![](http://oshiete.xgoo.jp/images/v2/pc/qa/question_title.png?e8efa67)
hakobuluさん
の回答に答えてないので、別に回答させていただきます。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11188591.html
のNo.18についてです。
根気強く対話に応じていただきありがとうございます。
どのような発想をされているかが良く理解できました。
>>『文での個別の意味として「動作・作用が、どんな状態・状況で行われるか、ということを表わす」こと』こそが、『「に」自体の意義』なのです。
これは、先にも説明した通り「暗いうち―起きる」という文での意味の説明です。
(四)動作・作用が、どんな状態・状況で行われるか、ということを表わす。
「暗いうち―起きる/卒業―際して/言うなり―なる/会わず―帰る/用心―用心を重ねる〔=いやが上にも用心する〕/泣く―〔=泣こうとしても〕泣けぬ思い/言う―言われぬ〔=筆舌に尽くせぬ〕苦しみ/行く―〔=こと〕は行くが、少し遅れる/大揺れ―揺れる」
となっている通り、「に」自体の意義が不明なため、(一)~(八)までの文例を羅列したものの一つということです。これは、くどいようですが、『「に」自体の意義』ではなく、例に挙げられた文での意味に過ぎません。
これでは、
(一)動作・作用を受けた結果、その事物が存在する場所を表わす。
「自動車が門の前―止まっている/本棚―本が並べてある/バス―乗る/壁―地図を貼ハる」
や、(二)(三)(四)~(八)と何が異なるのか、何故同じ「に」が使用されるのかが不明で、肝心の本質が説明されていません。種々の使用例を挙げ、現象、機能を記述したに過ぎません。
「に」が場所を表したり、「動作・作用が、どんな状態・状況で行われるか、ということを表わす。」と支離滅裂です。
このため、では「自動車が門の前で止まっている」の「で」と「に」は何がどう異なるのかという疑問が生まれ、これにに答えることができません。
参考までに、三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社:1956年版,季節社:1971)の格助詞「に」の説明を以下に示します。語の意義、本質とは何かがご理解いただけるのでは。
○「に」
家【に】居る。
机の上【に】ある。
来週【に】休日がある。
空間的時間的な位置付けの意識が「に」で表現されます。これは固定したつながりとしての意識ですが、運動し変化したことを意識して位置付ける場合もあります。
(i) 父【と】めぐりあう。
(j) 父【に】めぐりあう。
「あう」ということは、二人がならぶことです。その意味で、めぐりあった結果としての二人という観点から(i)「と」と表現することが行われています。一方、「あう」ということは、ひたりがならんでいない状態からならぶ状態へ移行するという過程をふくんでいます。この移行による位置づけという観点(j)から「に」が使われます。
(k) 私は立派な人間【に】なりたい。
(l) この本を彼【に】おくろう。
(m) 下【に】居ろう。
(k)は属性の移行、(l)は所属の移行、(m)は場所的な移行です。/
ご理解いただけたでしょうか。
■
No.18ベストアンサー
- 回答日時:
#17です。
>>>「湯が水―なる」の「湯」を場所だと考えてしまうようでは論外でしょう。
貴説明によれば、「に」の前に置かれた「水」が場所だといっているのですよね。そんな、馬鹿なということです!
そうではなく、「に」は水を時間的に位置付け、「なる」の静的な対象として捉え「に」と表現しているということです。
:
失礼。
湯は水の誤植でした。
時間軸における移行的位置づけ
なのですね。
それはそれで理解しています。
私が申し上げているのは、
「湯が水―なる」
という文において、「に」以外の日本語の意味をすべて理解しているにもかかわらず、「に」の前に置かれた「水」を場所だと認識するような人は、外国人であれ日本人であれ、そもそも文というものを理解することはできないでしょう、ということ。
『八つも並べて勝手に考えろ』なんて無茶なことを辞書は言っているのか?的な言説をされてましたので、いえいえ、『勝手に考えなくてはならない』と悩むような人に文というものを理解することはできないのではないか、という意味です。
これは、たとえ意義を示したからといって解決できる問題ではないのですから、意義を示す示さないというのは、日本語理解とは何の関係もないことでしょう、と申し上げている件です。
あとは、もう少し三浦説を読んでからにしたほうが良いでしょうね。
知者に申し訳ありませんので。
それにしても、たしかに「に」に関しては削除されていますね、おっしゃるとおり。
なぜ???
何か嫌な予感が。(笑)
三浦が放棄した点について論じ合うことになるのですか?
>>三浦が放棄した点について論じ合うことになるのですか?
三浦説を批判、展開できるところまでいければ良いのですが、まずは正しく理解することですよね。■
No.17
- 回答日時:
#16です。
1.
>この、(一)と(二)~(八)に同じ「に」が使用されるのは何故か、どういう関連があるのかを明らかにするのが辞書の役目で、
:
それは、アスナロウさんの勘違いかと。
そもそも、辞書に他の役目はない、と断言する根拠でもおありなのですか?
つまり、『同じ「に」が使用されるのは何故か』ということを明らかにする以外の目的があってはいけない、という根拠はなんですかね?
2.
>これには答えずに、ある文を八つも並べて勝手に考えろと云っているのですが?
:
やはり根本的な勘違いをされていることがよくわかりました。
そもそもですが、本質は何かを知る必要性があるのは、「ある文」の意味を正しく理解するためなのです。
本質を知ること自体を目的とするのは本末転倒である、ということを認識なさったほうがよろしいでしょう。
日本語の文が表現する意味において「に」がどういう役割を果たすことができるのか、について解説しているのが辞書です。
「ある文」を並べているのは、あくまで付け足しであることぐらいお分かりになりませんか?
