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理性、は一般性を持つけれど、悟性は特殊(個別的)である。

このように、思っています。

乞う、ご意見。

A 回答 (9件)

★ (趣旨説明欄) 理性、は一般性を持つけれど、悟性は特殊(個別的)


である。
☆ この見方をめぐって それを肯定するような文章を見つけましたので 
お知らせします。



▲ (カント:悟性の越権行為?) ~~~~~~~~~~~~~~~~
悟性は越権行為を犯すことが懸念されるけれども 理念はこれを抑止する
ことができる・・・。

越権行為とはすなわち あたかも悟性が(悟性はア・プリオリに みづか
らの認識しうるあらゆる事物を可能とする条件を提示することができるの
で)そのことをつうじてまた いっさいの事物一般の可能性をもこの〔悟
性の〕限界のうちに封じこめてしまったかのように〔僭称する〕というこ
とだ。

(I.カント:『判断力批判』 序文 Ⅳ 熊野純彦訳 2015)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 悟性が みづからの範囲に限界を持つにもかかわらず 理性のごとく 
《一般性を持つかのごとくふるまう》ことがありうる。

――と受け取ってよいでしょか。
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この回答へのお礼

やっぱりこれも難しい。

有り難うございます。

カント。勉強してみます。
面白そう。スキがありそうだから。

お礼日時:2019/08/15 23:19

★ (№7お礼欄)


回答No.6から受ける印象は、悟性は個性と云いたくなります。
私(わたくし)ごころが混入している様に思えてしまうのです。
そして、それを理性が修正するのだと云っている様に思えます。

☆ 実際問題としておよそそういった事態になるのではないかとわたしも
思います。


ですが 考えてみれば 事実の認識にせよその良し悪しの判断にせよ わ
れわれ人間のおこなう行為は すべて主観によるという前提のもとにあり
ます。


ですから: 
(あ) 認識行為などについて主観的な片向きをまぬかれないのは 特に
はそのことを誇張しないということらしい。


(い) 悟性による認識をなお高いところから全体として統一する理性と
いう場合にも それは個別の人の行為にかんするかぎり 片寄った主観性
であることをまぬかれない。


(う) ▲(回答№3) 10. 理性は一切の認識を悟性にゆだねる。
383
☆ というからには 悟性は精一杯にまかされた認識行為をおこなうのだ
と見守ってやるということであろうか。


(え) ▲(回答№3) 9. 悟性自身はその使用の限界をみづから決
定したり また何が自分の内にあり何が自分の外にあるかを知ることが出
来ない。 297
☆ といった制約ないし限界があることが分かっている。だから あまり
きびしい眼をそそいだりすることは 控えられている。か。


(お) ▲(回答№3) 5. 純粋悟性は カテゴリーとしては一切の
現象の綜合的統一の法則であり またカテゴリーによって経験をその形式
に関して初めて可能にする。A128
☆ というように 純粋直観のハタラキとしては 大きく認識の基礎をに
なっている。


(か) つまり 空間や時間の枠組み(座標)という基礎を立ち上げるか
らには そのあとの形や色や大きさまたいろんな特徴を具体的に認識する
ときのふつうの悟性のことは 大目に見られている。(?)



☆ そうですね。(い)の・理性もそのハタラキが主観的であることをま
ぬかれていない だから悟性だけをとやかく言うことなかれ といった了
解が暗黙のうちに成されているのでしょうか?




☆ 断定しえないで ごめんなさい。
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★ (№6お礼欄) 理性は感性と対を成す、ですよね?


