この人頭いいなと思ったエピソード

ルーマニア革命と後世の歴史家が言う「奪われた革命」について質問です。

「ルーマニア革命」とは、1989年12月、ルーマニア社会主義共和国のニコラエ・チャウシェスク書記長政権が打倒され、現在のルーマニアが樹立された一連の出来事である。
反チャウシェスク派による、クーデターと見ることができるため、「ルーマニア政変」とも言われるのですが、ここで質問です。
後世のルーマニアの歴史家の間では、「奪われた革命」だと指摘しているそうですが、なぜ「ルーマニア革命」が「奪われた革命」と呼ばれているのでしょうか?

「ルーマニア革命と後世の歴史家が言う「奪わ」の質問画像

A 回答 (3件)

チャウシェスクを倒したのは12月21日のチャウシェスクの強権的な様々な行為に反発した市民と市民に対する発砲を拒否したミレア国防相をチャウシェスク側が処刑(公式には自殺発表)されたことに反発し市民側についた国軍の決起によるものです



反チャウシェスクの市民・国軍がチャウシェスク側のセクリターテ(治安部隊)の抵抗を排しながら中央官庁に攻め入った翌日にイリエスクらの救国戦線が急遽組織されたのです

自然発生的な革命を起こした市民側を救国戦線が指揮していたわけでなく
市民側に特別な指導部があったわけではないので
救国戦線がその主導を乗っ取ることが容易だったのです

奪われた革命と呼ばれるのは結果的にチャウシェスクなき後、ルーマニアの指導的立場に救国戦線が着いたからでしょう

反チャウシェスク派のクーデターは既に1984年に救国戦線のメンバーにもなったミリタル元国防相やブルカン元駐米大使により計画されていました(未遂)

救国戦線のイリエスクらはチャウシェスクに左遷された者たちの集まりで彼らはチャウシェスク時代はセクリターテの監視対象人物に指定されていたので相互に緊密な連絡を取っていたとは考えにくいです
従って救国戦線が最初から反チャウシェスク市民グループを組織、指導したとは思えません
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一般的に「奪われた革命」という表現をする場合、元々の革命勢力が打倒した権威を、他の権威が摩り替えてしまったようなものが相当します。


例えば、エジプトの革命でムバーラク体制を打倒したものの、革命勢力が目指した民主化に至らず、宗教的権威が主導権を握ったようなものが相当します。

ルーマニアの場合、ルーマニア政変から民衆の考える民主化までに3年かかっていますが、今でも高い失業率や経済停滞下にあります。中東欧諸国の場合、政変から「西側のような民主化」までには7年とか10年ぐらいかかっていますが、何かとルーマニアが対抗心を剝き出しにするハンガリーと比べると、停滞度合いが顕著、というよりハンガリーの優等生ぶりが顕著です。ルーマニアは石油も産出しているので、ハンガリーと比べると尚更そう思っているのかもしれません。

そういったことから、将来を悲嘆して「奪われた革命」と言うのであれば分かりますが、世界一般ではそうは捉えられていません。大規模なセクリターテによる監視社会(比するべきは東ドイツや北朝鮮)の解放から希望を持ちすぎたのかもしれません。監視が行き届いた閉塞独裁社会はなかなかソフトランディングできた例はありません。シリア然り、東ドイツ然りです。北朝鮮も同じでしょう。
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「ルーマニア革命」を「奪われた革命」と評したものは見たことないけど?


「奪われた革命」と評している後世の歴史家って、例えば誰?
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