これがなくても語釈は成立しますよ。
わかりやすくするために挙げるのが例文と呼ばれるものです。
大辞泉の例でみてみましょう。
1 動作・作用の行われる時・場所を表す。「三時に間に合わせる」「紙上に発表する」
8 動作・作用の行われ方、その状態のあり方を表す。「直角に交わる」「会わずに帰る」
など15項目に分類されている。
たとえば、日本語をあまり知らない外国人が、新聞で何かを発表したいことを誰かに伝えたい場合。
日本語でどのように言うべきか、彼は迷います。
紙上は発表する
でもなく
紙上が発表する
でもなく
紙上を発表する
でもない・・・なんだったけ???
しかし、
「に」に、
1 動作・作用の行われる時・場所を表す。
という用法のあることを知っていれば、
紙上に発表する
と言えばいいことが簡単に理解できる。
この場合、「紙上=場所・場面」であることを理解できるだけの能力は必要ですが、『八つも並べて勝手に』考える、必要などどこにもありません。
同様に、
1 動作・作用の行われる時・場所を表す。
という「に」の語釈を知っていて、且つ、「紙上=場所・場面」を理解する能力さえ持ち合わせているなら、
紙上に発表する
という文の意味も即座に理解できる。
どこに問題がありますかね?
辞書は、たくさんの例文の中から、その用法を探すクイズじゃありませんよ?
「自動車が門の前―止まっている」の場合の「門の前」は場所である。
「湯が水―なる」とは、湯が変化して水という結果になることを意味している。
ということを理解する能力が最低限必要です。
「に」の用法がわからないからといって、
「湯が水―なる」
の「湯」を場所だと考えてしまうようでは論外でしょう。
それは、たとえ「意義」を教えたとしても何ら変わらないことです。
丁寧なコメントを有難うございます。
若干お答え致します。
>>『同じ「に」が使用されるのは何故か』ということを明らかにする以外の目的があってはいけない、という根拠はなんですかね?
以外の目的が補足としてあってもかまいませんが、先ず本質である語の意義を明らかにするのが辞書の役割です。
>>「ある文」を並べているのは、あくまで付け足しである
15項目に分類されているのが「付け足し」ですか? そうではなく、それに依拠し、その説明をしているだけです。三浦の説明と比べて下さい。
>>「湯が水―なる」の「湯」を場所だと考えてしまうようでは論外でしょう。
貴説明によれば、「に」の前に置かれた「水」が場所だといっているのですよね。そんな、馬鹿なということです!
そうではなく、「に」は水を時間的に位置付け、「なる」の静的な対象として捉え「に」と表現しているということです。■
No.16
- 回答日時:
#15です。
>当方も言語実体観/言語道具観に呪縛された思考がどのように展開するのかの理解が深まり、将来本にでも纏めるときに多いに役立つと感じています。
:
フィールドワークの一環としてお役に立てるなら光栄なことです。
どんどんご利用ください。
>正に、そのことの理解の誤りが根本にあるので話しをしています。
>その違いを明らかにするためには、語の意義を明らかにし文に媒介される構造を正しく理解しなければなりませんが、これを安易に混同しているということを再三再四指摘しております。
:
その点は、もう少しあとにしたほうが良さそうですね。
語の定義が、一素人の私とおそらく異なっているようにも思われるので。
>スタイル以前に誤った説明をしていては正しく受け取られないのは当然です。
:
そうですか。
ま、少し勉強してみましょう。
ただ、ひとつ教えていただきたいのは、辞書語釈(自体の正否は別にして)の説明としても誤っていますかね?
>辞書が示さなければならないのは規範としての語の概念、意義です。ある文の意味ではありません。
:
到底納得できない言説ですが、水掛け論になっているのは、わたしの知識が乏しいためなのでしょう。
これも、もう少し間を置いたほうが良さそうです。
>論理の筋を通さないと誤謬に転落します。
:
それはそうですけどね。
通らないところに通すのは無理でしょう。
通る前提で進むのは当然ですが、通らないとしても、そういうことだってあるでしょうよ、と申し上げているだけです。
この世は誤謬で成立していますよ。
>>辞書語釈(自体の正否は別にして)の説明としても誤っていますかね?
辞書が示さなければならないのは規範としての語の概念、意義です。ある文の意味ではないので誤りです。
(一)動作・作用を受けた結果、その事物が存在する場所を表わす。
「自動車が門の前―止まっている/本棚―本が並べてある/バス―乗る/壁―地図を貼ハる」
(二)変化の結果、生じたものであることを表わす。
「湯が水―なる/信号が赤―変わる/豆をひいて粉―する」
この、(一)と(二)~(八)に同じ「に」が使用されるのは何故か、どういう関連があるのかを明らかにするのが辞書の役目で、これには答えずに、ある文を八つも並べて勝手に考えろと云っているのですが?
つまり、答えになっておらず☓ということになります。■
No.15
- 回答日時:
#14です。
1.
>意義と意味の相違と関連を正しく理解しましょう。
:
今話しているのは、そういうことじゃないでしょう。
[ 意義 ]
アスナロウさんは、
・そのものでなければ△果たす(担う)ことの出来ないという意味での、存在理由。(新明解)
という意味で使っている。
私は、
・言葉によって表される意味・内容。(大辞泉)
という意味で使っていることになりますかね。
私は文意に着目しているので「意味」と表現し、アスナロウさんは本質に着目しているので「意義」と表現している。
それだけの違い。
両者の違いはたしかにありますが、格助詞「に」には意味も意義もありますよ。
意味も意義から生まれたものですから、意義を述べるに際して意味をわざわざ否定する必要はなかろうものを・・・と申し上げているだけです。
2.
>6.での応答は、「人それぞれのスタイル」に解消されていますが、それでは何の解決のもなりません。
:
どんなに意味を説明しても、その相手が日本人だろうと外国人だろうと、わからない人はわからないのですから仕方ないでしょう、と申し上げた箇所です。
たとえわからないままだとしても、それがその人なりのスタイルなのだから、謙虚に聞く相手でなければ何を言っても無駄ということ。
3.