☆ それは わたしの理解の場合です。

○ 神(普遍神)とわれ(自然本性 +α )とのカカハリ ~~~~~~~~

超自然なるカミ:【非知なるナゾ】非経験の場:真理・生命・道
  ↓       ↑             ↓   ↓
__________________________________
自然本性たるヒト: ↑             ↓   ↓
          ↑             ↓   ↓
【 +α(霊我)】:信じる:非思考の庭:クレド:ヒラメキ・良心
----------------------------------
 [経験世界]                  ↓   ↓
【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト: 直観   ↓
【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス:ヤマシサ反応                             (恥)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ つまり 次のように《思考》を《理性》で代表させた場合です。

【心(精神)】:考える:思考の緑野 : 《理性》
【身(身体)】:感じる:感性の原野






★ 悟性には感性も含まれるのでしょうか。
☆ 別です。

《思考の緑野》=《知解力》を 理性と悟性とに分けて 仮りにわたしの図
解で捉えるとすればですが 次のごとくなりましょうか。:


【心(精神)】:考える:思考の緑野 : 理性:右の悟性による認識を統一する ←悟性:知覚したモノの認識
                                        ↓①   ↑
【身(身体)】:感じる:感性の原野 : ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 感性:モノを知覚する


  ① 悟性のうち 純粋悟性は あたかも感性に先立って(=先験的に・アプリオリに)
    モノの位置する空間や時間という形式を認識しているとされる。

    さらに因果関係の方程式というような認識形式(カテゴリ)として モノゴトの
    成り立ちのような内容を把握すると。
                                


☆ ①のハタラキについては 悟性とモノ(対象)とのあいだで 同時一体の双方向から
成るものではないか? とわたしは見ています。
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この回答へのお礼

回答No.6から受ける印象は、悟性は個性と云いたくなります。
私(わたくし)ごころが混入している様に思えてしまうのです。
そして、それを理性が修正するのだと云っている様に思えます。

お礼日時:2019/08/12 12:13

★ (№5お礼欄)


理性の中に悟性があるのか、悟性の中に理性が含まれるのか、どちらですか?

☆ 理性は 悟性の奥に控えているって感じに――カントにあっては―― 
見られます。

▲ (『純粋理性批判』篠田英雄訳 事項索引より) ~~~~~~~~~~

13. 理性は悟性および判断力と共に高級認識能力に属する。 169

14. 理性は経験に直接に適用されるところの悟性認識を前提し 次にこの
悟性認識を理念によって統一する。 690

15. 理性の支配下にあって我々の認識は一個の体系をなすものでなければ
ならない。 860

16. 理性は最高の認識能力であって論理的能力即ち間接的に推理する能力
と 先験的能力即ちみづから概念を産出する能力との二つを含む。 355

17. 理性は 統整的にしか使用せられない。 828

18. 理性は 原理の能力である。 386

19. 理性は ア・プリオリな認識の原理を与える能力である。 24

20. 理性は 悟性の規則を原理のもとに統一する能力である。 359




21. 理性の実践的使用は経験の対象に関係するとは言え その原理を経験
よりも高い処に求め あたかも我々の本分が此の世の生を超えて無限の彼方に
達するかのように我々の行状を規定する。 421


22. 純然たる可想的能力としての純粋理性は 時間形式にも 従ってまた
時間継起にも従うものではない。可想的性格としての理性の原因性は 発生す
るものでもなければ また或る時点に初めて結果を生ぜしめるものでもない。
579-580
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 《19》は 何を言っているのか わたしには分かりません。

それを除いて 《13》から《20》までをまとめるなら それなら 精神
のいわゆる広い意味での知性は 知解という概念で統一すればよいとわたし
には思われます。

精神(思考の緑野): 記憶 ‐ 知解 ‐ 意志
国家( 三権分立 ) : 司法 - 立法 - 行政

☆ つまり 知解を 理性と悟性とに分ける必要はないのだと。理性ひとつ
でよいと思います。悟性は アンダースタンドという言葉なのですから。
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この回答へのお礼

悟性には感性も含まれるのでしょうか。

理性は感性と対を成す、ですよね?

