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大昔は、例えば原始時代などは、言葉を操れる人は少ししかいなかったのでは無いだろうかと、ふと思った。
猿から進化して突如、人が生まれ、その時既に人が皆、言葉をペラペラと話していたとは考え難い。少しずつ、発語する者が増えて行き、言葉を理解する者が増えて行き、段々と言葉が広まっていって、人類全体に行き渡るようになった頃には、また一部の集団でより発達した言葉が生まれていて、ミュトス(詩)とか、ロゴス(理)とか言うものを使うようになっていた。で、現代でも分布としては、言葉をより発達させた個体群と、それよりは言葉が未発達な個体群とが混在している世の中なのでは無いかと思われる。
なぜこのように思ったかと言うと、ネットの発達で様々な情報に触れるようになったから。遥かな昔は、例えば古代とか、或いは印刷物でもそれが貴重だった頃は、メディアを使う者はごく一部で、それなりの知性を持った人々だけが、書物を記していて、その善し悪しは別としても、メディアの質は高く、メディア環境も良かったと考えられる。一方で現代は、馬鹿でも誰でも暇に任せて情報発信出来るので、メディア環境はスラム化していて、玉石混淆と言っても玉は極端に少なく、それを見つけるのは難しくなっているのでは無いだろうか。

ここで皆さんに問いたいのは、質の高い情報とは何だろう?と言うことです。
如何でしょうか。どの様な情報が、良い情報と言えるでしょうか。

A 回答 (28件中1~10件)

こんばんは。

再度お邪魔します。
言葉っていうのは、ほんとうはあやふやなものだと思うんです。
確かに自分の意志で発話するのですが、
それはたぶんに気分に左右されるものです。
気分とは、今の気持ち。常に流動してやまない「心」の
今の状態。
気質とか信念、信条などのような心の状態ではなく
揺れやすい、変化する、生の心。
だから信用できないのではなくて、それはそれで
人間の真実じゃないかと思うんですよ。

次のような歌があります。

まろまろと息する命背負ひつつカルピス原液二リットル抱く

人はみな人食ひにしてみどりごのこぶしのごとき芽を噴ける芋

命とは輝いていく一方で常に排他的な側面をもちます。
この歌の作者はロンドンで、第一子を授かります。
移民を受け入れるが、一方で移民排斥などの暴動が
頻繁に起こる街。
子を背負い、日々の糧を得る。
身軽ではないが、自ら透けるような感覚を味わいながら
たくましく奮闘する日々が詠まれています。

これはどちらかと言うと、強い気分と言えるでしょう。
こうして言葉によって記録することで
映像とは違った感慨で、この言葉を目にするたびに
そのときの思いがよみがえって、新しい力になる。

何を言いたいのかわからなくなってきました。
情報でしたね。自分の探したい情報は
常にアンテナを立てて探すことが大切ですが、
私は情報の奥に、やはり発信している人の存在、
その人が発する言葉のニュアンスとか、力とか
受ける印象とかで評価してしまいやすいですね。
それは、質の高い情報とは、少し違うかもしれませんが。
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この回答へのお礼

いや、素晴らしい回答でした。色々と示唆があって、しかも楽しく読めました。
友達と話していると、馬鹿でもいいかとか思ったり、あるいは日常において、歪んでいても自分らしければいいやん、とか思ったりします。しかもこれらの感慨は人生においてかなり決め手になるような感慨でもあり、ふとした拍子に生まれる心の余裕に沸き起こるものであるように思います。諦念の一種かもしれません。

何はともあれ、楽しませていただきました。ありがとうございます。

お礼日時:2019/10/05 00:09

No.28=21です。

こんばんは。No.21の引用に誤りがありました。下記のように訂正します。

 …相対的に減少する。

 …相対的に減少するということは
 良く知られていることです。
ごめんなさい。ということは良く知られていることです。を説明できるとhintになりそうですができないです。