>
アスナロ⇒「いや、機能はそうかもしれないが、しかし本質はこういうものであり、これを理解しないと語、文、言語の完全理解にはつながりませんよ」と再三述べているつもりですが、
hako⇒それは事実に反するかと。
辞書語釈を誤りだと断言なさったはずですよ?
辞書語釈=機能説明でしょう。
アスナロ⇒(辞書語釈は)誤りなので、正しい理解をしないと語、文、言語の完全理解にはつながりませんよ」と再三再四述べているつもりですが。
:
『事実に反する』とは、
『機能はそうかもしれないが』とおっしゃるが、それは辞書語釈を認めていることになる。しかし、今までは認めてこなかったでしょう。
という意味です。
4.
>
hako⇒言語は当初(恣意性を持った)パロールとして(一個人の中で独自性をもって)生成されます。
アスナロ⇒それは言語ではなく、ラングである規範です。「(一個人の中で独自性をもって)生成され」たものは他人からは見えず、カメラも向けられませんので写真に撮れません。それが、感性的な形に表現されて初めて、他者は見ることができ、音を記録したり、文字にされれば写真なり、活字なりに展開できます。
:
「それ」は何を指していますか?
代名詞を使わず言い換えていただけると助かります。
言語は【当初】(恣意性を持った)パロールとして
と述べたと思いますが、文意は通りませんか。
5.
>是非、感想なり、質問をお待ちしております。
:
いずれ時期が来たらお願いするかもしれませんので、その際はよろしく。
6.
>植木等のスーダラ節の世界で、「人事を尽くして天命を待つ」境地とは程遠いと感じます。
:
しかし、いちいち目くじらを立てていても仕方ないでしょう。
丁寧な応答をありがとうございます。
当方も言語実体観/言語道具観に呪縛された思考がどのように展開するのかの理解が深まり、将来本にでも纏めるときに多いに役立つと感じています。
また、他に接続助詞「ので」の辞書の語釈が全く誤っていることの理解が深まりました。これは、別途[mixi] 言語学にでもTOPICとして取り上げたいと思っています。
1.
>>今話しているのは、そういうことじゃないでしょう。
正に、そのことの理解の誤りが根本にあるので話しをしています。
>>・言葉によって表される意味・内容。(大辞泉)
という意味で使っていることになりますかね。
そうです。その違いを明らかにするためには、語の意義を明らかにし文に媒介される構造を正しく理解しなければなりませんが、これを安易に混同しているということを再三再四指摘しております。
>>意義を述べるに際して意味をわざわざ否定する必要はなかろうものを
だれも否定はしていません。その相違と関連を正しく理解しましょうと何度も言っていますが。
2.
>>それがその人なりのスタイルなのだから
スタイル以前に誤った説明をしていては正しく受け取られないのは当然です。当然の成り行きだということを言っているのですが。それゆえ、当方はしつこく誤りを指摘している訳です。
3.
>>最初から誤りと断定しています。意義を説明すべき所で機能、意味を説明するのは誤りで、事実質問者は意味を意義と誤解していると何度も指摘していますが。
4.
>>「それ」は何を指していますか?
<「(一個人の中で独自性をもって)生成され」たもの>です。
>>言語は【当初】(恣意性を持った)パロールとして
と述べたと思いますが、文意は通りませんか。
>ラングの立場から語釈しているのが辞書なのではないでしょうか?
辞書が示さなければならないのは規範としての語の概念、意義です。ある文の意味ではありません。
<【当初】(恣意性を持った)パロール>の(恣意性を持った)が何を言われているのか不明です。
言語とは表現自体であり、パロールに対応するのは話者の個別の対象認識としての概念で、これをラングが媒介するのですが、この媒介の構造が正しく理解されていないと思います。
5.
お待ちしております。
6.
論理の筋を通さないと誤謬に転落します。■
No.14
- 回答日時:
#13です。
1.
>これが、格助詞「に」の意義だというのが誤りということです。
:
まあ、違いはたしかにありますが、この話の流れで、意義も意味も大差ないでしょう。
そんな小姑みたいなこと言わずに、趣旨をつかんでいただきたいものです。
2.
>これを意義と教えられると、「会議は3時に始まります。」「父にめぐりあう。」には何故「に」が使用されるのですかという当然の疑問が生まれ、混乱することになります。
:
ですから、それは着点と申し上げたはず。
誰も、場所だけが意義だなんて言ってませんよね?
3.
>「いや、機能はそうかもしれないが、しかし本質はこういうものであり、これを理解しないと語、文、言語の完全理解にはつながりませんよ」と再三述べているつもりですが、
:
それは事実に反するかと。
辞書語釈を誤りだと断言なさったはずですよ?
辞書語釈=機能説明でしょう。
わたしは小姑じゃありませんので、それはもうどうでもいいですけどね。
本質とは関係ないことだから。
あなたの姿勢について苦言を呈しただけ。
4.
>>>言語は当初パロールとして生成されます。
【頭の中に貯蔵された財宝】は他者からは伺うことができません。何らかの感性的な形として表現されなければ他者は理解できません。言語の本質は、表現であり規範(ラング)自体ではありません。
:
言語は当初(恣意性を持った)パロールとして(一個人の中で独自性をもって)生成されます。
という意味で申し上げた箇所ですよ。
恣意性があるので理解できないからこそ、(本質云々はさておき、)理解できるためにラングが必要になる、という趣旨です。
5.
>本質ではなく、機能でありそれがどのように機能しているのかを科学的に捉え説明できなければならないということです。
:
このへんはもう少し三浦著作を読んでからでないと、申し訳ないようです。
『日本語はどういう言語か』が近日到着するので。
読むだけでも大変そうなので、相当日月はかかりそうですが、また色々聞かせていただくかもしれません。
お陰様で彼の発想の斬新な雰囲気だけは何となく伝わってきています。
6.
