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箱館戦争で負けた旧幕府軍のトップである榎本武揚は、助命されてその後に逓信大臣、外務大臣といった明治政府の要職に就くことになります。

その時代は政府に反抗した人間は殺されるのが普通でしたが、処刑されずに済むどころか政府の要職まで務めることができたのはなぜでしょうか?
また、箱館戦争で戦死した土方歳三が死ななかったら、同じように助命され、明治政府軍で要職(将校クラス)に取り立てられていたでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 近藤は新選組のトップなので責任を取って処刑されたのでしょう。
    トップだけが切腹してその下の人間は赦されるというのが日本の伝統的な処分の仕方です。
    土方は副長でしたがトップではないので、少なくとも処刑されることはなかったかと。
    新選組の隊長を務めた者も新政府から刑罰を受けていないはず。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/10/10 23:08
  • 榎本武揚は明治新政府とガチで戦っています。
    そして新しい日本を作るのでなく、蝦夷に別の政権を作ろうとしました。

    一方、徳川幕府は新政府と少し戦っただけで、あとはひたすら恭順しました。その差は大きいです。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/10/11 23:25

A 回答 (7件)

それだけ新政府側の人材が不足していたということではないですか。

海外留学で様々な学問をおさめた人は確かに新政府側にもいましたし決して新政府側の人材が質的に劣っていたということでもないと思いますが、そもそも西国の数藩レベルの話で日本国全体で施政を行うには人材の絶対数が足りません。それで旧幕府側の中でも新国家の施政に役立ちそうな者をピックアップして登用したということだと思います。
 なお、苛烈な扱いを受けたのは奥羽列藩同盟参加藩のうち最後まで抵抗した一部であって、抵抗した者は処刑が普通となっていたわけではないと思います。

 土方については単なる剣術馬鹿のように見る人も多いですが、特に鳥羽伏見以降は銃砲中心の組織戦術(新撰組時代から組織戦闘は得意だったけど)を重要視し、いくつかの戦闘でその能力の高さを示していますし実際に討幕側からの評価も高かった。榎本クラスにまで出世したとはいえませんが、もし生きていたら戦術指揮官クラスへの登用はあったんじゃないですかね。
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「人は根っからの○○な人」ということはないからです。


義理や契約によって、その主君に使えるという一種の「サラリーマン」であれば、主君を変える、会社を変えることは十分にあり得ます。

明治新政府の初期の指導者たちの間には、「敵」「味方」という区別よりも、「新しい日本を作る」、そのために有能な人材は活用する、という大きな志があったのだと思います。

なんせ、本家本元の「徳川様」は、明治になって「公爵」家となり、貴族院議員も務めましたよ。
この回答への補足あり
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私は西郷隆盛だと思います。



たぶん、そうだろうと思って確認してみました。
榎本武揚が赦免された1872年は、西郷隆盛が留守政府を仕切っていたころで、この頃は人材豊富でした。人材不足となったのは西郷隆盛が下野した後です。なお、下野したあとに、西郷隆盛の征韓論としてでっち上げられ、これが歴史として広く定着しています。

ここから、私の推測です。
西郷隆盛はある時期から、過去の敵・味方関係なく人材を広く活用するようになります。また、海外には一度も行ったことがないのに、この当時の世界の動向を看破して、物見遊山の岩倉具視一行が2年間の海外視察を終えるまでに、スピード感をもって国内改革を断行しています。
 これには反発する武士も多かったと思いますが、西郷隆盛の人徳だけで抑え込んでいたように感じます。そのため、西郷隆盛が下野したあと、新しい時代に適応できない人々の不満が一気に爆発して、それが西南戦争になったように思います。
 これは、結果として関ヶ原の戦い以後の歴史と同じ結果になりますが、西郷隆盛は下野する前までは大量に失業する武士階級の新しい時代での受け皿を準備していたように思います。

もうひとつの根拠として、西郷隆盛が好んだ「敬天愛人」を上げたいと思います。
「箱館戦争で負けた榎本武揚が明治政府の閣僚」の回答画像6
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処刑されずに済むどころか政府の要職まで務めることが


できたのはなぜでしょうか?
 ↑
1、オランダ留学をしており、国際法の知識があったこと。
2,幕臣ということで人脈があったこと。




また、箱館戦争で戦死した土方歳三が死ななかったら、同じように助命され、
明治政府軍で要職(将校クラス)に取り立てられていたでしょうか?
 ↑
取り立てられることは無かったと思われます。

1,土方や近藤は、武士として認められていなかったと
 思われます。
2,近藤は流山で処刑され、武士にあるまじき
 さらし首にされています。
3,長州で活躍した奇兵隊のメンバーの多くは
 身分が低い、ということで処刑されているのが
 多いです。
この回答への補足あり
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榎本は賊軍の将として一旦は投獄されますが、黒田清隆や福沢諭吉の助命嘆願によって釈放されています。



ひとつは彼がオランダに留学した国際法や化学などに明るい当時は非常に貴重な人材だったこと、自ら翻訳した「万国海律全書」が戦によって失われないよう新政府軍に送ったことを黒田らが意気に感じたことによるとされています。
https://plaza.rakuten.co.jp/rsr777earth/diary/20 …

ところで質問文にある

>その時代は政府に反抗した人間は殺されるのが普通でしたが

は、明治維新にあたっては必ずしも真ではありません。戊辰戦争で幕府側として戦った庄内藩は、しかし西郷隆盛の寛大な処分によって逆に西郷ファンになってしまいます。酒田市には西郷隆盛を祀った南洲神社の分社があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%86%85 …

今度新しく一万円札の顔になる渋沢栄一も元々は徳川慶喜に仕える旧幕臣だったし、以下の記事によれば発足直後の明治政府を現場で支えた下級官吏は多くが旧幕臣だったとのことです。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/41656
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>その時代は政府に反抗した人間は殺されるのが普通でした


単なる刑事犯ではない

旧政権の重臣とは言わないが、知力と胆力を備え実務能力を持った人間だったからね
留学経験もあったのでは無かったかな?
彼に限らず、新政府を円滑に動かすために中堅から末端まで多くの旧幕臣がそのまま業務に当たった
だからこそ、革命後の混乱も大きくならずに収まり欧米の介入を抑え、植民地化を避けられた

何が大事か?を理解していたのだろうね新政府側も

>箱館戦争で戦死した土方歳三が死ななかったら
彼の場合は、倒幕勢力の多数の人間を死なせているからね
それに、剣の腕と現場指揮能力で副長になったのであって
新政府側で彼を擁護する人間がいたとは思えないなぁ
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明治政府は決定的に人材不足だったんですよ。


戦乱の中で多くの優秀な人材を失いましたからね。
ですので、旧幕臣でも有能と思われたものは積極的に登用しました。

でも幕臣の中には、旧幕への忠誠心から明治政府の誘いを断った人もたくさんいます。
勝海舟などがそうですね。

土方歳三はどうなったでしょうね。
彼の場合は剣客であり指揮官でした。そのような能力はもう必要ではなかったでしょう。
また新選組として志士たちの恐怖のまとでしたから、近藤と同様に処刑されていたと思いますよ。
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