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お暇な方、哲学に付き合っていただきたいです。
「自由」とは、「孤独」ですよね。
かといって「連帯」を求めると「拘束」が待っている。
アドラー心理学では、人が社会的であるということは、「孤独」を恐れることではなく、「自由」に「共同体感覚」なるものを追求することだ、とされます(『嫌われる勇気』)。でも、それには地道で孤独な努力が必要で、人間なんてそんなに強くいられるものではないのかもしれません。

皆さんは、「自由」や「孤独」についていかがお考えですか?自分は、他者の決定に従って後で悔いを残すことがないように、自分が正しいと信じる道をゆくというのが今の一応の答えです(同時に、険しい道が続いていそうだなぁと思うわけですが)。ぜひいろんな意見が聞きたいです。よろしくお願いします。

A 回答 (7件)

《孤独》というのは――ひとは 生活共同という社会の中で生きるから


には―― 孤独関係のことです。それ以外には考えられません。



★ 「孤独」を恐れる
☆ という命題(判断)は 筋が違うのであって 《孤立をおそれる》と
言い直すべきことだと思われます。



ひとりで生まれて来てひとりで死んで行くものであるからには 孤独はふ
つうで自然のすがたです。

その孤独なる状態を基礎として 家族のきづながあり 友情や愛情がうま
れます。あるいは 嫌悪や対立関係といった人間関係もあります。

つまり それらは 《孤独 + 親子愛や兄弟愛・友情・愛情 / 嫌悪・対
立・敵対  といったマジハリ》の状態を成し これも ふつうでほぼ自
然のすがたでしょう。




《自由》は 意志による選択や実行における自由度のことです。思うよう
にはならない――つまり 自由度は せばめられることがしばしばである
――のですが 自己の発意にもとづき相手と意志疎通をおこなって行く。

その意志行為において人は 《孤独なる基礎とその自由の実践としての社
会生活との両方の成就》をめざします。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
孤独が普通、いいですね。その意識であれば、自分と一緒にいてくれる人がいれば、有り難いという感情を持てますね。

お礼日時:2019/11/07 20:07

70歳になれば「心の欲する所に従えども矩を踰えず」となるので常に自由です

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
70歳ですか、、、今の自分からはその時の自分が想像もつきません笑

お礼日時:2019/11/07 19:54

>「連帯」を求めると「拘束」が待っている



まずこれに意義がありまして、本来、人間の集団の中に拘束はあってはならないと
思います。

とは言え現実には拘束だらけと言ってよいというのは経験済みです。しかし、集団の
ルールというものがなければ、まとまりがつきませんから、それは必要なものです。

その集団のルールを「拘束」と捉えてしまうことが、つまり「我儘」であり、それを
集団に参加する「条件」と考えることが、私は正しいと思います。

そうなりますと、

>「自由」とは、「孤独」

ではなく、条件をクリアして集団に参加することが、孤独でいるよりもはるかに自由
であるということができると思います。社会の中で色々なことができる可能性が出て
くるからです。

そういう一つの理想的状態になるには、「条件」というものを人類は深く思索しなけ
ればなりません。
現行の「条件」はまだまだ拘束性が強いと私は考えています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
自分が理想的と思える「条件」も、ある人にとってはネガティヴな「拘束」ということもあるでしょうね。アドラーのいう「個人」心理学という考え方も、結局はそれぞれの主観によることを言っているのかもしれませんね。

お礼日時:2019/11/07 19:53

人が社会の中で持っている「自由」とは どのような「不自由」を選ぶかということ。



世界において 全ての存在は「自由」。

小さくは 己はいつも一人であるが それは「個」として「独」なのであり 命は全て繋がっている。

「連帯」とは「責任・リスク・報酬の共有」であり もともと生物的に弱い人間が 現在でも生き残り繁殖している所以 優れた部分。

だと思っている。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
確かに、自分が選んだ不自由であれば、それに拘束されても嫌じゃないですね。
これだ、と思えるものに出会うまで、試行錯誤ですね。

お礼日時:2019/11/07 16:24

人間達は自分で作った動物園で暮らす奇妙な生き物です。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
なるほど笑
コミュニティ毎に無数の檻があるとして、それらは何のためにあるのでしょうね。

お礼日時:2019/11/07 16:09

自由というのは自然のことです


何をしようが自由
そこにあるのは唯一絶対の法則だけ
弱肉強食です

自由であるためには孤独でなければなりません
人が二人以上いたらそれは社会
社会に完全な自由などあるはずない
従って共同体感覚なんて単語は意味も価値もありません

南の島に、ただ一人で住んでいれば、そこには正義も悪もない
完全な自由です
弱肉強食の自然しかない
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
もちろん、社会を想定した質問です。
結局は、個別具体の場面で自分がいかなる選択をするかにかかっているのかもしれませんね。

お礼日時:2019/11/07 15:45

> 「自由」とは、「孤独」ですよね。


偏り過ぎでしょう。
連携に於ける「拘束」は強調を得る手段であり、
それを認めることが出来ない人が求める自由は、
常識や道徳、法律と言った形で、他の拘束を受けることになります。

> 自分は、…、自分が正しいと信じる道をゆくというのが今の一応の答えです
社会や他人の協力(拘束)を受けなければ、その事由さえ成し遂げられません。

社会における自由、孤島における自由、これは別物です。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。
もちろん、社会における自由を想定しています。そこでは、常識や道徳、法律といった拘束は当然受けるのですが。

例えば、とあるコミュニティでその道を行けば孤独になることが分かっていても、なお自分の信じる道を進むことができるか?その時何を考えるか?みたいな話です。

抽象度の高い質問をしていることは重々承知しています。ご自身の思うところを自由に述べていただきたい、という趣旨の質問でした。

お礼日時:2019/11/07 15:43

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