>当方が最初から指摘しているのは、上のような事態です。この解釈のやり方は、無限に、永遠に続くしかありません。質問者はそれを楽しんでいるのでしょうが、文法を云々する日本人がこの状態で、
:
まあ、人それぞれのスタイルがありますので。
あれこれ気を揉んでも仕方ない。
わかる人はわかるしわからない人はわからない。
わからない人でもわかる時が訪れることもある。
この確率を挙げていくのが基本的な私の目標です。
些事にいちいちこだわってはいられない。
人事を尽くして天命を待つ
です。
なるようにしかならないという、あらゆる事象に通底した真理は、すでに自家薬籠中の物とされておられることと思います。
ごり押しする必要はまったくありません。
なるようにしかならないので。
丁寧な応答をありがとうございます。
1.
>>この話の流れで、意義も意味も大差ないでしょう。
そんな小姑みたいなこと言わずに、趣旨をつかんでいただきたいものです。
意義と意味の相違と関連を正しく理解しましょう。感情に奔っては論理を踏み外します。
2.
>>それは着点と申し上げたはず。誰も、場所だけが意義だなんて言ってませんよね?
格助詞「に」が多義だと云われているのでしょうか。再三再四指摘している通り、それは文での意味で、意義ではないと言っているのが理解されていないようです。こうして、個別の文の意味を羅列し、他の文には適合しないと繰り返す現状をどのように理解されているのでしょうか。
6.での応答は、「人それぞれのスタイル」に解消されていますが、それでは何の解決のもなりません。
3.
>>辞書語釈を誤りだと断言なさったはずですよ?
誤りなので、正しい理解をしないと語、文、言語の完全理解にはつながりませんよ」と再三再四述べているつもりですが。
4.
>>言語は当初(恣意性を持った)パロールとして(一個人の中で独自性をもって)生成されます。
それは言語ではなく、ラングである規範です。「(一個人の中で独自性をもって)生成され」たものは他人からは見えず、カメラも向けられませんので写真に撮れません。それが、感性的な形に表現されて初めて、他者は見ることができ、音を記録したり、文字にされれば写真なり、活字なりに展開できます。
5.
>>『日本語はどういう言語か』が近日到着するので。
是非、感想なり、質問をお待ちしております。
6.
>>なるようにしかならないので。
植木等のスーダラ節の世界で、「人事を尽くして天命を待つ」境地とは程遠いと感じます。■
No.13
- 回答日時:
#12です。
1.
>>>この文での「に」は、家(という場所)を表わすために使われている。
と言ったら間違いなのですか?
この文での意味であれば正しい表現です。これは、つまり文での機能であり本質ではありません。機能と本質を取り違えるのは誤りです。
:
以前も申し上げましたが、個人的には、
・この文では、「に」という格助詞を、どのような意図で(無意識に)使っているのだろうか?
という点に興味があります。
また、はじめて日本語を学ぶ方に対しても、
・この文での「に」は、家(という場所)を表わすために使われている。
と言えば、その機能を理解して(とりあえずは)正しく使っていただける可能性は高いとも思う。
それで十分なので、そのこと自体を否定するような言説には反論せざるを得ないわけです。
おっしゃるところの、機能と本質は異なる、という点はよくわかります。
ただ、上記のような機能解釈を否定しなければ、そうした説明ができないのですか?
と言いたいのですよ。
「それは機能としての解釈・説明であり、本質は云々・・・」のように言えば済む話ですよね?
このあたりの、あなたの神経がよくわからない。
2.
>再三注意しているように、共同規範としての格助詞「に」、つまり辞書に記すべき「に」の本質である概念が表す意義は家(という場所)とは直接関係ありません。この点を無造作に混同するのは、根本的な誤りです。
:
辞書に記すべき「に」の機能である概念が表す意義は家(という場所)とは直接関係ある。
ということじゃないんですか?
混同とか錯綜とかおっしゃいますが、それは異なる複数の意見を俯瞰しておっしゃっているだけで、わたし個人としては、特に混同も錯綜もしていませんよ。
かといって自説の認識手法で満足しているわけでもない。
論理的解説があれば、素直に認識を変えるだけの柔軟性はキープしています。
いずれにせよ、辞書機能について申しあげているのであり、
『この点を無造作に混同』しているわけではなく、
『根本的な誤り』というのは、あなたの勘違いにすぎません。
その上で、
「いや、機能はそうかもしれないが、しかし本質はこういうものであり、これを理解しないと語の完全理解にはつながりませんよ」とあなたの見解を述べれば済むことです。
であるのに、あなたは、
機能だけを記すのは誤りだ、と断言してしまう。
そこを改善すれば、もっと有意義なご回答ができるようになるかもですね。
3.
>ソシュールには規範と云う概念がなく、パロールからラングを分離し言語本質としてしまいましたが、現実に存在するのはパロールとしての文、文章なので、これを混同して論ずるしかなく、科学的な言語論ではなく、単に形式や機能を記述するしかなくなり、意味と意義の相違と関連も論ずることができません。
:
素人考えでは、言語本質はラングのほうだという気がするのですが、そうではないということですか。
これもよくわかりませんねえ。
おっしゃるように、『現実に存在するのはパロールとしての文、文章』なわけですから、ある文中に使われている言語について、ラングの立場から語釈しているのが辞書なのではないでしょうか?
むろん、言語は当初パロールとして生成されます。
しかし、そこに一定の規則性を持たせるからこそ言語足り得るのであって、言語足り得たものがラングでしょう。
最初のある個人によってパロールとして放たれた言語は、言ってみればカントの物自体のようなもので、その意義・本質を推測することはできても「正確に」知ることはできないでしょう。
それを探る分野があっても良いでしょうし、大いに興味深くもありますが、しかし、人間は社会共有ツールとして確立されたラングを使用していくしかないのですから、ラングの機能・本質を見極めようとする行為を『誤り』と言ってしまうのは、どうなんでしょう。
カントは人間が認識できるのは現象であって物自体ではない、と言っていたと思います。面白い発想と思いますし、個人的には同意しています。
とはいえ、実際問題として現象しか認識できないという事実が存在するのなら、その現象自体の意味を探るのは、むしろ必然的な行為でしょう。
アスナロウさんは、本質でないのだから、そんなことをする意味は無い、とおっしゃっているようなものです。
ラングの意義、すなわちラングとしての本質は、それはそれとして思慮の対象となり得るのであって、パロールを完全解説するのは、(可能か否かはさておき、)別の分野と考えれば済むのではないか、という気がしますけどね。
4.