キャラ°さんがNo.25で紹介した2首の短歌が良いです。バブみを控えてtoughさが心地よいです。
1首めについて、カルピス2リットルは原液かしら?欲しいよーと思ったけれどwaterのpetだよね。子を背負うのと背に腹は代えられぬ故事と優先が逆なのが面白いです。
2首めについて、芋はジャガに違いない。芽のでたジャガは毒です。たべると死ぬこともあります。人が芽のでたジャガならば人食いを殺すかもしれません。逆の立場では簡単には食われてやらないもんねむしろ芽が葉っぱになって光合成してでんぷんためてデカくなっちゃうもんねと意気込んでます。嬰児と芽の緑の色彩もあります。
一首詠みます。

そ性
の質
運と
動ア
のリ
種ス
差ト
とテ
いレ
うス
こ訪
とね
 る
 と

アリストテレス『形而上学(上)』(出隆 訳 岩波書店)pp.189-190を参考にしました。ところで
 自ら透けるような感覚
が分からないです。使ってみたくなりました。短歌へ自ら透けるような感覚がお礼commentから滲み出ていますよね。
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この回答へのお礼

五代目さんも結構考える人なんですね。
アリストテレスの一首も意味がよく通ってて良いですね^_^
こういう回答は楽しくて良いです。

自ら透けるような感覚、私自身もかつて使ったことのあるような無いようなフレーズですが、共感はありますね。
居場所のないところが居場所と言うか、旅を住処とすると言うか、僕の住所は世界の果てみたいな絵本チックなアンバランスと言いますか。小さいからこそ俯瞰できる立場みたいな事で。透明と無限性の相性の良さはありますよね。

私の推す気鋭のミュージシャンも歌っています。

かなり前の 自分の中を透かして見た
新しい空気を 吸った僕だ

と。


https://youtu.be/7x8tYRhHa0c

お礼日時:2019/10/09 17:16

>これの根源は何なのか?正直私には分かりません



私にも分かりません。ただ、仏教哲学にはこれが説かれているということに
私は知的好奇心を強く刺激されます。
仏教徒は少なくないですが、これを哲学的にキチンと理解する人は極めて僅
かではないかと思います。

仰る通り、人間の知的能力は限界があるという人は多いです。

でも、私はどうしても分かりたいんです。で、その知的好奇心の強さの割には
まだまだ、頭を使っていないと自覚しました。
ホリエモンは「頭から煙が出るくらい使っている」と言っていたことがありま
す。それと比べたら、全然…

私はまだカントの哲学も理解、いや、よく知りません。だから、勉強したいで
す。いろんなことを。それもしないで、自分の知的能力の限界を感じるのは、
もったいないです。

あ、それから、「仏性」というのは人間に備わったものです。人間の本質と言っ
ていいと思います。
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この回答へのお礼

私は今よりもっと若い頃に、知恵熱を出したことがあります。オーバーヒートですね(笑)
素手で深い鉱脈を掘ろうとしたら誰だってそうなる。

先人の掘り進めた路、思考のスキル、そのようなものも役に立つけれど、大事なのはそこに何かある、と言う勘だと思います。観測装置が発達すれば、掘らずとも地下何メートル何処そこに何があると分かるのかもしれませんが、我々が掘るのは生きた山です。非常に感覚的な事を申せば、同期が必要だと思うんですよ。タイミングと言いますか。ここでココ!みたいな当て勘が必要になると思います。

人のやさしさは生きることの果てに編み出された、到達した最高の法であり、これこそ仏門だと私は思っていますが、そこに到達する人の本性を仏性と呼び、人の本質とする事に異論はありません。
そこから向こうは仏の世界と言うことになるでしょう。

お礼日時:2019/10/09 17:49

>科学の存在根拠は人間のためではなく、知的探求心そのものの権化であると思っています



科学の発展の原動力は、科学者たちの知的好奇心だったと私も思います。
そう考えると、人間のあらゆる行為が、「世のため人のため」と思って始めたのではなく、
割と単純な欲求によって始まり、発展していったと言えると思います。

問題は、科学にしても、宗教にしても、政治にしても、産業にしても、民衆がそれらを拠り
所にして生きているということです。
ですから、これらのものは、あくまで人間のためという方向性を失ってはならないと考えて
います。

これまで、文明が発展してこられたのは、薄く広く存在していた「世のため人のため」という
心であったと思っています。だから、これらのものがかろうじて人間のためになってきたとい
うことです。

