特殊な感性あるいは感情――早い話が いわゆる喜怒哀
楽と言いますかその感情を共有すると言いますか――としての気持ちのことで
はないかと。



さてこのとき:
★ 哲学するにあたって、「情」は不要なのだろうか。

☆ 哲学するひとにも 情は起きていると一般的に考えられます。そしてその
ひとの存在や人格の全体において《哲学する》ということだと思います。

情が起きていれば それを存在は――つまり 要するに《哲学するわたし》は
――ふくみ持っている。
・・・そういうことではないかと考えます。


感性と理性そしてそれにヒラメキや良心のそなわった《わたし》が ものごと
を認識しどう扱うかを判断します。情なる気持ちは その中におさまっていま
す。





ぶっちゃけた言い方をしますと ひとの自己表現は そこにそのひとの人間の
すべてが直接・間接に表わされているはずです。情は 《そのひとの人間すべ
て》にふくまれます。

このことが分からないのだというふうに人間一般を捉えたなら――おそらくそ
れは 間違っていると思うのですが―― その捉えたひとは 《情を込めて情
にからめて情にうったえるかたちで》自己表現をするのでしょう。

情を突出させることは おそらく相手と自分とのマ(間)が違って来ると思い
ます。くっつき過ぎるマになり それゆえに情の突出は不要だと見ます。
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この回答へのお礼

情を通して相手との(間)に違いが生じると云う事は、価値観の違いと判断してよいでしょうか?
また、(間)に付いての説明が欲しいです。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/02/07 08:54

哲学は英語でphilosophyと書き、これは「愛」と「智」を表しています。



哲学の出発点は「愛」と「智」を用いて人や世界の根源を探求することなのですが、ここからが哲学特有の特徴というか問題点で探求するターゲットが定まっていません。
逆に言えば、ターゲットは自由に決めることができるのです。

そのため、広範囲な分野(論理学、認識学、医学、自然学等)において哲学という言葉が出てくるようにしまい、今日では哲学そのものの定義すら揺らいでいる状態です。

質問にある「情」についてはターゲット次第です。例えば、哲学的視点で論理学を探求するのであれば、おそらく「情」はおそらく不要でしょう。
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この回答へのお礼

その論理学と云うのが私には難しくて。
未だに演繹や帰納の考え方が、身に付きません。
でも、確かに情の入り込む余地はなさそうですね。

有り難うございました。

お礼日時:2019/02/07 08:38

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