>なお、ソシュールがラングを言語本質とするしかないのは彼が依拠する不可知論哲学の必然的結果で、論理的強制です。対象の本質を認識し得ないのでは、意味を捉えることができないからです。
:
おっしゃりたいことはわかりますが、上のような理由で納得にまでは至りません。
いずれによ、一連の言語論に関しては知見を持ちませんので、アスナロウさんと対等に論議できる段階ではないようです。
そのうち三浦氏の著作でも読んでみましょうかね。
わからないことは質問させていただくかもしれませんので、その際はよろしく。
1.
>>そのこと自体を否定するような言説には反論せざるを得ないわけです。
<この文での意味であれば正しい表現です。>と記している通り、「そのこと自体を否定」しているわけではありません。これが、格助詞「に」の意義だというのが誤りということです。
これを意義と教えられると、「会議は3時に始まります。」「父にめぐりあう。」には何故「に」が使用されるのですかという当然の疑問が生まれ、混乱することになります。
こういう、当然の混乱が生じるので反論せざるを得ないわけです。
2.
「いや、機能はそうかもしれないが、しかし本質はこういうものであり、これを理解しないと語、文、言語の完全理解にはつながりませんよ」と再三述べているつもりですが、回答者の思い込みが邪魔をしてご理解いただけないようです。
3.
>>言語本質はラングのほうだという気がするのですが、そうではないということですか。
「言語は言の運用によって、同一社会に属する話手たちの【頭の中に貯蔵された財宝】であり」と、先に回答したところですが、これを読んでいただけたのでしょうか。この立場からは、漱石の作品『吾輩は猫である』は言語ではないことになりますが?
>>言語は当初パロールとして生成されます。
【頭の中に貯蔵された財宝】は他者からは伺うことができません。何らかの感性的な形として表現されなければ他者は理解できません。言語の本質は、表現であり規範(ラング)自体ではありません。
>>ラングの機能・本質を見極めようとする行為を『誤り』と言ってしまうのは、どうなんでしょう。
ラングの機能・本質を見極めようとする行為を『誤り』と言っているのではなく、その本質が規範であることを正しく科学的に捉えられていない点を『誤り』として問題にしています。ラングの機能・本質を見極めようとする行為が正しく行われずに誤っているのが問題です。
>>本質でないのだから、そんなことをする意味は無い、とおっしゃっているようなものです。
本質ではなく、機能でありそれがどのように機能しているのかを科学的に捉え説明できなければならないということです。
>>パロールを完全解説するのは、(可能か否かはさておき、)別の分野と考えれば済むのではないか、という気がしますけどね。
→補足へ
No.12
- 回答日時:
#11です。
>「家【に】居る。」の「に」は<『空間的な対象の位置付け』の認識を表す>もので、この文では家を空間的に位置付けて居ると表現しています。これにより、家と「居る場所」との結びの付きの意識が表現されています。
:
この文での「に」は、家(という場所)を空間的に位置付けて居る。
わけですね。それを、
この文での「に」は、家(という場所)を表わすために使われている。
と言ったら間違いなのですか?
同じことだと思うのですがねえ。
少なくとも、どれほど重大な問題が出るのか理解できません。
ソシュールも「家【に】居る。」に絡めて解説できるようになっていただければ有難いですね。
>>この文での「に」は、家(という場所)を表わすために使われている。
と言ったら間違いなのですか?
この文での意味であれば正しい表現です。これは、つまり文での機能であり本質ではありません。機能と本質を取り違えるのは誤りです。
再三注意しているように、共同規範としての格助詞「に」、つまり辞書に記すべき「に」の本質である概念が表す意義は家(という場所)とは直接関係ありません。この点を無造作に混同するのは、根本的な誤りです。
語、文、文章は質的に異なる段階の統一体で、語が集まって文になるのではありません。
ソシュールは表現としての文ではなく、規範としてのラングを言語本質とし、「言語は言の運用によって、同一社会に属する話手たちの頭の中に貯蔵された財宝であり」と、いわゆる言語道具観を展開しています。
これが誤りであるのは、漱石の作品『吾輩は猫である』という文、文章が言語ではなく、同一社会に属する話手たちの頭の中に貯蔵された財宝」が言語だ云うことになることで明らかでしょう。
ソシュールには規範と云う概念がなく、パロールからラングを分離し言語本質としてしまいましたが、現実に存在するのはパロールとしての文、文章なので、これを混同して論ずるしかなく、科学的な言語論ではなく、単に形式や機能を記述するしかなくなり、意味と意義の相違と関連も論ずることができません。
当然、意味論など展開できません。これを、語用論などという現象論で糊塗することになります。これが現在の言語論、文法論の現状ということです。■
No.11
- 回答日時:
#10です。
1.
>不都合云々を問題にしているのではありません。では、何が対応し、何を表しているのでしょうか?
たとえば、「おい、君」「ああ、うまかった。」などの、「おい」「ああ」、「う」「よう」「まい」などは何を表しているのでしょうか。
:
特に不都合は無いが辞書語釈に異論を唱えている、ということですか?
2.
>これが、『空間的な対象の位置付け』とイコールですか?問題にしているのは語の意義です。言語感覚を疑います。
:
表現が不正確だったかもしれませんが、主旨は、
家【に】居る。
・この文における格助詞「に」は、場所(空間的対象の位置付け)の認識を表します。
という箇所です。
3.