お礼日時:2019/08/11 22:41

1. 《悟性――理解するチカラらしいのですが――》は 一方で精神の知性


の――知解する・あるいは理解する能力全般としての――理性との兼ね合いに
おいて なおあいまいです。

2. もう一方では 純粋悟性概念がそのハタラキとして《経験に先立つ》と
いうこと(アプリオリ性;先験性)を――論証無く――前提としながら それ
と同時に この悟性全般は あくまでモノとの出会いという《経験の中で》使
用されるものだと言っている。
――これも あいまいでしょう。

3. と同時にさらに アプリオリ性というのも 分かりにくい。経験過程の
中における――しかも――先験的なハタラキだと言う。




4. そのハタラキないしチカラは 《胚芽》に譬えられている。生命現象と
して経験事象である。と同時に ヒトの思考や意志やあるいはそれらの意識と
はかかわりなくそのハタラキは過程する。ということらしい。

5. また 胚芽から具体的な生命存在が育ってくるように アプリオリな空
間や時間についての純粋直観を基にして 実際の具体的な認識が得られるよう
になるのだと。





6. だが ここでこう言おう。悟性がどうだこうだは 理性を基本とした大
きく知解力として捉えるなら もうどうでもよい〔くらいだ〕。そして 純粋
悟性のアプリオリ性 これについても 焦点から外してもよい。純粋直観は確
かに先験的にはたらいていると仮定してもよい。

7. 問題は そこから認識論にかんして 画期的なあらたな理論が打ち建て
られたのだとする見方にある。

8. すなわち 《コペルニクス的転回》が成ったという主張が 問題である。


9. ▲ (純粋認識の先験性によると ひとは認識の王者である) ~~~

物〔対象としての〕が我々に与えられる前に 我々はかかる物を表象し〔☆
――観念として可想的な経験において捉え――〕 またこの表象(☆ ≒ 観念)
が物自体としての物に従うのではなくて かえって対象が現象として我々の表
象の仕方に従うというように想定

(『純粋理性批判』 篠田英雄訳 第二版序文 ⅩⅩ)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


9. この《想定》が すでに事実であるという思い込みとして固まってしま
うなら 問題である。

10. なぜなら 生命現象としての勃起という事象は それに先立ってあた
かも《可想的な純粋直観》がはたらいているように見られる。意志で起こした
わけではない。けれどもそのアプリオリ性によって認識論も世界観も 何も変
わらない。天地がひっくり返ったわけではない。
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この回答へのお礼

理性の中に悟性があるのか、悟性の中に理性が含まれるのか、どちらですか?

宜しくお願いします。

お礼日時:2019/08/11 15:52

>Mokuzoさんは、観客なんですね。


ご自身のハートはどう感じるのか、気になりませんか?

人生訓とか、特殊相対論に基づく宇宙観とか、不確定性原理に基づく物資存在だとかなら、自分独自の考えを書き込むのは苦ではないのですが、
殊、純粋理性批判のことになると、イマヌエル爺さんの思想を勉強中なので、つまり「守破離」の三段階に当てはめると、今は教えを「守る」段階と思っているので、なかなかイマヌエル爺さんの考え以外を主張する根性がなくてね。

悟性という言葉自体、イマヌエル爺さんの純粋理性批判を勉強した明治時代の西周兄が造語した言葉なので、一般の日本語の様になんとなく使ってはいけないのであって、この言葉を、少なくとも哲学の文脈で使うときには、厳密にイマヌエル爺さんのVerstandが意味しているところに準拠しないと、話がグチャグチャになると思うのでごわす。
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この回答へのお礼

どうぞ守から抜け出して、破の世界に入って見てくれませんか?