世界の文明は行き詰まっていると言われてから久しく、日本などは先進国の中で先駆けて衰退
するなどと言われています。
それは、これまで人々が信じてきた「権威」というものが崩壊しているからだと思います。
「権威」に従うということが、結果として「世のため人のために」なってきた、と。

それがなくなれば、結局、自分のためという心しかなくなると思います。それは、権威に従う
ということ以外に哲学がないからです。

そこに私は哲学の必要性を感じます。

しかし、現代人は発達した科学によって、多くの知識を持っていますし、科学的な思考をします。
ですから、科学的な思考の帰結として得られた哲学でなければ「納得」しないでしょう。

こういうようなことは、いろんな人が意外と考えているようです。そういう情報も、質の高い
情報ですね、私にとって。
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この回答へのお礼

世間で生きることにおいては、人のためと言うのはとても重要な観点だと思います。
世間はそれによって成り立っていると言っても過言ではないくらいで、それが失われると世間は崩壊するかも知れません。

しかし一方で、諸々の聖者の人生は出世間であり、人のためとか、世のためという事とを超えているようにも思われます。
世に人に害を与える事なく、むしろ益するけれど、本人はそれに執著を起こさず、ただ浄らかに生きるのではないかと。本来清浄心。

私は、泥臭く信を持って生きる生き方を立派な生き方だと思っているのですが、一方で汚れなき生き方と言うのがあるのだろうとも思っているのです。

この二つの生き方を学問的に研究する事も出来るでしょう。しかしそれは、素晴らしい料理の栄養価を仔細に調べるような愚行であるかも知れません。料理の本質は味わって見て分かる事であり、その栄養価を調べて分かることでは無いからです。
ここら辺はクオリアとも関わってくる切り口かなと思います。
体験とは何か、と言う話でもあると思います。
現代人は科学的思考を好むゆえに、思考で納得できなきゃ駄々を捏ねる事も少なくありません。
しかし本来は身をもって体験することが、ことの本質を理解し、自覚とか身に付いたとか言う状態に人を持ち揚げる。
また、古今の人々の体験、経験の分厚い層が歴史となって我々の意識の奥底にあると思われ、知識化出来ないものの大きさを現代人は先ずは再認識せねばならないと思います。

お礼日時:2019/10/09 17:38

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9F%E6%83%85 …

人間性(人間の本性)とは何か?と言えば一般的には精神の部分のことを言うと思います。
感情とは、人間の持つ精神の中に現れる「表象」ということになると思います。
「あらわれ」であるならば、どこから、どのように現れるのか?その根源と、物質面であ
る肉体はどこから生じるのか?これらのことは、「存在論」「神論」あるいは「仏論」の
範疇で、人間の本質論という風に分類してよいと考えます。

引用した数多くの「感情」を表す言葉、これをどのように感じているかは個人差があるだ
ろうと思いますが、その存在を否定する人はいないでしょう。
ただ、認識と同様に、果たして同じあるいは同じようなものを感じていいるのかどうかを
検証する方法は見つかっていないということなのでしょう。

これらの感情は全て十界に分類することができると考えています。といいますか、十界論
とは、人間の心の状態を十種に分類し、人間は瞬間的にそのどれかの状態にある、という
ものであります。
このあたり、正に精神分析学です。一般的にそう思われないのは、宗教と科学を相(あい)
対するものと判断しているからだと思います。

十界を私なりに分類すると、(1)~(4)が苦悩と欲望に支配された状態。(5)~(6)が平静な
状態、(7)~(8)が反省的自我、(9)~(10)が利他的状態。

この全部を同時に持っているのが人間であり、人間性と言えるでしょうが、人間はどうも
多面性を同時に認識することが苦手なようで、目に見える特徴をその人の人間性と判断し
てしまうことが多いですね。

また言えることは、人によって現れやすい感情というものがあると思っていて、それをそ
の人の人間性と言って差し支えないでしょう。

仰るように人間性とは能力ではないですね。
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この回答へのお礼