>「語彙規範は、語の意義である概念と形式の結び付きを規定するものです」の命題の意味は次の通りです。
「に」という形の格助詞は<『空間的な対象の位置付け』の認識を表す>もので、「こ」や「l」ではありません。「一(いち)、二(に)」の「(に)」は数詞で格助詞ではありません。
という規範、取決め、約束を規定しているということです。
:
語彙規範が何かということを知りたいのではなく、語彙規範がそういうものだとして、だからどうなのだということを言いたいのか、
家【に】居る。
という文にあてはめて、具体的に、その命題を解説してみてください。
とお願いしている次第です。
4.
>これらの点は、絵、写真などの直接感性的な表現と、概念による認識、表現である言語表現の相違を念頭に考えていただくと理解しやすいと思います。
:
そのあたりのことはわかりますよ。
5.
>その根源には、ソシュールのカントの不可知論に依拠した誤りがありますが、この点は又別途ご説明したいと思います。
:
楽しみにしております。
そのうち機会がありましたらぜひ。
カント言うところの物自体不可知論には以前から聞きかじり程度の興味を持っています。
ソシュール言語学も、この辺りに絡んでいるわけですか。
シニフィアンとシニフィエの関係性が恣意的であるのは理解できますが、これを不可知論に結びつけているということですかね。
しかし、ランゲ自体は必然的に発生しているわけですから、不可知論を持ち込んでしまうと、【ある文】の意味を探るという方向性からずれてしまいませんかね。それを「方向性」とすること自体の可否は別として。
なにも知らない素人のつぶやきにすぎませんが。
1.特に不都合は無いが辞書語釈に異論を唱えている、ということですか?
問題は不都合か否かではなく、正しいか否かです。
『客体として対応するもの』が存在していなければ、何に対応する概念か、何を表しているかです。何も表わさずに単に「に」は感性的な形、形式かということです。
2.>・この文における格助詞「に」は、場所(空間的対象の位置付け)の認識を表します。
という箇所です。
「場所(空間的対象の位置付け)」と記されていますが、場所=「位置付け」ではありません。場所の意義は辞書を引用した通りです。位置付けの認識は空間的、時間的なもので、空間的に位置付けられた地点が場所になります。これと、位置付けの認識は全く異なります。
3.語彙規範がそういうものだとして、だからどうなのだ。
「家【に】居る。」の「に」は<『空間的な対象の位置付け』の認識を表す>もので、この文では家を空間的に位置付けて居ると表現しています。これにより、家と「居る場所」との結びの付きの意識が表現されています。
4.ソシュール言語学も、この辺りに絡んでいるわけですか
ソシュールは『講義』で、【無定形】な思想と音の誕生を語る有名な波の比喩の図式を掲げています。
そこでは、「いささか神秘めくが、<「思想・音」は区分を内含し、言語は二つの無定形のかたまりのあいだに成立しつつ、その単位をつくりあげるのである>と思想を「無定形のかたまり」とか「星雲のようなものであって、そのなかでは必然的に区切られているものは一つもない」と不可知論を展開しています。
思想は、そのよって立つ現実の世界のありかた、すなわち概念に反映した対象のありかたによって必然的に区切られています。さもなければ、思想相互の客観的な区切りすら存在しないことになってしまいます。このため、言語の本質を表現としてのパロールではなく規範であるラングとする根本的な誤りに陥っています。これでは、語の意義とパロールの意味の媒介を捉えることができず、学校文法や、それに従った貴発想のような格助詞理解が生まれることになります。■
No.10
- 回答日時:
#9です。
いやはや、わたしの読解力がないのか、アスナロウさんが目くらましをしようとしているのか、どちらなのかと悩んでおります。
むろん後者だと確信していますが。(笑)
1.
>
家【に】居る。
机の上【に】ある。
の場合、「家」「居る」「机」「上」「ある」は話者の対象としての存在を、実体、属性として概念化したものです。
>しかし、「に」「の」には話者の対象である客観、客体として対応するものが存在していません。
:
客体として対応するものを表わすのが役目なのですから、それ自体に『客体として対応するもの』が存在していなくても何の不都合もないのではありませんか?
「に」「の」単体の中に、それが存在しなければならない必要性が、まったく理解できないですね。
2.
>当方の回答で、『空間的時間的な位置付けの【意識】が「に」で表現され』とわざわざ、【】を付け注意を促したように、『大辞林』の語釈にはこの【意識】という語がなく、「三浦説明と同じこと」にはならないことに注意されなかったようです。
:
わざわざ [] 付きで、
[ 大辞林語釈 ]
a.
家【に】居る。
机の上【に】ある。
〔空間的な位置を示すもの〕として「家」「机の上」という対象を捉えており、
(2)場所・範囲を指定する。
という用法。
と記したはずです。
その上で、(この語釈内容は)
『a も b も 『空間的時間的な位置付けの意識が「に」で表現され』ていますよね?』
とお尋ねした次第。
この点を見逃されたのだと思いますが、それはさておき、
【〔空間的な位置を示すもの〕として「家」「机の上」という対象を捉え】るのは意識以外の何ものでもないのでは?
3.
>格助詞「に」は空間的・時間的な対象の位置付けの認識を表します。
:
実際の文で検証できない意義などあり得ませんから、
家【に】居る。
で検証してみましょう。
この文における『空間的な対象の位置付け』とはすなわち「場所」のことでしょう。
つまり、
・この文における格助詞「に」は、場所(空間的対象の位置付け)の認識を表します。
という意味になります。
・この文における格助詞「に」は、〔空間的な位置を示すもの〕として「家」という対象を捉えており、
(2)場所・範囲を指定する。
という用法。
という大辞林語釈と何が違いますか?
4.