そこで得られた意見が聞きたいです。

期待しています。

有り難うございました。

お礼日時:2019/08/11 15:46

▲ (篠田英雄訳『純粋理性批判』事項索引より) ~~~~~~~~~~



1. 悟性は 認識の能力である。137

2. 悟性は 思惟の能力であり従ってまた判断の能力である。94

3. 悟性はみづから表象を産み出す能力すなわち認識の自発性である。 75

4. 純粋悟性認識の総体は一個の理念のもとに包括されこの理念によって
規定される体系をなす。 90




5. 純粋悟性は カテゴリーとしては一切の現象の綜合的統一の法則であ
りまたカテゴリーによって経験をその形式に関して初めて可能にする。A128

6. 悟性がカテゴリーを用いて可能的経験に与えるア・プリオリな統一を
悟性統一という。 363




7. 悟性はア・プリオリな原則はもとよりカテゴリーすらも経験的に使用
し得るだけであって先験的に使用することは出来ない。 297


  ☆(ぶらじゅ註) 全体として大きくモノを知覚し認識するという経験
    行為という過程の中にある。ただしその悟性は――純粋悟性は――
    知覚や意志やそれらの意識にかかわりなく・という意味で先験的に
    はたらく。――と言っているはずです。cf. 次項。


8. 純粋悟性の客観的使用は内在的でなければならない。この使用は可能
的経験だけに制限されているからである。383

  ☆ 《可能的経験》というのは 想像しうる(可想的)コトとしての・
     つまりその意味での先験的なハタラキを言うらしい。




9. 悟性自身はその使用の限界をみづから決定したりまた何が自分の内に
あり何が自分の外にあるかを知ることが出来ない。 297

10. 理性は一切の認識を悟性にゆだねる。383



11. 条件の綜合における全体という先験的理性概念の効用は 悟性使用
を極度に拡張すると同時にこの使用が自分自身と完全に一致調和する方向へ
悟性を向かわせるということだけである。380

   ☆ 《先験的理性概念》――まちがいなくここは 《理性》です――
    というのは 分かりにくい。
    また 悟性には 純粋直観として先験的にはたらく純粋悟性とそし
    てそうではなく ふつうに対象を知覚し認識するふつうの悟性とが
    あるみたいです。後者の悟性は むしろ理性が自分の支配下に置い
    ているか。


12. 理念は悟性の使用を拡張して新しい対象の認識を可能にするのでは
なくむしろ悟性に限界を付するものである。630
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

難しいですね。

お礼日時:2019/08/08 23:28

>a prioriは個性に備わる、と思いませんか?



カントはa prioriは個性がなく普遍的であって、
a posterioriは人間が生まれたのちに個別的経験/学習によると考えた。

そう考えた方がすべてがうまく説明がつくので、今のところカントの思想を否定して成功した者はない。

20世紀になって、チョムスキーなどは、言語能力さえも人間に共通なa prioriであると言い出して、しばらく物議を醸したが、21世紀の現時点でチョムスキーを全否定して成功した者はいない。

ま、自分がどう考えるかは自由なところが哲学の良いところですがね、、、。
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この回答へのお礼

Mokuzoさんは、観客なんですね。
ご自身のハートはどう感じるのか、気になりませんか?

人間として生まれても、総てに於いて等しい能力が備わっている、なんてMokuzoさんでも云い切れないですよね。そのことは人間の“出来”にはピンからキリまであり、キリのほうが数的には圧倒的と云っていいくらい多い事からも、それと知れると思います。

そう思えば、生まれつき備わっていても、そして普遍的な事柄ではあっても、十分に等しいとは云えないとと云えるでしょう。

普遍的な事柄ではあっても、等しく備わってなければ一概に、同一に、とらえてはならないと思います。

こうした思いから、a prioriは個に備わると云ってみたのです。

回答、有難うございました。

お礼日時:2019/08/08 23:27

人の悟性は、純粋悟性概念によって、個性なくa prioriに備わった能力である、とエマヌエル爺さんが言ってた。



よーく考える必要があるけど、エマヌエル爺さんの考えは200年後の今も、消え去らないところを見ると、人類はエマヌエル爺さんの純粋理性批判を受容したんだろうね。
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この回答へのお礼

a prioriは個性に備わる、と思いませんか?

有り難うございます。

お礼日時:2019/08/08 16:43

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