人間性は、私の感覚では味わいに近いかもしれません。その意味で、表象というものと近い場所にある気がします。
これの根源は何なのか?正直私には分かりません。太陽は何故昇るのか?というような問いに近い。ただ、これが人間を成立せしめている元のものとして、あった、という事までしか分からない。知的探求心はどこまでも知ろうと欲するが、透徹して見れば根源など別に”無かった”のだと知った時、無を背景に存しているそれを何ものであるかと規定する根拠を得ることができない事を知って、知の限界を悟るのかもしれない。
これを仏性という言葉を用いて語る事も可能かもしれないが、仏性という言葉を語った時点でそれは仏と人間(衆生)の二種の存在が在るという事になってしまい、分離が生じる。分離が生じれば行き来が生じ、その間に距離が生じる。
そうではないように、と私は思うので、どうしても人間性という言葉にこだわらざるを得ない。
しかし人間性という言葉を一意に定義することはそれぞれの見解があるためはばかられ、ただ文脈においてのみ意味されるところ、という事になるでしょう。

人間の内的世界を十に数えて見た十界論。生けとし生けるものが生息するこの十界を照らす大変に普遍的な何かがあるのではないか?それとも内的世界は閉じていて、それを照らすものもまた内に包含している完結した世界なのだろうか?獄卒の心に十界あり、また仏の心に十界あるなら、それを遍く照らすものはなんだろうか。

等を考えました。

お礼日時:2019/10/04 21:54

https://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E4%BF%AE%E7%B …

仏教哲学の十界論の「修羅界」とは、このような説明になります。
では、なぜこのような精神状態になるのかと言えば、「心が曲がっている」ということだと
言います。
どう曲がっているのかと言えば、これは私の持論ですが、「我儘」ということだと思います。

我儘な心は、どうして生まれるかと言えば、甘やかされて親が全部尻拭いして、失敗と苦労を
知らない人間の心に生じるものと、経験上、これは確信をもって言えます。

勿論、若き日の私の心の中にもあったことは自覚していましたし、時に持て余してもいました。
友人たちも、人の良い昭和の日本人の特徴も持っていましたが、皆、我儘でしたね。

ちょうどキサラギさんの年齢の頃に、私は極めて苦しい思いをしました、大失敗とも言えます。
しかし、この経験がなければ今の私の考え方はなかったでしょう。

現代文明は仏教的に言えば「修羅文明」となると思います。

>神の文明ではなく、人間の文明でなければならない理由を、うまく見つけられるでしょうか

「神の文明」という部分は議論の余地がありそうですが、極めて難しいことですね。

一つ思うことは、宗教・哲学は科学であるということです。科学でなければならないと思います。
つまり、人間のためにあるもので、人間の役に立たねばならないもので、それは検証されなけれ
ばならないと考えています。
そうでなくて、権威づけられ、人間を支配するようになれば、人間に害をなしてしまう。かつて
キリスト教も仏教もそうなりました。また、現代においては科学がそうなっていると思います。

私は大乗仏教の中に人間学が説かれているものと思っています。「神学」というものがありますが
「仏学」という言葉は聞きません。もっともっと、科学的考察がなされなければならないと思いま
す。

知的探求心も、衰弱しているんだろうなと思います。

まずは、そういった知的な探求の波が起こればいいと思います。科学教の範疇だけでなく、本質的
な奴ですね。
真に知的なオジさん達の思いはそのあたりだと思います。私もその端っこの方にいられたらいいな
と思うわけです。そのためには、本格的な勉強を始めなければなりません。
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この回答へのお礼

心が曲がっている、ささくれ立っている、荒んでいる、→わがままというのはおおむねそうかもしれません。我儘というのは我執の表れの典型のように思われるからです。
世界規模で見れば地球は群雄割拠の戦国時代とも見れ、修羅道はここかしこに見られるでしょう。しかし、実は修羅道だけではなく、地獄道や餓鬼道、畜生道と言ったものも地域によってはあるでしょうし、天道も人道ももちろん地域によって実現していると思います。
そしてそれがまさしく人間の心の表れであり、この文明の理不尽は、人間の理不尽そのものの表れと思ってよいのではないでしょうか。