>語彙規範は、語の意義である概念と形式の結び付きを規定するものです。
:
そういう難しそうなことを言って目くらましをしたおつもりかもしれませんが、私には通用しませんよ。
家【に】居る。
という文にあてはめて、具体的に、その命題を解説してみてください。
適切な疑問をありがとうございます。
以下に説明しますので、理解を深められるよう願っております。
>>それ自体に『客体として対応するもの』が存在していなくても何の不都合もないのではありませんか?
不都合云々を問題にしているのではありません。では、何が対応し、何を表しているのでしょうか?
たとえば、「おい、君」「ああ、うまかった。」などの、「おい」「ああ」、「う」「よう」「まい」などは何を表しているのでしょうか。
>>「に」「の」単体の中に、それが存在しなければならない必要性が、まったく理解できないですね。
では、「に」「の」は単なる形、絵なのでしょうか。
「客体として対応するものを表わすのが役目」であれば、絵や写真で十分なはずなのですが、何故言語表現を生み出したのでしょうか。
「家居る」「机上ある」で「何の不都合もない」のではなく、不都合なため「に」「の」を使用しています。
>>この文における『空間的な対象の位置付け』とはすなわち「場所」のことでしょう。
ば‐しょ【場所】
1 何かが存在したり行われたりする所。ある広がりをもった土地。「魚の釣れる場所」「約束の場所」
2 人がいる所。また、物が占めるために要する広さ。「立っている場所もない」【デジタル大辞泉】
です。これが、『空間的な対象の位置付け』とイコールですか?問題にしているのは語の意義です。言語感覚を疑います。
>>実際の文で検証できない意義などあり得ませんから、
語の意義を理解しているがゆえに、これを媒介として文に表現するのであり、この意義を明らかにする必要があります。この言語表現の媒介の構造を理解することなく、文の意味と混同するのは誤りです。
>>そういう難しそうなことを言って目くらましをしたおつもりかもしれませんが、私には通用しませんよ。
………
という文にあてはめて、具体的に、その命題を解説してみてください。
「語彙規範は、語の意義である概念と形式の結び付きを規定するものです」の命題の意味は次の通りです。
「に」という形の格助詞は<『空間的な対象の位置付け』の認識を表す>もので、「こ」や「l」ではありません。「一(いち)、二(に)」の「(に)」は数詞で格助詞ではありません。
という規範、取決め、約束を規定しているということです。■
No.9
- 回答日時:
#7です。
>>>a も b も 『空間的時間的な位置付けの意識が「に」で表現され』ていますよね?
はい。「位置付け」「着地点」ではなく、「位置付けの【意識】」が「に」で表現されています。
:
a も b も 大辞林の語釈内容です。
それが、
『空間的時間的な位置付けの意識が「に」で表現され』ているのなら、
これは三浦説明としてアスナロウさんが提示なさった文なのですから、
大辞林も三浦説明と同じことになるのではありませんか?
と申し上げた次第。
>この点で、根本的に誤っています。
上記、貴解釈も同様であることがお判りと思います。
では、正しくは何かといえば話者の対象の捉え方であり、質問に引用した三浦の説明の通りということになります。
:
と補足で大辞林の語釈と、それに基づく私見を批判なさったわけですが、これは矛盾でしょう。
『正しくは何かといえば』とのことですが、今回は、同じだとお認めになったことになりますから。
撤回される、ということですか?
丁寧な応答、反論をありがとうございます。
おかげで、見解の相違の根源が何であり、形式主義/機能主義的な発想の行方が明確になりました。
基本的な点は、先にも回答の通り用言、体言が表すのは話者の客体としての対象を概念として捉え表現した語です。しかし、助詞/助動詞などは話者の客体として存在する対象ではありません。この点の認識の相違が根本的な相違の根源です。
家【に】居る。
机の上【に】ある。
の場合、「家」「居る」「机」「上」「ある」は話者の対象としての存在を、実体、属性として概念化したものです。
しかし、「に」「の」には話者の対象である客観、客体として対応するものが存在していません。
格助詞「に」を『大辞林』は「動作・作用が行われ,また存在する,時間的・空間的な位置や範囲を示す」と云い、『新明解』は「動作・作用が、どんな状態・状況で行われるか、ということを表わす。」と語釈していますが、これらは話者の対象を取り上げており、「に」の意義とは成り得ない点で誤りと云っているものです。「着地点」や「状態」も同じです。
>>『空間的時間的な位置付けの意識が「に」で表現され』ているのなら、
これは三浦説明としてアスナロウさんが提示なさった文なのですから、
大辞林も三浦説明と同じことになるのではありませんか?
