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平安遷都から千年以上御住いになられた京都を離れなぜ明治天皇は武士という身分の低いものの城中にお移りになられたのでしょう?お姫様がおひとりお移りになるだけで大騒ぎだったのと比べ、とてもあっさりとお移りになられた印象があります。京都には住めないようなことをなさったのでしょうか?

A 回答 (4件)

 遷都は、明治新政府ができるや、早くも話題として上り、議論が始まりました。

京都の天皇をどうするかという問題だったのです。天皇には今のままで京都にいて頂きたいとする論と、移った方がよいとする論が戦わされたのです。その他にも移すべき場所として色々な候補地が上がりました。最初の候補地は、大阪でした。主唱したのは大久保利通で、大久保の言うところは、今の京都ではあまりに天皇が神格化され過ぎる。それよりも庶民的な土地として知られる大阪がいいというものでした。

 これに松平慶永ら諸侯クラス及び岩倉具視ら公卿が、大阪では権威が失われ「軽く」なってしまう、と反対しました。東征大総督府軍監の江藤新平は、徳川の本拠であった事、なお抵抗を続ける東北諸藩に対しての威圧の意味も含めて、江戸を候補地に上げました。
 
 この案に木戸孝允が乗り、次いで大久保利通も乗ったのです。しかし、諸侯や岩倉らの公卿にとっては、江戸も大阪も同じ事です。天皇は京都を離れるべきではない、と頑強に反対しました。しかし、大久保は何としても遷都したかった(大久保は薩摩出身だから、旧来から伝統のある京都が苦手でした)。

 そこで、大久保はある秘策を思いつきます。行幸です。なし崩し行幸=遷都としたのです。まず最初、慶応4年(1868)3月15日、天皇は大阪に行幸しました。次いで江藤新平の建策を容れて明治元年(1868年)9月20日、江戸に行幸します。これには岩倉らが強く反対したが、行幸だからと強行しました。そして10月13日、江戸城を東京城とします。ここは東の京都の城ですよ、とする京都向けのものでした(なお江戸が東京となったのは、これより後で10月17日の事ですから、この呼称もなし崩しと言う事になります)。

 この年の12月、東北諸藩の平定も終わると、天皇は京都に帰ります。行幸だからとして帰ったのです。岩倉達もホッとしました。が翌明治2年(1869)3月7日、またも天皇は東京に行幸しました。そして今度は帰りませんでした。
 
 岩倉らがほぞをかんだ時にはもう遅かったのです。
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この回答へのお礼

タカをくくって大政奉還した徳川家に、ならばやってやろうじゃないのって、去年の暮れに王政復古の大号令だして意気込んでいる時なんで、遷都することなんて、征東大総督任命して奥羽越列藩同盟の東国を平定することに比べれば、小さなことだったんですね。丁寧にお答えいただき誠にありがとうございました。

お礼日時:2004/12/19 15:32

 和宮降嫁は「敵地にたった一人で、しかも可憐な女の子が乗りこんでゆく」「身分が下の者に嫁いでその家の人となる」、つまり半ば以上人質としての性格があります。

明治の江戸御幸は「やっつけた相手の本丸に征服者が乗りこんでくる」、戊辰戦争に勝利したことの象徴的な儀式としての面があります。両者では事情がまったく違うわけです(遷都そのものに反対があったのはすでに他の回答で指摘されているとおり)。
 ちなみに千代田城の先の家主は徳川慶喜。朝廷自身が征夷大将軍兼従一位内大臣に任命した人物です。累代の将軍は最低でも正二位、左右内もしくは太政大臣を兼任しますので、これほどの身分を持つ者は公家でも五摂家くらいのものです。決して身分が低いなどとはいえません。それから言えば、天皇を取りまいていた薩長の連中は、藩主でさえ薩摩が正四位上薩摩守兼左近衛中将、長州が従四位下大膳大夫なのですから、よっぽどこっちのほうが身分が低い。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。公武合体のときに先代の天皇から戴いたご身分なんでしょうか?「身分」と質問しましたが、意識は、武士=人と戦い時には血にもまみれる穢れた人という所に有ったのですが。和宮様も親善大使という意味合いの方が強いのではと思っておりますが、そうですね、パイプ銜えたマッカーサーがタラップ下りてきた意味合いもあるんですね。ともかくも、お忙しい中ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/12/20 13:06

明治初年当時、明治天皇はまだ少年で、実権はことごとく


維新の志士たちに握られていました。

まあ明治維新という大革命の真っ最中で(本当に革命
と呼べるかどうかは議論が必要でしょうが)、明治新政府
は古い制度やしきたりを壊すのに懸命だったということ
を理解する必要があります。

明治維新までは日本の首都は京都だったのですが、
千年以上続いた京都では、新時代にふさわしい政治を
行うには向いていない場所でした。
そこで、明治政府の実力者であった大久保利通は、まず
大阪遷都計画を立案します。

しかしこの計画は、計画段階で公家たちの猛反対にあい、
あえなく立ち消えとなりました。
(大阪の皆さん、残念です。もし、この計画が実現したら、
 日本の首都は東京ではなく、大阪だったでしょう)


しかし不屈の男、大久保はくじけません。
次に江戸(東京)に遷都することを考えます。ちなみに
大久保に東京への遷都の計画をもちかけたのは、前島密
だったようです。

前回、公家の猛反対にあった大久保は、東京への遷都
を慎重に計画します。
そして、東国巡幸の名目で明治天皇を京都御所から連れ
出して、見事江戸城に住まいを移すことに成功しました。

なお、No.1の方が紹介したURLにもありますが、
正式に東京に遷都した詔(みことのり)は、ありません。
よって今なお、日本の真の首都は京都であると主張する人
も、存在します。

この回答への補足

私の見た年表(会津藩降服の日)です。http://www2.plala.or.jp/shyall/nenpyo/meiji.htm

補足日時:2004/12/19 09:47
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この回答へのお礼

夜中にもかかわらず、ありがとうございます。大久保がその時から薩長連合の重鎮だったのか、皇居に出入りできたのかよく判りませんが、No.1の方のご紹介の文章では9・20京都発ですので、奥羽越列藩同盟の会津藩が降伏する2日前に前に京都を出発されてることになりますが、歴史ではそうなっているのですね。ありがとうございました。

お礼日時:2004/12/19 08:09
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この回答へのお礼

さっそくのご回答ありがとうございます。京都市民の反対はあったが、お公家さんの反対は無かったということですね。京都が当時から市だったのかよくわかりませんが・・・

お礼日時:2004/12/19 07:44

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