私は、科学の存在根拠は人間のためではなく、知的探求心そのものの権化であると思っています。西洋科学が神の探求だか何だか知らないが、それを知りたいという熱烈な欲求は他の欲求を圧して夢中になっていくものではないでしょうか。その成果は、あくまで利用できると言うものであって、未だ利用できない科学の成果もたくさんあると思います。この知識、何の役に立つの?みたいな知識はごろごろあるはずです。
一方哲学もまた、知りたいのだという欲求に従った、知のレゾンデートルを持っていますが、こちらの対象は科学の範疇にないものでも対象になる。例えば”人間”ってなぁに?とか、なんで在るん?とか言ったようなことです。それは生物のとしての人間ではなく、機能としての人間でもなく、人間としての人間を問うているのは言うまでもないことであり、物理としての存在ではなく、存在の仕組みでもなく、存在そのもののワケを問うてるのは言うまでもありません。そのストレート勝負が哲学の良い所かなと私は勝手に思っています。そしてこの知的欲求も、実は人のためにはあまりならないかもしれないと、最近は思っています。考えるだけで終わる人生があるという事です。その成果が人のために利用できることはあっても、直接的に人のためになるわけではないのかもしれません。
では人のためになるものとは何か?と言いますと、それはずばり人間のこころと言う外ない。人間のこころと言うと悪心もあるではないかという意見は必ずありますが、そういう善悪論は倫理の範疇であり哲学の対象です。しかし、そんな善悪論が無くても通用する人間のこころと言うものが存在するのであって、それが根本命題であり人間の真であるのではないかと思っています。

お礼日時:2019/10/03 23:58

自分にとって質の高い情報とは、身内や知り合いがトラブルに遭遇したことを知った時に、行動を起こすべきかどうかを判断できる情報。


なので、良い情報か悪い情報かは全く関係なく、自分が行動することによってトラブルを解決できるのか、解決できないとしても最悪の未来になることを避けられるのか?

ところで、言葉が素晴らしいもののように勘違いしておられるようですが、感情の源である心に言葉なんてないこと知ってましたか?
日本人が言葉を知らなかった時代に、人々はどのようにしてコミュニケーションしてたと思いますか?それともコミュニケーションはしてなかったのかな?

言葉は、それがどんなに汚くあなたを限りなく侮辱するような内容であっても、あなたがその国の言葉を知らなければ、なんとも感じないはずです。それって、言葉の力なのでしょうか?
「大昔は」の回答画像22
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この回答へのお礼

他者と共に生きる上での問題解決の戦略に使える情報かどうかという事ですね。
言葉以前のコミュニケーションはもちろんあったと思いますよ。いろいろな表情や感情表現、ボディランゲージは当然ですし、呼吸、息合い、印(しるし)などを使用していたのではないでしょうか。それらの非言語コミュニケーション能力は衰退した部分もあるかもしれません。

ツイッターで外国人に喚かれたことがあるのですが、意味は分かりませんでしたが、罵られたんだな、というのは感じました。実際には何を言われたのかは分かりませんが。
言葉とはナイフのようなもので、道具にもなれば凶器にもなります。それが素晴らしいものになるか、最悪のものになるかは使うもの次第でしょう。

お礼日時:2019/10/03 23:22

きさらぎさん、キャラ°さん、もくぞーさん、だよーんさん、にゃ_ぽ_りさん、こんばんは。

質問を要約します。誰でも情報を発信できる。発信する人は馬鹿が多い。質の高い情報とは何か?
鍵語は情報、質です。まず情報についてキャラ°さんのQ:デトックスの必要性-No.10さんhttps://oshiete.goo.ne.jp/qa/11200905.htmlはこういいます。
 情報量が多いほど創造的な営みの
 多さが相対的に減少する。
次に質についてQ:「量」と「質」の定義を教えて下さい。-さんhttps://oshiete.goo.ne.jp/qa/1114603.htmlがあります。それでQ:性質とは何でしょう?属性って何でしょうか?-No.4さんhttps://oshiete.goo.ne.jp/qa/10787091.htmlがあります。さらにだよーんさんのQ:言葉はデジタルですね。https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11150812.htmlがあり、そのNo.11で挙げたもくぞーさんのQ:knowledge, inteliigence and wisdom の違いは?https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9876037.htmlがあります。これらの回答と質問が良かったです。
さて、質が高い方へ変化するとはどういうことだろうか?そして、水は質が変化すると氷または水蒸気になるように、情報は質が変化すると何になるのだろうか?
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この回答へのお礼