当方の回答で、『空間的時間的な位置付けの【意識】が「に」で表現され』とわざわざ、【】を付け注意を促したように、『大辞林』の語釈にはこの【意識】という語がなく、「三浦説明と同じこと」にはならないことに注意されなかったようです。
助詞、助動詞、感動詞などは、話者の客体を概念化したものではなく、話者の関係認識や意志、感情などの主観を客体化することなく直接に表現するもので、「う」「よう」なども客体化すれば「意志」又は、「意志する」などの体言、用言になります。
格助詞「に」は空間的・時間的な対象の位置付けの認識を表します。
文、文章は話者、作者の個別の概念認識を文法を媒介に表現したもので、対象→認識→表現という立体的な文法を媒介とする過程的な構造をもっています。
文法というのは、音韻法、語彙法、文法、文章法など言語表現の全体を媒介する規範の体系で、単に文の規範だけではありません。語彙規範は、語の意義である概念と形式の結び付きを規定するものです。■
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先の、<【「で」と「に」についてなのですが、どちらも《状態》を表す助詞ですよね】その2 >では形容動詞が問題にされていましたが、「真面目に」は活用を持たない属性表現の語「真面目」+格助詞「に」で、それぞれ意義が異なり、これを一語の形容動詞とするのは、日本語の事実に相違する誤りです。
活用とは、次に続く語による語尾の形の変化で、意義は変わりません。したがって、「に」は格助詞としての意義を表す一語で、このような基本的な誤認に基づき議論を進めても益々議論が混乱、錯綜するだけです。
この点を明確にし、正さないとレーニンのいう「熱いかゆの釜のまわりを回っているネコ」のようなもので、核心に近づくことはできません。■
>>「に」に関しての本質というなら、個人的には「着点を表す」と理解してきました。
まず、助詞/助動詞が表すのは一体何かを明確にする必要があります。
「石」「赤い」「走る」などの用言は話者の対象である客体として存在する実体や、その属性を概念化したものです。「悲しい」「淋しい」「要望」「懇願」なども話者の対象として与えられ、捉えられたものを概念化したものです。
これに対し、助詞「は」「が」「で」「に」や助動詞「だ」「た」「う」「よう」などは、話者の持っている主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく、直接に表現した語です。
つまり助詞や助動詞は、本質的に状態や到着点や、場所などという客体を表すものではないということです。この点が理解できていないため、現在の辞書類の助詞・助動詞などの語釈は本質的に誤りだということです。■
『大辞林』は、「に」の語釈として最初に、「動作・作用が行われ,また存在する,時間的・空間的な位置や範囲を示すのが本来の用法」と記述していますが、「動作・作用が行われ,また存在する,時間的・空間的な位置や範囲」は客体の在り方でしかありません。この点で、根本的に誤っています。
上記、貴解釈も同様であることがお判りと思います。
では、正しくは何かといえば話者の対象の捉え方であり、質問に引用した三浦の説明の通りということになります。
このように、形式主義/機能主義的な言語論では言語表現の本質を正しく捉えることができず誤った解釈となるしかないということになります。その根源には、ソシュールのカントの不可知論に依拠した誤りがありますが、この点は又別途ご説明したいと思います。■
NO.10のお礼への補足です。
これらの点は、絵、写真などの直接感性的な表現と、概念による認識、表現である言語表現の相違を念頭に考えていただくと理解しやすいと思います。■
なお、ソシュールがラングを言語本質とするしかないのは彼が依拠する不可知論哲学の必然的結果で、論理的強制です。対象の本質を認識し得ないのでは、意味を捉えることができないからです。■
パロールこそ表現としての言語であり、科学的認識論を展開し言語、記号について解明したのが、三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)、『認識と言語の理論 1~3』、また、「認識論はどういう科学か」(『三浦つとむ選集・補巻 唯物弁証法の成立と歪曲』 所収)、『日本語の文法』、『言語学と記号学』(以上 勁草書房)他ですので是非参照下さい。
なお、カントの不可知論はヘーゲルが観念論の立場から徹底的に批判し、エンゲルスがそれを唯物論的に補訂しています。この説明は長くなるので別途とさせていただきます。
現状では理解いただくのは困難なようですが、折に触れ解説させていただきますので、質問をぶつけて下さい。■
>>その機能を理解して(とりあえずは)正しく使っていただける可能性は高いとも思う。
それで十分なので、そのこと自体を否定するような言説には反論せざるを得ないわけです。
ちなみに、質問者:1311tobi氏はブログで、次のように記されています。
おそらく『大辞林』が一番わかりやすいのでは。
3つを見比べると、『大辞泉』と『大辞林』はほぼ同じで「変化の結果を表す」です。
この日国の記述はどうなんでしょう。
「結果の状態を表わす」の「の状態」に必要性を感じません。編纂者が「状態」好きなんですかね。
さらに書くと、「○○に育て(上げ)る」「○○に抜擢する」などの「に」は違う意味なのでしょうか。
どうも、氏には「その機能を理解して(とりあえずは)正しく使っていただける可能性は」低く、十分ではないようです。■
当方が最初から指摘しているのは、上のような事態です。この解釈のやり方は、無限に、永遠に続くしかありません。質問者はそれを楽しんでいるのでしょうが、文法を云々する日本人がこの状態で、
>>はじめて日本語を学ぶ方に対しても、
・この文での「に」は、家(という場所)を表わすために使われている。
と言えば、その機能を理解して(とりあえずは)正しく使っていただける可能性は高いとも思う。
それで十分なので、そのこと自体を否定するような言説には反論せざるを得ないわけです。
という神経が理解できないということです。■
No.15への補足
(一)動作・作用を受けた結果、その事物が存在する場所を表わす。
「自動車が門の前―止まっている/本棚―本が並べてある/バス―乗る/壁―地図を貼ハる」
これは「に」の語釈ではなく、「自動車が門の前に止まっている」という文の意味の解釈で、「その事物」とは「自動車」であり、「存在する場所」とは「門の前」で、「動作・作用を受けた」のは「自動車」ということを言いたいのかと思います。しかし、「バスに乗る」の場合は?ですよね。
これが、「に」の語釈ではないのは明らかと思うのですが。
この誤った語釈は、学校文法という形式主義/機能主義的な言語論に基づく文法論に起因するもので、この文法論では単語とは何か、文とは何か、ましてや文章とは何かを解明できません。その根源は、ソシュール言語論というパラダイムにあり、このパラダイムを克服できていないということです。
この誤りを指摘し、克服しなければならないのはニュートン力学により重力と力の方程式という運動の本質を明らかにすることにより自然哲学から自然科学へと自立したように、言語論も当然科学として自立しなければなりません。
三浦つとむが時枝の言語過程説を言語学のコペルニクス的転回と評価したのはこの観点からです。
現在の橋本文法他の言語論は文も解明できず、文章など問題にも出来ないレベルのため、古事記、日本書紀、万葉集を正しく解釈できない状態にあり、邪馬台国論争が決着しないという状況です。
最近の加藤重広『言語学講義』(ちくま新書)、野間秀樹『言語存在論』(東京大学出版会:2018/11/24)、熊野純彦『本居宣長』(作品社 :2018/9/10)、酒井 邦嘉 『チョムスキーと言語脳科学』 (インターナショナル新書: 2019/4/5)を見ても、残念ながらこのパラダイム内での言説に終始しています。