キャラさんの質問、ありましたね。
色々と過去QAを挙げてくださりありがとうございます。

>さて、質が高い方へ変化するとはどういうことだろうか?そして、水は質が変化すると氷または水蒸気になるように、情報は質が変化すると何になるのだろうか?

ここら辺はぜひ回答者さんにお答えいただきたいところです。

お礼日時:2019/10/03 23:26

>人間文明が提起されたのは入り口が見つかったようなもので、ここからが本題とも


言えそうですね

仰る通りと思います。

人間の本質というものは変わらずにあると考えています。それが何かという私の考え
はここではひとまず置いておいて、その本質を人々が改めて認識するということは、
「回帰」と言えなくもないのですが、私が回帰でないといったのは、科学というもの
を否定し捨て去ることなく、人間というものを考えるべきだということです。

人類が仮に科学を捨て去ったとしても、人間には理性・知性というものがあるわけで
すから、また同じことをするであろうと思うからです。ですから、それはもったいな
いことであり、無駄なことです。

科学とは人類の繁栄のために存在しているわけです。であるのに、様々な深刻な問題
が発生しているのは事実であり、それは科学技術の「使い方」の「間違い」であると
私は断じています。

その間違いは何故起こるかと言えば、現代の科学というものが、本質を研究する哲学
と切り離されて久しく、根本的な原理を求めつつ得られていないということをいいこ
とに、特権階級が自らの利益のためにいいように使っているからであると思います。

自然科学はもっと発達すべきだと思います。また、文系の科学そして哲学もそれ以上
に発達すべきだとも思います。

重要なのは哲学と科学の関係性であって、つまり、哲学が科学の方向性を示唆すると
いうことです。

また、現代の聖職者たる学者と為政者、特権階級の人達と民衆の関係性において、後
者が主導権をとるということが重要であると考えます。

ちょっと、眠くてまとまっていない気がしますが、とりあえずここまで。
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この回答へのお礼

例えば、ブッダは2500年ほど前の人(仏)ですが、以降、彼ほどの境地を体現した人はどれほどいたかと言うと、そんなに多くは無いと思います。現代人が劣っているとは言いませんが、決して過去の人々より優れているわけでもないでしょう。倫理や道徳は一見社会システムの進歩とともに普及し進んだように見えますが、最近の大戦や頻発する争いやその他の大小さまざまな社会問題を見るにつけ、実際にはそれらが普及し進んだという事は言えないと思います。

一方、科学は大変普及もし、浸透もし、進歩もしてきたし、現在進行形でしています。
私の考えでは、理性や知性と、人間性は必ずしも=ではないだろうということがあります。
もし理性や知性に劣る人がいて、では彼は人間的に劣っているのか?人間性に乏しいのか?と問えばNOという事になるのは明白です。
また、感情豊かな人が人間性に優れているのか?と言えばそれもNOでしょう。
知性と理性溢れる科学者や、類稀なる感性を備えた芸術家は、それゆえに人間性にも富んでいるか?と問うても、YESとは言えないでしょう。
何故なら人間性とは能力ではないからです。

科学の進歩は文明の建造に利用されているが、”人間性を、文明によって表現することがまだできていない”、のではないか、と思いました。

人間性の定義は話すうえで非常に重要ですが、ここではあえて明言しないことにしておきます。人間性は良いものだけではないとかいう意見もあるかもしれませんが、そういう意見も聞いておくためにも、明言しないでおきます。

お礼日時:2019/10/03 23:40

【かんたん⽐較】老人ホームの種類一覧と、それぞれの特徴・注意点


https://www.minnanokaigo.com/guide/type/
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この回答へのお礼

確かにこう言う風にまとめて解説してくれるものがあると有り難いですよね^_^
参考になります。

お礼日時:2019/10/01 21:50

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